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第五章

37 サラが、リネ?

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【第五章】













「さて諸君。これより、南東諸島連合隊と中立国際機関の魔法軍がテロ組織ルロオの殲滅作戦に入る。俺はこれを契機と捉えている。なぜかは分かるよな」
 大樹城の広間にイクセル様の声が響き渡る。
 この男が、ベルマンだったとは今の風貌では考えられない。長い銀髪に涼やかな紫の瞳。絵画みたいに端正な顔立ちの優美な男だった。
 イクセル様は、数百年も生きているとは思えないほどの凛とした声で告げる。
「ファルンの残る敵は、岩渓軍の残党だ。岩渓軍はルロオとも繋がっている。これを機に、残りを全滅できるかもしれない」
 サラとオーラは、ルロオの敵地に連れ込まれた。つまりそれは、敵地を明らかにできたということ。
 サラの功績だ。
「そして岩渓軍を滅ぼすことは、『サラ』にとっても、重要な意味がある」
 イクセル様は、『サラ』と言いながら俺を一瞬だけ見遣った。
 それから、他の二人に目を向ける。
「サラに親しいオーラも、次期魔法軍大将のフィリップも耳に入れておくべきだな」
「サラは……、ファルンを去ったのでしょう?」
 俺は二人が答える前に口を挟む。イクセル様は微笑みを口元に仄めかせて、頷いた。
「ああ、そうだ」
「今から追えば間に合うのでは」
「無理だな」
 迷いなく断言するので、俺は言葉に窮する。
 紫色の宝石が潜む目が細まった。
「あいつの転移魔法は俺仕込みだ。俺でさえ、あいつがどこへ消えたかは分からねぇ」
 乱暴な口ぶりが彼の常なのだろう。ニッと唇の端を上げたイクセル様だが、その微笑みはどこか切なかった。
「だが、あいつは必ず帰ってくる」
 サラ……。
 サラは、本当にリネなのか?
 俺の死んだ妻、なのか。
 オーラが持ち帰ってきた手鏡には、サラの姿が映っていた。それを見たフィリップは、サラを『リネ・オークランス』だと言った。
 フィリップは長年の友人だ。今は宮廷魔術師だが、かつては魔法軍に所属していた。近頃は、フィリップを魔法軍大将へ据える政治が働いている。
 フィリップは、過去にリネを……俺の死んだ妻を目にしたことがある。
 そのフィリップが、サラの姿をリネだと言った。
 死んだ妻であるリネに関して、俺の周りには不気味なほど痕跡が残っていない。
 理由としては、リネが住んでいた屋敷へ岩渓軍が襲撃したからだ。その襲撃で屋敷の殆どが焼け落ちたと聞く。屋敷自体は修復されたが、その中身は殆ど空だ。見事に、リネに関する思い出だけ消えている。
 写真すらも残っていなかった。
「オーラ、君は知っていたのか」
 頭の中が混乱で渦巻いている。ふと呟いたのは、俺の判断を潜り抜けて漏れた無意識の言葉だった。
 オーラは、サラがリネであることを知っていのか?
 隣のオーラに目を向ける。桃色の丸い光が俺をじっと見つめて、揺らいだ。
 オーラはサラに関して意味深な反応をしていた。それにオーラは、メルス街の出身である。
 俺は、オーラに関しても何か見落としているのではないか。
 何のことか分からないフィリップが首を傾げている。イクセルが、
「この事はサラ本人と俺、そしてオーラしか知らねぇんだよ」
 と、オーラに助け舟を出すが如く言った。
 イクセル様に今一度視線を遣る。彼は笑っているのか真顔なのか、判別のつかない奇妙な表情をしていた。
 『この事』とはサラがリネである事実を指すのだろう。
 リネを死んだことにしたのだ。
 それは。
「サラを守るためだった」
 と、イクセル様は穏やかな口調で告げた。
 守るため。ならばサラは……リネは、何かから逃げている?
 此度の襲撃の首謀者はルロオだ。ならば、サラはルロオを恐れているのか? ……いや、違うだろう。
 俺の妻であったリネを襲ったのは別の組織だ。
 俺は自分でも耳にしたことのないほどの低い声を放った。
「岩渓軍から、ですか」
「ご名答」
 リネを襲ったのは、岩渓軍だ。
 何が起きているかはまだ全く理解できないが、リネはとにかくその襲撃から逃れて、名前を変えて生きていた。
 俺が彼を忘れているばかりに気付けなかった。
 サラが、リネだったのに……。
 身体の奥から、鬼のような声が蘇ってきた。
 ――『失せろ。お前のような卑しい娼夫など必要としていない』
 本当に——……
 ――『悪いが信用できないな』
 ――『魔族の子らをも、咥え込んだか』
 サラが、死んだ妻なのか?
 ――『姿を現すな。オーラはお前とは違うんだ。魔族の民の精を注ぎ込まれたお前に、彼が怯えている。近づかないでくれ』
 数々の罵詈雑言が頭の中を埋め尽くし、額に汗が滲む。
 俺はサラを初めて目にした時、魂が震えるほどの恐怖を味わった。その恐怖から逃れるが如く、サラを遠ざけるためあらゆる暴言と罵声を浴びせた。
 しかしやがて、その恐怖は魔法のようにフッと溶け消えてしまった。
 恐怖が消え失せた俺はただ不思議だった。なぜ自分がああいった言動を取ったのか。理由はいまだに解明できない。確かなのは、俺が暴言を吐き、酷い態度を取った事実があるということ。
 謝罪を告げた俺に、サラは笑って答えた。
 ――『あれくらいの暴言何てことない』
 あまりにもサラが達観した性格をしているから俺はサラの言葉を受け入れてしまった。しかし元来、誰しも人から暴言を吐かれて笑っていられるはずがなかったのだ。
 なぜ、サラは笑ってくれたんだ。
 心の中は悲しみで吹き荒れていたのか? それをまるきり隠して笑顔を浮かべる術が、彼の人生で身についていた?
 それとも、サラに笑顔を浮かべられる他の理由があった?
 俺はどうして、サラにあんなことをしてしまったのだろう。
 サラは、かつて愛した妻のリネだったのに……。
 ……なぜ俺は。
 俺は何てことを。
 どうしてサラに、あんなことばかり……。
 不意に頭の中に蘇るのは、俺の暗い声と、サラの、透き通るような声だった。
 ――『俺は妻を守れなかった。そして卑怯にも忘れてしまったんだ』
 ――『違う』
 サラは遮るように断言してくれた。
 いつまでも記憶の中で響いている。
 彼の曇りない言葉。
 ――『ロイ・オークランス将軍は、悪くない』
 あの時俺は彼の言葉を聞いて、言いようのない安堵に包まれ、心が緩んだ。
 しかし今思い返すと、呻き声が漏れそうなほどに胸を締め付けられる。
 サラがリネならば、一体どんな思いでそれを口にしたのだろう。
 彼の内心を想像するのは、身も千切れんほどの苦痛を要した。今までサラが発した数々の言葉が、全く色を変えてしまう。サラの放った美しい言葉の色が俺の混沌とした心にひとたび流れ込めば、混ざり合い、黒く染まり、べったりと心の裏側に張り付く。
 サラが俺の忘れてしまったかつての恋人だとするならば、俺が突きつけた言葉たちは……。
 サラに、もっと悍ましい色を与えたのではないか。
 あまりの後悔と自分の醜悪さで絶望し、吐き気がする。途端に息苦しさが増して視界が眩んだ。
 それでもイクセル様は話し続けた。
「今回の襲撃もサラの身にはかなり堪えたらしい。アイツは恐れに震えながら、この地を後にした」
 ……恐れに震えていた?
 俺は根拠のない疑念を抱く。
 そうかもしれないが、何か違う気がする……。
「サラは戦争孤児だ。だから、そうした組織を恐れているんだ」
 戦争孤児。そうだったのか。
 これまでのサラの人生を思うと、心が乱暴な手で鷲掴まれた心地になる。
 だが、それだけが理由ではないはずだ。
 サラがリネならば、彼の屋敷を襲撃した岩渓軍を恐れているのだと説明がつく。だから逃げるのだ。
 しかしオーラが真実を知っていると仮定しても、ここにはフィリップがいる。
 フィリップを欺くためにイクセル様は言葉を慎重に選んでいるのだろう。
 フィリップはリネが死んだと思い込んでいる。あの手鏡に映ったサラも、俺がかつて封じたリネの姿だと判断した。
 確かに、死んだ人間が今も生きているなど到底考えもつかないはず。けれど、俺は実際にサラと接したのだ。
 本当にサラがリネならば。
 あの方は生きている。
「さて、ロイ。五年前のお前の話をしようか」
 イクセル様が唐突に言うので、俺は時間をかけて反応した。
「……俺、ですか」
「お前は五年前、岩渓軍に捕まってしまっただろ」
 イクセル様が発言したと同時、隣のオーラが息を呑む。反対側の隣にいるフィリップが「な……っ」と潰れた声を漏らした。
 オーラがどうかは分からないが、魔法軍にいたフィリップは魔山軍である俺に五年前、何が起きたかを把握していない。あれは極秘だ。魔山軍の幹部と、残り四軍のそれぞれの大将、救出に手を貸してくれた大樹の魔法使い、国王陛下だけが知る事実だ。
 あの岩渓軍に、魔山軍の大将が捕らわれたという事実は公表してはならなかった。
 士気こそが戦争を決めるのだ。
「ああ……」
 俺は今にも倒れそうな苦痛を堪えて、低い声を絞り出す。まだサラに吐き捨てた俺の暴言を思い起こしたゆえの苦痛が消えなかった。
「拷問のことでしょうか」
「そうだ」
 おどろおどろしい俺の声の響きに、オーラがビクッと肩を震わせるのを視界の端にとらえる。
 イクセル様の声が耳に触れる。
「五年前の南境戦争時代、お前は魔山軍大将だった。まだ元帥ではなかったんだな。しかし戦績からして、お前がトップになるのは時間の問題だった」
 イクセル様は単調に語る。
「岩渓軍は力の限りを尽くしてお前を捉えたんだ。お前から全ての情報を引き出して、終わらせることにした」
 それから足を組み直し、「ところで」と目を眇める。
「軍部のお二人に聞く。君たちはイージェンを知っているか?」
「ええ」フィリップが答え、
「はい」俺も首肯した。
 イクセル様は隣の男を指名する。
「フィリップ」
「はい、イクセル様」
「お前はイージェンについてどこまで知っている?」
 フィリップは暫し硬直したが、畏まって述べる。
「イージェンは大樹の魔法使いからなる特別組織が扱っているので使い方に関しては把握していませんが、我がファルン軍は先の戦争で、イージェンを岩渓軍並びに他国敵軍、また不穏分子に使ったと聞きます。イージェンは、ユコーンの花の液を魔道具として使う魔法であり、その効果は感情消去。ファルンはこれを敵軍の幹部へかけたと」
 彼は一度区切り、また淡々と続ける。
「そうすることで、彼らの戦争や領土獲得、魔族の末裔から人間に対する加害欲を消し去ったと聞きます」
「ああ」
「効果は一過性のもので、ユコーンの花の液一滴に対し、長くて四年。しかしいっときでも感情を失わせることにより、敵軍の力を弱体化させることに成功し、次々と締結を結び、また、組織を解体させました」
「そうだな。それで?」
「それで?」
 フィリップは眉根を寄せる。
 イクセル様は不気味な笑みを浮かべ、矛先を俺へ向けた。
「ロイ。君は他に何か知っているか?」
 歴史について? それともイージェンの他の効果のことを聞いているのか?
 不明瞭だが、注意深く答える。
「……フィリップと同じ認識です。それから」
 一呼吸置き、真に知りたかった件について口にした。
「サラがそれを自分に使ったのではないか、と」
 イクセル様は変わらぬ表情のまま「ああ」と頷き、呆気なく告げた。
「サラはつい数刻前に、イージェンで、とある感情を消し去り、この地を去った」
 俺は息を呑んだ。
 ——『再度イージェンを使うつもりなのか?』
 ——『……必要があればな』
 サラは何を消してしまったのだ。
 あの時は『恋』の話をしていた。
 本当に、恋を消したのか……?
「サラの話ではなく、ロイ、君の話をしよう」
 イクセル様は、俺の思考を遮るように告げた。
「五年前、君は岩渓軍に攫われて拷問を受けた。それから数ヶ月の昏睡状態になっていたことは把握しているか?」
「そのようですね」
 言ってから、ゾッとした。
 その拷問に関してを俺は覚えていない。ならばそこで、
「俺は、その拷問で軍部の機密を渡してしまったのでしょうか」
「いいや。お前は何も渡していない。だから南境戦争を、お前の手で終わらせることができたんだ」
 イクセル様は緩やかに首を振った。
 彼は巧みに言動を偽るが、その言葉は真実のように思えた。だとするならば、俺は、岩渓軍に何を尋問されていたのか。
 五年前……。
 失ったものは一つだけある。
 リネの記憶だ。
 すると、俺が彼を思って唇を引き締めた瞬間、イクセル様は悲しげに微笑んだ。
「しかしまだ、岩渓軍の残党が生きている。フィリップ、以上のことからお前には何がわかる?」
 悲しげな微笑みは一瞬だった。既にイクセル様は、内心の読み取れない曖昧な笑みに戻っている。
 黙考していたフィリップがゆっくりと唇を開く。彼は俺に横目を向け、それからイクセル様を見据えた。
「ロイは、その拷問でイージェンを使われたのではないですか?」
 俺は無言でフィリップを眺めた。
 記憶のない俺に代わって大樹城の魔法使いたちが調査した結果によると、俺は戦況について拷問を受け、殺害されるところだったらしい。ありきたりな回答だった。
 フィリップの返答の方が、よっぽど頷ける。
 彼は深刻な表情で続けた。
「ユコーンの花の液が多いと、昏睡状態に陥ることもあると聞きます。目覚めることなく命が尽きるとも」
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