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第四章

33 結婚生活

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 ロイの瞳に俺が映る。その瞳に光以外のものが映ったのを見るのは、これが初めてだった。
 俺の見開いた目にもきっと、ロイの姿がくっきりと現れているのだろう。
「本当は、気付いていたんだ」
 ロイは俺から目を離さずに、苦しげな表情を見せた。
「俺と初めて会ったあの夜、リネはメルスから逃げようとしていたんだろ?」
 ひゅっと息が止まる。
 あまりの驚きの連続で、声はまるきり奪われた。
 ロイは、今にも泣きそうな顔で語る。
「魔狼の姿の俺がメルスに侵入したことで、警備が分散されていた。だから門の警備が手薄になったんだ。リネが、この娼館からあんなに離れることなんかできないのだと、この三年でよく理解した。ならばあの時俺と出会ったのは、逃げる途中だったからだ」
 ロイは一度息を吸い、吐き出すと共に続ける。
「俺のせいでリネは自由になれなかった。俺のせいで……リネ。俺は、どうしても、リネを」
 黄金の光が俺を惹きつけて、離さない。
「美しい場所の全てに連れて行きたい」
 ロイは俺に触れていない。肌はどこも重なっていないのに、彼の瞳の光と声だけで、心が強く打ち震える。
 ……結婚。
 考えもしなかった言葉がロイの口から発せられて、理解が追いつかない。
 それに加えてまさかあの夜の俺の目的を知っていたなんて……。
 なんで。どうして。混乱が頭を覆って、視界が揺らぐ。
「なんで、そこまで……」
「分からないか?」
 ロイは小さく笑みをこぼした。
 その顔は縋るように俺を見つめている。俺の心を大きく揺るがす、切なさが孕んでいた。
「リネが好きなんだ」
 視界が揺らぐ。俺は震える心に耐えるよう、唇を噛み締めている。
 なんで。どうして。まだ混乱は内在している。でもそれはただの混乱で、視界が潤むのはそれが理由ではないと気付いていた。
「出会った頃からずっとリネが好きだった」
 ロイの言葉が、俺の心に充溢し、溢れ出しているのだ。
 唐突な告白だ。全てを受け止めることはできない。
 でも心はずっと望んでいる。
 ……もう昔から。
「愛してる」
 ロイの全部を望んでいる。
 ロイが「リネ」とすぐに溶けてしまうような小さな声で呼んだ。
 それはまるで、俺が独りで耐えるときに彼の名を呼ぶような心細さだった。
「この手を取って」
 ロイが右手を差し出してくる。最近はいつも、硬い口ぶりだったのに、その口調には幼さが滲んでいて、胸が強く締め付けられる。
 俺は彼の右手に視線を落とした。
 ……大きな、手のひらだと思った。
 いつの間にこんなに、逞しくなったのだろう。
 この人の手に包まれていたら、どんなに幸せなのか……。
 恐れは多い。ずっと暮らしてきたこの地を出るのは怖かった。この先、どうなるか分からない。俺の心にはいつも、言いようのない恐怖が根底にある。
 でも、ロイの手を取って、様々な景色を見に行きたいと希ってしまった。
 大きなロイの手と傷だらけの俺の手が重なる。
 ロイの熱が俺に触れて、肌を突き抜け、あっという間に体に流れ込んでくる。
 その右手を握ったと同時、ロイが俺の体を強く抱きしめた。
「リネ、愛してる」
 低く、絞り出したような声が耳たぶを揺らした。「リネ」と呼ぶ声が少しだけ声が遠くなる。顔を離したロイが、潤んだ目でじっと俺を見つめた。俺は思いのままに微笑んだ。
 そうして、唇が重なった。
 何度も角度を変えながらキスをする。その度に、胸に愛しさが溢れていく。
 幾度の口付けの間も手を離さなかった。
 ただ優しさだけで抱きしめられて、ただ愛だけを交換するキスは、人生で初めてだった。






























 ロイは俺の身請け人となり、俺たちは結婚した。
 ロイと、リネ・オークランス。それから数人の使用人での新婚生活は、ファルン王都から少し離れた山に構える城から始まった。
 結婚してからのこの二年間、俺は生活の殆どを城で過ごしている。たまに近くの街にも下りる。ロイがついてくることもあるが、彼はもとより仕事で忙しい。
「リネ、おはよう」
「……ロイ」
 昨夜は一人で眠ったはずなのに、目を覚ますとロイがいた。
 黒い長髪が陽の光を受けて、幾重にも煌めいている。俺が目覚めるまで待っていたらしいロイは、「ちょうど陽が高くなったところだ」と目を細めた。
「うん……おはよう」
「すまない。俺が起こしたのか?」
「ううん、だいぶ寝てた。勝手に起きたんだ」
「そうか。悪い夢は見ていないな?」
「見てないよ。夢のことなんか気になるのか?」
 揶揄ってみるが、ロイは微笑みを変えずに頷いてみせた。
「気になる。リネのことなら」
「……」
 今のロイには揶揄も意味がない。二個年下のくせに、二十二歳になったロイは年齢よりもかなり大人びていた。
 俺はぼうっとロイを眺めてから、「そう」と呟き、上半身を起こした。
「いつ帰ってきてたんだ?」
「今朝だ。午後には王宮へ向かう」
「なら寝たほうが……」
「リネと朝食を食べようと思って」
「ふぅん。仕方ないな。俺が何か作ってやるよ」
 本来なら軍部に泊まってもいいのに、わざわざ帰ってきてくれたのか。
 それを考えると嬉しくなって、俺はパッと両足をベッドの外へ放った。
 歩き出すと、ロイがひよこのようについてくる。図体は大鷲のように大きいが、俺の後ろを「リネが?」と嬉しそうにする様は親鳥を追いかける小鳥みたいだ。
「寝起きだろ? 家の者に任せればいい」
「ロイが寝る間も惜しんで、俺を待っていてくれたんだ。寝坊したんだから、俺が作ってやる」
 ロイは「そうか」と頬を綻ばせた。その笑顔に横顔だけで振り返りながら、そういえばと思い出す。
「昨日、ミートボールを作ったんだ。食べるか?」
「食べる!」
 子供みたいな明るい返事が面白い。俺の下手な料理も、喜んで食べてくれるロイはいじらしくて、かわいい。
 パンを焼いて、卵とベーコンを焼く。簡単な野菜スープを作っている間もロイは隣をうろちょろしていて、まるで尻尾が見えるほど「今晩はすぐに帰ってくる。二人で食事しに行こう」と上機嫌にしていた。
 ロイと住むこの家は、館や屋敷ではなく城そのものだ。何でもかつて曽祖父が所持していた城らしい。二人で暮らすにあたって改修したのだ。
 天気が良いのでテラスで朝食を取ることにした。使用人の手を借りつつ、食事をテーブルへ運ぶ。
 広々としたテラスからは、王都の風景が見下ろせる。
 ロイは楽しげに話し出した。
「そういえば、水軍大将閣下に教えてもらったレストランが面白そうなんだ。王都にある店なんだが、船上レストランで食事している気分を味わえるらしい」
「へぇ、いいな」
「行こう」
「うん」
「今度二人で、本物の海にも行こうか。リネは海に行ったことあるか?」
「まだ、ないよ。いいね、海」
「なら行こう。もう少しで休みも取れるから」
 喋るのに夢中なロイの口に、一口サイズに切ったミートボールを突っ込んでやる。ロイは大人しく咀嚼し、飲み込んでから、また喋り出した。
「リネのミートボールはとても美味しい。俺はこれだけで生きていける」
「それ、いつまで言ってるんだ。二年前も同じこと言ってたよ」
「二年経って更に美味くなった」
「ロイは宮廷でも食事するようになったじゃないか。そんなのに比べたら俺の料理なんて美味くはないだろ」
「リネは何も分かってないな」
「はぁー?」
 ロイはミートボールをあっという間に食べ切る。一口一口が大きいから、俺はカットしてから食べるのに、ロイはミートボールを丸ごと口に放り込んでいる。
 こんな風に豪快に食事するのは、俺の前だけだ。レストランではいつも、貴族風の振る舞いでいる。こうして二人でいると忘れてしまうけれど、ロイはいいとこの坊ちゃんなのである。
「だが今晩は、王都のレストランへ行こう。リネをその店に連れて行きたい」
「水軍のお偉いさんに教えてもらったんだよな。南東諸国に行っていたんだろ?」
「あぁ」
「海の魔物退治だっけ? 大変だな」
 近頃は、どの国も地域も不安定だ。毎日のように、内戦や軍事侵攻の知らせが流れる。ファルンは直接的な戦争には乗り出していないが、仲間の国へ援助をしていた。
 南東諸国の海で、魔物が頻出しているのもどこかの国の仕掛けた攻撃である。魔物に強いのは魔山軍だ。ロイたち魔山軍と、水軍が派遣されていて、この一ヶ月は特に忙しそうだった。
 また、明日には向こうへ渡るのだろう。ファルンを離れる日々が続くのは寂しいけれど、ロイは一日でも休みが取れれば帰ってきてくれる。
 それに、ファルンのために戦うロイが誇らしかった。
「国を守るためだ。この戦いが終われば、南東諸国連合と同盟が結ばれる」
 ロイは朝の真新しい風を受けながら、俺を見つめた。
 ロイは髪を伸ばして、後ろで一つにまとめている。髪を伸ばし始めたのは、友好的な魔物と契約を結ぶ時に捧げるためらしい。
 鍛え上げられた肉体は、敵と戦うため。首にかけられたオークランス家の紋章は、軍部の幹部との交渉で使うため。笑うと光る犬歯は、今では自在に操れる己の真の姿の名残だ。
 俺が頼めば、月夜の夜にその姿を現してくれることもある。大人になったロイの魔狼の姿は、あらゆる邪悪な魔物とも戦えるほどに巨大で、俺を容易に背へ乗せることもできる。
「退治でも何でもする。守るためだからな」
 戦場で見せる脅威を全て取り払ったような、優しげな表情でロイは言った。
 すぐそこには、守るべきファルンの王都が広がっているのに俺ばかりを見つめるから、少し恥ずかしくなる。俺は「そっか」と拙く返し、ミートボールを口にした。
 結局、ひとときも睡眠を取らずに、ロイは俺と共にいた。食事を終えてからもテラスで、何でもないことを話し続ける。
 二人で旅行した街での花祭りのこと。一年前に登った山で見た山頂の景色について。
 新婚当初にピテオで過ごした際に見た、星空のこと。
 メルスにいた時は、ロイが外で経験した話に耳を傾けるだけだった。けれど今は、二人であらゆる場所での思い出を語り合える。
 この、晴天の青い空に見守られながら。
 陽に照らされたロイと、ただ言葉を交わしている。
 この平和な時間は、ロイが齎してくれたものだ。
「そろそろ時間だろ?」
「ああ、もうそんな時間か。はぁ……そうだ、リネも来るか?」
「王宮に? 一般市民の俺が?」
 変な冗談にくすくす笑うと、ロイは信じられないことに本気だったようで「連れて行きたいな」と顔を顰めた。
「わがまま言っていないで、ほら」
「わがままじゃない」
 ああだこうだ言って遅刻寸前まで留まるロイを、王宮へ向かうための荘厳な馬車に押し込む。
 一度は席に着いたロイだが、また腰を上げると、
「待っていてくれ。すぐに帰ってくる」
 と、俺の体を引き寄せて唇を重ねてきた。
「んっ……」
「リネ」
 これこそまるで魔法だ。ロイとの口付けは俺の心を一瞬で甘やかに溶かしてしまう。
 囁いたロイは、自分から重ねてきたくせに名残惜しそうに唇を離した。熱のこもった瞳で俺を見つめたまま、たった今触れ合ったばかりの唇に笑みを乗せた。
「行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
 ロイが頷く。すぐに扉が閉じて、馬車が走り去っていった。
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