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第四章

28 此処から出たことがないから

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 月明かりは届かないが、歓楽街の明かりは届いている。拙い光を頼りに、確かこの辺りにランプがあったような……と、棚の上を探ると、お目当てのそれを見つけ出した。
 明かりを灯せば、小屋が暖色の光に包まれる。
 これくらいの光なら外に気付かれることもないだろう。一応、小窓を塞いでから、未だ黙り込んだままの少年へ振り返る。
 彼はいつの間にか上半身を起こして、その場に座り込んでいた。
 黒髪が目元を覆っている。その隙間から黄金の瞳が、俺をじっと見つめていた。
 こうして見ると『少年』よりも、『青年』の表現が正しいのかもしれない。
 警戒しているのがありありと伝わってくる。俺は距離を保ったまま、笑いかけた。
「どうしたんだ? あんなところで寝ててさ」
「……」
「何、警戒してんの?」
「俺が怖くないんですか」
 ぼそっとした声は低く、けれど凛としていた。
 綺麗な声だなと思いながらも、俺は首を傾げてみる。
「君を?」
「……」
「ああ」
 と、彼の沈んだ気配を観察しながら思い出した。
 そうだった。魔族の末裔たちを、普通の人間は本能的に恐れるのだ。
「魔狼族なんだもんな」
「俺の姿を見たんですか」
「見た見た。重かったなぁ」
 青年は信じられないとばかりに目を見開いた。そうすると、光り輝く瞳が更に美しく見える。
「今宵は満月だ。そのせいで変化しちゃったのか?」
「……」
「俺も魔狼の血を継ぐものは初めて見た」
 彼は未だ驚愕を顔に滲ませている。無理もない。俺みたいな者は彼らにとって異質なのだろう。
 そう。俺は魔族の末裔に耐性がある。それもこれも娼夫として働いているせいだ。魔族の血を引くお客様を何度か相手にしているうちに、彼らへの恐怖が消え去ってしまったのだ。
 初めこそ嘔吐もしたし、意識が飛んだりもした。しかし何事も慣れである。実際に、そうしたお客様と交わったせいで亡くなってしまった遊女も少なくはないようだが、俺はなぜか適応できたのだ。
 魔狼の末裔と言えど、括りは魔族だ。青年を特別に恐れることなどない。
「ところで君みたいな子供がこんなところで何してるんだ」
 素朴な疑問を口にしてみる。先ほどから何か問いかけても、警戒しているのか困惑しているのか知らないが青年は黙り込んだままだった。
 またダンマリかと半分諦めていたが、すると意外にも、
「子供ではありません。俺はもう、十七だ」
 と魔狼の青年は答えた。
「十七。子供じゃないか」
 俺は嬉しくなって、明るく笑いかけた。
 青年はムッと顔を顰める。
「あなたもそう、年は変わらないように見えます」
「何言ってんだ。俺は十九」
「……年上の方でしたか」
「敬えよ」
「貴方は一体……?」
 幾分か雰囲気を和らげた青年は、それでも尚、怪訝に見詰めてくる。
 俺は背後の方を親指で示唆し、フッと目を細めた。
「俺はそこの娼館で働いてる。それより、君は何なんだよ。親御さんは?」
「……すみません」
「えっ、何が」
「近頃、満月の夜になると意識が不明瞭になってしまって……」
「あー」
 魔狼の姿になっている間は、記憶がないのか。
 十七か。まだ不安定な年頃なのだろう。俺は同情的な口ぶりで「気にするな」と語りかけた。
「成長期だもんな」
「気にすんな、って……そんなテキトーな」
「魔獣の姿の君は勇ましかったよ」
 青年がまた目を見開く。
 薄く開いた唇からこぼすように呟いた。
「あなたは俺の本当の姿を見たんですね」
「さっきから貴方貴方って。俺はお前の亭主かよ。リネだ」
「リネ?」
「俺の名」
 その瞬間、青年が張り詰めた雰囲気を解くのがわかった。
 口の中で繰り返すように、
「リネ……」
 と囁く。
 どうしてか、その低く美しい声で呼ばれると胸がざわつく。心の底を撫ぜられるような感覚にむず痒い気持ちになりながらも、俺は「あぁ」と快く頷いてみせる。
 青年が、その琥珀色のどこか神聖な瞳で俺を見据える。
「リネは、俺の魔狼の姿を見たんですよね」
「早速呼び捨てか。いいだろう。そう、見た見た。立派だったよ」
「……」
 まだ俺が魔狼を嫌悪や忌避しないことが信じられないらしい。呆気に取られたような顔が面白かったので、俺は悪ノリした。
「更に驚くことを言ってやろうか?」
「……な、んですか」
「魔狼の姿の君を俺が此処まで背負ってきたんだぜ」
「えっ!?」
 今度こそ声をあげて驚愕を表す。俺は口元に人差し指をあて、静かにしろと示唆しながら続けた。
「まぁ、俺が運べるくらいの大きさだったよ」
「そんな……俺は貴方に怪我とか、させませんでしたか」
「してないしてない。何なら、もふもふしてて気持ちよかった」
「……もふもふ」
「それより君は、門を超えてきたのか? この辺に住んでる?」
「あの、此処は一体?」
 魔狼の姿になっていた間の記憶はない。つまり青年は、此処がどこかすら分からないのだ。
「あぁ。ここはメルスだよ。君のお家は近いのか?」
 『メルス』の名を耳にした青年は、ホッと安堵したように見えた。たった今までよりも気の抜けた声で答える。
「メルス……はい、ピテオに住んでるので」
「それって近いのか?」
 彼は安心しているようだが、俺にはその『ピテオ』が何処にあるのか把握していない。
 青年にとっては驚くことらしい。黄金の目をまん丸にして凝視してくるで、俺は苦笑混じりに白状した。
「ごめんな。俺は六年間、此処から出たことがないから」
 
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