21 / 44
第三章
21 追い出さなければ
しおりを挟む【第三章】
魔族の血が流れる者を純粋な人間が恐れる感覚はこういうことなのだろうか。
俺はこの二十九年間の人生で、それを初めて理解した。
軍部と王室からの勧めで、半ば強制的にファルン王国の西岸に位置するシェレオ地方の別荘地で療養をとることになった。
ここ数ヶ月の体の不調が原因だ。
毎日身体が重く、特に夜、眠れない。
何か夢を見ていたようで悲鳴を上げながら目覚める。悪夢が波のように引いていくのを、体の穴という穴から汗を吹き出しながらもジッと堪える。
その黒い波の正体は分からない。一体どんな悪夢に襲われていたのか、目覚めた段階では既に忘れている。
睡眠が十分に取れないでいると、食事もままならなくなる。戦場で常に周りを警戒し、配慮していたのとは違う、ただぼんやりとした輪郭のない『不安』がふとした瞬間に胸を襲う。
どれもこれも曖昧だった。悪夢の正体はちっとも分からず、この不安が何を恐れているのかすら不明瞭だ。
俺としては戦争神経症の一種ではないかと疑ったが、周りはそう判断しなかった。
……かつて、俺には最愛の妻がいたらしい。
その方は人間の男性だった。出会いに関して詳しく知る人物は居らず、唯一彼と同じ遊郭街を出身とするオーラだけが、『リネ様は素晴らしいお方でした』と語っている。
リネ・オークランス。それが彼の名だ。
彼は五年前に、敵国トゥーヤの革命軍である岩渓軍に屋敷を襲撃され、殺された。
俺はその夜、拷問のため拉致されていて、ファルンへ帰還するも二ヶ月近く意識を失っていたらしい。
二ヶ月生死を彷徨っていた事実は一部の幹部たちしか知らない。俺が眠っている間に妻の遺体は火葬され、襲われた屋敷も修復した。
しかし襲撃を受けた際に屋敷の殆どの物が燃え尽きたという。俺は妻を亡くしたショックで彼の記憶の全てを失っていたので、彼を知る物はこの世に何一つ残されていない。
なぜなのか……彼の生きた痕跡はこの世のどこにもない。
記憶のない俺は、それを悲しむことすらできない。
五年前までの俺は、妻を相当愛していたらしい。周りの人々は俺の不調を、妻を亡くした悲しみによるものと結論付けた。
そして遂には、娼夫を派遣してきた。
娼夫を寄越すなど……ここまで強行手段を取って俺の体を休ませようとするのは初めてだ。
その企みを聞いたのは、『彼』がやってくる当日だった。ベルマンに伝えられた時、俺は怒るでも否定するでもなくこう言った。
「人間なんだろ? 俺を恐れるんじゃないか」
「いえ、彼は魔族の血に耐性があるんです」
「へぇ……残念だが俺にその気はないよ。遥々足を運んでくれるのに、申し訳ないな……」
心中では、どうせならオーラと共に人間の遊びができるかもしれない、と期待していたのだ。
オーラは人間で、遊郭街の出身だ。娼夫や遊女たちは仕事の合間に、よくプリンなどお菓子を作っていたらしい。
たまに味を変えて遊んでいたと言う。彼らはお菓子作りと酒が大好きだ。そうした人間の遊びができるかもしれない。
もちろん奉仕をさせる気はなかった。俺は誰にも体を触らせない。酒癖の悪いベルマンや、よく叱ってくるオーラが、俺を叩いたり肩を組んでくることはあっても、それ以外に俺に触れてくる者などいないし、違和感がある。
せっかくの休暇だ。ビーチで怠けてもいい。オーラ以外の純粋な人間は周りにいないので、どんな人なのだろうと、俺は年甲斐もなく新しい友人に期待していた。
そうして遣わされてやってきたのが、
――『ファルンに栄光を』
人間の男の、
――『サラと申します』
サラだった。
俺はその姿を前にした瞬間、理性を失った。
恐怖で染まる本能のままに、完全な否定を示したのだった。
額が地に着くほど頭を下げた男を前にし、俺は魂が震えるほどの恐怖を味わい、直感した。
悪夢が、人間の形を模して現実までやってきやがった……。
人間にとっての異質が俺たちならば、俺たちにとっての異質はこの男だ。頭を垂れるソレを前に、溜まった唾液を飲み込む。
だが、周りにいるベルマンや他の使用人など魔族の末裔たちは一切の反応を示さず、にこやかに男を眺め下ろしている。
この状況が気色悪くして仕方なかった。なぜ皆、彼を恐れないのだ。
俺は恐怖と混乱に陥っていた。戦場で敵を前にした時とは全く違う。これは『悪夢』そのものだ。悪魔……? いや魔狼の末裔である俺が今更どうして悪魔に恐怖しようか。
そうして困惑する俺の唇は勝手に開いている。
正直に言うと、あの時俺が何と発言したのか覚えていない。
血の気の引いた心が、俺の判断を介さずに勝手に言葉を声にしている。ただ、俺が彼を追い出そうとしたことだけは確かだ。
この男を俺に近づけてはならない。ここから追い払わなければならない。
否定の言葉だけを撒き散らし、俺は逃げるように彼の眼前から去った。心臓が激しく脈打っていて、身体中の肌に汗が滲んでいる。
そうして一人になってみると、はて、と思う。
俺は一体彼の何に恐怖していたのか?
なぜ彼の姿を見て、あれほど異常な身体反応を示したのか。
距離ができると、息がしやすくなった。酸素を取り入れて正常な思考で考える。なぜ俺は見ず知らずのただの人間をあれほど忌避したのだろう。
冷静になってみると、そこまでの嫌悪が起きなかった。俺が吐き捨てた言葉を出来る限り思い出し、後悔に胸を侵される。
もう一度会ったら、謝らなければならない。俺にも意味が分からないが、俺は貴方が怖かった、と。
彼が屋敷から帰る選択をしなかったと聞いて、安心した。ならば謝ることができる。朝食の配膳をしてくれるらしい。その際に、言葉を交わそう。
そうして、オーラや皆で、お菓子でも……。
「――朝食の用意ができました」
俺は青ざめながら言い捨てた。
「オーラを呼べ」
だめだ。
こいつを追い出さなければ。
魔族の血が流れる者を純粋な人間が恐れる感覚はこういうことなのだろうか。
俺はこの二十九年間の人生で、それを初めて理解した。
軍部と王室からの勧めで、半ば強制的にファルン王国の西岸に位置するシェレオ地方の別荘地で療養をとることになった。
ここ数ヶ月の体の不調が原因だ。
毎日身体が重く、特に夜、眠れない。
何か夢を見ていたようで悲鳴を上げながら目覚める。悪夢が波のように引いていくのを、体の穴という穴から汗を吹き出しながらもジッと堪える。
その黒い波の正体は分からない。一体どんな悪夢に襲われていたのか、目覚めた段階では既に忘れている。
睡眠が十分に取れないでいると、食事もままならなくなる。戦場で常に周りを警戒し、配慮していたのとは違う、ただぼんやりとした輪郭のない『不安』がふとした瞬間に胸を襲う。
どれもこれも曖昧だった。悪夢の正体はちっとも分からず、この不安が何を恐れているのかすら不明瞭だ。
俺としては戦争神経症の一種ではないかと疑ったが、周りはそう判断しなかった。
……かつて、俺には最愛の妻がいたらしい。
その方は人間の男性だった。出会いに関して詳しく知る人物は居らず、唯一彼と同じ遊郭街を出身とするオーラだけが、『リネ様は素晴らしいお方でした』と語っている。
リネ・オークランス。それが彼の名だ。
彼は五年前に、敵国トゥーヤの革命軍である岩渓軍に屋敷を襲撃され、殺された。
俺はその夜、拷問のため拉致されていて、ファルンへ帰還するも二ヶ月近く意識を失っていたらしい。
二ヶ月生死を彷徨っていた事実は一部の幹部たちしか知らない。俺が眠っている間に妻の遺体は火葬され、襲われた屋敷も修復した。
しかし襲撃を受けた際に屋敷の殆どの物が燃え尽きたという。俺は妻を亡くしたショックで彼の記憶の全てを失っていたので、彼を知る物はこの世に何一つ残されていない。
なぜなのか……彼の生きた痕跡はこの世のどこにもない。
記憶のない俺は、それを悲しむことすらできない。
五年前までの俺は、妻を相当愛していたらしい。周りの人々は俺の不調を、妻を亡くした悲しみによるものと結論付けた。
そして遂には、娼夫を派遣してきた。
娼夫を寄越すなど……ここまで強行手段を取って俺の体を休ませようとするのは初めてだ。
その企みを聞いたのは、『彼』がやってくる当日だった。ベルマンに伝えられた時、俺は怒るでも否定するでもなくこう言った。
「人間なんだろ? 俺を恐れるんじゃないか」
「いえ、彼は魔族の血に耐性があるんです」
「へぇ……残念だが俺にその気はないよ。遥々足を運んでくれるのに、申し訳ないな……」
心中では、どうせならオーラと共に人間の遊びができるかもしれない、と期待していたのだ。
オーラは人間で、遊郭街の出身だ。娼夫や遊女たちは仕事の合間に、よくプリンなどお菓子を作っていたらしい。
たまに味を変えて遊んでいたと言う。彼らはお菓子作りと酒が大好きだ。そうした人間の遊びができるかもしれない。
もちろん奉仕をさせる気はなかった。俺は誰にも体を触らせない。酒癖の悪いベルマンや、よく叱ってくるオーラが、俺を叩いたり肩を組んでくることはあっても、それ以外に俺に触れてくる者などいないし、違和感がある。
せっかくの休暇だ。ビーチで怠けてもいい。オーラ以外の純粋な人間は周りにいないので、どんな人なのだろうと、俺は年甲斐もなく新しい友人に期待していた。
そうして遣わされてやってきたのが、
――『ファルンに栄光を』
人間の男の、
――『サラと申します』
サラだった。
俺はその姿を前にした瞬間、理性を失った。
恐怖で染まる本能のままに、完全な否定を示したのだった。
額が地に着くほど頭を下げた男を前にし、俺は魂が震えるほどの恐怖を味わい、直感した。
悪夢が、人間の形を模して現実までやってきやがった……。
人間にとっての異質が俺たちならば、俺たちにとっての異質はこの男だ。頭を垂れるソレを前に、溜まった唾液を飲み込む。
だが、周りにいるベルマンや他の使用人など魔族の末裔たちは一切の反応を示さず、にこやかに男を眺め下ろしている。
この状況が気色悪くして仕方なかった。なぜ皆、彼を恐れないのだ。
俺は恐怖と混乱に陥っていた。戦場で敵を前にした時とは全く違う。これは『悪夢』そのものだ。悪魔……? いや魔狼の末裔である俺が今更どうして悪魔に恐怖しようか。
そうして困惑する俺の唇は勝手に開いている。
正直に言うと、あの時俺が何と発言したのか覚えていない。
血の気の引いた心が、俺の判断を介さずに勝手に言葉を声にしている。ただ、俺が彼を追い出そうとしたことだけは確かだ。
この男を俺に近づけてはならない。ここから追い払わなければならない。
否定の言葉だけを撒き散らし、俺は逃げるように彼の眼前から去った。心臓が激しく脈打っていて、身体中の肌に汗が滲んでいる。
そうして一人になってみると、はて、と思う。
俺は一体彼の何に恐怖していたのか?
なぜ彼の姿を見て、あれほど異常な身体反応を示したのか。
距離ができると、息がしやすくなった。酸素を取り入れて正常な思考で考える。なぜ俺は見ず知らずのただの人間をあれほど忌避したのだろう。
冷静になってみると、そこまでの嫌悪が起きなかった。俺が吐き捨てた言葉を出来る限り思い出し、後悔に胸を侵される。
もう一度会ったら、謝らなければならない。俺にも意味が分からないが、俺は貴方が怖かった、と。
彼が屋敷から帰る選択をしなかったと聞いて、安心した。ならば謝ることができる。朝食の配膳をしてくれるらしい。その際に、言葉を交わそう。
そうして、オーラや皆で、お菓子でも……。
「――朝食の用意ができました」
俺は青ざめながら言い捨てた。
「オーラを呼べ」
だめだ。
こいつを追い出さなければ。
338
お気に入りに追加
2,703
あなたにおすすめの小説
期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
ぽんちゃん
BL
病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。
剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。
加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。


十二年付き合った彼氏を人気清純派アイドルに盗られて絶望してたら、幼馴染のポンコツ御曹司に溺愛されたので、奴らを見返してやりたいと思います
塔原 槇
BL
会社員、兎山俊太郎(とやま しゅんたろう)はある日、「やっぱり女の子が好きだわ」と言われ別れを切り出される。彼氏の売れないバンドマン、熊井雄介(くまい ゆうすけ)は人気上昇中の清純派アイドル、桃澤久留美(ももざわ くるみ)と付き合うのだと言う。ショックの中で俊太郎が出社すると、幼馴染の有栖川麗音(ありすがわ れおん)が中途採用で入社してきて……?
公爵家の次男は北の辺境に帰りたい
あおい林檎
BL
北の辺境騎士団で田舎暮らしをしていた公爵家次男のジェイデン・ロンデナートは15歳になったある日、王都にいる父親から帰還命令を受ける。
8歳で王都から追い出された薄幸の美少年が、ハイスペイケメンになって出戻って来る話です。
序盤はBL要素薄め。

【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺
福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。
目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。
でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい…
……あれ…?
…やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ…
前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。
1万2000字前後です。
攻めのキャラがブレるし若干変態です。
無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形)
おまけ完結済み

噂の冷血公爵様は感情が全て顔に出るタイプでした。
春色悠
BL
多くの実力者を輩出したと云われる名門校【カナド学園】。
新入生としてその門を潜ったダンツ辺境伯家次男、ユーリスは転生者だった。
___まあ、残っている記憶など塵にも等しい程だったが。
ユーリスは兄と姉がいる為後継者として期待されていなかったが、二度目の人生の本人は冒険者にでもなろうかと気軽に考えていた。
しかし、ユーリスの運命は『冷血公爵』と名高いデンベル・フランネルとの出会いで全く思ってもいなかった方へと進みだす。
常に冷静沈着、実の父すら自身が公爵になる為に追い出したという冷酷非道、常に無表情で何を考えているのやらわからないデンベル___
「いやいやいやいや、全部顔に出てるんですけど…!!?」
ユーリスは思い出す。この世界は表情から全く感情を読み取ってくれないことを。いくら苦々しい表情をしていても誰も気づかなかったことを。
寡黙なだけで表情に全て感情の出ているデンベルは怖がられる度にこちらが悲しくなるほど落ち込み、ユーリスはついつい話しかけに行くことになる。
髪の毛の美しさで美醜が決まるというちょっと不思議な美醜観が加わる感情表現の複雑な世界で少し勘違いされながらの二人の行く末は!?

【完結】薄幸文官志望は嘘をつく
七咲陸
BL
サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。
忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。
学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。
しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー…
認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。
全17話
2/28 番外編を更新しました
異世界転生した俺の婚約相手が、王太子殿下(♂)なんて嘘だろう?! 〜全力で婚約破棄を目指した結果。
みこと。
BL
気づいたら、知らないイケメンから心配されていた──。
事故から目覚めた俺は、なんと侯爵家の次男に異世界転生していた。
婚約者がいると聞き喜んだら、相手は王太子殿下だという。
いくら同性婚ありの国とはいえ、なんでどうしてそうなってんの? このままじゃ俺が嫁入りすることに?
速やかな婚約解消を目指し、可愛い女の子を求めたのに、ご令嬢から貰ったクッキーは仕込みありで、とんでも案件を引き起こす!
てんやわんやな未来や、いかに!?
明るく仕上げた短編です。気軽に楽しんで貰えたら嬉しいです♪
※同タイトルの簡易版を「小説家になろう」様でも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる