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第二章
20 消去したのは
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思わず微笑みが滲んでしまう。俺の反応を見て、師匠は少しだけ悲しげに目元を痙攣させたが、真剣な顔をしていた。
そんなこと、できるとは思えない。
岩渓軍の残党は世界中に散らばっている。海獣に何百人の無実な人々を食わせて海の底にアジトを作ったルロオとも、岩渓軍は通じているのだ。
陸にも海にも、潜んでいる残虐な者たち。
狩り尽くすなんて無理だ。
「ありがとうございます」
それでもイクセルが断言してくれたのは頼もしかった。
俺は、ふぅ、と息を吐き「師匠どうして」と彼へと歩む。
「どうして俺を派遣したんですか」
イクセルの眉間の皺が深まる。彼は素っ気なく答えた。
「教えねぇよバカ」
「バカは師匠でしょう。ロイやオーラが危険な目に遭った」
「……危険に晒すつもりはなかった。ファルンはここ数年、平和だったんだ」
「そう……、運が悪かったんでしょうね」
俺はとことん悪運に縁がある。
俺も初めはあの呪いを政争ではないかと疑っていた。ロイを殺したい誰かが、別荘へ侵入を試みようとしたのだと。
でもそれと同時に、これが過去の戦争で相手にした敵の残党ではないかとも分かっていたのだ。
それを信じたくないから、イクセルの元へ来れなかった。
ロイとの平和なひとときを信じたくて。
「師匠、わかってますよ」
ただ彼の傍にいたかった。
「師匠が俺を送ったのは、ロイと俺のためでしょう」
イクセルは若い見目をしているが、もう自分では何歳になるか分からないほど長年生きているらしい。
歳を覚えていないから、年齢を数えるには公的機関の文書を要する程、どこか雑な性格で、たまに無理難題を押し付けてくるきらいもある。
だが彼は若い俺たちを好きだった。
誰よりも、ロイと俺を祝福していた。
ロイの元へ送った理由は、イクセルがもう一度二人の恋を願っていたから。
俺がファルンに帰ってくるのは四年ぶりだったのであんな強行手段を使ったのだ。
イクセルは微かに呟いた。
「……まさかルロオが遥々やってくるとはな」
師匠は仏頂面だったが、心の底から後悔しているのが見て取れる。
俺は、岩渓軍が生き残っている限り、ファルンには居られない。
今回の件でより確信した。
「ルロオ自体は潰すのも造作ないが、お前が言う通り、岩渓軍がルロオと通じてるかもしれない」
イクセルは足を組み直し、静かな口調で認めた。俺がここから去ることを了承してくれたのだ。
そうなると、やらなければならないことが一つある。元よりこれを受けるためにファルンへ戻ってきた。
「師匠」
微笑みを作ってみたが、その笑顔は思ったよりも気弱になってしまったかもしれない。
師匠が僅かだけ目を丸くしたのが分かる。
「やっぱりロイは俺に嫌悪を表して、排除しようとしました」
眉を下げて伝えると、イクセルは唇を閉じ、数秒後、
「ああ……、オーラの文で聞いた」
と、立ち上がった。
「あいつ、そういうものだって分かってるはずなのにな。イクセル様のせいだって、散々怒られちまった」
「オーラが?」
「オーラはまだ、俺が、『リネ』に関するロイの記憶を消したことを怒ってるからな」
「……」
「他に方法は無かったのかって、怒り狂ってる」
俺は鼻から深く息を吸い、吐く。
イクセルは情けなさそうに言葉を吐いた。
「イクセル様なら他に方法があったはずだ! って、いつまでもいつまでも。ウルセェんだよ、あいつ」
「……ロイの記憶を消す以外、ですか」
俺はこぼすように笑って言った。
「ないな」
「だよなぁ」
「師匠のせいではありません」
「いや、俺のせいだ」
イクセルは、声をより強くして言い切った。
「俺達のせいだ」
数秒間の沈黙。俺は返事はせず、「オーラはでも」と笑いかけた。
「ロイが俺に冷たくしたのが、嬉しかったって」
「お前はどうだったんだよ」
「溜まったもんじゃないですよ」
ロイに再会した時に受けたセリフがたった今し方の出来事のように耳にこだまする。
——『失せろ』
——『目障りだ。俺の前から直ちに消えろ』
それを聞いた途端、口元が緩んでおさえられなかった。頭を下げていたから、ロイは気付いていないのだ。
あの時俺が笑っていたことを。
「師匠に言われた通りでしたよ」
ロイがもし俺と再会したら俺を拒絶する可能性がある、と五年前に師匠から聞かされていた。まさにその通りで、あの人は、俺を前にするなり怯えたように吐き捨てた。
「そうか」
「ほんっとうにアイツ……酷くって」
笑えてしまって仕方ない。
彼の暴言には苦痛と共に、心を締め付けるほどの愛しさを感じた。
悲しさと切なさと、愛しさだ。絡み合った相反する感情を思い出し、泣き笑いみたいな顔をしてしまうと、イクセルも切なげに微笑んだ。
五年前に、彼は言った。
「ロイはお前が自分に近づくことを拒絶する」
五年前と同じセリフを、今の彼がつぶやく。
「ロイは、お前を本能で忌避する。もう二度とお前を奪われないために。アイツは自分のせいでお前が命を狙われたと思っているからな」
屋敷でのロイを思い出す。初めの方のロイはひたすら俺に攻撃的で、何とかして屋敷から追い出そうと必死だった。
「奪われないためには、お前を初めから知らなければいい。そのためにお前を遠ざけようとするし、自分に近づくお前に恐怖し、嫌悪する」
「……はい」
「言った通りだったろう」
「はい」
「イージェンはそういうもんなんだ」
ゆったりとイクセルが歩き出すから、俺もその後を追いかけた。隣の部屋へ移動したイクセルは、樹木で一杯になったその部屋のソファの前に立つと、顎の仕草で俺に『座れ』と促してきた。
まだ胸はとても言葉にできない感情で溢れている。おかしな話だ。ロイから心無い言葉を受ければ受けるほど、俺は嬉しくて堪らなかった。
悲しくて、嬉しい。この感情には名前なんかついていなくて、ただ心に封じ込めておくしかない。
俺はソファに腰掛けながら「でも」とイクセルを見上げた。
「途中から……なぜか優しくなったんです」
「うん」
子供みたいに無邪気に微笑みかけると、イクセルの口ぶりが優しくなった。
「俺と、二人で話してくれるようになって」
「そうか。不思議なことがあるもんだ」
「なぜでしょう」
「ロイの心がどこかで解けたんだろう」
イクセルは棚の引き出しから小瓶を取ってくると、俺の前に立った。
「本能を打ち破るほどのお前の行動や言動の何かが、ロイの心を動かしたんじゃないか?」
「……わかんないな」
「そうか」
イクセルは本当に柔らかに笑った。俺のことなのに、俺と同じくらいに嬉しそうだった。
「夕焼けの海を眺めながら、ロイと、話をしました」
小瓶には黄金の煌めきを放つ、琥珀色の液体が揺れている。
その輝きに、ロイと見た海の夕陽を重ねながら、俺は呟いた。
「幸せだった」
「……不思議なこともあるが、ロイは二度とお前との全てを思い出さない」
イクセルは、囁いた。
「それだけは確かだ」
俺は言葉を発さなかった。数秒の沈黙の後、こくん、と頷けば、イクセルは小瓶の蓋を外した。
「よし。やるか?」
「はい」
四年ぶりにファルンへ帰国したのは、イクセルにイージェンをかけてもらうためだった。
四年前に施術してもらった効果が切れてしまったのだ。またしても蘇った恋の残骸は、刃を光らせ、俺の心をゆっくりと抉りはじめた。
一度目にイージェンをかけてもらった時の俺は、眠っていた。ロイとの別れは想像通りに俺を蝕み、食事も取れなくなって、このままでは弱っていくと師匠が判断した故の施術だったのだ。
そうして四年が経ち、効果も切れると、俺は睡眠もままならないようになってしまった。
何度眠ってもロイとの結婚生活が映し出されるのだ。目の前に広がる幸せだった光景を前にして、目を逸らしたいのに、どうしても動けない。
悲鳴を上げて目覚めてばかりだった。その後は眠れなくなる。
常に万全な状態でいなければならないのだ。弱っている暇はない。
ロイへの未練を断ち切って、すぐにでもこの地を去り、生き続けなけらばならない。
迷いなく、平静な心で、逃げ続けるのだ。
そのために。
「さぁ、始めよう」
イージェンが必要だった。
イクセルはユコーンの花の液を手にしている。
俺はソファの背に身を沈める。
黄金に煌めく液体を眺めてから瞼を閉じる。
瞼の裏にはまだ、あの煌めきが輝いていた。
「あーあ」
「嫌だなあ。これ」小さく呟くと、イクセルが俺の頭に触れて、手のひらで軽く撫でた。その瞬間一気に眠気が増す。睡魔が肩にのしかかり、もはや瞼を開くことすらできない。
「……——ィ、ごめんな」
イクセルの掠れた声が耳に届かずに、消えていく。
俺は、黄金の微睡へと。
そんなこと、できるとは思えない。
岩渓軍の残党は世界中に散らばっている。海獣に何百人の無実な人々を食わせて海の底にアジトを作ったルロオとも、岩渓軍は通じているのだ。
陸にも海にも、潜んでいる残虐な者たち。
狩り尽くすなんて無理だ。
「ありがとうございます」
それでもイクセルが断言してくれたのは頼もしかった。
俺は、ふぅ、と息を吐き「師匠どうして」と彼へと歩む。
「どうして俺を派遣したんですか」
イクセルの眉間の皺が深まる。彼は素っ気なく答えた。
「教えねぇよバカ」
「バカは師匠でしょう。ロイやオーラが危険な目に遭った」
「……危険に晒すつもりはなかった。ファルンはここ数年、平和だったんだ」
「そう……、運が悪かったんでしょうね」
俺はとことん悪運に縁がある。
俺も初めはあの呪いを政争ではないかと疑っていた。ロイを殺したい誰かが、別荘へ侵入を試みようとしたのだと。
でもそれと同時に、これが過去の戦争で相手にした敵の残党ではないかとも分かっていたのだ。
それを信じたくないから、イクセルの元へ来れなかった。
ロイとの平和なひとときを信じたくて。
「師匠、わかってますよ」
ただ彼の傍にいたかった。
「師匠が俺を送ったのは、ロイと俺のためでしょう」
イクセルは若い見目をしているが、もう自分では何歳になるか分からないほど長年生きているらしい。
歳を覚えていないから、年齢を数えるには公的機関の文書を要する程、どこか雑な性格で、たまに無理難題を押し付けてくるきらいもある。
だが彼は若い俺たちを好きだった。
誰よりも、ロイと俺を祝福していた。
ロイの元へ送った理由は、イクセルがもう一度二人の恋を願っていたから。
俺がファルンに帰ってくるのは四年ぶりだったのであんな強行手段を使ったのだ。
イクセルは微かに呟いた。
「……まさかルロオが遥々やってくるとはな」
師匠は仏頂面だったが、心の底から後悔しているのが見て取れる。
俺は、岩渓軍が生き残っている限り、ファルンには居られない。
今回の件でより確信した。
「ルロオ自体は潰すのも造作ないが、お前が言う通り、岩渓軍がルロオと通じてるかもしれない」
イクセルは足を組み直し、静かな口調で認めた。俺がここから去ることを了承してくれたのだ。
そうなると、やらなければならないことが一つある。元よりこれを受けるためにファルンへ戻ってきた。
「師匠」
微笑みを作ってみたが、その笑顔は思ったよりも気弱になってしまったかもしれない。
師匠が僅かだけ目を丸くしたのが分かる。
「やっぱりロイは俺に嫌悪を表して、排除しようとしました」
眉を下げて伝えると、イクセルは唇を閉じ、数秒後、
「ああ……、オーラの文で聞いた」
と、立ち上がった。
「あいつ、そういうものだって分かってるはずなのにな。イクセル様のせいだって、散々怒られちまった」
「オーラが?」
「オーラはまだ、俺が、『リネ』に関するロイの記憶を消したことを怒ってるからな」
「……」
「他に方法は無かったのかって、怒り狂ってる」
俺は鼻から深く息を吸い、吐く。
イクセルは情けなさそうに言葉を吐いた。
「イクセル様なら他に方法があったはずだ! って、いつまでもいつまでも。ウルセェんだよ、あいつ」
「……ロイの記憶を消す以外、ですか」
俺はこぼすように笑って言った。
「ないな」
「だよなぁ」
「師匠のせいではありません」
「いや、俺のせいだ」
イクセルは、声をより強くして言い切った。
「俺達のせいだ」
数秒間の沈黙。俺は返事はせず、「オーラはでも」と笑いかけた。
「ロイが俺に冷たくしたのが、嬉しかったって」
「お前はどうだったんだよ」
「溜まったもんじゃないですよ」
ロイに再会した時に受けたセリフがたった今し方の出来事のように耳にこだまする。
——『失せろ』
——『目障りだ。俺の前から直ちに消えろ』
それを聞いた途端、口元が緩んでおさえられなかった。頭を下げていたから、ロイは気付いていないのだ。
あの時俺が笑っていたことを。
「師匠に言われた通りでしたよ」
ロイがもし俺と再会したら俺を拒絶する可能性がある、と五年前に師匠から聞かされていた。まさにその通りで、あの人は、俺を前にするなり怯えたように吐き捨てた。
「そうか」
「ほんっとうにアイツ……酷くって」
笑えてしまって仕方ない。
彼の暴言には苦痛と共に、心を締め付けるほどの愛しさを感じた。
悲しさと切なさと、愛しさだ。絡み合った相反する感情を思い出し、泣き笑いみたいな顔をしてしまうと、イクセルも切なげに微笑んだ。
五年前に、彼は言った。
「ロイはお前が自分に近づくことを拒絶する」
五年前と同じセリフを、今の彼がつぶやく。
「ロイは、お前を本能で忌避する。もう二度とお前を奪われないために。アイツは自分のせいでお前が命を狙われたと思っているからな」
屋敷でのロイを思い出す。初めの方のロイはひたすら俺に攻撃的で、何とかして屋敷から追い出そうと必死だった。
「奪われないためには、お前を初めから知らなければいい。そのためにお前を遠ざけようとするし、自分に近づくお前に恐怖し、嫌悪する」
「……はい」
「言った通りだったろう」
「はい」
「イージェンはそういうもんなんだ」
ゆったりとイクセルが歩き出すから、俺もその後を追いかけた。隣の部屋へ移動したイクセルは、樹木で一杯になったその部屋のソファの前に立つと、顎の仕草で俺に『座れ』と促してきた。
まだ胸はとても言葉にできない感情で溢れている。おかしな話だ。ロイから心無い言葉を受ければ受けるほど、俺は嬉しくて堪らなかった。
悲しくて、嬉しい。この感情には名前なんかついていなくて、ただ心に封じ込めておくしかない。
俺はソファに腰掛けながら「でも」とイクセルを見上げた。
「途中から……なぜか優しくなったんです」
「うん」
子供みたいに無邪気に微笑みかけると、イクセルの口ぶりが優しくなった。
「俺と、二人で話してくれるようになって」
「そうか。不思議なことがあるもんだ」
「なぜでしょう」
「ロイの心がどこかで解けたんだろう」
イクセルは棚の引き出しから小瓶を取ってくると、俺の前に立った。
「本能を打ち破るほどのお前の行動や言動の何かが、ロイの心を動かしたんじゃないか?」
「……わかんないな」
「そうか」
イクセルは本当に柔らかに笑った。俺のことなのに、俺と同じくらいに嬉しそうだった。
「夕焼けの海を眺めながら、ロイと、話をしました」
小瓶には黄金の煌めきを放つ、琥珀色の液体が揺れている。
その輝きに、ロイと見た海の夕陽を重ねながら、俺は呟いた。
「幸せだった」
「……不思議なこともあるが、ロイは二度とお前との全てを思い出さない」
イクセルは、囁いた。
「それだけは確かだ」
俺は言葉を発さなかった。数秒の沈黙の後、こくん、と頷けば、イクセルは小瓶の蓋を外した。
「よし。やるか?」
「はい」
四年ぶりにファルンへ帰国したのは、イクセルにイージェンをかけてもらうためだった。
四年前に施術してもらった効果が切れてしまったのだ。またしても蘇った恋の残骸は、刃を光らせ、俺の心をゆっくりと抉りはじめた。
一度目にイージェンをかけてもらった時の俺は、眠っていた。ロイとの別れは想像通りに俺を蝕み、食事も取れなくなって、このままでは弱っていくと師匠が判断した故の施術だったのだ。
そうして四年が経ち、効果も切れると、俺は睡眠もままならないようになってしまった。
何度眠ってもロイとの結婚生活が映し出されるのだ。目の前に広がる幸せだった光景を前にして、目を逸らしたいのに、どうしても動けない。
悲鳴を上げて目覚めてばかりだった。その後は眠れなくなる。
常に万全な状態でいなければならないのだ。弱っている暇はない。
ロイへの未練を断ち切って、すぐにでもこの地を去り、生き続けなけらばならない。
迷いなく、平静な心で、逃げ続けるのだ。
そのために。
「さぁ、始めよう」
イージェンが必要だった。
イクセルはユコーンの花の液を手にしている。
俺はソファの背に身を沈める。
黄金に煌めく液体を眺めてから瞼を閉じる。
瞼の裏にはまだ、あの煌めきが輝いていた。
「あーあ」
「嫌だなあ。これ」小さく呟くと、イクセルが俺の頭に触れて、手のひらで軽く撫でた。その瞬間一気に眠気が増す。睡魔が肩にのしかかり、もはや瞼を開くことすらできない。
「……——ィ、ごめんな」
イクセルの掠れた声が耳に届かずに、消えていく。
俺は、黄金の微睡へと。
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