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第二章
16 敵襲
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「オーラが作るミートボールは懐かしい味がするんだ」
「……そう」
ロイは気付かずに話し続けている。俺は小さく相槌を打った。
テーブルの向こう、椅子に腰掛けたロイは、黒髪を緩く結んでいる。きっとオーラが結ったのだろう。
ロイは非常にリラックスして、夕焼けの広がる海を眺めていた。オーラの気配にも気付いていない。口にしようか迷ったが、でも、やめた。
ロイの横顔が穏やかだった。こうしてロイを見ていると、次第に、彼に昔の面影が重なり始める。
ロイは結構、しっちゃかめっちゃか喋る男だった。表情もよく変わり、俺の名を嬉しそうに呼ぶ年下のロイが可愛くて仕方なかった。
今もまだ表情に乏しいが、二ヶ月前より断然マシだ。海を眺める琥珀色の瞳は、この平和な夕刻の中で、波のようにゆらゆらと揺れている。
俺はふと、また扉へと目を向ける。
やはりオーラの姿が消えている。
彼の行方を気にしつつ、俺は呟いた。
「オークランス様はオーラ様を信頼しているみたいだな」
「ん?」
ロイは横目でこちらを見やる。
「彼は人間だが、オークランス様を恐れていない。使用人と言っていたが、仲が良さそうだ」
ロイは身体の向きをこちらに向けた。
嘘偽りない淡い笑みを口元に浮かべる。
「そうだな。オーラは同い年なんだが、俺は弟のように思っている」
「……ふぅん」
思わず笑ってしまう。
あちらがそう思っているとは、限らない。
ロイは続けた。
「人間の彼は魔族の血に耐性があるから、俺を恐れない。彼も魔狼族の末裔と番っていたらしい」
「……オーラ様は、旦那様が亡くなっていると聞いた」
ロイは「そうだ」と頷く。
「オークランス様はお会いしたことが?」
俺は慎重に訊ねる。
ロイは真横に首を振った。
「いいや、俺もオーラの夫のことは詳しくは知らないんだ」
「……」
「ずいぶん年上だったと聞くが」
「いつ亡くなったのかご存知で?」
「確か、三年前と言っていたな」
「……」
ロイは『夫がいた』と聞かされているらしい。だが俺は知っている。
それは嘘だ。
指先が震えてしまう。
三年前……心があっという間に濁っていくのが分かった。
鉛みたいに腹が重くなる。指先が冷たくなり、視界が眩む。ダメだ、落ち着け。
常に心を平静に。
「そう……お可哀想に」
俺は小さく俯き、呟いた。
目の前にいるロイが、ジッと俺を見つめているのに気付いたのは数十秒後だった。
あまりにも真剣に、その光り輝く夕陽の瞳が俺をまっすぐ射抜いてくるので俺は一瞬だけ躊躇った。
すると、ロイは言った。
「サラ。貴方は、俺が暴言を吐いたことを本気で怒っていないのか?」
「え……」
ロイが微かに眉毛の尻を下げる。あぁ、またか。
彼は初期の言動と態度を悔いている。ロイとしてはなぜ自分が赤の他人にあらゆる罵詈雑言を吐き、遠ざけようとしたのか、自分でもまだ納得がいっていないのだろう。
俺は、黒い海面に夕陽が走る風景を眺めながら答えた。
「怒る……とは違うかも」
「では、悲しんでいる?」
「……」
うまく、説明ができない。
「俺は屈辱的なことを言ってしまった」
ロイは目を伏せた。長いまつ毛が、その整った目を覆う。
「すまなかった」
ロイは決して「許してくれるか」とは問わない。彼は他人に、許されると思って生きたことがない。なぜなら、戦場で多くを殺してきた。
地獄に落ちる運命だと知っている者は赦しを乞うなどせず、ただ償い続けるだけ。彼の本質は何も変わっていない。
俺の全てを忘れたこと以外。
「悲しみ、とも違う」
俺は彼の謝罪には答えず、抑揚ない口振りで呟いた。
ロイは不思議そうな顔をする。
「じゃあ何なんだ」
「何だろう」
もちろん、悲しさで胸は抉れそうだった。
でもそれだけではないのだ。
「とにかく、俺も混乱してたから」
俺は口調を変えて、冗談っぽく言ってやった。
「いきなり大元帥閣下に排斥的な嫌悪を向けられるんだ。命の危機、じゃないか?」
ニッと唇の端を上げる。ロイは俺を凝視していたが、やがて、どことなく呆然とした声色で呟いた。
「自分でもどうかしてたとしか思えない。まだサラの顔すら見ていなかったのに、とにかく」
ロイは軽く瞼を閉じる。
「貴方をこの館から追い出さなければ、と」
「それだけを考えていた」ゆっくりと目を開ける。切実な声の響きがまた、俺の心を締め付ける。
「そうか」
単調に頷きながらも心の底がまた揺さぶられた。
ロイはとにかく、俺が近づくのが嫌で堪らなかったらしい。鼻の奥がツンと痛くなり、熱い吐息を吐き出す。だめだ。泣くな。
俺は気丈に笑って見せた。
「……オークランス様、お忘れか分からないが、俺は元娼夫だ」
ロイが静かな眼で俺を見据える。
「あれくらいの暴言何てことない」
にっこりと微笑みかける。同時に、太陽が水平線の向こうに隠れて、世界が一気に暗闇へと化した。
夕飯の時間だ。俺は先に席を立ち、ロイをその場に残して去る。食堂へ向かいながら俺は、またゆっくりと深呼吸した。
半年も滞在するつもりは、ない。
……でも傍にいたい。
夕焼けのひとときを、こんな風に見つめられて穏やかに過ごしてしまえば、未練ばかりが重なってしまう。
何も知らないロイ。何て残酷な人なのだろう。俺はまだロイを愛していて、でも彼は、俺に何の感情も抱いていない。
「……ロイ」
この名を呼ぶことすらできない。
ロイ、ロイ。
俺は口にする代わりに何度も心の中で繰り返した。ロイ。愛しい響き。ロイ。
ロイ。
抜け道を作るしかない。
防御魔法で屋敷全体を覆って、幾つかわざと穴を作る。
完璧すぎると怪しいので、雰囲気はある程度廃れたものに。そうやって屋敷中に膜を張った。穴を作ることで、敵をその箇所に誘き寄せるのだ。
やけに静かな、真昼だった。
「よく、晴れてる」
俺は窓から外を眺める。海は静かに寄せては返し、青空に浮かぶ白い雲はまるで絵のように張り付いて動かない。
ロイは今朝から屋敷を留守にしている。いくら休養と言えど、ロイ・オークランスが都市部へ半年間も姿を見せないのでは死亡を疑われてしまう。そうなればまた、政治が動き出す。生存確認のためにも、王の御前へ向かうのだ。
本日は今朝方、王宮から魔術師たちが派遣されてきた。彼らのほとんどがイクセルの大樹を出身とするイクセルの弟子たちで、転移魔法の腕も良い。
ロイとベルマンは無事に王宮へ向かった。
俺はこの屋敷を守ることだけを考えればいい。
だが、そもそもロイはいないのだ。目標が不在の屋敷を襲撃されるはずはないのだが……。
穴は、テラスに作り出した。ここなら入り口も限られている。膜が完成してからはこの場所を主に警戒して過ごしている。
深すぎる空の青さを不気味に思いながらも、俺はテラスへと向かった。屋敷には料理人や庭師など、少数の使用人しかいない。
けれど、そうだった。
「……オーラ」
まだ彼が残っている。
訪れたテラスには、オーラがいた。
彼の名を思わず呟くと、テラスから海を眺めていたオーラがパッと振り向いた。
俺を視界に入れると、その大きな目を丸くする。桃色の瞳に一瞬で光が充溢した。
恍惚とした笑顔を浮かべ、
「あ……」
と彼が溢した……その時だった。
——一瞬だ。
突然、オーラの向こうの空が、ガラスの如く割れる。
オーラは気付いていない。俺に駆け寄ろうとしている。割れた箇所に黒い扉が作り出された。そこから闇が伸びてくる。
オーラは、気付いていない。
「オーラッ!」
俺は喉も裂けよと叫んだ。
間に合え。敵が作り出した転移の扉を俺の魔法で引き延ばす。オーラが背後へ振り向いた。その時点で闇が彼を襲っている。しかし俺の魔法がオーラを捉えた。俺は彼を右腕に抱える。だめだ、引き摺りこまれる……っ!
魔法の渦へ落ちていく。俺は決してオーラを離さなかった。一瞬のようにも、長い時間のようにも思える。混沌が俺たちを飲み込み、気付けば、
「どこだ、此処は……」
二人は荒れ果てた部屋の一室に倒れていた。
カーテンで覆われていて外が見えない。古い洋館だ。誰もいない……?
いや、声がする。
「あ……」
目の前に倒れたオーラは上半身を起こし、わなわなと震えた。
ここは、上階のようだ。下の階からか? 男たちの声がした。きっと俺が加わったことで落下位置が逸れたのだ。
まだ俺たちが此処に落ちたことを知られていない。
「あ……」
オーラはぶるぶると震えている。
状況をある程度把握し終えた俺は、彼を見下ろした。
「あ、あに様……ッ!」
桃色の瞳と視線が交わされる。
その瞬間、オーラは俺に抱きついてきた。
「あ、兄様っ、リネ兄様ぁ……っ」
「オーラ、落ち着け。大丈夫だ」
「兄様、腕に怪我をっ」
強引に転移魔法へ干渉したことで、右腕を負傷した。オーラは俺の腕を見下ろし、首を微かに左右へ振った。
「オーラ、お前が先に逃げろ」
「え……」
オーラは啞然と目を見開いた。
「な、にを……」
「片腕では二人同時に戻ることができない。先にお前を、王都へ送る」
出血する肩を抑える。あたりを見渡し、俺は棚の上にあった手鏡を手に取った。
「ロイの元へ帰って、保護してもらうんだ。この鏡を証拠として持っていけ。此処にいたことが分かるように魔法を込めるから」
「……兄様はどうするんですか」
「師匠の所へいく」
「それから、どうするんですか」
俺は答えられなかった。
オーラは瞬きもせずに俺を凝視していたが、やがて、視線を外した。
「もう……」
オーラがガクンと首を垂れ下げる。
そして呆然と呟いた。
「いやです」
「オーラ、」
オーラの両肩を掴み、こちらへ向かせる。テラスで見たあの一瞬の瞳は、光を目一杯詰め込んで桃色に煌めいていた。
今のオーラの瞳に、あの光はもうない。代わりにみるみる涙がたまっていく。
彼は唇の動きを変えずに、声だけこぼした。
「僕は兄様と共に行きます」
「オーラ!」
「やだ……」
幼い口調だった。掠れた声で、虚ろに呟く。
「やっと二人で、お話できるって……ようやく、会えたのに……」
声はこれ以上ないほどの悲しさで震えている。それは俺の心を容赦なく揺さぶる。
「僕は兄様が向かう場所へ行きます。危険がたくさんあっても構わない。僕は兄様のためなら死ねるし、人を殺したっていい」
淡々と囁くオーラを前にして、胸が締め付けられる。
俺は縋るように言った。
「頼む、ロイを一人にしないでくれ」
「嫌だッ!」
しかしオーラは吠えた。
「い、いい、嫌だ」
負傷していない方の俺の腕を両手で掴んでくる。凄まじい力だった。
「絶対に離さない。ぜ、絶対に、もう二度とリネ兄様から離れない。僕は兄様についていく。行く先が地獄でも構わない。こんな……な、な、なんで、何で兄様ばっかり……こんな目に……」
「……そう」
ロイは気付かずに話し続けている。俺は小さく相槌を打った。
テーブルの向こう、椅子に腰掛けたロイは、黒髪を緩く結んでいる。きっとオーラが結ったのだろう。
ロイは非常にリラックスして、夕焼けの広がる海を眺めていた。オーラの気配にも気付いていない。口にしようか迷ったが、でも、やめた。
ロイの横顔が穏やかだった。こうしてロイを見ていると、次第に、彼に昔の面影が重なり始める。
ロイは結構、しっちゃかめっちゃか喋る男だった。表情もよく変わり、俺の名を嬉しそうに呼ぶ年下のロイが可愛くて仕方なかった。
今もまだ表情に乏しいが、二ヶ月前より断然マシだ。海を眺める琥珀色の瞳は、この平和な夕刻の中で、波のようにゆらゆらと揺れている。
俺はふと、また扉へと目を向ける。
やはりオーラの姿が消えている。
彼の行方を気にしつつ、俺は呟いた。
「オークランス様はオーラ様を信頼しているみたいだな」
「ん?」
ロイは横目でこちらを見やる。
「彼は人間だが、オークランス様を恐れていない。使用人と言っていたが、仲が良さそうだ」
ロイは身体の向きをこちらに向けた。
嘘偽りない淡い笑みを口元に浮かべる。
「そうだな。オーラは同い年なんだが、俺は弟のように思っている」
「……ふぅん」
思わず笑ってしまう。
あちらがそう思っているとは、限らない。
ロイは続けた。
「人間の彼は魔族の血に耐性があるから、俺を恐れない。彼も魔狼族の末裔と番っていたらしい」
「……オーラ様は、旦那様が亡くなっていると聞いた」
ロイは「そうだ」と頷く。
「オークランス様はお会いしたことが?」
俺は慎重に訊ねる。
ロイは真横に首を振った。
「いいや、俺もオーラの夫のことは詳しくは知らないんだ」
「……」
「ずいぶん年上だったと聞くが」
「いつ亡くなったのかご存知で?」
「確か、三年前と言っていたな」
「……」
ロイは『夫がいた』と聞かされているらしい。だが俺は知っている。
それは嘘だ。
指先が震えてしまう。
三年前……心があっという間に濁っていくのが分かった。
鉛みたいに腹が重くなる。指先が冷たくなり、視界が眩む。ダメだ、落ち着け。
常に心を平静に。
「そう……お可哀想に」
俺は小さく俯き、呟いた。
目の前にいるロイが、ジッと俺を見つめているのに気付いたのは数十秒後だった。
あまりにも真剣に、その光り輝く夕陽の瞳が俺をまっすぐ射抜いてくるので俺は一瞬だけ躊躇った。
すると、ロイは言った。
「サラ。貴方は、俺が暴言を吐いたことを本気で怒っていないのか?」
「え……」
ロイが微かに眉毛の尻を下げる。あぁ、またか。
彼は初期の言動と態度を悔いている。ロイとしてはなぜ自分が赤の他人にあらゆる罵詈雑言を吐き、遠ざけようとしたのか、自分でもまだ納得がいっていないのだろう。
俺は、黒い海面に夕陽が走る風景を眺めながら答えた。
「怒る……とは違うかも」
「では、悲しんでいる?」
「……」
うまく、説明ができない。
「俺は屈辱的なことを言ってしまった」
ロイは目を伏せた。長いまつ毛が、その整った目を覆う。
「すまなかった」
ロイは決して「許してくれるか」とは問わない。彼は他人に、許されると思って生きたことがない。なぜなら、戦場で多くを殺してきた。
地獄に落ちる運命だと知っている者は赦しを乞うなどせず、ただ償い続けるだけ。彼の本質は何も変わっていない。
俺の全てを忘れたこと以外。
「悲しみ、とも違う」
俺は彼の謝罪には答えず、抑揚ない口振りで呟いた。
ロイは不思議そうな顔をする。
「じゃあ何なんだ」
「何だろう」
もちろん、悲しさで胸は抉れそうだった。
でもそれだけではないのだ。
「とにかく、俺も混乱してたから」
俺は口調を変えて、冗談っぽく言ってやった。
「いきなり大元帥閣下に排斥的な嫌悪を向けられるんだ。命の危機、じゃないか?」
ニッと唇の端を上げる。ロイは俺を凝視していたが、やがて、どことなく呆然とした声色で呟いた。
「自分でもどうかしてたとしか思えない。まだサラの顔すら見ていなかったのに、とにかく」
ロイは軽く瞼を閉じる。
「貴方をこの館から追い出さなければ、と」
「それだけを考えていた」ゆっくりと目を開ける。切実な声の響きがまた、俺の心を締め付ける。
「そうか」
単調に頷きながらも心の底がまた揺さぶられた。
ロイはとにかく、俺が近づくのが嫌で堪らなかったらしい。鼻の奥がツンと痛くなり、熱い吐息を吐き出す。だめだ。泣くな。
俺は気丈に笑って見せた。
「……オークランス様、お忘れか分からないが、俺は元娼夫だ」
ロイが静かな眼で俺を見据える。
「あれくらいの暴言何てことない」
にっこりと微笑みかける。同時に、太陽が水平線の向こうに隠れて、世界が一気に暗闇へと化した。
夕飯の時間だ。俺は先に席を立ち、ロイをその場に残して去る。食堂へ向かいながら俺は、またゆっくりと深呼吸した。
半年も滞在するつもりは、ない。
……でも傍にいたい。
夕焼けのひとときを、こんな風に見つめられて穏やかに過ごしてしまえば、未練ばかりが重なってしまう。
何も知らないロイ。何て残酷な人なのだろう。俺はまだロイを愛していて、でも彼は、俺に何の感情も抱いていない。
「……ロイ」
この名を呼ぶことすらできない。
ロイ、ロイ。
俺は口にする代わりに何度も心の中で繰り返した。ロイ。愛しい響き。ロイ。
ロイ。
抜け道を作るしかない。
防御魔法で屋敷全体を覆って、幾つかわざと穴を作る。
完璧すぎると怪しいので、雰囲気はある程度廃れたものに。そうやって屋敷中に膜を張った。穴を作ることで、敵をその箇所に誘き寄せるのだ。
やけに静かな、真昼だった。
「よく、晴れてる」
俺は窓から外を眺める。海は静かに寄せては返し、青空に浮かぶ白い雲はまるで絵のように張り付いて動かない。
ロイは今朝から屋敷を留守にしている。いくら休養と言えど、ロイ・オークランスが都市部へ半年間も姿を見せないのでは死亡を疑われてしまう。そうなればまた、政治が動き出す。生存確認のためにも、王の御前へ向かうのだ。
本日は今朝方、王宮から魔術師たちが派遣されてきた。彼らのほとんどがイクセルの大樹を出身とするイクセルの弟子たちで、転移魔法の腕も良い。
ロイとベルマンは無事に王宮へ向かった。
俺はこの屋敷を守ることだけを考えればいい。
だが、そもそもロイはいないのだ。目標が不在の屋敷を襲撃されるはずはないのだが……。
穴は、テラスに作り出した。ここなら入り口も限られている。膜が完成してからはこの場所を主に警戒して過ごしている。
深すぎる空の青さを不気味に思いながらも、俺はテラスへと向かった。屋敷には料理人や庭師など、少数の使用人しかいない。
けれど、そうだった。
「……オーラ」
まだ彼が残っている。
訪れたテラスには、オーラがいた。
彼の名を思わず呟くと、テラスから海を眺めていたオーラがパッと振り向いた。
俺を視界に入れると、その大きな目を丸くする。桃色の瞳に一瞬で光が充溢した。
恍惚とした笑顔を浮かべ、
「あ……」
と彼が溢した……その時だった。
——一瞬だ。
突然、オーラの向こうの空が、ガラスの如く割れる。
オーラは気付いていない。俺に駆け寄ろうとしている。割れた箇所に黒い扉が作り出された。そこから闇が伸びてくる。
オーラは、気付いていない。
「オーラッ!」
俺は喉も裂けよと叫んだ。
間に合え。敵が作り出した転移の扉を俺の魔法で引き延ばす。オーラが背後へ振り向いた。その時点で闇が彼を襲っている。しかし俺の魔法がオーラを捉えた。俺は彼を右腕に抱える。だめだ、引き摺りこまれる……っ!
魔法の渦へ落ちていく。俺は決してオーラを離さなかった。一瞬のようにも、長い時間のようにも思える。混沌が俺たちを飲み込み、気付けば、
「どこだ、此処は……」
二人は荒れ果てた部屋の一室に倒れていた。
カーテンで覆われていて外が見えない。古い洋館だ。誰もいない……?
いや、声がする。
「あ……」
目の前に倒れたオーラは上半身を起こし、わなわなと震えた。
ここは、上階のようだ。下の階からか? 男たちの声がした。きっと俺が加わったことで落下位置が逸れたのだ。
まだ俺たちが此処に落ちたことを知られていない。
「あ……」
オーラはぶるぶると震えている。
状況をある程度把握し終えた俺は、彼を見下ろした。
「あ、あに様……ッ!」
桃色の瞳と視線が交わされる。
その瞬間、オーラは俺に抱きついてきた。
「あ、兄様っ、リネ兄様ぁ……っ」
「オーラ、落ち着け。大丈夫だ」
「兄様、腕に怪我をっ」
強引に転移魔法へ干渉したことで、右腕を負傷した。オーラは俺の腕を見下ろし、首を微かに左右へ振った。
「オーラ、お前が先に逃げろ」
「え……」
オーラは啞然と目を見開いた。
「な、にを……」
「片腕では二人同時に戻ることができない。先にお前を、王都へ送る」
出血する肩を抑える。あたりを見渡し、俺は棚の上にあった手鏡を手に取った。
「ロイの元へ帰って、保護してもらうんだ。この鏡を証拠として持っていけ。此処にいたことが分かるように魔法を込めるから」
「……兄様はどうするんですか」
「師匠の所へいく」
「それから、どうするんですか」
俺は答えられなかった。
オーラは瞬きもせずに俺を凝視していたが、やがて、視線を外した。
「もう……」
オーラがガクンと首を垂れ下げる。
そして呆然と呟いた。
「いやです」
「オーラ、」
オーラの両肩を掴み、こちらへ向かせる。テラスで見たあの一瞬の瞳は、光を目一杯詰め込んで桃色に煌めいていた。
今のオーラの瞳に、あの光はもうない。代わりにみるみる涙がたまっていく。
彼は唇の動きを変えずに、声だけこぼした。
「僕は兄様と共に行きます」
「オーラ!」
「やだ……」
幼い口調だった。掠れた声で、虚ろに呟く。
「やっと二人で、お話できるって……ようやく、会えたのに……」
声はこれ以上ないほどの悲しさで震えている。それは俺の心を容赦なく揺さぶる。
「僕は兄様が向かう場所へ行きます。危険がたくさんあっても構わない。僕は兄様のためなら死ねるし、人を殺したっていい」
淡々と囁くオーラを前にして、胸が締め付けられる。
俺は縋るように言った。
「頼む、ロイを一人にしないでくれ」
「嫌だッ!」
しかしオーラは吠えた。
「い、いい、嫌だ」
負傷していない方の俺の腕を両手で掴んでくる。凄まじい力だった。
「絶対に離さない。ぜ、絶対に、もう二度とリネ兄様から離れない。僕は兄様についていく。行く先が地獄でも構わない。こんな……な、な、なんで、何で兄様ばっかり……こんな目に……」
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