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第二章

6 ピテオ地方と南境戦争

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 与えられた部屋に戻り、唇を噛む。彼らの元を離れれば離れるほど、あの言葉が強く頭の中に響いていった。
 ――あなたがいてくれるなら
 ゆっくり息を吐いて、心でもう一度、反芻する。
 目の奥が一気に熱くなった。だめだ。堪えろ。泣く資格なんて、俺にない。
 何度も深呼吸を繰り返して心を無理やりに落ち着けた。オーラには近付かないようにしなければ。硬く決意するが、まだどうにも心が休まらない。
「……お酒でも飲もうかな」
 部屋は豪勢で、酒も置かれていた。そのうちの一本を選び、グラスを一つ持って、さてどこへ行こうと考える。
 出来れば真っ暗な海を眺めたい。景色として楽しむつもりは勿論なく、ただ見守っていたいだけだ。
 まだロイたちは庭にいる。彼らに見つからないような場所はないかとフラフラすると、さすが屋敷は広かった。
 三階の端にちょうど良いテラスを見つける。細い木が一本生えていて、椅子とテーブルが用意されていた。
 椅子に腰掛け、グラスにワインを注ぐ。海が見えた。漣が聞こえるような、幻聴のような気もする。
 ……それにしても。
 平和な時代になったものだ。
 南境戦争が開戦し、数ヶ月で終戦締結が結ばれてからもう四年が経つ。ファルンの南境に隣国トゥーヤの革命軍が侵略して起こった戦争だ。
 革命軍といえどトゥーヤ本国では武力で実質的に政治を掌握した殺戮軍隊だ。民間人にも平気で銃を向け、民家や人々が逃げ込んだ森に爆弾を投げていく。
 両国かなりの犠牲者が出た。ファルンもトゥーヤもそれぞれが大国だったことにより、他の国でも代理戦争を模した侵略や争いが勃発し、世界はさながら新しい世界大戦と革命の時代へ移行していた。
 南境戦争があと数ヶ月延びていたら、確実に世界大戦が本格的に起きていたと言われている。ファルンとトゥーヤの戦争はそれほどまでに世界へ影響を及ぼしたのだ。
 それを終わらせたのが、ロイだった。
 南境戦争の兆候が起こったのは、ファルンの国境にあるピテオ地方から。ピテオ地方は長年トゥーヤの蛮行で犠牲者が多発しており、誘拐も日常茶飯事だった。
 ロイの故郷である。
 故郷を守るため。
 ファルン国を守るため、世界を救うため。
 ロイは革命軍を滅ぼしたのだ。
「美味しい」
 ワインは美味しかった。平和な夜空の下で呑む酒は格別だ。
 まだここに来て二日しか経っていない。空を見つめるが、何の報せもない。師匠は変化の魔術師でもある。鳥に扮してやってくることもお手のもの。
 師匠は一体どういうつもりなのだろう……。
 ファルンに帰国したのは一時的なもの、となるはずだった。少し用事を済ませてから、直ぐにでも出る予定だったのに。
 師匠もさすがに、ロイの使いを退けることはできなかったのか。いや……それはない。あの人に敵う魔法使いも魔術師も、ファルンには存在しない。ならば、まぁ、面白がっているのだろう。
 かつての夫の元へ戦死した『奥様』が向かう。そんな珍事を見逃すほど、師匠は真面目ではない。
 ある意味良かった。
 死の悲劇をロイがすっかり忘れていると確認できたのだ。
 俺もこの数年で歩き回れるほどには充分に回復したし、具合の悪いロイ様へ、こっそりとエネルギーを分け与えることくらいできる。
「サラ様」
 いきなり名前を呼ばれるので、視線だけで振り返る。
 そこにはベルマンが立っていた。
 俺はにっこりと微笑んだ。
「良い夜だな」
「晩酌ですか。ご一緒しても?」
「ああ。だが、グラスがない」
「ここにありますよ」
 ベルマンは片手をくるっと回す。次の瞬間にはその手にグラスが握られている。
 俺は思わず笑みをこぼした。やはり魔法使いだったか。
 ベルマンは、もう一つの席に腰掛けた。
 雲一つない夜空に浮かぶ、まん丸の月から落ちる光は眩い。月明かりに照らされて、ベルマンの姿がよく見えた。
 彼は、首に角度をつけて静かに満月を見上げた。
 グラスにワインを注いでやる。その芳香に導かれて、ベルマンは視線を落とした。
「満月が続くせいでしょうか」
 軽く掲げ合って、互いにグラスを傾ける。ワインを一口含んでから、彼は言った。
「オークランス様の体調が芳しくありません」
「魔狼の血は満月で滾るからな」
「ええ。もう数日経てば、オークランス様もサラ様へもう少し常識的に接するかと思われます」
 ベルマンはつい先ほど、俺がロイ達と出会したことを知らないようだ。苦笑がちに「そう」と頷く。
 軽い毒を吐いていることに自分で気付いているのか? ベルマンは平気でロイの発言を暴言と認めている。その上で、主人を想っているのだから、それほどに彼を愛しているのだろう。
 若い見目をしている。まだ二十歳前後ではないかと疑うほどに肌は艶めき、生き生きとしていた。一体いつからロイの傍にいるのだろう。城に勤めていた者なら、俺は知らなくて当然だけれど。
「君はいつからオークランス様に仕えているんだ?」
「六年ほど前です」
 あまり被っていなかったのか。
 彼を知らなくて当然だ。納得し、グラスの縁に口をつける。ベルマンは滔々と続けた。
「私はピテオ地方の出身です」
 思わず息が止まる。
 なんでもないふりをして、「地獄を見たということか」と言うと、ベルマンは気弱に微笑んだ。
「ええ。地獄でした。私たちの一家は、初期の侵略に逃げ遅れてしまい、防空壕に逃げ込んだのです」
「うん」
「妹と祖母は防空壕に逃げ込むことすら叶わなかった。母は彼女達を助けるため外へ出て、帰ってきませんでした」
「そうか」
「やがて爆発は近づいてきて、父が私に覆い被さりました。ファルンの魔山軍隊に助け出された時、父はもう死んでいました」
 魔山軍。
 それはロイが初めに大将の仰せを受けた軍隊だ。
 そこで、出会ったのか。
「そこで、オークランス様に出会いました。あの人は子供だった私を助け出して、父の遺体を見捨てた」
 ベルマンはけれど、微笑んでいた。
「すまない、と何度も繰り返しながら俺を安全な場所まで運んでくれました。みんなは魔山軍の将軍を悪魔だと恐れていたけれど、散らばる遺体に決して目を向けず唇を噛み締めるオークランス様が悪魔だなんて、俺には思えなかった」
 俺は小さく頷き、グラスを見つめた。その間にベルマンは目尻に滲んだ涙を拭う。
 声に力を込めて、続けた。
「やがてオークランス様は全軍の総大将となられました。俺は体が弱かったので軍隊に就くことはできなかったけれど、魔力があったので、オークランス様のお城に勤めることになったんです」
「なるほどな」
「俺にも魔狼の血が少しだけ流れているのです。城の皆は俺を家族のように接してくれました。まだ寂しかったけれど、城は居心地が良かった」
 ベルマンは、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「城には俺のように、戦火に巻き込まれた人たちや、革命軍に人質に取られるもオークランス様の軍隊に助け出された者もいた。ファルンの民だけでない。ファルン以外に住む魔族の末裔は、差別に晒されながら生きていたので、祖国からファルンへ逃げてきた子もいました」
「うん」
「オークランス様がそうやって、ファルンの国民や同志たちを救うのは、あのお方が奥様に愛されていたからでもありました」
 俺は返事をせずに、ワインを呑む。
 白ワインは月明かりに透けて、煌めいていた。
「魔狼の末裔であるオークランス様は、人間の奥様に目一杯に愛されていた。だからこそ、人間も魔族の民も救うことができたんです」
 そこで彼の表情がサッと暗くなる。瞳がかすかに震えたのが分かる。
 ベルマンは、掠れた声で言った。
「まさか、オークランス様の奥様が、殺されるなんて……」
 ベルマンは言葉に詰まるも、最後の力で絞り出した。
「申し訳がない。奥様を戦争に巻き込みたくなかった。俺たちの力が、及ばなかったのです」
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