上 下
19 / 25
最終章

19 戦友

しおりを挟む












 ——目が覚めると、自宅の一室だった。
 大きな家の夕生の部屋。壁紙もカーテンも綺麗で、洗練された家具が置かれている。
 部屋のベッドに夕生は横たわっている。
 目が覚めてから暫く天井を眺めていた。
 ああ、頭がはっきりしている。かなりの時間眠ってしまったことは分かる。
 ただ何をするでもなく天井を眺めていた。
 するといきなり、扉が開いた。
「お兄ちゃん、起きた?」
 愛海が顔を覗かせる。夕生は寝転んだまま、「うん」と答えた。
 一番はじめに目を覚ましたのはいつだったか。この部屋に運ばれてきてからだ。
 初めの数日はヒートに苦しんでいたが、ヒートが終わってからもまた断続的に眠り続けていた。
 これほど眠気が収まらないのは緊急抑制剤の副作用のせいだろうと、一度目に起きた時に父が教えてくれた。それがもう何日前だったかは不明瞭だ。
「もう完全に目覚めてる?」
「うん、なんか、頭もすっきりしてる」
「よかったー」
 夕生は上半身を起こした。カーテンが閉まっているので外は見えないが、漏れ出た光から日中なのは察した。
「今って何時?」
「んとね、十一時くらい。お腹空いたよね。食べる? 何か欲しいものある?」
「お腹空いてるのかな……」
「暫く悩んでみようか」
 自分でも腹が減っているのかどうなのか分からない。最後に食事を取ったのは夜だったので、昨晩だろう。
 こうしてじっとしていると段々記憶が浮かんでくる。
 学校内でヒートが起きて、その後先生と愛海の付き添いで病院へ運ばれた。体が楽になってから自宅に戻り、ヒート期間を過ごして、今に至る。
 夕生のヒートに当てられた竹田は、暫く保健室で休んでいたら落ち着いたらしい。
 教えてくれたのは愛海だ。
 何日か前に目を覚ました時、彼女がそう言って「だから気にせず休んでね」と言ってくれた。
 愛海は持ってきた水を二本テーブルに置く。それから、テーブルの上の携帯を見下ろした。
「よかったね。次の学校は行けそうだね」
「うん」
「ねぇ、メッセージだいぶ来てるんじゃない?」
 携帯は枕元のテーブルの上で充電されている。夕生はその画面を盗み見る。
 確かに通知が入っている。携帯に手を伸ばそうとして、夕生はその日付を目にした。
 思わず固まってしまった。
 唇から漏らすように呟く。
「……ごめん」
「はい?」
「七日だ」
 日付は五月七日を表示している。
 もう七日になってしまった。
 今までとにかくヒートを耐えることと眠ることに必死で、時間感覚を完全に失っていた。
 現在は五月七日の午前十一時。つまり、ヒート期間を含めてもう十日近くこうしていたらしい。
 五月七日になっている。四日の愛海の誕生日は過ぎてしまっている。
 旅行だって、三日に出発する予定だった。なのにもう七日だ。
 愛海の誕生日も終わっていて、旅行もできなかった。
 夕生はもう一度「ごめん」と繰り返した。
「ごめん、旅行の予定台無しだ」
 あんなに愛海が楽しみにしていたのに。
 夕生はすっかり青ざめていた。申し訳ない気持ちでいっぱいで、どこを見たらいいか分からず自分の指先を凝視する。
 いつも爪は切り揃えているけど、二本の爪の先が欠けていた。学校でヒートが起きた時に床を引っ掻いて、欠けてしまったものだ。
 次々にあの嵐みたいなひと時の記憶が蘇る。
 竹田が夕生の懇願に応じて、教室を出て行ってくれた。
 それから丈が現れたのだ。
 丈は夕生を恐怖の渦から引き上げて助けてくれた。夕生の肩をそっと撫でて、震えを止めてくれた。
 まるで魔法みたいだったから夢の出来事にも思えたけど、夢ではない。その後に愛海も来てくれた。
 彼女が夕生に緊急抑制剤を打ってくれたのだ。講習通りに迷いない手つきで処置を施してくれた。
 とても頼もしかった。
 それなのに、愛海の楽しみを奪ってしまった。
「ごめんな。あんなに楽しみにしてたのに」
 呑気に何を寝ていたのだろう。罪悪感でいっぱいになり、語尾が小さくなってしまう。
 しかし愛海は、
「……ふふっ」
 と笑った。
 思わず俯いていた顔をバッと上げる。
 いつも夕生はすぐ俯いてしまう。
 真っ直ぐ見つめてくる愛海とは大違いだ。
「お兄ちゃん」
 愛海は笑いながら言った。
「そんなのまたいつか行けばいいじゃん」
「そうだけど……」
「ね、あんまり落ち込まないで。福岡なんて近場だよ」
「うん……」
「あはは」
「あれ、笑ってる?」
 微笑みではなく『笑い』だった。呆気に取られる夕生に愛海は言った。
「だってお兄ちゃん、落ち込むの早すぎるよ。到底まなには追いつけない速度で落ち込み始めるからさぁ」
「……」
「なんかもうむしろ凄いなぁと思って」
「……」
「これは特技と言ってもいいんじゃない? お兄ちゃんが申し訳なく思うことなんて一個もないのに」
 何と返せばいいのか。閉口する夕生に、愛海はにこっと微笑んだ。
「ごめんね。無神経だったかも。お兄ちゃんは本気で落ち込んでるのに」
「いや、謝る必要なんてないよ。むしろ」
 言ってから口を噤む。数秒の間悩んで呟いた。
「確かに、俺、落ち込んでばっかりだよね」
「そうだよ!」
 愛海はベッド近くの椅子に座っていたが立ち上がらんばかりに身を乗り出した。
 夕生がビクッと反応すると、愛海は椅子に座り直した。
「あのね」
 と言ってから、愛海は夕生を見つめた。
「まなちょっと嬉しいんだ」
「……え?」
「お兄ちゃんを助けられたこと」
 夕生は唇を結んだ。愛海は穏やかに告げた。
「覚えてる? まなが、オメガだって言われて……お母さんとお兄ちゃんと皆で病院行ってくれたでしょ」
 それは遠い過去の記憶だ。
 まだ愛海も夕生も小学生の頃。封書が届くのは春の終わりだった。
「ちょうどこの頃だった。まだ、お兄ちゃんがちゃんと三ツ矢になる少し前かな」
 愛海は夕生と同じくオメガ性と診断されたのだ。
 三ツ矢家の夫妻はすぐに愛海を病院へ連れて行った。そこでは処方箋だけでなく様々な講習を受けることになる。
「オメガだから色んな薬を管理しなきゃいけなくて、どんな危険があるかとか、沢山言われてさ」
 小さい子は愛海くらいの年から。上は高校生や大人と幅広い年代のオメガ性が集まっていた。
 何度か病院や施設に通った。その帰りに、三ツ矢家の夫妻は言った。
「お父さんもお母さんも守ってくれるって言ってくれたから、まなも笑って、うんって返した」
 愛海は息を吐くと、声音を低くする。
「その後まなが少し熱が出た後、お兄ちゃんがこういう風に傍にいてくれたよね」
「そう、だったかも」
「その時にお兄ちゃんが言ったんだよ」
 夕生は数秒沈黙してから「何を?」と問う。
 愛海は優しく笑った。
「まなは『大丈夫』って言ったのに、『でも辛いだろ』って」
 何を、と返しながらも本当は覚えている。今夕生のベッドの近くに愛海がいてくれるように、夕生も寝込む彼女の傍にいた。
「お母さんたちが味方になってくれるから辛いなんて言えなかった。でもお兄ちゃんは、まなが怖がってること分かってくれて、『一緒に頑張ろう』って言ってくれた」
 守ってくれるのは頼もしいし、心も強くなる。
 でも結局動かなければならないのは自分たちだ。
 校内でのヒートを思い出す。夕生は必死に竹田へ訴えた。竹田もまた自らの意思で自分の体を抑え付け、部屋の外に出てくれた。
「まなにとってお兄ちゃんは戦友みたいだったの」
 愛海は少し恥ずかしそうに言って、でもすぐに、真剣な顔をした。
「まなはそれからずっとお兄ちゃんが大好きなんだよ。おにいちゃんがお兄ちゃんになる前から、ずっと感謝してる」
 守ってくれる人がいるのは頼もしい。でも横になって共に戦う人がいるのも、また違った頼もしさをもたらしてくれる。
 それが兄妹だった。
「まなはお兄ちゃんに助けられたから、まなもお兄ちゃんを助けることが出来てよかった」
 愛海は言って、息を深く吐く。
 夕生を力強く見つめて言い切った。
「お兄ちゃん、頑張ったね」
「……うん」
 夕生も目を逸らさない。愛海へ告げた。
「ありがとう」
 愛海はニコッと微笑みを返した。
 全ての言葉を素直に受け取ることができた。ふと出た『ありがとう』を懐かしく思う。
 いつも自分は『ごめん』ばかりだったのだ。これからはもっと、違う言葉を探していきたい。
 愛海は腰を上げた。自分の携帯で時刻を確認している。
「須藤さんに何かご飯用意してもらうね」
 ちょうど昼時だ。
「お父さんは仕事行ってるけど、お母さんは今買い物行ってるだけだから。戻ってきたら皆で食べようか」
「そうだね」
「また今度旅行も誕生日会もしよう」
「うん」
「ね、あとさ、誕生日会も合同じゃなくて、そろそろ一人ずつやろうよ」
 ニコニコしていた愛海が突如として真顔になる。
 真剣になって迫ってくるので、夕生は少し狼狽えた。
「そしたら二倍だよ。ケーキも!」
「二倍……」
「だってさ、もう意味わかったでしょ?」
 ——『意味教えてあげる』
 突然、遠い過去が脳裏に蘇った。誕生日会をしたことのない夕生はどうしたらいいか分からず、困っている。
 小さい愛海が言った。誕生日会の意味を教えてあげると。
 夕生は頷いた。
「うん、もうわかる」
 家族の意味はもうわかっている。
 夕生はもう別の世界にはいない。愛海や皆がいる、その世界で生きている。
 愛海はご機嫌になって「やったー」と両手を上げた。
「これでケーキとかご馳走、二回も楽しめるね」
「そうだね」
「ねぇ、七日だよ。誕生日おめでとう、お兄ちゃん」
 夕生はまた「ありがとう」と繰り返した。
 知らぬ間に誕生日を迎えていたのだ。
 それから一呼吸おいて、同じように言った。
「愛海も誕生日おめでとう」
「どうもどうも。まなはもうプレゼントもらったから、お兄ちゃんもなんか欲しいものあったら言ってね」
 愛海は部屋の扉へと歩き出す。「じゃあ」と扉を開けようとしたところで夕生は呟いた。
「……愛海」
「うん?」
「欲しいものあるかも」
「おっ、何?」
 夕生は携帯に手に取った。
 メッセージアプリを開くと、沢山の言葉や写真が目に飛び込んでくる。
 夕焼けの写真が送られてきていた。あんまりにも綺麗だから夕生はフッと微笑む。
 その写真を見つめながら、夕生は囁いた。
「丈に会いたい」












しおりを挟む
感想 77

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

ベータですが、運命の番だと迫られています

モト
BL
ベータの三栗七生は、ひょんなことから弁護士の八乙女梓に“運命の番”認定を受ける。 運命の番だと言われても三栗はベータで、八乙女はアルファ。 執着されまくる話。アルファの運命の番は果たしてベータなのか? ベータがオメガになることはありません。 “運命の番”は、別名“魂の番”と呼ばれています。独自設定あり ※ムーンライトノベルズでも投稿しております

当たり前の幸せ

ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。 初投稿なので色々矛盾などご容赦を。 ゆっくり更新します。 すみません名前変えました。

【本編完結済】蓼食う旦那様は奥様がお好き

ましまろ
BL
今年で二十八歳、いまだに結婚相手の見つからない真を心配して、両親がお見合い相手を見繕ってくれた。 お相手は年下でエリートのイケメンアルファだという。冴えない自分が気に入ってもらえるだろうかと不安に思いながらも対面した相手は、真の顔を見るなりあからさまに失望した。 さらには旦那にはマコトという本命の相手がいるらしく── 旦那に嫌われていると思っている年上平凡オメガが幸せになるために頑張るお話です。 年下美形アルファ×年上平凡オメガ 【2023.4.9】本編完結済です。今後は小話などを細々と更新予定です。

白い部屋で愛を囁いて

氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。 シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。 ※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

弱すぎると勇者パーティーを追放されたハズなんですが……なんで追いかけてきてんだよ勇者ァ!

灯璃
BL
「あなたは弱すぎる! お荷物なのよ! よって、一刻も早くこのパーティーを抜けてちょうだい!」 そう言われ、勇者パーティーから追放された冒険者のメルク。 リーダーの勇者アレスが戻る前に、元仲間たちに追い立てられるようにパーティーを抜けた。 だが数日後、何故か勇者がメルクを探しているという噂を酒場で聞く。が、既に故郷に帰ってスローライフを送ろうとしていたメルクは、絶対に見つからないと決意した。 みたいな追放ものの皮を被った、頭おかしい執着攻めもの。 追いかけてくるまで説明ハイリマァス ※完結致しました!お読みいただきありがとうございました! ※11/20 短編(いちまんじ)新しく書きました! 時間有る時にでも読んでください

処理中です...