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第四章

17 西棟

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 愛海に電話をかけながら教室に戻り、鞄からアルファ性用の緊急抑制剤を取り出す。
 竹田がなぜ夕生を連れて行ったか分からないが、そのアルファが夕生のヒートに当てられている可能性がある。
 丈はタブレットタイプの抑制剤を服用する。肌に直接打ち込むタイプの緊急抑制剤は既にフェロモンに当てられたアルファ性専用だ。
 『緊急抑制剤』と厳かな字を目にして丈は吐き気がした。最悪な想像が頭の中を犯して目眩すらする。
 そんなこと絶対にあってはならない。丈は踵を返し、また走り出す。
 自クラスを出たタイミングで電話が通じた。
「夕生がアルファと一緒にいるかもしれねぇ」
『え?』
 電話口の愛海は啞然と呟いた。瞬く間に混乱したようで、支離滅裂に言う。
『何、それ、ど、何? アルファ?』
「夕生を探す。お前思い当たる場所ねぇ?」
『お兄ちゃんヒートなのにアルファの人といるの? えっ、な、何で? どうして?』
「うん、分かったから。まず夕生を探す。落ち着け」
『え、やだ……何言ってんの、意味わかんない……』
「抑制剤あったか?」
『今探してるっ』
 電話を繋いだまま階段を駆け下り、もう一度二年の教室に戻る。夕生のフェロモンの残滓を辿ることにしたのだ。
 二年三組の教室の前までやってくると、先ほどの女子生徒たちが目を丸くして驚いていた。ひとまず声をかけず夕生の気配に集中する。
 しかしさほどフェロモンは残っていない。
 二年の廊下は突然現れた丈に皆、驚いているようだった。
「あの、桜井先輩」
 そこで背中に声がかかった。
 振り向くと見知らぬ生徒がいる。彼の後ろに、二年三組のあの男子生徒がいた。
 見知らぬ生徒は己を「俺、藤堂って言うんすけど」と名乗った。
「桜井先輩が竹田のこと探してるってこいつから聞いて」
「うん」
 食い気味に丈は返した。「そう」と付け足し、問いかける。
「どこいるか知ってる?」
「もしかしたら西棟かもしれません」
 西棟。以前までは校舎として使っていたが新しく東棟が作られてからあまり使われていない。
 部室として使われている部屋もある。新しく部室棟として改築されている話が上がっている場所だ。
 藤堂は力強く丈を見つめ、ハキハキと答えた。
「一階にバスケ部がたまに集まってる部屋があるんす。今日あいつ昼飯来ねぇっつってて、こいつから三ツ矢夕生とどっか行ったって話聞いた時、あーアイツとうとう拗らせたかって思ったんす」
「拗らせた?」
「多分竹田って三ツ矢のこと好きなんで。アイツ馬鹿だから接し方ゴミだけど」
「……その部屋、案内できる?」
「はい」
 西棟へ二人で向かう。丈は湧き起こる感情を抑えて、繋がったままの電話口へ「愛海」と声をかけた。
「聞いてたろ? お前も西棟に来い」
『もう向かってる!』
 先に電話が向こうから切れた。それと同時、丈は西棟へ走り出す。
 突然走り出した丈に藤堂もついてきてくれた。無我夢中で夕生の元へ向かう。二人がどんな関係かは分からないが夕生はきっと怯えている。
 夕生は、アルファ性を警戒している。それなのに丈以外の誰かと二人きりになった。きっと夕生は断れなかったのだ。
 最悪な想像が先ほどから丈を襲って発狂しそうだ。恐ろしいのは、夕生がソレに『堪える』こと。
 夕生は何でも我慢をする。母親が帰って来なくても一人で過ごしていた。丈には何も言わなかった。
 丈は守ると決めたのだ。
 夕生の傍にいると誓った。
 それなのにまだ、夕生のために何もできていない。
「丈くん!」
 西棟一階へやってくると、愛海もちょうど降りてきたところだった。廊下の端から愛海が駆け寄ってくる。
 その姿を認めた時、廊下の反対側でガラッという音がした。
「あっ! 竹田!」
 藤堂が目を丸くして叫ぶ。
 振り向いて見ると、端の方の教室から男子生徒が一人這い出てくるところだった。
「……っ!」
 その瞬間、強烈なフェロモンが香った。
 愛海がヒッと怯えた顔をする。藤堂は何も感じないのか倒れた竹田へ「竹田!」と叫ぶ。
 ……夕生。
 丈はアルファ用の緊急抑制剤を藤堂へ押し付け、教室へ走り出した。
「夕生ッ!」
 教室の扉を開いて、中へ駆け込む。
 ——夕生が倒れ込んでいた。
 胸元ははだけて、鎖骨から血が溢れている。
 意識はあるようで目を固く閉じ、頸を両手で守り続けている。
 丈は荒い息を吐いた。強いフェロモンが丈の全身を覆って、肌に染み込んでくるみたいだ。
 くらっと眩暈がする。夕生が「ハァハァ」と苦しそうに呼吸している。丈は背中にブワッと汗が吹き出るのを感じた。口内に滲んだ粘度の高い唾液を飲み込む。
 丈は顔を片手で覆った。
 落ち着け。薬は飲んだ。強い匂いから逃れるため顔を覆った手で、丈は頬を引っ掻いた。
 切れた肌から血が溢れ出る。痛覚は丈の冷静さを取り戻してくれた。
 丈はまた深く息をつき、怯える夕生の傍に膝をつく。
「夕生」
 丈は囁いた。
「大丈夫だよ、夕生」
 丈は慎重に夕生の肩に触れる。
 ガクガクと震える肩は焼けるように暑い。はだけたシャツを戻してやる。
 すると不思議なことが起きた。
 夕生の震えがフッと魔法のように穏やかになったのだ。
「夕生」
 肩を撫でながらもう一度呼びかける。
 強く閉じていた瞼がピクッと震えた。
 ゆっくりと目が開き、涙に塗れた目が丈を捉える。
「夕生、大丈夫」
 丈は出来る限り優しく微笑みかける。すると恐怖に犯された夕生の目が次第に柔らかくなる。
 夕生は血の滲んだ唇を開いた。
 一番はじめに、夕生は呟いた。
「丈……怪我してる……」
 丈はもうどうしようもない気持ちになって、泣き笑いみたいな顔をした。
 夕生は頑固として頸を守っていた手を解いた。丈の頬へ手を伸ばし、傷を避けて頬へ触れてくる。
「なんで、怪我……」
「夕生」
 丈は頬を触る夕生の手を優しく包んだ。
「痛くないよ」
「……よかった」
「夕生」
 「遅くなってごめん」声を絞り出すと、夕生が微笑む。苦しくて仕方ないはずなのに。
 少し唇を開いて音なく何か言った。
 その言葉がなぜか丈には聞こえてくる。
 丈は、夕生を愛おしく思う気持ちで胸が熱くて堪らない。涙が出そうになるのを必死で堪えた。
 夕生は、安心したように目を細めた。
 もうその瞳に恐怖は見えない。
 その瞬間、背後でガタッと音がした。
「お兄ちゃんっ!」
 愛海が教室へよろっと駆け込んでくる。竹田が居たからここへ来るのに時間がかかったのだ。
 彼女は教室に入ってくると、崩れ落ちるように夕生の傍に座り込んだ。
 夕生は薄く目を開き愛海を見上げ、荒い呼吸に微かな声を混ぜる。
「愛海、ごめ——……」
「打つよ。痛くないから大丈夫」
 だが愛海は夕生の言葉を遮った。
 強く言い切りオメガ性用の緊急抑制剤を取り出す。もう震えてなどいない手でしっかり握り、兄のズボンを太ももまで捲り上げる。
 頼もしい手つきだった。愛海は躊躇いなく薬を打ち込むと、兄へ微笑みかける。
「もう大丈夫だからね」
 愛海は「先生も来るから。さっきのアルファの人も大丈夫だよ。病院行こうね」としっかり夕生を見つめる。
 夕生は薄い唇を開いた。呼吸を吸い込み、何か言おうとする。
 けれど一度閉じて、目を細めた。
 夕生は『ごめん』とは言わなかった。
「ありがとう」
 愛海が微笑む。夕生は汗で湿った手のひらで必死に丈の手を握りながら、彼女に笑い返す。
 丈も決して夕生の手を離さなかった。
 やがて夕生がそっと目を閉じる。廊下から先生たちが走る音が聞こえてきた。










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