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第四章

16 夕生がいない

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 丈には数多くの噂が立つ。ダンス部の誰々さんと付き合っているとか、先輩の何とかさんと仲が良いとか。
 これまでの噂はもちろん全て間違っているが意図は分かる。その後に誰々さんや何とかさんが告白してくるので、先に噂で外堀を埋めていたのだろう。
 だが今回は違う。
 まず入学式初日から愛海が目立っていた。
 その一年のアイドル三ツ矢愛海が、丈の幼馴染だから更に校内を騒がしたのだ。
 丈から幼馴染だとは伝えたことはないが、校内でたまたま愛海と会って少し話したことがある。その後、丈について友だちに言及された愛海が『家が近い……ってだけ』と説明したらしい。
 それが幼馴染と認定され、更に『仲の良い』幼馴染とまで脚色された。
 トドメを刺したのが一昨日の中庭事件だ。
 二年女子に囲まれた愛海を丈が助け出してしまった。
 そうしてこのザマだ。中庭事件からまだたった二日なのに、丈と愛海が恋人同士と言う本人たちからすれば根も歯もない噂が広まってしまっている。
 それが夕生にまで伝わったのだろう。だから今朝の会話が起きた。
 ——『今年は俺のこと気にしないでいいよ』
 ——『愛海、丈のプレゼント喜んでくれるといいね』
 妹のプレゼントなど用意していない。丈が気にしているのは夕生のことだけだ。
「お兄ちゃんが朝、まなに『丈くんと学校行けば?』的なこと聞いてきたの。この噂のせいかもしれない」
 愛海にも気遣っていたらしい。
 丈は低い声で返した。
「そうだろ」
「どうしよ」
「どうするもこうするも誤解を解かないと」
「最悪だ」
「……」
 こうして二人で校舎を歩くことも本来は嫌だ。愛海に付いてきて欲しくないが、丈と同じくらい愛海も『お兄ちゃんのとこに行くのに幼馴染ごときが付いてくるな』と思っているに違いない。
 もしかして昨日、昼休みに現れなかったのも丈と愛海に気を遣ったためだったのか。そう考えれば合点がいく。
 最悪だ。
「お兄ちゃん、全然電話出ない」
 愛海は夕生に電話をかけ続けている。丈も自分の携帯を確認するが夕生からの連絡はない。
 丈が送ったメッセージには既読がついていた。夕生はこのメッセージを見ている。
 いくら彼が人に配慮する性格だとしても、《話したいことがある》と頼んで無視するような人間ではない。
 ……別の何かが夕生に起きている気がする。
 嫌な予感がして、二年三組へ向かう足が早くなった。
 階段を二段飛ばしで降りて、二年三組へやってくる。無言で当然のように入ってきた丈と愛海に、クラスにいた生徒たちは一瞬硬直し、ざわっと狼狽え始めた。
 丈は教室を見渡す。
 ……いない。
 夕生がいない。
「ちょっといい?」
「は、はい!」
「夕生……三ツ矢夕生の席ってどこ?」
「三ツ矢ですか?」
 近くにいた男子生徒に声をかけると、彼は困惑しつつも夕生の席に案内してくれた。
 丈は夕生の机を触る。鞄が少し開いていた。お弁当箱が見える。
 愛海が「あの」とその男子生徒に話しかけた。
「お兄ちゃんどこ行ったか分かりますか?」
「えっ、えっえっえっあっ、えっと」
 愛海に見つめられて男子生徒が混乱に陥る。丈は机をもう一度撫でた。
 何か変だ……。
 慎重にゆっくり撫でる。顔を近づけてみて、確信する。
 微かなフェロモンが残っている。
 まさか、ヒートか?
 男子生徒が他のクラスメイトの元へ向かい、「あのさ、三ツ矢って……」と情報を集め始める。丈は「愛海」と声をかけた。
「何?」
「お前緊急抑制剤持ってる?」
 丈は囁き声で問いかける。
 愛海は大きな目を更に見開き、唇の隙間から声を溢した。
「うん……あるけど……は?」
「夕生がどっかでヒートになってるかもしれない」
「……」
 愛海の顔がみるみる青ざめていく。瞼を痙攣させて、何度か瞬きした。
 震え出す唇で「分かるの?」と小さく呟く。
 丈は頷いた。
「なんとなく香る」
「取ってくる」
 愛海が勢いよく走り出し教室を飛び出した。去り際の彼女の目に涙が滲んでいるように見えた。
 先ほどの男子生徒が、教室を出て行った愛海へ振り返りながらも、恐る恐る丈のところへやってきた。
「あの、三ツ矢なんですけど、竹田とどっか行ったみたいです」
「うん、竹田と一緒だったよね」
 近くで静観していた女子生徒二人も加わり、頷き合う。
 丈は眉根を顰めた。
「竹田?」
 誰だそれは。夕生から聞いたことのない名前だ。
 たまにクラスについて語ってくれるが、彼の話的に友達は二人で、それは『竹田』ではない。
「竹田って夕生の友達?」
 怪訝に聞くと、女子生徒らは首を傾げた。
 男子生徒が答える。
「いえ、いえって言うのもアレですが、竹田と三ツ矢が話してるのは見たことがないです」
「うちらも何で三ツ矢くんと竹田が一緒にいたんだろって思ってて」
「タイプ違うよね」
「うん」
「……どんなやつ?」
 問いかけると、三人は口々に言い出した。
「竹田は派手な方です。三ツ矢はおとなしいから二人で出て行ったの意外でした。竹田、結構格好良い人ですよ。モテるし……」
「出ていくって言うか連れ去るって感じじゃない?」
 丈は顔を顰める。女子達は互いの顔を見つめて頷いている。
「三ツ矢くん困ってたように見えた」
「思った。つか竹田、なんか怒ってなかった?」
 男子生徒が、「あいつバスケ部なんです」と補足する。
「エースでアルファだから目立ってて——……」
「アルファ?」
 丈は言葉を遮り、低い声で鸚鵡返しに呟いた。
 男子生徒が躊躇いつつも頷く。
 ……そんな、まさか……。
 丈は乾いた声で繰り返す。
「そいつ、アルファなの?」
「は、はい」
「そうですよ」
 ……アルファが、夕生の近くにいた。
 アルファが……。
 夕生がアルファの男に連れ去られている。
 夕生は弁当を置いていっている。和やかな昼食会ではないと言うことだ。丈は夕生の机に手をついた。頭の中が一瞬真っ白になるが息をついて思考を取り戻す。
 背中が燃えるように熱くなる。夕生がアルファといる。
 ヒートかもしれないのに。
「……竹田と夕生たちどこ行ったか知ってるやついる?」
 丈は教室中に響き渡るように大声を出した。生徒たちの騒めきが止み、シンと水を打ったように静まり返る。
 情報をくれた女子二人が「え、わかんない」「どこだろ」と話し始めたことでクラスメイトたちも「竹田?」「そういやさっき三ツ矢と出て行ったな」とまた話し始めた。
 だが情報を持っている生徒はいないようだ。
 丈は三人に「ありがとう」と一言声をかけ、すぐ歩き出した。
 教室を出てから走り出す。二年の階から三年の自分のクラスまで一気に上っていく。
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