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第三章

13 誕生日

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 こちらを気遣う表情を浮かべて、
「とにかく、具合悪いなら休んでいいから」
「ありがとう」
「無理しないで」
「うん。愛海は先に行ってて」
「うんー……」
「丈にも伝えてほしい」
「……あの、伝えるだけだよ?」
 愛海が動揺するので夕生は静かに笑った。すると愛海は不思議そうな顔をしたが、庭の方を眺め、ため息をつく。
 丈がやってきたらしい。彼は背が高いから後頭部が見える。
 学校へ行く準備を終えた愛海は鞄を手に取りながら「じゃあ」と言った。
「まなは先に行ってるね」
「行ってらっしゃい」
 愛海は「行ってきます」と軽く手を振りリビングを後にする。暫くして玄関扉の開く音がした。
 扉が閉まる音と共に、夕生は椅子から立ち上がる。足を気遣いながらも廊下に出て、窓から外の様子を確認した。
 愛海と丈が二人向かい合っている。
 強い眼差しで二人が見つめ合っている。
 こうして遠くから眺めていると、美男美女で、お似合いの二人だなと改めて思った。
 優しくて格好いい丈と、明るくて可愛い愛海。二人はアルファ性とオメガ性だ。
 彼らは番になれる。愛海は自分がオメガ性だと知ってからは、『番』に憧れていた。
 丈はとても思いやりがあるし、愛海の番にぴったりだ。きっと愛海を守ってくれるだろう。
 二人の隣はお互いが相応しい。夕生は急激に増す息苦しさを和らげるため、深く息を吐く。
 またリビングに戻ると、もう丈の後頭部は見えなかった。今頃二人はどんな会話をして学校へ向かっているのだろう。これから恋を育むのだから、少しぎこちないかもしれない。
 夕生はシンとしたリビングで、壁時計を見上げた。時刻的には今から家を出ても遅刻にはならない。いつもより歩くスピードが遅くなるだろうことを考慮しても一時間目に間に合う。
 今から出れば二人と鉢合わせることはないだろう。夕生は食器を片付けて、鞄を手にする。
 外に出て鍵を閉める。右足を気遣いながら庭を進み、通りへ出た。
 すると、すぐに声が掛かった。
「夕生、おはよう」
「……」
 あまりに驚いて反応に遅れてしまう。
 五秒ほどの沈黙の後、夕生はつぶやいた。
「えっ、丈?」
「うん」
「……え?」
「夕生、体調大丈夫?」
 まさか丈がここにいるとは思わなくて頭の中が混乱で埋まる。出来る限り動揺を押し込めようとしたけれど、無理だった。明らかに声に混乱が含まれている。
「えっと、やっぱり学校行けそうだなって思ったから……丈はどうしてここに居るの?」
「あれ、メッセ気付いてない?」
 けれど丈は夕生の困惑を見て見ぬふりしてくれた。
 夕生は「えっ、あ、携帯」と鞄の中から携帯を取り出す。てっきり二人とも学校へ向かったと思っていたので携帯を確認していなかった。
 確かに通知が入っている。丈からは《風邪なら何か買ってこようか? 今、家の前にいる》と連絡が来ていた。
 夕生はどこか呆然とした心地で呟く。
「ごめん、気付いてなかった……」
「いいよ。夕生は学校行くの?」
「うん。だいぶ落ち着いてきて……風邪じゃないと思うから」
「そう? よかった。でもまだ具合悪いんだろ?」
 丈は眉を下げて夕生を見下ろしている。心の底から心配そうにしてくれるから、夕生は胸をギュッと握られた心地になる。
 だめだ。こんな風に嬉しくなってしまっては。
 夕生は視線を逸らして俯きがちに言った。
「もう大丈夫そうだから学校へ行くことにしたんだ」
「そっか。ならいいんだけど」
「でもびっくりした」
「え、何が」
 丈は「俺が待ってたから? 夕生が携帯気付いてないって思わなかったんだよ」と少し照れたように笑う。
 夕生は、そのふんわりした笑顔に見惚れる心を押し込めながら言った。
「ううん。丈は愛海と学校行ったのかと思ってたから」
「いも……愛海と?」
 芋?
 丈は一瞬目を丸くしたが、また笑顔を浮かべた。
「ああ。愛海は先に学校行ったよ。なんか急いでんのかもね」
「愛海が急いでた?」
「うん。だから別に、俺が夕生の大事な妹を放ってたわけじゃないから」
「……?」
 妙な感じだった。違和感を覚えるが丈が「俺たちも行こう」と言うので、ひとまず頷く。芋とは何だろう。何のことかさっばり分からない。
 と、歩き出すタイミングで丈が考え込む夕生に言った。
「大丈夫?」
 いきなり言われて丈を見上げる。
 丈は夕生の足元を指差した。
「足。やっぱり怪我してたんだろ」
 あ。そうだった。
 先ほど丈は愛海と会っている。彼女が怪我について教えたのだろう。
 夕生を気遣っていつもよりゆっくり歩き出す丈。その優しに胸が痛み、一瞬で心が淀んだ。夕生は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらポツリと言う。
「うん。怪我してたんだ……嘘ついてごめん」
「今更だって。夕生は我慢するんだから」
 だが丈は軽やかに笑い飛ばしてくれる。
 頭と心は別だった。頭では『申し訳ない』と言っているのに心は、丈が明るく笑ってくれるので途端にまた軽くなる。
「我慢ばっかすんな」
「うん」
「無理すんなよ」
 丈の笑顔は、夕生を問答無用で明るくしてしまうのだ。
「うん、ありがとう」
「歩くの辛くない?」
「平気だよ」
「ゆっくり行こう。遅刻しても許してくれると思う」
「そうかな」
「俺も夕生も、優等生だから」
「あははっ」
 確かにそうかもしれない。夕生は素直に授業を聞いているし、丈は成績優秀で教師からの信頼も厚い。
 思わず笑うと、丈もにっこりした。こうして話しているだけで夕生の心の淀みが晴れていく。
 ついさっきまで苦しかったことなど忘れそうだ。先に学校へ行った二人を、切ない気持ちで眺めていたことなど嘘のよう。
 丈は夕生を見下ろした。
「でもさ、夕生」
「うん?」
「何で捻挫したの?」
「……」
 夕生は唇を結んだ。体の奥にあの浮遊感と恐怖が蘇り、脳裏を怒鳴り声が過ぎる。
 すぐには答えられない。だが嘘を吐くのも憚られて、事実を告げた。
「階段踏み外しちゃったんだ」
「うわ、大変だ」
「でも捻挫だけだったから」
「本当に? 他に怪我してない?」
「ちょっと手を擦りむいたけど大丈夫そう」
 丈はますます心配そうな表情をした。彼に心配を掛けるのは、夕生も心苦しい。
「足以外は平気だよ。心配かけてごめん」
「全然、謝る必要はないけどさ」
 丈は「やっぱ心配だな。俺が夕生を背負おうかな」と言うので、夕生はクスッと笑った。
 いつも思う。この時間はとても短いと。高校が近いこともあるがそれ以上に、丈と過ごす時間は短く感じてしまう。
 子供の頃から一緒にいるのになぜこの感覚はずっと変わらないのだろう。答えは分かりきっている。
 夕生が丈を好きだからだ。
「あのさ」
 だんだん高校も近づいてきた。すると、丈が言った。
「もうすぐ誕生日だよね?」
「あ、うん」
 夕生は頷く。また切ない気持ちが胸に滲む。
 その声に少しぎこちなさが混じっているので丈の心を察する。そう、夕生は丈に恋しているけれど彼は違う。
 丈が好きになるのは自分なんかではなく、素敵な女の子だ。
「五月四日だよ」
「そう……え?」
 愛海の誕生日を確認したかったのだろう。
 夕生が答えると思っていなかったのか丈は珍しく動揺した。
「四日だっけ?」
「うん」
 つい先ほど本人と話していたのに彼女の誕生日を聞けなかったらしい。
 愛海のことを好きだからこそ本人には聞けなかったのだ。いじらしい丈に、夕生は力なく笑った。
「でもゴールデンウィークは皆で旅行するんだ。誕生日祝いに」
「あ、うん。らしいね」
「やっぱり聞いてた? だから四日は会えないけど、六日には帰ってくるから大丈夫だよ」
「そっか……」
 夕生はニコッと目を細めた。
「お母さんも帰ってくるから楽しみ」
「そう、よかったね」
「そうだ丈。プレゼントはどうするの?」
 丈は薄く唇を開いて、困ったような顔をした。まだ悩んでいるみたいだ。
「愛海は欲しいバッグがあるって言ってたけどお母さんが買ってきてくれると思う。あとはそうだな。イヤリングが欲しいって言ってたよ」
「……へぇ、そうなんだ」
「まだピアスホールを空けてないからイヤリングなんだよ。そうだ。愛海にどんなイヤリングが欲しいか聞いておこうか?」
「どうして?」
「どうしてって……、あ、もう用意してる?」
「……」
 余計なお世話だったらしい。夕生は「他の物でも喜ぶと思う」と付け足した。
 もう学校が近い。いつもならこの辺りで丈はコンビニへ向かう。夕生は立ち止まり、コンビニがある通りへ顔を向けた。
「丈、コンビニ寄るんじゃない?」
「誕生日、四日だっけ」
 だが丈は夕生の問いかけには返事をしなかった。
 夕生は不思議に思って首を傾げる。
「そうだよ」
 もしかして別の日だと勘違いしていた? 夕生は「四日で十六歳になるんだよ」と微笑んだ。
 「いや」と丈が呟く。何だろうと思ったけれど、そこで夕生は、意識が別のことへ瞬く間に持っていかれた。
「あっ」
 丈の向こうに同じ制服の人かげが見えたのだ。
 丈が夕生と共に居るのがバレてしまう。
 愛海ではなく夕生だ。知られてはならない。夕生は咄嗟に顔を隠すように俯いた。
「丈コンビニ行くよね? 俺、先に学校行っとく」
「夕生」
 だが丈が夕生の腕を掴んだ。
 夕生の心に(えっ)と困惑と(やばい)と焦燥が湧き起こる。
 見られてしまう。丈の向こうに誰かがいる。丈の傍に『じゃない方』がいることを知られてはならない。
 だが丈は他には一切目を向けず夕生だけを真っ直ぐ見つめた。
 その深刻な面持ちに緊張感が走る。何を言うのかと思ったけれど、彼は、
「夕生の誕生日は七日だろ」
 と言うだけだった。
 俺の誕生日? 拍子抜けした夕生は「え? うん」と頷く。
「どうしたの? 毎年おめでとうって言ってくれてるのに」
 毎年、丈は夕生に『おめでとう』と言って誕生日プレゼントを用意してくれる。確認するまでもないはずだ。
 あ、でも、そうか。愛海の誕生日に意識が集中していて夕生を忘れてしまったのだろう。
 夕生は言った。
「今年は俺のこと気にしないでいいよ」
「気にしないわけない」
 丈はすぐさま言ってくれる。彼の優しさに、心に甘い棘が刺さったように痛みが生まれる。
 丈だって好きに金を使えるわけではない。夕生は首を振った。
「今年は俺の分はいいから。愛海、丈のプレゼント喜んでくれるといいね」
「……」
 丈が驚いて目を見開く。夕生はそろっと彼の背後を確認した。
 誰かは分からないけど同じ高校の男子生徒がまだ居る。こちらを見ているのだ。これ以上丈の傍にいたら、丈に迷惑がかかる。夕生はすっと握られていた腕を引き抜いた。
「それじゃ」
 いつもなら『お昼休みに』と言うけれど、その言葉は飲み込んだ。
 夕生は「またね」とだけ口にしてすぐに丈の傍から離れる。小走りで路地へ向かった。こちらの道から学校へ向かう通りへ合流しよう。
 すぐに背後で「丈! はよ」と声が掛かった。こっそり見ると丈が同級生であろう生徒に肩を組まれている。やはり先程見た男子生徒は丈の知り合いだったようだ。早く行かなきゃ。
 夕生は痛む足を叱咤し、路地を駆け抜けた。






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