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第二章
11 新参者
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「その後が大事だから。ちゃんとお兄ちゃんに近付かないように言って」
「言った」
「本当に?」
片目を細めて怪訝そうに愛海は呟く。
何か思い悩むように視線を下ろし、彼女は言った。
「お兄ちゃん、何か変じゃなかった?」
愛海は神妙な面持ちをした。
「変?」
「そう。まなの予想だと足を怪我してるんじゃないかな」
丈は今朝の夕生を頭に思い浮かべた。確かにいつもより元気がないように見えたが、昨日の昼に腹痛だったと聞いていたので、そのせいで体調が悪いのだろうと考えていた。
そうではない?
「引き摺ってたような……一瞬だったけど……何となく聞いてみたんだけど反応が薄かった」
「確かにいつもより歩くのが遅かった気もする」
あれは足の怪我のせいなのか?
今朝の夕生を思い出す。すると浮かぶのはあの言葉だ。
丈は心の中でため息をつき、落ち込む。
元クラスメイトが丈に声をかけてきて、夕生に碌でもないことを言いやがった。『じゃない方』などとふざけたことを言っていたあの二人には、学校に来てからきつく叱っている。丈が怒るのを見るのは初めてだったようで、彼らは動揺しつつも頷いていた。
愛海が入学したことで愛海と夕生を比べる奴らが増えている。兄妹を傷つけるとんでもない行為だ。
丈は息を吐く。沸き起こった再びの怒りを抑えて、今朝のひとときをよく思い出す。
夕生の歩くスピードは遅かったような気もするが、足に痛みがあるようには見えなかった。だが夕生は隠すのが得意だ。
これは本当に昔からそうで、子供の頃、夕生が一人で過ごしていたことさえも丈は見抜けていない。
三ツ矢家の父の話によると、夕生の母親が家に帰らない日は多かったらしい。だが夕生は、一人で夜を過ごしていることも、家で食べ物を口にしていないことも、一切匂わせず丈に接した。
夕生が困っていたら出来る限り助けるようにしていたが、丈は肝心なところで手を差し伸べることができなかったのだ。
年上と言っても一学年違うだけ。もし丈がもっと大人だったら、夕生が夜を一人で過ごしていることに気付くことができたのだろうか。
分からない。どちらにせよ、小学校低学年の丈には無理だったという事実が残るだけだ。
丈はふぅ、と息を吐いた。
「夕生が来たら聞いてみるか」
「そうだね。見ててね、歩くの遅いから」
「ん」
「まぁ、基本お兄ちゃんは全部が遅いんだけど……」
「あれ可愛いよな」
「……」
夕生は基本的にゆったりと行動する。昼食の時も、何か口にしてから暫く咀嚼しているのが可愛くて、ずっと見ていられる。
愛海は丈の言葉には特にコメントせず続けた。
「ちゃんとよく見ておかないと。家のこともそう。少し目を離したら家事し出すから困っちゃう。須藤さんがやってくれるのに。須藤さんがやってくれてるから、家事なんかちょっとしか残ってない。それでもやること見つけてやろうとする」
「お前がしっかり止めればいいだろ、何してんだよ」
「止める? お兄ちゃんがしたいことをまなが止めるの? 逆に聞くけど丈くんにそれができる?」
「……チッ。新参者がよ」
「はいー? まなはお兄ちゃんと皆で住んでんだけど。家族なんだけど!?」
「俺は夕生がガキん頃から一緒なんだよ。深さが違う。夕生が小一の、こんな、ちっこい時から一緒なんだ」
「まなは家族だから!」
「俺の方が深い」
夕生が来ない。なぜだ?
先ほどから愛海と話しつつ、夕生に《今どこ?》とメッセージを送っているのに返事がない。
腹痛か? たまに授業が延びて、遅れて来ることもある。早く来てほしい。夕生と過ごす時間が少なくなる。
愛海も早くバイトを始めてくれないかな。最近、夕生を愛海に取られている。昨日だって兄妹で帰っていたから丈は夕生と放課後を過ごせなかった。
と、思い出して丈は言った。
「ゴールデンウィークって三ツ矢家どうすんの」
「旅行する予定。まなもお兄ちゃんも誕生日その辺だから、誕生日祝いも兼ねてるの」
夕生の誕生日は五月七日だ。愛海がいつかは覚えていないが確かに近かった気がする。
その影響で二人の誕生日会は合同で行われていると夕生が言っていた。
「お母さん帰ってくるし、福岡行ってたくさん食べるんだー。写真もいっぱい撮ろ」
「なんだ。夕生いねぇのか」
「お兄ちゃんはまな達が連れてくから」
「土曜は? ゴールデンウィークは水曜からだろ。次の土曜は家いる?」
「……居るけど」
夕生を遊びに誘おう。
愛海は何を想像したのかまた怯えたように顔を歪めた。
「お兄ちゃんに変なことしないで……」
「だからしねぇっつってんだろ」
これがアルファ性とオメガ性なのか。愛海も夕生も、アルファ性に本能で警戒している気がする。力の差を感じるのかもしれない。
以前、夕生が街中で男に肩をぶつけられた時も、異様なほど驚いて頸を手で隠していた。あの中年がアルファであると、丈も遅れて匂いで分かった。夕生はアルファに出会った時は特別反応を変える。同族の丈より敏感にアルファに気付く。
愛海もそうだ。丈の友人の一人にアルファ性がいるが、昨日の朝も彼女は彼から目を逸らして話していた。決して目を合わせようとはしない。丈は彼がアルファだと愛海に教えていないので、彼女が本能で察したのだろう。
丈にはどうだろう。
丈は慎重に観察しているが、夕生が丈に怯えたことは一度もない。
怖がらせたくないし、夕生を動揺させたくない。本当はもっとこの気持ちを表したり、言葉にして伝えたいけれど、夕生を困らせるのが嫌だった。
だがこのままで居たいわけでもない。
少なくとも高校のうちはおとなしくしている。迫ったりなどするものか。夕生は既に受験勉強を始めているのだ。彼のペースを崩したくない。
夕生に伝えるなら、夕生が卒業してからだ。
「なんか嫌なこと考えてる?」
愛海が訝しげに問いかけてくる。
丈は「別に」と言って夕生へ電話をかける。出ない。探しに行こうかと思ったけど入れ違いになっても困る。だから丈は待ち続けた。
廊下の奥をじっと見つめて、人影が現れるのを待っている。
夕生。
早く来い。
——その後夕生はやって来なかった。昼休みが終わる頃、五限が始まる前に《丈、ごめん。疲れて眠ってた》とメッセージが入る。丈は直ぐに返した。《そうなんだ。大丈夫? あと今日なんか用事ある? 一緒に帰ろ》
五限が終わってから返信が来た。《大丈夫だよ。うん、帰ろ》と文を読んでホッとする。
いや、安心するのは早い。
疲れて眠っていたとはどうしてなのか。
丈は夕生のことばかり考えている。
夕生。
「夕生」
隣を歩く夕生に丈は優しく話しかける。
「眠ってたって言ってたけど大丈夫?」
夕生はいつもと全く変わらない表情で「大丈夫だよ」と頷いた。無表情であるがキツイ印象のない、ふんわりした雰囲気をもつのが夕生だ。
夕生は穏やかに言った。
「最近課題が多いんだ。今日も沢山ある。今週末までにやらないと」
「そっか。大変だね」
「丈はどう? 三年になってからもっと勉強しないとでしょ?」
丈は軽く首を横に振った。
「大して変わらないよ」
「そっか。丈は頭良いしなぁ」
夕生は小さく笑って前を見つめた。瞬きすらもどこかゆったりしているのが夕生だ。
夕生と居るととても落ち着く。のんびりした雰囲気がこちらにまで移ってくる。でもそれは乗っ取られる感覚ではなく、戻っていくような気分だ。
見下ろすと、夕生の白い頬が見えた。そう言えば昨日の朝の馬鹿も今日の朝の空気読めない奴も愛海を可愛いと言って夕生と比較していた。だが丈は心の底からそれが疑問だ。可愛さで言ったら夕生が優勝なのに。
考えながらも視線を足元へ落とす。
足の様子を観察するが、いつもと同じ歩調だった。
今朝は遅いと感じたがあれは錯覚か? 夕生はいつも通り歩いている。だが油断してはならない。丈は足の様子を盗み見ながらも言った。
「今度の土曜出掛けない?」
「土曜?」
「うん。ゴールデンウィークは忙しいだろうけど、土曜は空いてるだろ」
丈は「図書館とかカフェで勉強でもいいね」と付け足した。
夕生に予定がないことは事前に情報が入っている。
が、夕生は言った。
「えっと……土曜はちょっと」
「あれ。予定入ってた?」
驚いて聞くと、夕生は途切れ途切れに答えた。
「えっと、最近、着ていく服がないから」
何だその理由。説得力の欠けるセリフすら愛おしく感じてしまう。
制服でいいよ、と言おうとしたけれど、何か行きたくない理由が他にあるのだろう。二年に上がってから夕生は一層勉強を頑張っているし。
丈は「そっか」と微笑んだ。
にしても服か……。
ゴールデンウィークが終われば夕生の誕生日だ。服をプレゼントしてもいいかもしれない。
何がいいかな。考えるだけで微笑みが溢れる。丈は言った。
「服買ったらさ、どこか遊びに行こう」
「うん」
「植物園とか興味あるんだけどどう?」
「植物園……」
夕生が反応し目を輝かせた。だがそれも一瞬で、またスンッと元の無表情に戻った。
「丈、植物園好きなんだ」
「うん。今度一緒に行こう」
夕生は何も言わずに頷いた。
丈は違和感を覚える。今のは何だ?
いくら夕生が無欲でも丈に対してはある程度感情を出してくれる。今だって普段の夕生なら、目の輝きを失わないまま『いいね』と頷いてくれるはず。
しかし夕生は直ぐに顔を暗くした。何かを諦めるみたいな顔だった。
おかしい。土曜を断ったのももっと深刻な理由があるのか? やはり丈の知り合いが余計なことを言った件も関係しているのかもしれない。
考えながら丈は夕生の足を見下ろす。
……あ。
夕生が一瞬、右足を引きずった。
もう直ぐ三ツ矢家だ。
丈は息を吸い、吐いた。
「夕生、もしかして足怪我してる?」
本当に少しの間、沈黙が流れる。前を見つめていた夕生がゆっくりとこちらに顔を向ける。
夕生は薄らと微笑んで言った。
「え? 大丈夫だよ」
夕生は隣を歩き続けている。もう三ツ矢家はそこだ。夕生は穏やかな表情で丈を見上げている。丈は「そっか」と頷き、彼の歩みを止めない。
三ツ矢家に着いた。夕生は「また明日」と数回手を振って背を向ける。玄関の扉が閉まるのを確認してから丈は携帯を取り出す。
この帰り道でも多くの異常があった。植物園に対する反応や、土曜を断ったこと。
足を一瞬だけ引きずったこと。
それに対して『怪我してない』ではなく『大丈夫』と答えたこと。
何よりも、昼休みの件について一切触れてこなかったことだ。
《絶対に怪我してる。須藤さん伝の方がいいかもしれない》
数ヶ月ぶりに愛海とのトーク画面を開きメッセージを入れると直ぐに既読がついた。夕生はお手伝いの須藤と三ツ矢家の父に助けられたせいか二人には弱い。
愛海や丈が指摘するよりも素直に従ってくれるだろう。《分かった》と来た返事を確認し、携帯をしまう。
三ツ矢家の大きな家を見上げる。
いつの間にか日が暮れていて、空に浮かぶ雲が夕焼け色に染まっていた。
雲は黄金の光に縁取られて、綺麗だ。空には桃色と橙色が入り混じっている。
目を閉じると浮かぶのは、より強いオレンジ一色に染められていた空だ。
……幼い夕生がじっと眺めていた、あの夕焼け。
「言った」
「本当に?」
片目を細めて怪訝そうに愛海は呟く。
何か思い悩むように視線を下ろし、彼女は言った。
「お兄ちゃん、何か変じゃなかった?」
愛海は神妙な面持ちをした。
「変?」
「そう。まなの予想だと足を怪我してるんじゃないかな」
丈は今朝の夕生を頭に思い浮かべた。確かにいつもより元気がないように見えたが、昨日の昼に腹痛だったと聞いていたので、そのせいで体調が悪いのだろうと考えていた。
そうではない?
「引き摺ってたような……一瞬だったけど……何となく聞いてみたんだけど反応が薄かった」
「確かにいつもより歩くのが遅かった気もする」
あれは足の怪我のせいなのか?
今朝の夕生を思い出す。すると浮かぶのはあの言葉だ。
丈は心の中でため息をつき、落ち込む。
元クラスメイトが丈に声をかけてきて、夕生に碌でもないことを言いやがった。『じゃない方』などとふざけたことを言っていたあの二人には、学校に来てからきつく叱っている。丈が怒るのを見るのは初めてだったようで、彼らは動揺しつつも頷いていた。
愛海が入学したことで愛海と夕生を比べる奴らが増えている。兄妹を傷つけるとんでもない行為だ。
丈は息を吐く。沸き起こった再びの怒りを抑えて、今朝のひとときをよく思い出す。
夕生の歩くスピードは遅かったような気もするが、足に痛みがあるようには見えなかった。だが夕生は隠すのが得意だ。
これは本当に昔からそうで、子供の頃、夕生が一人で過ごしていたことさえも丈は見抜けていない。
三ツ矢家の父の話によると、夕生の母親が家に帰らない日は多かったらしい。だが夕生は、一人で夜を過ごしていることも、家で食べ物を口にしていないことも、一切匂わせず丈に接した。
夕生が困っていたら出来る限り助けるようにしていたが、丈は肝心なところで手を差し伸べることができなかったのだ。
年上と言っても一学年違うだけ。もし丈がもっと大人だったら、夕生が夜を一人で過ごしていることに気付くことができたのだろうか。
分からない。どちらにせよ、小学校低学年の丈には無理だったという事実が残るだけだ。
丈はふぅ、と息を吐いた。
「夕生が来たら聞いてみるか」
「そうだね。見ててね、歩くの遅いから」
「ん」
「まぁ、基本お兄ちゃんは全部が遅いんだけど……」
「あれ可愛いよな」
「……」
夕生は基本的にゆったりと行動する。昼食の時も、何か口にしてから暫く咀嚼しているのが可愛くて、ずっと見ていられる。
愛海は丈の言葉には特にコメントせず続けた。
「ちゃんとよく見ておかないと。家のこともそう。少し目を離したら家事し出すから困っちゃう。須藤さんがやってくれるのに。須藤さんがやってくれてるから、家事なんかちょっとしか残ってない。それでもやること見つけてやろうとする」
「お前がしっかり止めればいいだろ、何してんだよ」
「止める? お兄ちゃんがしたいことをまなが止めるの? 逆に聞くけど丈くんにそれができる?」
「……チッ。新参者がよ」
「はいー? まなはお兄ちゃんと皆で住んでんだけど。家族なんだけど!?」
「俺は夕生がガキん頃から一緒なんだよ。深さが違う。夕生が小一の、こんな、ちっこい時から一緒なんだ」
「まなは家族だから!」
「俺の方が深い」
夕生が来ない。なぜだ?
先ほどから愛海と話しつつ、夕生に《今どこ?》とメッセージを送っているのに返事がない。
腹痛か? たまに授業が延びて、遅れて来ることもある。早く来てほしい。夕生と過ごす時間が少なくなる。
愛海も早くバイトを始めてくれないかな。最近、夕生を愛海に取られている。昨日だって兄妹で帰っていたから丈は夕生と放課後を過ごせなかった。
と、思い出して丈は言った。
「ゴールデンウィークって三ツ矢家どうすんの」
「旅行する予定。まなもお兄ちゃんも誕生日その辺だから、誕生日祝いも兼ねてるの」
夕生の誕生日は五月七日だ。愛海がいつかは覚えていないが確かに近かった気がする。
その影響で二人の誕生日会は合同で行われていると夕生が言っていた。
「お母さん帰ってくるし、福岡行ってたくさん食べるんだー。写真もいっぱい撮ろ」
「なんだ。夕生いねぇのか」
「お兄ちゃんはまな達が連れてくから」
「土曜は? ゴールデンウィークは水曜からだろ。次の土曜は家いる?」
「……居るけど」
夕生を遊びに誘おう。
愛海は何を想像したのかまた怯えたように顔を歪めた。
「お兄ちゃんに変なことしないで……」
「だからしねぇっつってんだろ」
これがアルファ性とオメガ性なのか。愛海も夕生も、アルファ性に本能で警戒している気がする。力の差を感じるのかもしれない。
以前、夕生が街中で男に肩をぶつけられた時も、異様なほど驚いて頸を手で隠していた。あの中年がアルファであると、丈も遅れて匂いで分かった。夕生はアルファに出会った時は特別反応を変える。同族の丈より敏感にアルファに気付く。
愛海もそうだ。丈の友人の一人にアルファ性がいるが、昨日の朝も彼女は彼から目を逸らして話していた。決して目を合わせようとはしない。丈は彼がアルファだと愛海に教えていないので、彼女が本能で察したのだろう。
丈にはどうだろう。
丈は慎重に観察しているが、夕生が丈に怯えたことは一度もない。
怖がらせたくないし、夕生を動揺させたくない。本当はもっとこの気持ちを表したり、言葉にして伝えたいけれど、夕生を困らせるのが嫌だった。
だがこのままで居たいわけでもない。
少なくとも高校のうちはおとなしくしている。迫ったりなどするものか。夕生は既に受験勉強を始めているのだ。彼のペースを崩したくない。
夕生に伝えるなら、夕生が卒業してからだ。
「なんか嫌なこと考えてる?」
愛海が訝しげに問いかけてくる。
丈は「別に」と言って夕生へ電話をかける。出ない。探しに行こうかと思ったけど入れ違いになっても困る。だから丈は待ち続けた。
廊下の奥をじっと見つめて、人影が現れるのを待っている。
夕生。
早く来い。
——その後夕生はやって来なかった。昼休みが終わる頃、五限が始まる前に《丈、ごめん。疲れて眠ってた》とメッセージが入る。丈は直ぐに返した。《そうなんだ。大丈夫? あと今日なんか用事ある? 一緒に帰ろ》
五限が終わってから返信が来た。《大丈夫だよ。うん、帰ろ》と文を読んでホッとする。
いや、安心するのは早い。
疲れて眠っていたとはどうしてなのか。
丈は夕生のことばかり考えている。
夕生。
「夕生」
隣を歩く夕生に丈は優しく話しかける。
「眠ってたって言ってたけど大丈夫?」
夕生はいつもと全く変わらない表情で「大丈夫だよ」と頷いた。無表情であるがキツイ印象のない、ふんわりした雰囲気をもつのが夕生だ。
夕生は穏やかに言った。
「最近課題が多いんだ。今日も沢山ある。今週末までにやらないと」
「そっか。大変だね」
「丈はどう? 三年になってからもっと勉強しないとでしょ?」
丈は軽く首を横に振った。
「大して変わらないよ」
「そっか。丈は頭良いしなぁ」
夕生は小さく笑って前を見つめた。瞬きすらもどこかゆったりしているのが夕生だ。
夕生と居るととても落ち着く。のんびりした雰囲気がこちらにまで移ってくる。でもそれは乗っ取られる感覚ではなく、戻っていくような気分だ。
見下ろすと、夕生の白い頬が見えた。そう言えば昨日の朝の馬鹿も今日の朝の空気読めない奴も愛海を可愛いと言って夕生と比較していた。だが丈は心の底からそれが疑問だ。可愛さで言ったら夕生が優勝なのに。
考えながらも視線を足元へ落とす。
足の様子を観察するが、いつもと同じ歩調だった。
今朝は遅いと感じたがあれは錯覚か? 夕生はいつも通り歩いている。だが油断してはならない。丈は足の様子を盗み見ながらも言った。
「今度の土曜出掛けない?」
「土曜?」
「うん。ゴールデンウィークは忙しいだろうけど、土曜は空いてるだろ」
丈は「図書館とかカフェで勉強でもいいね」と付け足した。
夕生に予定がないことは事前に情報が入っている。
が、夕生は言った。
「えっと……土曜はちょっと」
「あれ。予定入ってた?」
驚いて聞くと、夕生は途切れ途切れに答えた。
「えっと、最近、着ていく服がないから」
何だその理由。説得力の欠けるセリフすら愛おしく感じてしまう。
制服でいいよ、と言おうとしたけれど、何か行きたくない理由が他にあるのだろう。二年に上がってから夕生は一層勉強を頑張っているし。
丈は「そっか」と微笑んだ。
にしても服か……。
ゴールデンウィークが終われば夕生の誕生日だ。服をプレゼントしてもいいかもしれない。
何がいいかな。考えるだけで微笑みが溢れる。丈は言った。
「服買ったらさ、どこか遊びに行こう」
「うん」
「植物園とか興味あるんだけどどう?」
「植物園……」
夕生が反応し目を輝かせた。だがそれも一瞬で、またスンッと元の無表情に戻った。
「丈、植物園好きなんだ」
「うん。今度一緒に行こう」
夕生は何も言わずに頷いた。
丈は違和感を覚える。今のは何だ?
いくら夕生が無欲でも丈に対してはある程度感情を出してくれる。今だって普段の夕生なら、目の輝きを失わないまま『いいね』と頷いてくれるはず。
しかし夕生は直ぐに顔を暗くした。何かを諦めるみたいな顔だった。
おかしい。土曜を断ったのももっと深刻な理由があるのか? やはり丈の知り合いが余計なことを言った件も関係しているのかもしれない。
考えながら丈は夕生の足を見下ろす。
……あ。
夕生が一瞬、右足を引きずった。
もう直ぐ三ツ矢家だ。
丈は息を吸い、吐いた。
「夕生、もしかして足怪我してる?」
本当に少しの間、沈黙が流れる。前を見つめていた夕生がゆっくりとこちらに顔を向ける。
夕生は薄らと微笑んで言った。
「え? 大丈夫だよ」
夕生は隣を歩き続けている。もう三ツ矢家はそこだ。夕生は穏やかな表情で丈を見上げている。丈は「そっか」と頷き、彼の歩みを止めない。
三ツ矢家に着いた。夕生は「また明日」と数回手を振って背を向ける。玄関の扉が閉まるのを確認してから丈は携帯を取り出す。
この帰り道でも多くの異常があった。植物園に対する反応や、土曜を断ったこと。
足を一瞬だけ引きずったこと。
それに対して『怪我してない』ではなく『大丈夫』と答えたこと。
何よりも、昼休みの件について一切触れてこなかったことだ。
《絶対に怪我してる。須藤さん伝の方がいいかもしれない》
数ヶ月ぶりに愛海とのトーク画面を開きメッセージを入れると直ぐに既読がついた。夕生はお手伝いの須藤と三ツ矢家の父に助けられたせいか二人には弱い。
愛海や丈が指摘するよりも素直に従ってくれるだろう。《分かった》と来た返事を確認し、携帯をしまう。
三ツ矢家の大きな家を見上げる。
いつの間にか日が暮れていて、空に浮かぶ雲が夕焼け色に染まっていた。
雲は黄金の光に縁取られて、綺麗だ。空には桃色と橙色が入り混じっている。
目を閉じると浮かぶのは、より強いオレンジ一色に染められていた空だ。
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