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第二章
8 裏と表
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【第二章】
昼休みに使っている空き教室は丈が一年の頃に先輩から教えてもらった部屋だ。当時三年だったその先輩はやけに丈を気に入って、「彼女といちゃつくならあの部屋使えよ」と合鍵を渡してくれた。元々天文部があったらしいが、今はもうない。かつて部員だった生徒が持っていた合鍵が密かに受け継がれている。丈は、夕生が高校にやってきたら使おうと、彼以外に誰も部屋へ入れなかった。
無事に夕生が入学し、はじめて丈は夕生を室内へ誘った。
この一年は殆ど夕生と共に昼休みを過ごしている。
そうして、去年は夕生と穏やかに過ごす充実した一年だったが……今年は課題がある。
既に問題が発生し始めていた。今後どうなっていくか。丈は心の中でため息を吐きながらも、今日もあの教室にやってきた。
まだ夕生はいない。いつもならこの時間だと彼はもうきている。
なぜだ。妹を迎えに行ったのか? 今日は妹も昼食に参加すると言っていた。
と、教室を出ると廊下に二人の男子生徒がいる。
彼らは窓の外を眺めながら「まだ?」「なんか購買激混みだって」と会話している。誰かと待ち合わせしているのだろう。
丈は教室へ戻ろうとした。
「つうかあの一年! 愛海ちゃん!」
片方の男子生徒が声を大きくする。丈は教室と廊下の境界線を踏んだまま、立ち止まる。
「すげぇ可愛いよな」
「あの子って、三ツ矢夕生の妹らしいぜ」
丈は視線だけ彼らへ遣った。少し先にいる二人は丈の存在に気付いていない。
「三ツ矢夕生? そんなのいたか?」
「お前、去年クラス同じだったろ」
彼らは二年の生徒たちのようだ。男子生徒は「あっ」と思い出したように声を上げ、嘲笑うように言った。
「あの病弱くんな」
「病弱なんだ」
「そうそう。たまにすげぇ休んでた」
「へー。話したことある?」
「全然。俺らはない。静かなやつだったしな」
「友達いない感じ?」
二人はケラケラ笑い合った。元クラスメイトだと言った男が「あー」と空を見上げる。
「考えてみると三ツ矢夕生も顔はいい方かも。いつも俯いてたからあれだけど、女子がたまに可愛いって噂してた」
「女に可愛いって言われるやつね」
「あいつ脅したら愛海ちゃんと会わせてくんねぇかな」
「やってみる? チョロそう」
「弱そう。震えてそう」
「でも愛海ちゃんと仲良いのか? 話してんの見たことねぇし」
「仲悪いなら用無しだなー」
「脅すのだけやる?」
「ふはっ。なんで」
「面白そうだから」
「――邪魔だな」
男子二人が勢いよくこちらに振り向く。
同じタイミングでハッと目を丸くした。驚愕と困惑が入り混じった、まるで双子みたいなそっくりの顔をする。
丈は男たちを見下ろした。
男子たちが口々に言った。
「さっ、さーせ……すみません」
「えっ、桜井先輩? なんで……え?」
「お前ら邪魔かもな」
男子らが『えっ』と言ったような顔をする。本来なら当然の反応だ。彼らは廊下の端にいた。
だが丈にとってはどうにも邪魔なのだ。
丈は静かに告げた。
「夕生に何するっつった?」
二人が啞然とする。丈は低い声で問いかけた。
「脅す? 夕生に関わるつもりなのか?」
「……ゆ、ゆうき……?」
「……」
『ゆうき』が三ツ矢夕生だと思い至ったのだろう。男たちはみるみる青ざめていく。
「チョロいって、ははっ」
丈は笑って、軽く顔を指先で覆う。
はぁとため息を吐いてから語気を強めた。
「馬鹿言ってんなよ」
男子生徒たちが硬直する。右の男子がぶるッと肩を振るわせる。
丈は怒りを込めて吐き捨てた。
「三ツ矢夕生に手出したら殺すからな」
左の男子は顔面蒼白になった。窓枠に乗せていた手がずるっと落ちて体をよろめかせる。
ふざけやがって。
「絶対に関わるな。もちろんその妹にも。お前らの顔覚えたからさ。少しでもあの兄妹に近付いたら容赦しねぇぞ」
二人は声を失っている。丈は苛立って「なんか言えよ」と怒鳴った。
「は、はい」
「しません、何も」
「さっさとそう言やいいんだよクソが。もう行け」
顎を引いて促すが二人とも動けないでいる。丈は繰り返した。
「行けっつってんだろボケ」
「はいっ、はい」
「すみませんでしたっ!」
二人が慌てて駆け出していく。丈はその後ろ姿を眺めて、チッと舌打ちした。
面倒なことが増えている。去年は穏やかな一年だったのに。ああいう舐めた奴らがこれから増えていくのだろうか。
と背後にひと気を感じて丈は振り返った。
夕生かと思って焦ったが、その正体を目にして安堵する。
「……信じらんない……」
なんだ。妹の方か。
三ツ矢愛海が弁当らしき小さなバッグを持ってそこに立っていた。バケモノでも見るような目つきで丈を凝視していたが、やがて項垂れるように視線を落とし、泣き出しそうな声で呟いた。
「本当にありえない。いやだ。こんな裏表激しい、こんな気持ち悪い人がお兄ちゃんの傍にいるなんて最悪だ」
「は?」
「ちょっと待って、泣きそうなの」
愛海は弁当を片手にもち、顔を手のひらで覆った。
「いやだー……あ、ほんとに涙出た」
「はっ」
丈は鼻で笑って、先ほど彼らが駄弁っていた窓に肘をかける。
「アホくさ」
「うぅ……」
愛海は心底悔しそうに瞼を閉じた。何か体の奥底から湧き起こる感情を必死で抑えるみたいな顔をしている。
裏表か。どっちが裏で何が表なのか、妹に何が分かるというのだろう。丈は構わずに「何でお前だけなの?」と問いかける。
「夕生は?」
そんなことより夕生がやって来ない。
今日は妹が参加すると聞いていたので愛海がここに居るのは理解できても、夕生がいないのは意味が分からない。
てっきり妹を迎えに行ってると思ったのにそうではなかった。こんなに遅くなるなんて珍しい。何かあったのだろうか。
心配になってもう一度携帯を確認する。連絡は入っていない。
妹の方が「ふぅー……」と胸に手を当てて深呼吸をする。丈はそれを無表情で見下ろしながら言った。
「つか何で昼休み加わってきた? 邪魔だよ。妹さん」
「知らなかったの!」
妹は涙目で丈を睨み上げる。
「まさかお昼まで二人で過ごしてるなんて」
愛海は若干青褪めていた。瞳に嫌悪と警戒が滲んでいる。ある時点から、この妹から兄貴の親友への信頼度はゼロに等しい。
「別に毎回ってわけじゃない。どんな雰囲気か見ておきたいの。いいでしょ? なんか嫌なことお兄ちゃんにしてるから困るの? 何してるの?」
家庭教師と娘を監視する親のようだ。あまりにもくだらないので丈は廊下へ視線を遣った。
夕生が来ない。
妹は険しい顔つきで問いかけてくる。
「今みたいな事お兄ちゃんにしてないよね」
「するかよ」
馬鹿らしい。夕生相手に、怒鳴ったことなんか一度もないしそんなことをしてしまったら死んで詫びる。
丈は夕生からの連絡と廊下にやってくる人影を気にしながら愛海へ言った。
「あのさ。昨日誰が助けてやったと思ってんだ。夕生の妹で良かったな」
昨日の昼休み、担任に捕まって夕生の元へ行けずにいたところ隣のクラスの女子生徒が『愛海ちゃんが女子に囲われてる!』と丈へ助けを求めてきた。
どうするか迷ったが、愛海は夕生の妹だ。愛海に何かあれば夕生が深く傷つく。
ひとまず愛海の様子を見に行って、女子には適当に釘を刺し、それからこの教室へ来ようと思っていた。
だが愛海は貧血で倒れていた。放置するには人の目が集まりすぎていて可哀想なので保健室に運んだ。
直ぐ夕生のところへ向かったが、肝心の彼が居ない。
夕生は腹痛だったらしい。心配でならなかったが、昨日は結局夕生と会えなかった。
今朝もどことなく元気がなかった気がする。それに途中で厄介な元クラスメイトに出会してしまったし。
最悪だ。
愛海は暗い表情で呟いた。
「助けてなんて頼んでない」
「なら、あのまま寝てるつもりだったのか?」
「それでも良かったんじゃない? ただの貧血だし」
生意気なガキだ。だが本来の愛海はいくら丈を嫌っていようと礼は言う。
昨日の朝、昇降口で丈の友人たちと夕生がエンカウントしてから愛海の機嫌はかなり悪い。倒れた愛海を運んでいる最中も、愛海は虚ろな顔でチッと舌打ちしていた。
丈も友人は選んでいるつもりだ。だが昨日の朝は一人だけ圧倒的に空気の読めないバカが混じっていたのだ。
そいつが夕生へ決定的な一言を放ってしまった。
愛海はあの一言を許すつもりはないようで、そんな友人のいる丈にも怒っている。
「……丈くん」
丈への不信感が積もりに積もっているのだ。
「昨日のあの友達、何?」
昼休みに使っている空き教室は丈が一年の頃に先輩から教えてもらった部屋だ。当時三年だったその先輩はやけに丈を気に入って、「彼女といちゃつくならあの部屋使えよ」と合鍵を渡してくれた。元々天文部があったらしいが、今はもうない。かつて部員だった生徒が持っていた合鍵が密かに受け継がれている。丈は、夕生が高校にやってきたら使おうと、彼以外に誰も部屋へ入れなかった。
無事に夕生が入学し、はじめて丈は夕生を室内へ誘った。
この一年は殆ど夕生と共に昼休みを過ごしている。
そうして、去年は夕生と穏やかに過ごす充実した一年だったが……今年は課題がある。
既に問題が発生し始めていた。今後どうなっていくか。丈は心の中でため息を吐きながらも、今日もあの教室にやってきた。
まだ夕生はいない。いつもならこの時間だと彼はもうきている。
なぜだ。妹を迎えに行ったのか? 今日は妹も昼食に参加すると言っていた。
と、教室を出ると廊下に二人の男子生徒がいる。
彼らは窓の外を眺めながら「まだ?」「なんか購買激混みだって」と会話している。誰かと待ち合わせしているのだろう。
丈は教室へ戻ろうとした。
「つうかあの一年! 愛海ちゃん!」
片方の男子生徒が声を大きくする。丈は教室と廊下の境界線を踏んだまま、立ち止まる。
「すげぇ可愛いよな」
「あの子って、三ツ矢夕生の妹らしいぜ」
丈は視線だけ彼らへ遣った。少し先にいる二人は丈の存在に気付いていない。
「三ツ矢夕生? そんなのいたか?」
「お前、去年クラス同じだったろ」
彼らは二年の生徒たちのようだ。男子生徒は「あっ」と思い出したように声を上げ、嘲笑うように言った。
「あの病弱くんな」
「病弱なんだ」
「そうそう。たまにすげぇ休んでた」
「へー。話したことある?」
「全然。俺らはない。静かなやつだったしな」
「友達いない感じ?」
二人はケラケラ笑い合った。元クラスメイトだと言った男が「あー」と空を見上げる。
「考えてみると三ツ矢夕生も顔はいい方かも。いつも俯いてたからあれだけど、女子がたまに可愛いって噂してた」
「女に可愛いって言われるやつね」
「あいつ脅したら愛海ちゃんと会わせてくんねぇかな」
「やってみる? チョロそう」
「弱そう。震えてそう」
「でも愛海ちゃんと仲良いのか? 話してんの見たことねぇし」
「仲悪いなら用無しだなー」
「脅すのだけやる?」
「ふはっ。なんで」
「面白そうだから」
「――邪魔だな」
男子二人が勢いよくこちらに振り向く。
同じタイミングでハッと目を丸くした。驚愕と困惑が入り混じった、まるで双子みたいなそっくりの顔をする。
丈は男たちを見下ろした。
男子たちが口々に言った。
「さっ、さーせ……すみません」
「えっ、桜井先輩? なんで……え?」
「お前ら邪魔かもな」
男子らが『えっ』と言ったような顔をする。本来なら当然の反応だ。彼らは廊下の端にいた。
だが丈にとってはどうにも邪魔なのだ。
丈は静かに告げた。
「夕生に何するっつった?」
二人が啞然とする。丈は低い声で問いかけた。
「脅す? 夕生に関わるつもりなのか?」
「……ゆ、ゆうき……?」
「……」
『ゆうき』が三ツ矢夕生だと思い至ったのだろう。男たちはみるみる青ざめていく。
「チョロいって、ははっ」
丈は笑って、軽く顔を指先で覆う。
はぁとため息を吐いてから語気を強めた。
「馬鹿言ってんなよ」
男子生徒たちが硬直する。右の男子がぶるッと肩を振るわせる。
丈は怒りを込めて吐き捨てた。
「三ツ矢夕生に手出したら殺すからな」
左の男子は顔面蒼白になった。窓枠に乗せていた手がずるっと落ちて体をよろめかせる。
ふざけやがって。
「絶対に関わるな。もちろんその妹にも。お前らの顔覚えたからさ。少しでもあの兄妹に近付いたら容赦しねぇぞ」
二人は声を失っている。丈は苛立って「なんか言えよ」と怒鳴った。
「は、はい」
「しません、何も」
「さっさとそう言やいいんだよクソが。もう行け」
顎を引いて促すが二人とも動けないでいる。丈は繰り返した。
「行けっつってんだろボケ」
「はいっ、はい」
「すみませんでしたっ!」
二人が慌てて駆け出していく。丈はその後ろ姿を眺めて、チッと舌打ちした。
面倒なことが増えている。去年は穏やかな一年だったのに。ああいう舐めた奴らがこれから増えていくのだろうか。
と背後にひと気を感じて丈は振り返った。
夕生かと思って焦ったが、その正体を目にして安堵する。
「……信じらんない……」
なんだ。妹の方か。
三ツ矢愛海が弁当らしき小さなバッグを持ってそこに立っていた。バケモノでも見るような目つきで丈を凝視していたが、やがて項垂れるように視線を落とし、泣き出しそうな声で呟いた。
「本当にありえない。いやだ。こんな裏表激しい、こんな気持ち悪い人がお兄ちゃんの傍にいるなんて最悪だ」
「は?」
「ちょっと待って、泣きそうなの」
愛海は弁当を片手にもち、顔を手のひらで覆った。
「いやだー……あ、ほんとに涙出た」
「はっ」
丈は鼻で笑って、先ほど彼らが駄弁っていた窓に肘をかける。
「アホくさ」
「うぅ……」
愛海は心底悔しそうに瞼を閉じた。何か体の奥底から湧き起こる感情を必死で抑えるみたいな顔をしている。
裏表か。どっちが裏で何が表なのか、妹に何が分かるというのだろう。丈は構わずに「何でお前だけなの?」と問いかける。
「夕生は?」
そんなことより夕生がやって来ない。
今日は妹が参加すると聞いていたので愛海がここに居るのは理解できても、夕生がいないのは意味が分からない。
てっきり妹を迎えに行ってると思ったのにそうではなかった。こんなに遅くなるなんて珍しい。何かあったのだろうか。
心配になってもう一度携帯を確認する。連絡は入っていない。
妹の方が「ふぅー……」と胸に手を当てて深呼吸をする。丈はそれを無表情で見下ろしながら言った。
「つか何で昼休み加わってきた? 邪魔だよ。妹さん」
「知らなかったの!」
妹は涙目で丈を睨み上げる。
「まさかお昼まで二人で過ごしてるなんて」
愛海は若干青褪めていた。瞳に嫌悪と警戒が滲んでいる。ある時点から、この妹から兄貴の親友への信頼度はゼロに等しい。
「別に毎回ってわけじゃない。どんな雰囲気か見ておきたいの。いいでしょ? なんか嫌なことお兄ちゃんにしてるから困るの? 何してるの?」
家庭教師と娘を監視する親のようだ。あまりにもくだらないので丈は廊下へ視線を遣った。
夕生が来ない。
妹は険しい顔つきで問いかけてくる。
「今みたいな事お兄ちゃんにしてないよね」
「するかよ」
馬鹿らしい。夕生相手に、怒鳴ったことなんか一度もないしそんなことをしてしまったら死んで詫びる。
丈は夕生からの連絡と廊下にやってくる人影を気にしながら愛海へ言った。
「あのさ。昨日誰が助けてやったと思ってんだ。夕生の妹で良かったな」
昨日の昼休み、担任に捕まって夕生の元へ行けずにいたところ隣のクラスの女子生徒が『愛海ちゃんが女子に囲われてる!』と丈へ助けを求めてきた。
どうするか迷ったが、愛海は夕生の妹だ。愛海に何かあれば夕生が深く傷つく。
ひとまず愛海の様子を見に行って、女子には適当に釘を刺し、それからこの教室へ来ようと思っていた。
だが愛海は貧血で倒れていた。放置するには人の目が集まりすぎていて可哀想なので保健室に運んだ。
直ぐ夕生のところへ向かったが、肝心の彼が居ない。
夕生は腹痛だったらしい。心配でならなかったが、昨日は結局夕生と会えなかった。
今朝もどことなく元気がなかった気がする。それに途中で厄介な元クラスメイトに出会してしまったし。
最悪だ。
愛海は暗い表情で呟いた。
「助けてなんて頼んでない」
「なら、あのまま寝てるつもりだったのか?」
「それでも良かったんじゃない? ただの貧血だし」
生意気なガキだ。だが本来の愛海はいくら丈を嫌っていようと礼は言う。
昨日の朝、昇降口で丈の友人たちと夕生がエンカウントしてから愛海の機嫌はかなり悪い。倒れた愛海を運んでいる最中も、愛海は虚ろな顔でチッと舌打ちしていた。
丈も友人は選んでいるつもりだ。だが昨日の朝は一人だけ圧倒的に空気の読めないバカが混じっていたのだ。
そいつが夕生へ決定的な一言を放ってしまった。
愛海はあの一言を許すつもりはないようで、そんな友人のいる丈にも怒っている。
「……丈くん」
丈への不信感が積もりに積もっているのだ。
「昨日のあの友達、何?」
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