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第一章
6 電気がつかない
しおりを挟む愛海には空き教室の場所をメッセージで教えた。《丈も楽しみにしてるよ》と付け足すと、愛海からは《まなジュース買ってくけどお兄ちゃん何がいい?》と返ってくる。
夕生は《大丈夫。何も要らない》と返事した。愛海は気遣いが出来る良い子だ。これから昼はああやって丈と居れば、誰かに呼び出されて危険な目に遭うこともないだろう。
昼休みのチャイムが鳴ってすぐ、夕生は教室を出た。いつも丈と昼飯を取っていたので教室では居心地が悪い。クラスには親切にしてくれる友達が二人いるけれど、昼食を共にするほど仲良くなれていない。
これからは丈がいないからもっと交友関係を築いていかなければ。わかってはいるが、今日はまだ余裕がなかった。
竹田が何か話しかけようとしてくるのが雰囲気で分かる。少し怖くて、足の痛みが酷くなる気もする。
だから逃げるように教室を去った。どこか静かな場所を見つけられればいいのだけど……と歩いていて、そう言えば、西棟に今は使っていない部屋があったのを思い出した。
教えてくれたのはオメガ性の先輩だ。夕生が一年の時、三年生だった先輩で、もう卒業してしまっている。
オメガにはオメガの匂いが分かると言うのは本当で、彼は夕生がオメガだと気付いた。彼はこの部屋に、夕生を連れてきてくれた。
この学校で代々オメガ性の生徒だけが知っている部屋だ。何か少しでも体に異変が起きた時、身を隠すために使っている。先生の一部もそれを知っていて、だからこの部屋を放置しているらしい。
「ちょっと埃っぽい、かな」
けれどそれほど汚らしいわけではない。定期的に誰かが掃除しているのだろう。
日本史準備室の隣にある狭い部屋だった。その影響か、沢山の日本史の本や教科書が棚には並べられている。窓の下にソファが置いてあって、カーテンは閉まっていた。
遮光性の高いカーテンだから部屋は暗い。カーテンを開こうと思ったけれど、外からここがバレるかもしれないと思ってやめた。
蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。
「あれ」
だが、電気が点かない。
何度か押してみたが反応は何も起きなかった。
部屋は暗いままだ。どうするか迷ったけれど、ひとまず夕生はソファに腰を下ろした。
スイッチを押した感触が指に残っている。何をしても何も起きない。
夕生は瞼を閉じて、ソファに寝転がった。
足の痛みのせいか体力をかなり消耗している気がする。授業中も凄く眠くて、睡魔に襲われながらも必死に授業を受けていた。
少し疲れてしまった。
今頃は、丈と愛海がご飯を食べている頃だろう。
……二人が出会ったのは、夕生がきっかけだった。
何もできないけれど、自分の存在で二人が幸せになれるのならば、それ以上に幸福なことはない。
彼らの幸福を祈ることと、胸が痛むことは共存する。後者をどうにか和らげていけば良い話だ。
夕生にとって丈は初恋だった。
初めての恋だ。誰だって叶わないもの。初恋が丈でよかったと思う。とても優しい人だから。丈の恋の相手が愛海でよかった。彼女はとても素敵な女の子だから。
夕生は深く息を吐く。
指にスイッチの感触が残っている。
押してもつかないスイッチだ。これは肌にも魂にも残っている。
――電気が、点かない。
何をしてもどうにもならない。
夕生は眠っている。
――「電気がつかないんです」
あの日もとても暑い日だった。
三年生の夏休みの八月の夜。時刻は分からない。電気がつかないから、テレビもつかなくて、時刻を知る術が何もなかったのだ。
その夜、夕生はとても困っていた。シンクの下の棚にあったカップ麺が一つだけ残っている。でも電気がつかないからケトルでお湯を沸かすことができない。
部屋が暗くて、テレビが点かないのは構わない。だがお湯がないのはだめだ。水は公園で調達できても、公園に熱湯は流れていない。
一度水でカップ麺を食べてみたけれどあれはダメだった。せっかくのラーメンが全く美味しくない。夕生は贅沢がしたかった。だから、《三ツ矢》と表札の豪邸へ向かった。
あれだけ家が大きいのだからお湯くらい分けてもらえるだろう。前にコンビニでお湯だけもらいにいった時は、近くにいた大人が睨みつけてきて怖かったので、もう行きたくない。
チャイムを押すと大きな男の人が出てきた。
「どうした?」と問いかけてくるその人に夕生は言った。
「こんばんは」
「こんばんは」
「あの……電気がつかないんです。だから、あの、お湯がないので」
「うん」
「お湯くれませんか? あの、これ」
夕生はカップ麺を取り出した。急いでビニールを剥がす。
「ここのとこまでお湯が欲しいんですけど、ダメですか」
「カップ麺にお湯を入れたいんだね」
「はい」
「うん、いいよ」
やはり親切な男の人だった。夕生はほっと安堵する。
ここの家のお父さんはいつも娘と一緒に公園を散歩している。とても優しそうだなとよく眺めていた。
夕生は近くのアパートに住んでいた。最近は次々に新しい綺麗な家が建っていて、夕生のアパートだけ茶色く燻んだ色をしている。
「すみません。これお金です」
「暑いから中に入っていいよ。須藤さん。須藤さん」
十円玉二枚と五円玉一枚を差し出すが男の人は受け取らない。そのお父さんが家の方へ声をかけると、玄関から女の人が出てきた。
エプロンをしたその人は不思議そうにやってくる。そして夕生を見ると、眉を下げた。
……困っている。
夕生は咄嗟に俯いた。
差し出しかけたカップ麺を腕の中に抱えてすぐ言った。
「あ、やっぱり大丈夫でした」
「待て」
男の人が止めた。
夕生はびっくりして足を止める。
女の人が慌てて言った。
「こちらへどうぞ。中でお茶でも飲みましょう」
「え、はい……」
「そうだな。マナミ。マナミー、いるか」
すぐ玄関から女の子が出てきた。
同い年か少し下の女の子だ。ふんわりしたピンクのワンピースを着ている。髪の毛をふわふわした紐で一つに纏めていた。公園でたまに見かけた女の子だ。
「マナミ、冷蔵庫の蜂蜜ティーを注いでくれ」
「うん。分かったー」
「さ、中へ入りましょう」
「あの、お湯ください」
居るとは思っていたけれど実際にあの子がいると思うと気が引ける。足が汚れているかもしれない。家に入るのは嫌だった。
「お湯……ここで待っていて良いですか」
先ほど受け取ってもらえなかったお金を女の人に渡す。女の人はまた困った顔をした。
背中がいきなり暖かくなった。
「入ろう。暑いんだ」
男の人が背中に手を当てていた。あっ、と思った。最近たくさん汗をかいてシャツが汚いのに。
促されて夕生は歩き出す。大きな庭を渡り、あっという間に玄関へやってくる。
女の人がスリッパを差し出してくれた。スリッパが汚れてしまうと思って嫌だったが、裸足で廊下に上がると家の方が汚れてしまう。
恐る恐るスリッパを使った。スリッパ……学校の授業参観の日で、皆のお母さんたちが使ってるやつだ。
「先にお湯を入れてきましょうね」
「君はリビングで待ってなさい」
男の人に言われて、広い部屋に案内される。テーブルやソファや色々、全部の物が大きかった。
椅子にあの女の子が座っている。足をぶらぶらさせて、じっと夕生を見ていた。
男の人が部屋から消えてしまった。エプロンの人のところへ向かったのだろうか。立っていると、女の子が言った。
「座らないの?」
「えっ」
「これおいしいよ。飲んだ方がいいよー」
夕生は男の人が消えていった方へ振り返った。顔を戻し、女の子に言う。
「ううん、大丈夫」
「ふーん。おにいちゃん、公園にいる子だよね」
驚いた。夕生が見ていたのと同じように、向こうもこちらを認識していたらしい。
「今日あっついねー」
「そうだね」
「まなね、あつすぎて超怒ったよ今日」
「怒る……?」
「カップ麺にお湯を入れてきたよ」
するとあの二人が戻ってきた。
エプロンの人が「外は暑いからここで食べていく?」と問いかけてくる。美味しそうな匂いがする。夕生は彼女のもつカップ麺に手を伸ばしながら「大丈夫です」と言った。
それを男の人が制止した。
「いや、ここで食べよう。まなみ、上行ってな。お前はもう寝なさい」
「はぁい」
まなみと呼ばれた女の子が、夕生へ「めちゃ夜更かししちゃったね。またねっ」と笑って去っていく。困惑していると、目の前に男の人がしゃがみ込む。夕生は焦って、エプロンの人のカップ麺を見上げた。
「どうして電気が点かない?」
「えっ」
男の人が問いかけてくる。夕生は考えたが、首を横に振った。
「わかりません」
電気が点かないことに理由があるとは思わなかった。点かないだけだ。
「お父さんとお母さんはどこにいる?」
お父さんの方はわからない。でも。
「お母さんは仕事に行ってます」
「いつ帰ってくるんだ?」
「……明日とかだと思います」
「最後に帰ってきたのはいつなんだ?」
「多分、一昨日とかです」
「家にご飯はあるのか?」
「……あの、ラーメン……」
夕生は不安になってカップ麺を見上げる。エプロンの人はにっこりして、「お食事しながらお話しましょうね」と言った。
椅子に座って、ラーメンを食べることになった。もしかして何かよくないことをしているんじゃないか。嘘を吐いたら物凄く怒られるかもしれない。ちゃんと言わないと。
不安に思いながらもとにかくお腹が空いていたのでラーメンをちびちび食べていく。
「いつから電気がついていない?」
「先週? とかです」
雷が鳴っていた日だ。いきなり電気が消えてびっくりしたのを覚えている。
もしかしてあれでブレーカーが落ちたのだろうか。たまに電気がつかなくなることはあるので、雷のせいだとは思わなかった。
夕生はハッとして顔を上げた。
「あっ。雷のせいかもしれません」
「三ツ矢さん、先々週に雷で一帯が停電したでしょう」
「そうだな」
「それかもしれません。ブレーカー……家に帰ったら直してみます」
よかった。解決策が見つかった。夕生は安心した。
と、顔を上げて時計に気付いた。時刻は午後十時を指している。そんな時間だったんだ。ずっと寝ていたので分からなかった。
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