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第一章

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 テープを貼っていたのに翌日になっても足首の痛みが引かなかった。洗濯物を干すのにも時間がかかる。
 幸いにもかなり早朝に目が覚めてしまったので時間はあった。洗濯物を干してから、朝食を作ろうと一階へ降りてくると、
「おはよう」
 愛海が寝ぼけ眼を擦りながらやってきた。
 少し意外に思う。こんなに早く起きてくるなんて。
「おはよう。具合、大丈夫?」
「へいきぃ……何しようとしてるの?」
 キッチンに向かおうとすると愛海が眉を顰めた。
 夕生は首を傾げる。
「何って、愛海朝ご飯食べるだろ?」
「まなが作るよ」
「いやいいよ」
 愛海がぐいっと夕生に近寄った。それほど背の高さは変わらないが上目遣いで見上げてくる。
「去年は受験でまな、何も出来なかったけどさ。今年は料理とかやってみたいの」
「そうなんだ」
「だから朝ご飯、まなが作るね。お弁当はもうあるし」
「そっか。うん」
 そういうことなら仕方ない。
 愛海は昔から極端に朝が弱い印象だったが、今年はかなり早起きだ。気持ちに余裕が出て色んなことに挑戦しようとしているのだろう。
 お昼のお弁当はいつも用意されている。だから必要なのは朝ご飯だ。
 目玉焼きを作ると言うので傍で見守っていることにした。フライパンを温め、油を垂らす。そうして卵を投入する。上手く焼けたようだ。
 間にパンを焼いていたのでそれらをテーブルに運ぶ。苺も洗って持ってきて、二人で食事をした。平日の朝は父が会社付近のホテルに泊まっていることが多く、愛海と二人きりの時間が多い。
 この時間は楽しかった。愛海はお喋りで、色んなことを夕生に教えてくれる。
 すると、愛海が言った。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
 つい今し方まで溌剌と話していた愛海の声のトーンが落ちる。
 微かに緊張の孕んだ声で呟いた。
「お昼休み、丈くんといるって言ってたでしょ?」
 突然切り出されて夕生は言葉が出なかった。
 愛海が続ける。
「今日、まなも参加していい? 丈くんが言ってたよ。お昼、ご飯食べながら勉強してるんだよね」
「……うん」
 確かに去年、丈が夕生をお昼ごはんに誘ってきた理由はそれだった。
 昼ご飯に理由を付けていたのは夕生が応じやすいようにするためだったのだと思う。友達が居ない夕生が昼休みに一人にならないよう丈が気遣ってくれただけだ。
 最初の方は勉強もしながらお弁当を食べていたけど、最近では建前となっていて、昼は二人でお喋りしていた。
 でも、そうだった。
「まなも参加したいな」
「……勿論、いいよ」
 夕生では丈を楽しませてやれない。愛海がいた方がいいに決まっている。
「きっと丈も喜ぶと思う」
 愛海はそれを聞いて、困ったように微笑んだ。今から緊張しているのか若干強張った顔をする。いつも元気な愛海が顔色を変えるのは丈に関することだけ。
 点けっ放しにしていたテレビでアルファとオメガのドラマのCMが流れていた。運命の恋に落ちる二人に愛海が目を向ける。ふわっと微笑み、トキメキの瞳でじっと見つめる。
 愛海はアルファとオメガの恋愛ドラマが好きで、番に憧れている。いつか好きな人と番になりたいと、小学生の愛海が呟いていたのを思い出す。
 もうすぐ丈がやってくる。
 まだ朝は愛海の時間ではないが、きっとそれも愛海のものになるのだろう。
 夕生はまた痛みに顔を歪めた。心臓を乱暴な子供の手で鷲掴みされたように痛い。すると足首の痛みも思い出した。苦痛に歪む顔を俯いて隠し、考える。
 今日の登校は先に夕生から外れよう。湿布を買いに行くんだ。だから、仕方ない。
 湿布のためだから仕方ない。
 突然、愛海が、
「……お兄ちゃん」
 と呟く。
 ドラマを見ていた愛海がいつの間にか夕生を凝視している。大きな瞳で真剣に見つめられると夕生は強張る。その瞳は夕生の心を見透かそうとする目に見える。
 愛海は言った。
「今日ちょっと調子悪い?」
「え?」
「なんか。なんだろうな。そんな気がしたから」
 何か夕生の心の嫌なところを感じ取ったのだろうか。夕生は内心焦ったが、無理やり笑って返した。
「全然大丈夫だよ」
 愛海はすると、ゆっくりと微笑んで「そっか」と言った。



















「え?」
 丈は目を見開いて二秒後、ハッとしたように「うんいいよ」と微笑んだ。
 「今日愛海もお昼参加していい?」に対する回答だった。妙な間が空いたがそれだけ丈にとっては意外で、そしてサプライズ的な喜びがあったのか、にっこりと嬉しそうに笑って頷いてくれる。
「愛海も来るのか。そっか」
 丈が喜んでいる。
 足が痛い。
 歩いているせいか痛みが増している気がする。だめだ。
 夕生には何も起こっていない。不備はないから、だから大丈夫。そういう風に見せるため決して痛みを顔に出さないよう夕生も微笑んでみせた。
 心も足も何も痛くない。……無理やり微笑みを作る自分に嫌悪感を抱く。
 ちゃんと二人の幸せを願わないと。
「夕生知ってた? 今年のGW、一日だけ平日挟んでんの」
「うん」
「あれ休んでいいかな?」
「だめだよ」
「だめかー。休みたいなー」
 丈が和やかに笑っている。学校が近付いてくる。このまま笑っていれば無事に学校へ辿り着く……あ、そうだった。湿布を買うんだった。
 自分のことで一杯一杯で丈から離れてあげることができなかった。違う。丈から離れるためじゃない。湿布を買うんだ。だから仕方ないんだ。
 仕方なかったのに。
「あれ、丈じゃん」
 まだ校舎さえ見えていなかった。
 生徒たちの多い大通りにも合流していない。それなのに、振り向けば背後に丈へ声をかける三年生がいた。
「ああ……。ダイスケ、コガ」
 丈の応答に少しの時間を要した。彼らは夕生も見たことがない生徒だ。丈の友人たちには混じっていない人物に見える。
「去年ぶり」
 丈が優しく微笑む。二人の先輩たちが溌剌として話しかけてきた。
「だな。クラスどう?」
「いいよ」
「相変わらず答えがふわふわしてんだよなぁ」
 去年のクラスメイトのようだった。夕生は一歩だけ丈から離れて俯く。
 足が痛い。ここにいても邪魔するだけだし去ってしまおうか。でも丈へ声をかける隙もなく話は続いた。
「丈、昨日天使ちゃんを悪魔から救い出したんだって?」
 話題が昨日の件に移る。途端に脳裏にあの残像が過ぎる。
 丈が愛海を抱えて去っていく。
 夕生には二人とも気付いていない。
 夕生は息苦しさを覚えた。何やら会話しているのも全く耳に入ってこない。脳が勝手にシャットアウトしているみたいだ。夕生はさらに俯いた。
「あれ」
 すると黙っていたコガと呼ばれる方が呟いた。
 それが何だか妙な声だったので夕生は小さく顔をあげた。悪い予感がしたと思ったけれど、やっぱりだ。
 先輩が夕生を見て目を眇める。こそっと隣のダイスケに耳打ちをする声を、この愚かな耳は勝手に拾ってしまう。
「ほら、じゃない方」
「えっ。んじゃ愛海ちゃんのお兄さん?」
 夕生は息を吸った。言わなきゃ。先に行くって。
 じゃなきゃ言われてしまう。
「似てねー……」
「おっ」
 夕生は声を絞り出す。丈の顔が見られないまま矢継ぎ早に告げた。
「俺、先に行くね」
 返事を聞かずに歩き出す。
 あぁ言われてしまった。でもまだ遅くない。頭に『じゃない方』『似てねー』と声が浮かび一瞬で大きくなった。これ以上大きくなる前に去らないと。
 だが。
「待って」
 手首を丈に握られてその世界から出て行くことができない。
 驚いて丈を見上げる。追いかけてきた丈は静かな表情で夕生を見下ろしている。
 真剣な表情をしているように見えた。その顔に目を凝らすと、丈が夕生から顔を背けた。
「……ダイスケ、お前らが早く行け」
 丈にしては低い声だった。びっくりして丈を見つめる夕生だが、丈は彼らに顔を向けているのでその表情が見えない。
 するといきなりあの二人は目を丸くし、硬直した。
 焦りが二人の顔に滲む。明らかに動転した様子で、慌てて「じゃ」「また」と去っていった。
 いきなりどうしたのだろう? 心配になるがこちらに顔を向けた丈は、いつものようににっこりと微笑む。
「学校行こう」
「あ、うん……」
「あれ去年のクラスメイト。名前忘れてたから焦った」
「そうなんだ……丈、コンビニ寄るんじゃなかった?」
「いい。買うもんないし。行こう」
 丈はふんわりと笑う。夕生は「そっか」と小さく呟いて、丈の隣でまた歩き出した。
 そっか。今日はコンビニへ行かないのか。行かないんだ……。性懲りもなく夕生は嬉しくなってしまう。丈と愛海の幸せのためには喜んではいけないのに嬉しくなる。
 でも頭は心と別だった。脳には熱が宿る。みるみる熱くなって、炎が渦巻いていく。
 幻聴が聞こえてくる。通りを犬と共に散歩する人や、会社へ向かう人たちがこちらを見て噂している。
 ――『じゃない方だ』『なんで愛海ちゃんじゃないんだ』『どうしてこいつが、そこにいるんだ』
 ——『お前の居場所じゃないのに』
「丈」
 夕生は、唇から声をこぼしていた。
 丈が「何?」とのんびりした口調で返す。
 夕生は吐息混じりに呟いた。
「俺、コンビニ行きたい」
「え?」
 一瞬驚いた丈だが、また優しく微笑む。
「じゃあ一緒に」
「丈は買うものないんでしょ? だから先行ってていいよ」
 丈が黙り込む。少しだけ言い迷った丈だが、
「でも」
 と小さく続ける。
 夕生は言い切った。
「先行ってて。大丈夫だから」
 数秒の沈黙が流れる。夕生は丈の顔が見られないまま彼の返事を待った。
 そんなにおかしなことじゃないはず。だっていつもなら丈がコンビニへ行く。同じことだ。大丈夫。
 大丈夫。
「わかった」
 丈が言った。夕生は顔を上げる。
 丈は「じゃあ、お昼に」とニコッとした。
「……うん。お昼にね」
「待ってるねー」
 丈は軽く手を振って、学校へと歩いていった。夕生はその姿をじっと見つめる。
 ……よかった。本当に。
 丈がゆっくりと先を歩いていく。振り向かずに行って欲しい。足が痛くて、今にも蹲りそうだから。
 丈が角を曲がってその姿が見えなくなった。夕生はしゃがみ込み、深く息を吐く。
 よかった。
 これで丈は『じゃない方』が隣にいて揶揄われることもない。夕生が勝手に嬉しくなってばかりでろくに丈を楽しませてやれないひとときだったが、愛海が昼に参加することを報告できたのだ。
 役に立てた。よかった。
 もう俺は要らない。
 二人にしてあげよう。















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