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番外編
鼻血を出した玲君に慌てすぎる一成様の話
しおりを挟む「玲が!」
少し開いた扉の向こうから一成の大声が聞こえてくる。
玲はぼんやり横たわったままそれを聞いていた。
「玲が鼻血出したぞ!!!!!!」
「声でっか」
返すはたった今部屋に到着したばかりの涼だ。
「玲が死ぬ!」
「いや、鼻血くらいで死なないでしょ」
「出血過多で!」
「まだ鼻血出してるの?」
「もう止まった」
「何なんだ」
「でも何かあるだろ!!」
「ちょ、うるさ……」
玲は真っ暗な部屋で、二人の会話をただ聞いている。
事の発端は夕食の前だった。
玲は仕事を終えて帰宅し、一成は上機嫌で何かを作っている。一成は最近料理にハマっていた。一度熱が入るとなかなか冷めないらしく、料理にハマって三ヶ月が経つ。三日坊主で終わらないところがさすがだ。最近のミッションは玲が帰宅するまでに夕食の準備に取り掛かる事のようで、今日もそれだった。
他の家事はハウスキーパーのヨシさんが完了してくれているので夕方の玲はすることがない。玲は帰宅してすぐ、一成の元へトコトコやってきて、「一成さん」と声をかけた。
一成が「おかえり」と返す。
「今日、暑かったな」
「はい」
「お前の好きな酒あるぞ」
「そうですか」
「さっきさ、再放送で二十年くらい前のドラマやってたんだけど、玲みたいなやつがいたな。不貞腐れたみたいな顔でトコトコ歩いて、主人公の側を離れないんだ。猫みたいでヨォ。玲じゃねぇか。なぁ?」
「……」
一通りお喋りした玲は最後の言葉は返事をせず、トコトコ歩いて洗面台へ向かい、手を洗う。また一成の元へ行き、「何作ってるんですか」と問いかけると、一成は「シチューーーーー」と機嫌良く返事をした。
「玲の好きなニンジン入ってるぞ」
「好きじゃないです」
「でも食べるだろ?」
「食べます」
またトコトコ自分の部屋に戻り、部屋着のスウェットに着替える。
もう一度一成の元へやってきて、「シチューって白いシチューですか」と訊ねる。一成が「おう。この間漫画読んでて見たんだけど、シチューってコスパいいらしいぜ。栄養の」とペラペラ語るのを隣で聞き、満足した玲は熱帯魚を観察して、一成が作り終えるのを待つ。
この最中だった。
「あれ」
口元に違和感を感じて、玲は自分の鼻に手を当てた。
見ると指が真っ赤に濡れている。
玲は焦って、また手のひらで鼻を押さえた。さらりとした血がみるみる手のひらを汚していく。玲は思わず座り込んだ。
「玲?」
すると異変に気付いた一成がこちらに歩いてくる。
玲は困った表情を浮かべて、一成を見上げた。
「一成さ、」と呟いた直後に、体がふわっと浮く。
「うわっ」
「玲が死ぬ!!!!」
一成は叫び、玲を両手でお姫様抱っこの形で抱きかかえると、一成の寝室へ運んだ。
豪快な歩みとは違って丁寧にベッドに下ろされる。一成は「玲が! 玲が!」と大騒ぎし始めた。
「い、一成さ、」
「玲! ほら!」
と渡されたのはクローゼットに入っていた高級タオルだ。確か一成が何かの記念で渡された一枚五千円のフェイスタオルである。
玲はフルフル首を振った。これは、ちょっと。
一成はショックを受けたような顔をして叫んだ。
「何でだ!」
「あ、あのティッシュを」
「ほら!!!」
ティッシュを渡されてひとまず鼻を抑える。ベッドの上だと汚れそうなので出ようとすると、一成がまた悲痛そうに叫んだ。
「何でだ!!! なぜ出ようとする!!」
「あの、落ち着いて」
「玲が死ぬ!! どうしたら!!」
一成の全てのセリフに感嘆符が大量に付いている。一成はティッシュをバサっと引き抜いて、玲の顔に当てた。もこもこして前が見えない。
「どうしたら……医者!?」
「いや、平気です」
「何が平気!?」
「えっ」
ちょっと鼻血を出しただけだ。だが一成の顔は絶望に染まっていた。
慌てすぎる一成に驚く玲と、鼻血を出す玲に驚愕する一成。玲は予感した。この場はそう容易く収まらない。
「お前っ……お前!! 医者!!」
「一成さん、落ち着いて」
「医者!!!!」
「大丈夫なので」
「なんだお前!! 何言ってんだ!!!」
「えっ。あの、ただの鼻血です」
「ただの!? 鼻血!!」
玲は唖然とした。もしかして、一成は鼻血を出したことがないのだろうか。
この慌て様はそうに違いない。それか病弱な母親が関係している? 推察する玲の前で、一成は右に歩き、左に歩き、ゴミ箱を手にして、前に歩き、後ろに歩き、やがて玲の前に跪く。
「医者なしでどうすんだこれは!!!」
「えっと、時間をおけば……」
「玲!!」
「は、はい」
「血出てっぞ!!」
「あ、はい」
「医者……!!」
「りょ、涼を呼んでください」
だめだ。
他に冷静な第三者が必要である。
咄嗟に判断した玲は「涼に連絡してくれれば、大丈夫です」と言った。涼は休日だ。今朝も《今日暇になったから兄ちゃん家行っていいー?》と連絡が来ていた。仕事なので断ったが、涼が来て、率直に一成に大丈夫だと伝えてくれれば彼の動揺もおさまるはず。
今日はとにかく暑かった。玲は暑さに弱いと自覚している。鼻血が出たのはそのせいだ。
「涼は医者じゃねぇだろ!!!」
「そうですけど、涼は解決法を知っているので」
「まじか!!」
どうしよう。
あまりに一成が慌てているので笑いそうになる。
鼻血は出たり、場にそぐわない笑いが出そうになったり、玲は大変だった。一成は早速涼に電話をかけている。向こうが着信を受け取ったのか、怒鳴るように言った。
「涼!! 兄貴が鼻血出したぞ!!」
一成は数秒おいて、また感嘆符をつけながら返す。
「タクシー代出すから今すぐ来い! 玲!」
速攻で電話を切った一成が玲の元へやってくる。電話をしている間にベッドから出ようとした玲を再度押さえつけて、心配そうに顔を覗き込んできた。
「痛いか?」
「痛くないです」
一成は携帯で何かを調べ始めて、途端にプリンターが動き始めた。印刷された紙を手に取り、再度玲の足元へやってくる。
「前傾姿勢……こうか?」
言いながら玲の体を軽々と持ち上げてくるので、思わず「おわ」と声が出る。一成によってベッドに腰掛ける姿勢にさせられた玲は、彼の持っている紙を盗み見た。
《鼻血 対処法》のサイトを印刷したようだ。
「玲、下向け」
「はい」
「うがい……うがい!」
一成が勢いよく立ち上がり部屋を去っていく。帰ってきた彼は二リットルのミネラルウォーターと洗面器を持っている。
「口の中に血が入ってたらうがいをしろ!」
「はい」
サイトに書かれた文面をそのまま大声で言った一成は、以降も、やいややいや騒いでいた。
やがて部屋のベルが鳴る。その頃には玲の鼻血も止まっていた。「寝てろ!」と叫び玲を横たえ、部屋の電気を消した一成は、すぐさま玄関へ向かってしまう。
その背中を見送ってから、玲は目を閉じた。
涼がやってきたようだ。
「玲が! 鼻血出したぞ!」
二人の会話が廊下から聞こえてきた。
「声でっか」
涼の呆れた声が続く。わずかに開いた扉の隙間から、暗い寝室に廊下からの明かりが漏れている。二人の会話も十分、届いた。
「玲が死ぬ!」
「いや、鼻血くらいで死なないでしょ」
「出血過多で!」
「まだ鼻血出してるの?」
「もう止まった」
「何なんだ」
「でも何かあるだろ!!」
「ちょ、うるさ……」
すると、寝室の扉が完全に開いた。
やってきた涼と視線がバチっと交わる。見つめあって三秒後、涼は仕方なさそうに目を細めた、
玲も困って微笑み返すと、涼は振り返り、一成へ言う。
「大丈夫そうじゃん」
「お前は何も分かってない。人間は脆い。無力だ」
「兄ちゃん、暑さに弱いから。今日すごく暑かっただろ? 多分そのせいだよ」
「どうしたらいいんだ」
「え?」
「暑いからって鼻血出してたら血無くなるぞ。どうしたらいいんだ」
「気候をどうにかするってこと? 人間は無力ですよ、月城さん」
「玲は大丈夫なのか?」
「大丈夫だよね?」
会話の矛先と視線がこちらに向けられるので、玲はゆっくりと上半身を起こした。
一成が「起きるな!」と声だけで止めてくる。声を振り払い、彼らに笑いかけた。
「うん、大丈夫」
「ほら、兄ちゃんもこう言ってる」
ベッドに腰掛ける玲に一成が大股で歩いてくる。跪き、玲の膝に両手を置いた。目線を合わせるようにして顔を覗き込んできて、声のボリュームを下げる。
「本当に平気なのか?」
「平気です」
「お前、顔から、血出してたぞ」
「はい。鼻から出しました」
「死ぬな」
「死にません。たまに出すんです。最近はなかったけど。俺、鼻血出やすいんです」
「それ変だぞ」
「ね」
一成はウェットティッシュを手に取ると、玲の顔を拭いてくる。先ほどもそうされたのでもう汚れは付いていないはずなのに、それでも一成は、優しく、念入りに、顔を綺麗にしてくれた。
「平気なんだな?」
「はい」
「……」
一成は納得しているのかしていないのかわからない顔をしている。多分、納得していない。
じっと見つめていると、一成が真顔のまま顔を近づけてきた。
「んむ」
「なら飯食べるか?」
なぜかキスをしてきた一成は、唇を離してそう言った。後ろにいる涼が、「俺は何を見せられてるんだ」とぼやいている。
「はい、食べます」
「じゃあ準備する」
「俺もします」
「するな。ここにいろ」
一成は立ち上がって、扉付近にいた涼に「お前も食べてく?」と声をかける。
「そうしようかな。お母さんに連絡しとく」
「じゃあ、ここで玲を見てろ」
それは提案ではなく命令で、涼の返事を聞く前に一成は去っていった。
そうしてようやっと涼が部屋の電気をつけてくれる。こちらを見下ろし、呆れた口調で言う。
「兄ちゃん、笑ってんじゃん」
「……だっておかしくて」
玲は唇を手で覆うようにして俯いた。涼はため息を吐いて、隣に腰掛ける。
玲はもう堪えきれなかった。むしろここまで三十分、よく我慢した方だと思う。
「はははっ」
「すげぇ笑ってる……」
「一成さん、大慌てだった」
「だな。死ぬとか叫んでたんだけど」
「鼻血出したばっかの時はもっと大騒ぎだった」
「まぁ……あんなに心配してる人を笑うのはよくないよ」
「ごめん」
「新しい仕事忙しいの? 大丈夫?」
「うーん。慣れないのかな。ただ、今日は暑かったから疲れてた」
「そっか。お大事にね」
「ありがとう」
しばらく話していると、いい匂いが漂ってくる。二人で部屋を出て、リビングへ向かうと、一成が皿に分けたシチューを運んでいる最中だった。
「これ月城さんが作ったの? すげぇ」
本気で驚いた様子の涼がテーブルの品々を凝視している。他にもチキンの照り焼きと、パンやサラダが並べられていた。
「すげぇだろ」
「意外なんだけど。月城さん料理得意なんだ」
「得意になってる最中」
「応援するよ」
二人はとても自然に会話していた。
玲はどこか、嵐の過ぎ去った気分でそれを眺めている。黙っていると、こちらに二人が振り向いた。
「兄ちゃん、シチュー食べて栄養つけてね」
「玲、シチュー食って栄養取れ!」
同じようなことを言った二人は、(同じこと言った)と驚いたように目を見合わせる。
玲は思わず微笑んだ。
「うん」
なんだかとても良い気分だ。
良い匂いのシチューを眺めて「美味しそう」と呟く玲に、弟も恋人も、安心したような笑みを浮かべていた。
☆お久しぶりです!9/23のJ庭56に参加します。暴君アルファを同人誌として出すのでお知らせも兼ねた番外編でした。
新作も始まってますので何卒よろしくお願いします~!
本物の恋人になった後の玲くんはますます可愛いです
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