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最終章

60 さよなら

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 一成は立ち止まり、玲は歩き出した。すると黒い車の運転席から彼が出てくる。横顔だけで、近付いてくる玲を認める。
 とぼとぼと歩いてくる玲を見下ろした由良は、開口一番に告げた。
「終わりだ」
 玲は由良の少し手前で立ち止まる。
 彼はぼやいた。
「それを伝えるためについてきてやった。暇じゃねぇっつってんのに……」
「どうしてこの場所が分かったんですか」
「如月一成に聞いてないのか?」
 玲は弱々しく首を横に振った。
 由良は吸いかけの煙草を口に咥えてから、煙の後に告げる。
「お前の弟が、あのレストランのこと覚えてたからな。あらかた探し回って、結局ここでお前を見つけた。仕方ねぇから俺も来てやったけど、なぁんで如月一成はさっさと車から降りてお前んとこ行かねぇんだ。腹立って仕方なかった」
「……終わりって何」
「あの男が残りの借金を全部払った。大した額じゃあ、なかったけどな」
「終わりなんてあるんですか?」
「借金を返し終えたんならお前に用なんてねぇだろ」
 玲は唇を引き結んで由良を見上げている。
 随分と視線は近くなったけれど、結局この男に身長が追いつくことはなかった。子供の頃はもっと、見上げる角度が急で大変だった。
「三億の借金のことか?」
 由良が無表情で言う。
 玲は無言で頷いた。
 由良はすると、かすかに目を細めた。
「お前が真剣に生きてきたことはもう皆、わかってる」
 玲は黙って彼の言葉を聞いていた。
「若い奴らは勝手に俺の話をお前にするくらい、テメェに気を許してやがるし。親父がお前の店にばっかやってきて、お前を気にしてんのも、周りのジジイ達も見てる」
「……」
「俺が解放したって、他の連中は文句なんか言えねぇだろ」
「……」
「勝手に生きろ」
「由良さん」
「玲」
 由良は強い口調で遮った。
 玲を鋭く見下ろし、叱りつけるように言う。
「店は辞めろ。もう来なくていい。あの店はヤクザの出入りが多すぎる。今後は事務所にも来るな。嵐海の敷居も跨ぐなよ」
「……はい」
「二度と嵐海と関わるな」
 玲はまるで、由良に従順だった頃へ戻ったみたいに頷いた。
 由良は黙って煙草を吸う。玲はその横顔をじっと見つめた。
 出会ってから九年が経っている。九年前の土砂降りの中、この場所で、二人は今みたいに並んでいた。
 由良はまだ若く、組長を守るために苦しげに表情を崩していた。
 あれから月日が経ち、玲は背が伸びて、由良は年を重ねた。今でも綺麗な人だとは思うけれど、切れ長の目尻には皺が滲み、より恐ろしく、より優雅になって、彼の齎す重厚な圧に逆らえるものなどもう居ない。
 若い由良が見せた、あの余裕のない必死な顔を、あれから玲が見たことは一度もなかった。
 時間が経ってしまったのだ。
 玲は穏やかに返した。
「由良さん、さよなら」
「あぁ」
 由良が頷く。玲は踵を返し、一成のもとへ歩き出す。
 玲もまた、幼すぎた頃のような振る舞いはしなかった。由良に殴りかかることもなく、由良の言葉を受け止めて、彼の元を離れていく。
 ……でも。
 玲は途中で立ち止まり、勢いよく振り返った。
「ゆ、由良さんっ」
 大声で呼びかけると、由良がこちらに顔を向ける。
 玲は叫ぶように言った。
「ありがとうございました」
 由良は煙草を口元へ運ぶ最中の姿で固まる。
 目を丸くした彼はそれから、嘘だろと言うように口を開けて笑った。
 玲は唇を強く噛み締める。由良がそんな風に笑っているのを初めて見たのだ。
 本気でおかしそうに仰け反って笑っていた由良が、こちらに叫び返した。
「二度とこっちに来るんじゃねぇぞ!」
「はいっ」
 頷いた玲は今度こそ、一成の元へ真っ直ぐ歩いていく。
 玲はそこから去り、それを由良が見送る。玲は、どこへ行けばいいか、誰に助けを求めたらいいのか分からず、ただ辺りを走り回ったりなどしない。
 もう由良と会うこともないのだろうなと確信して、無性に切なくなった。由良の助けで契約した家は引き払っていて、玲の首元を守るチョーカーも一成の物。
 鎖という名の絆であった借金も無くなった。
 一成の背後で東空が桃色に燃えている。光の生まれる先へ歩く玲は、夜の薄れる過去へ振り返らずに歩く。
 玲は振り返らない。
「玲」
 一成が横断歩道の前で待っている。玲は俯きがちに隣に並んだ。
「行くぞ」
 その声で顔を上げた。ずっと赤だった信号が青に変わっている。
 玲はゆっくりと、一歩ずつ、一成と共に渡った。
 嘘のように足が軽かった。古い錘を置いてきたように。玲はでも、とにかく胸が苦しくて、黙り込んでしまう。
 けれどお喋りな一成は話し続けるのだ。
「お前を見つけるために夜の間東京中を走り回った。途中でお前の弟が閃いたんだよ。もしかしたら昔住んでた町じゃねぇかって」
「はい」
「ま、お前の弟っつうか、俺の弟でもあるけどな」
「そうですよ。弟ですよ? 大事にしてください」
「大事にするかどうかは向こうの出方にもよる。涼のやつ、俺に生意気なんだよ。ああだこうだ言ってくんの。お前の弟はどうなってんだ」
「仲良いんですね」
「確かに仲悪くはねぇな。だから安心しろ。お前の家族とも俺は上手くやっていける」
「大事にしてくれますか?」
「すげぇ大事にする」
 六月六日はつい先日に過ぎ去っていた。九年前のあの日は豪雨で、今日はとても晴れている。
 梅雨が到来しているとレストランのラジオが報じていたが、今日はどうしてだろう。確かに空には雲がかかっているが、その雲は爽やかな白色で、青い空が広範囲に見えている。
「なぁ玲。大江のことも知ってたのか?」
「はい……俺も探偵を雇ってたので」
「なら大江が俺の傍にいること、そいつにバレてんだな」
「危ないですか?」
「今んとこ平気ってことは大丈夫なんだろうけど、大江に伝えとく」
「ごめんなさい」
「何でお前が謝るんだ」
「俺が一成さんを調べたから、大江さんが危険なんでしょう」
「いや。あいつが調子乗ってフラフラしてっからだ。詰めが甘いんだよ」
 一成は悪い笑い方をした。玲はそれを眺めながら呟く。
「でも心配ですよね」
「何とかなるって。大江もあちゃちゃちゃ、って程度だろ」
「そうなんですか?」
「そんなもん。その『大江』ってのも違和感あっけどな。いつからあいつは大江元なんだ」
「偽名なんですね」
「思いっきり偽名。くるくる変わるから、俺は都度、苗字を適当に呼んでるだけ」
「……あちゃちゃ、ちゃ、で済みますか?」
「何で一拍置いた」
「え?」
「あちゃちゃ、ちゃって言ったろ」
「言いましたか?」
「言った。バチくそにかわいい」
「……」
「歌ってるみたいで」
「歌ってないです」
「体左右に揺らしながらもっかい言ってみろ」
「言いません……」
 話している間に横断歩道を渡りきっている。
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