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第五章
56 運命はいらない
しおりを挟むあの豪雨の事件から七年が経っている。
玲は借金を返しながらも金を貯めて、出来るだけ優秀な探偵を雇った。十八歳になる頃には、次に接触する人物を決めている。
如月一成。
あの男の息子だ。
彼は如月成彦の正式な長男で家を継ぐ立場にあった。
しかし高校卒業後に日本から出ていて、如月家を継ぐことなく好き勝手生きている。今は如月成彦の弟が当主のようだ。
如月一成が日本から出たのは七年前。現二十五歳の彼が十八歳のとき。外国への留学のようだがおかしいのは彼の母親、つまり如月成彦の妻を連れて行ったこと。
玲の母の特攻は、如月一成が日本から出た後だった。
玲は如月一成に接触する前に、如月成彦が死んでから保護された他のオメガ女性に会いに行った。
彼女によると成彦は運命の番……つまりは母に執着していた。
だが成彦の妻がいると母を迎えられない。成彦の妻もまた権力者の娘で、彼女がいる限り、玲の母を如月家に連れてくることができなかったらしい。
妻が日本から出て、事実上の別居が成立したことで母を捉えにきたのだった。如月一成が自分の母を連れて日本を出てから、如月成彦は行動を起こした。
意味が分からない。そこに母の意思は全くない。
あの男は化け物だ……でも。
化け物が母に何かするはずだと、息子もその母親も分かっていたはず。
それなのに化け物を野放しにした。
成彦の妻が怪物を解放しなければ、母は死ななかったのに。
如月一成が成彦の妻を連れて日本から出なければこうはならなかった。
バケモノの鎖を外してしまったのは、お前。
如月一成。
分かっていて、出て行ったの?
「——ゴスケ、それはないだろ!」
すぐ近くであの男が笑っている。
ダーツやビリヤードを楽しめる六本木の地下バーだった。玲はカウンターで酒を飲みながら彼らを観察している。
一成とその友人たちの計三人は、テーブルにボードゲームを広げて熱中していた。どういったゲームだろう。玲はそういった類に詳しくない。
如月一成は酒と煙草を嗜んでいる。楽しそうに若い仲間たちとのひとときを過ごしていた。
ここからでは少し離れているけれど先ほど近くを通った時に匂いで分かった。
あなたはやはり、アルファ性なんだ。
そして青い瞳をもっている。
「ツッキー強すぎんだよ」
青い髪をした派手な男が言うと、如月一成は軽やかに笑った。
「お前が弱いんだトラック」
「無理だってこんなの。ツッキーやべぇな。話にならん」
「こっちのセリフだ」
「もう不貞寝しよかな」
「ハハ。這いつくばって敗北とゴロ寝してな。床を舐め終えたら帰ってこい」
「くそー。つか原稿大丈夫なの?」
「それっすよ。みんな、ちゃんと先生に言って」
来た。
途中で割り込んできた声の主は玲も警戒している人物だ。
一体どこからやってきたのだろう。入り口から? あんなに派手な金髪をしてるのに、気配を消すのがうまくて不気味だ。
あの男が厄介だと玲の雇った探偵も言っていた。大江元。元探偵で今は何故か如月一成のアシスタントをしている。玲の探偵も驚いていた。何故あの男が一成の傍にいるのだと。
二人はどういう関係? 学生時代の先輩後輩らしいが、どうして今も共にいるのか。何の利害関係があるのだろう。
いずれにせよ大江には深く踏み込んではいけない。
大江ではない。一成を探るには別の人物がいい。
トラックと呼ばれた青髪の男が呆れ顔をした。赤髪の坊主頭をした男へ語りかける。
「ゴスケ、酔いすぎだって」
「何? 何て?」
「酔い過ぎ」
「なに? ヨネスケ?」
「……お前さぁ、酒弱いのに飲むなよ」
「うるせぇ。ワシが酒弱いのは遺伝なんだ。親が悪い」
「いや、それでも酒飲むお前が悪いって。親のせいにするなよ。可哀想だろ」
「親が悪い。俺をこんな風に産んだ……くそ。正義の怒りをぶつけてやる。ワシはあいつらを末代まで許さねぇ!」
「お前の家系じゃん」
ゴスケ……。
一成は二人のやりとりを眺めて笑っている。大江は携帯をいじっていた。大江の気が完全に携帯へ向けられているのを確認して、玲は何もせずにバーを出た。
その後、ゴスケと名乗る赤髪坊主の佐藤五郎に接触を開始した。
思った通りゴスケから情報を聞き出すのは容易かった。二人で仲良く酒を飲めばいいだけだ。
玲は彼と親交を深めて、月城一成について聞き出した。
月城一成は同性愛者らしい。好みは黒髪で線の細い男性。お淑やかで、静かな青年がタイプ。
玲の髪は元々茶髪だ。髪も瞳も母譲りで色素が薄い。
……涼とは違う。
涼は黒髪で、瞳は青い。
如月一成と同じだった。
如月一成にはじめて接触した時、彼のグラスを取り替えて遺伝子検査に必要な証拠を手に入れた。涼と照合する。
結果は、二人は兄弟だった。涼の父親が如月成彦で確定したのだ。
母のうなじを噛んで無理やり番にしたのは、やはり成彦だった。
玲はまだ知りたいことが沢山ある。だからその後二年もの間、月城一成に関して調べ続けた。
一成の好みは黒髪で線の細い、お淑やかな男。
黒染めすれば一成の好みに近付ける。ヤクザの本山に乗り込む性格がお淑やかなのかは分からないが、他人から見た印象なんて自在に操作できるし、玲だって別に、自分が凶暴とは思っていない。どちらかというと大人しい部類のはず。
如月一成は家を継がず、なぜか月城一成と名乗る小説家になっていた。
意外だった。まさか小説家兼タレントになるなんて思わなかった。如月家の人間のくせに随分自由にやっている。
少しでも彼を理解するために彼の本は全て読んだ。
……でもそれだけじゃ、一成が何を考えているかなど分からない。
だって……、笑っている。
いつ見ても楽しそうに人生を生きている。
どうして、笑えるのだろう……。
玲はもうずっと、あんな風に笑えない。
本を読んだ玲はより一層一成のことが分からなくなった。実際に彼と関わり、本心を打ち明けられる関係にならないと、彼の気持ちは分からない。
一成の傍にいるために行動を起こすことにした。
彼の本音を聴けるようにならないと。
その頃ちょうど、彼の小説が映画化する話が出た。物語の根幹は『運命の番』で同性愛の物語だ。
彼が共演者と親しげにしている写真を撮り、適当に恋愛関係を匂わせて週刊誌に送る。如月一成もまた同性愛者だ。きっと焦って、今後の恋愛を制限するだろう。
玲はアパートを引き払った。家がないと言って一成に接触すれば、きっと彼は自分を傍に置いてくれる。あの男が禁欲生活に耐えられるとは思えない。玲は一成の好み通りの見た目をしていた。黒髪で幸の薄そうな青年だ。
何よりも、オメガ性である。
一成はアルファ性だ。
……それを知って初めて、オメガ性で良かったと思えた。
オメガ性で良かったことなんか他に一つもない。人生で初めて、この身体に感謝した。
どうせあの男はオメガの体を好んでいるはず。
父親のように。
玲は二十歳になっていた。
そしてその日がやってきた。
偶然を装うため一成の乗る車の前に飛び出ることにした。以前、彼の運転手が、本当に突然飛び出してきた猫を前に、咄嗟に車を止めたのを見ていたから。明らかに信号無視しそうにふらついていれば、あの運転手なら警戒してブレーキをかける。
一成の車がここを通ることはもう分かっている。昨日の晩から今朝まで働いて、状況的にも玲がふらついているのは仕方ない。この一ヶ月は食事を減らしてきたのでいつもより痩せている。何かあった時のためにお婆ちゃんには昨日会っておいたし、涼にも少しだけだが金を送った。
何だってできる。知るためだから。
ねぇ。
……本当のことを聞かせて。
玲は探し続けている。あの魔の夜が訪れた理由を。玲は知りたいのだ。あの魔の夜が明けたその先の世界。
何も無かったことにして笑おうとしているのか。
……如月一成。
——覚えてる?
深山花(みやまはな)が死んだこと。
深山礼矢と涼介の母が死んだこと。自分の父親が、全く罪のなかった女性を追い詰めたこと。そうしてハウスが崩壊して、深山礼矢と涼介はいなくなった。
お前が父親を野放しにして、自由に生きたせいだ。
知っていて笑っているの?
ならば許さない。
これは、運命なんかじゃない。
出会うために玲はやってきたのだ。
信号が赤になる。九年前、豪雨の中で見上げた色だった。でもここはよく晴れた空の下で、玲はあの夜のように、なかなか青にならない信号の前で立ち止まらない。
一成の車が近づいてくる。少し怖いけれど、それはお母さんも同じだったよね。化け物の乗る車に突撃するこの恐怖をきっと、あの夜、母も味わったはず。
玲は一成の本心が知りたい。
どういうつもりで笑っているのか、知りたくて知りたくて、もう、苦しいんだ。
車が近付いてくる。玲はフラッとよろけた。背後で踏切の音がする。カンカンカン、と、ただの人間に警告する音。九年前からずっとこの警告音が消えない。俺は頭がおかしいんだろうな。
狂っているのは、如月一成もそうなの? 化け物の子がなぜ笑っていられるのか教えてほしい。
玲は赤信号の光へと踏み出した。
——全部無かったことにして幸せになろうものなら。
あなたを殺す。
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