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第五章

47 ハウス

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【第五章】
(九年前)









 土砂降りの雨の中、信号が青にならない。
 礼矢(れいや)は涼介(りょうすけ)の目を両手で塞いでいる。
 背後では踏切の警告音が鳴っていた。雨の音が煩い。自分の荒い呼吸音が、やけにはっきり聴こえる。
 信号が青にならない。
 










 その日、午後五時半。雨が降りそうで走って帰ってきた礼矢は、いつもはハウスの共有リビングで遊んでいる涼介がいないことに違和感を覚えた。
 二ヶ月前に五年生になった礼矢は、徒歩四十分かかる小学校に通っている。クラスメイト達はもっと学校の近くに住んでいるが、礼矢だけが、学区外からやって来ていた。
 このハウスに住んでいる子供達は大体そうだ。皆バラバラの学校に通っていて、出来る限り、アパートが特定されないように暮らしている。学区内の小学校に通っていると、もし小学校にいるところを『見つかってしまった』時に、このハウスの場所がバレてしまう危険性があるからだ。
 『ハウス』と呼ばれるアパートには、オメガ性の大人の女の人たち、そしてそれぞれの子供たちが暮らしている。
 全部で五つの母子が暮らしていた。そのうちの一つが礼矢と、五つ下の弟である涼介、そして母だった。
 礼矢たちがここで暮らし始めたのは七年くらい前だ。涼介を妊娠した母が、礼矢を連れてここへやってきてから。
 ハウスに来る前は普通のアパートの一室で暮らしていた。母は夜のお店で働いていて、礼矢が眠っている間に仕事へ向かう。いつも忙しそうにしていたけれど、礼矢にはとびきり優しいから、お母さんのことが大好きだった。
 ベータ性の父は礼矢が生まれてすぐに亡くなってしまったらしい。それからは母と二人で暮らしていて、だがどういうわけか、六年前に突然弟ができた。
 弟は綺麗な目をした男の子だった。礼矢や母と違って青い目をしている。
 今でも覚えている。
 昔、礼矢は涼介を抱っこする母に『目、なんで青いの?』と問いかけた。
 母は真っ暗な目をしていた。微笑むために唇の端を上げかけて、しかしどうしても出来ないみたいに頬を痙攣させると真顔になり、礼矢から目を逸らした。
 あれから礼矢は何も聞いていない。
 涼介の目が青い理由も、いつの間にか刻まれていた母の頸の噛み跡も、なぜここにやってきたのかも、なんにも、触れないようにしている。
 ハウスには制約が多かった。まず写真を撮らないこと。
 修学旅行や、校内行事。事あるごとにやってくるカメラマンの写真に映ってはならない。普段の生活だってそうだ。居場所が分かるような写真は撮ってはいけない。まるでいちいち自分たちの痕跡を残さないように生きているみたい。
 夕方八時以降の外出は基本的に禁止だ。礼矢は友達とお泊まり会をしたいけれど、なかなか言い出せない。頑張ればハウスの管理人であるおばさんも了承してくれるのかも知れないが、あまり迷惑をかけたくなかった。
 何とは言われていないが、あまり目立つことをしてもダメだった。例えば皆の前で表彰されること。印象に残る真似をしてはいけないので非行など以ての外だ。
 絵を描いて賞を狙ったり、運動クラブに入って活躍したり。皆の前で褒められている同級生を見ているとちょっとだけ羨ましく思う。
 別に、誰でも一位になれるわけじゃない。努力が必ず実るとは思わない。けれど、目指すことすら不相応な身は、少しつまらないと礼矢は不貞腐れたりする。
 一方で、母と弟と三人で平和に暮らしている日常は幸せで、安心していた。
 ハウスには、地獄みたいな環境から抜け出して命辛辛やってきた親子達もいた。
 礼矢は恐ろしい目に遭ったことなどない。お腹の大きくなった母と二人でこの施設にやって来ただけだから。
 でもここは『逃げ続ける』ための場所らしい。
 礼矢はこの場所以外で平和に暮らしている毎日がどれだけ貴重なのか、地獄を知らずとも理解できていた。
 ハウスに住む他の親子達が皆優しくて、無実だったからだ。
 どれだけ善良に生きていても突然地獄に突き落とされることがあるらしい。いい子にしていたらいい人生が待っているわけでもない。
 とにかく毎日コツコツ、慎重に生きていくしかないのだ。
「涼介? お母さん?」
 共有リビングを過ぎて、礼矢達が暮らしている深山家の部屋へ向かう。誰もいない。変だな。もう五時半なのに。
 午後八時には入口のロックが閉まる。いつも母は仕事を午後四時に終わらせて保育園に涼介を迎えに行き、五時には帰ってくる。
 この時間の涼介はいつも共有リビングで他の子達と遊んでいて、母は掃除だったり家事だったり、様々している。親子で過ごす時間は多い。ここでの暮らしは昔アパートで母と二人でいた時よりも裕福な気がした。
 礼矢はひとまず明日の学校の準備をする。明日は、六月七日の金曜日。土曜は涼介と母と三人で映画を見に行く予定。
 ここ最近雨が続いているけれど映画館なら大丈夫。選んだのは涼介が観たがっているアニメ映画だ。こだわりは無かったからその作品でいいけど、母は『レイはそれでいいの?』と心配していた。
 弟は来年から小学校に通う予定だ。涼介……可愛いか可愛くないかで言ったら、ちょっと可愛い程度。普段は可愛くない。すぐ不貞腐れるし、いきなり喚くから煩いし、力が無駄に強くて嫌になる。
 けれど煩い涼介がいないのもいないで寂しかった。二人はどこにいるのだろう?
 待っていると、携帯が鳴った。
「お母さん?」
『レイ?』
 母は息切れした声で『今、家にいる?』と問いかけてくる。
「うん。お母さんは? いつ帰ってくる? 涼介は?」
『レイ、アジサイレストラン分かる?』
「あー、うん。分かるよ。何で?」
『今日は三人でご飯食べようか』
「えっアジサイで?」
『うん。早めの夜ご飯ね。リョウもこっちにいるから』
 礼矢は電話を切ると、傘を持ってハウスを出た。アジサイレストランは歩いて十分ほど。踏切を超えた向こう側にある。
 母はいつも『レイ』『リョウ』と短縮して自分たちを呼んだ。だから礼矢は自分の名前が『レイ』に思えてくる。
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