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第三章

41 契約破棄

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 必死になって表情を崩さないように奥歯を噛み締めた。その頬の細かな微動に一成が気付いたかは分からない。
 一成は玲の無反応に構わず続けた。
「でもここ数日のは無意識じゃない」
 追撃のように言葉を放っていく。
「お前が苦しんでたら助けたいって思うだろ」
 玲は、瞬きを堪えているから、睨みつけるように一成を見つめた。
 目元に力が入り皮膚が痙攣する。目と鼻の奥が熱くなり、痛みすら走る。
 一成の言葉に酷く心を揺さぶられているのが分かる。
「誰かを大切にしようなんて思ったのは初めてだからな」
 一成は当然のように告げた。
「加減が分かんねぇわ」
 玲はとうとう耐えきれなくなって俯く。下唇を丸めて噛み締めた。
 心臓が信じられないほど激しく音を立てている。聞こえていたらどうしよう。
 どうしよう……。
 このままだと言葉の意味を理解してしまう。
 それは、ダメだ。ブランケットを頭まで被って一成から逃れたい。しかしあからさますぎる。せめてもの抵抗で目を逸らす。
 彼は何も言わなかった。
 玲の視線の先、ベッドの下に数冊本が積み上がっている。
 二週間ほど前に、一成の本棚から選んだものだ。最近の作品だったり、教科書で読んだことのある物語だったり、系統はバラバラである。
 玲は月城一成の作品を選ばない。
 手に取る必要がないから。
 ちょうど読み終わったばかりの本の表紙が見えた。死者をあの世へ運ぶ電車の物語で、作中では黄泉の国へ向かうまでの美しい魔法の光景が描写されている。
 その電車で最終駅まで向かうことができるのは、亡くなってしまった人たちだけだった。
 一成が玲の視線を辿る。その一冊に視線を落とした。彼は小説を手に取って呟く。
「善良な者たちだけがこの電車に乗ることができる」
 表紙には深海を駆ける電車の絵が描かれていた。
 玲は黙り込んでいる。玲が返事を寄越さないことに、一成は言及しなかった。あれだけ自分の話を聞いているのか確認する男なのに。
 一成は表紙を軽く撫でてから言った。
「お前の母親もこれに乗れるんだろうな」
「……そうですね」
 玲は頷いた。やっとのこと声を出した玲に、彼が軽く微笑む。
 死者を運ぶ電車……母はこれに乗車することのできる女性だった。何の罪もなかったのだから。
 玲はそう思っている。
「俺の親父とは違うな」
「心臓発作、でしたっけ」
「俺はそう教えられた」
 一成は本の中身をパラパラと捲った。
「運転中に心臓発作を起こして、そのまま事故を起こして炎上したとかさ。だから玲の母親と同じように事故死っちゃあ事故死だ。けどまぁ、実際はどうか分からねぇ。親父に関することは全部が曖昧だから」
「そうですか」
 玲はたまらなく切ない気持ちになった。遣る瀬なさに襲われて息が苦しくなる。
 玲は息をついて、上半身を起こした。水を飲もうとベッドの下に手を逃すと、察した一成がペットボトルを手渡してくれる。
「もう、体調は大丈夫なのか?」
「あ……はい。そうですね。そういえば」
 玲は唇を触ってみた。もう熱もないし、腫れぼったくもない。
 ヒートは完全に終わったようだ。安心すると、何だかより腹が減ってくる。水を飲んでペットボトルの蓋を閉める。軽く俯いて瞼を親指で擦る。
 一成がいきなり言う。
「なら一つ話したいことがある」
 玲は顔を上げた。
 彼は告げた。
「お前の残りの借金を返すことにした」
「……はい?」
 玲は啞然と唇を開いた。
 一成は、玲の返事を待った。今度は自分で会話を進めない。
 玲は一度唾を飲み込んでから、疑問符もつかない低い声で呟いた。
「どうして」
「玲が借金を返済するためにここにいるからだ」
 玲は唇を噛み締めた。
 一成が力強い声で続ける。
「契約しないなら修理費用を払え、って話は無効にする。初めから効力なんかねぇけどな。玲だって分かってただろ。お前がそれでも契約したのは借金を返すためだ」
 一瞬閉じた瞼の裏が熱かった。
 目を開くと、青い瞳がそこに在る。
「どうしてっつうのは、この契約を一度ゼロにしたいから。週刊誌の件はもう話題になってない。二ヶ月も経ったからな。信憑性をもたせるための保険として半年間にしたが、既に充分だ。だが俺がよくてもお前はダメだろ。玲は借金を返すために俺といるんだから」
 その通りだった。
 いくら高額の報酬が払われるとは言え無茶苦茶な契約を結んだのは、『借金を返すため』だった。
 一成にはそう結論付けて語っているのは正しい。
 でも、まさかそんなことを言い出すなんて。
「俺が返済する。俺は」
 一瞬、一成の言葉が詰まった。
 その僅かなリズムの崩れが彼の心を表しているようで、胸が途端に強く締め付けられる。
 一成はそれでもはっきりと告げた。
「玲と契約のない立場になりたい。そのために借金を返すことにした」
 玲は、絞り出すみたいに、苦し紛れみたいに、囁いた。
「でも、俺が作った金ですよ」
「何か理由があったんだろ」
 けれど一成は迷わず断言する。
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