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第二章

35 知りたい

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 オメガ性の相手がいなかったのも、正直たまたまだ。そもそも世の中にオメガ性は少ない。こうして玲と出会っている方がかなり珍しい。
 アメリカから帰ってきてから、現地で出来た友人が遊びにきた時の光景を大江に見られた。あれを何度も何度も擦られている。
 確かに父がいない日本の開放感から自由に過ごしていた。恋人ができたこともそれなりにある。だが若い時の恋で、継続するほどの情熱はなかった。
 少なくとも、父のようにオメガ性に執着し、子供を産ませたり、運命だとか言って追いかけ回すような愚かな真似はしていないし、これからもしない。
 絶対にだ。
「普通だから」
「一成さんの普通って、俺の普通と違うと思います」
「そんなんじゃねぇって」
 玲は小さく目を細めた。信じていないみたいな目つきをするから、再度強く「大江の言うことは信じるな」と主張する。
 主張してから、俺はなぜ必死になって否定しているんだと疑念を抱く。他と比べたことがないので正直、かつて恋人だった男たちの数や経験が普通か普通でないかは分からないし、それを玲に晒したくはない。
 同時に玲の恋愛遍歴は追究したくなる。一方で知りたくない、ような気もする。
 胸のうちがごちゃごちゃとして面倒臭い。玲を前にすると自分がうざったく感じる。
「一成さんがお父様の話しなかったのは、嫌っていたからなんですね」
 玲が話題を戻してくれたことで、いっそ助かった気分になった。
 今日、この夜まで、一成が意識的に父の話をしていなかったのは玲も気付いているはず。それでも彼は問いかける。
「話を聞く限りとても暴力的な人に思えます。一成さんにも辛く当たっていたんですね」
「嫌いだった。心底な」
 恋愛の話より、父の話の方がよっぽど回答が楽だ。
 奴への感情は不変なのだから。
 良くも悪くも。
「アイツのせいで傷つけられた人間が大勢いる。俺が子供の立場を使ってさっさと殺してりゃ良かったのかもな」
 消えることはない。
「結局一人で死んでいった。それが報いだ」
 一成はそこで一つ息を吐き、また口を開いた。
「意外かもしれないが俺に対する直接的な暴力はなかった」
「そうなんですか?」
 外面だけは良い男だったのだ。学校に通う一成に跡が残ることはしなかった。
 だが父の存在は苦痛そのものだった。
「暴力はないが、言葉ならいくらでもあった」
 ——『お前を産ませたのは間違いだった』
 母を貶すために吐いた言葉。母の心を殺すために一成を使った。
 ナイフにされた一成の心は母の血で錆びて、みるみる朽ちていく。
 地獄だった。
「言葉でも充分暴力でしょう」
 玲はすると、難なく呟く。
「言葉こそが暴力です」
 その冷たい声で紡ぐ言葉に一成は息を呑む。
 瞬間的に言葉が出なくなった。
 不意に思い出すのは、過去に耳にした誰かの声だ。
 ——いつまで父親に執着してるんだ。嫌なことは早く忘れて、前に進め——……
 顔も覚えていない誰かに言われた台詞たち。頭の中に染み付いて消えないのは、一成が確かに、過去の魔王に捉われているからだ。
 もう居ない人間に対して憎悪を募らせるのは不毛なのだろう。
 けれど今、玲は新しい言葉を重ねる。
「忘れようとして忘れられるものではありませんからね」
 玲は抑揚のない口調で告げた。
 一成は目の前にいる彼をただ見つめている。
「一生恨みや憎悪を受け入れるしか、ないんでしょうか」
 まだ体の奥に残る、この滾るほどの怒りを。
 受け入れるしかないのかと途方に暮れている。
 玲としては自分が思ったことを口にしただけのようだった。一成へ共感や同情を示したわけではない。
 それでも一成は玲の言葉を心で見つめた。
 胸にたちまち熱が沸き起こる。心の器から熱が溢れ出して全身に回っていく。一成はふと思う。
 ずっと、この言葉が欲しがっていたのかもしれない、と。
 玲のセリフを聞いて、初めて知った。
 この怒りの存在を認めてくれる誰かに出会いたかったのかもしれない。
 今まではただ書き続けていた。体の奥底で沸る怒りを逃すために物語を作る。運命の番に執着した父親を否定するために物語の中でアルファ性を殺した。それでも父は殺せない。もう居ない人間への憎しみを抱え込み続ける不毛さを、持て余していた。
 玲は言う。
 ——『一生恨みや憎悪を受け入れるしかないんでしょうか』
 忘れろとも、気にするなとも言わない。憐れむわけでもない。
 ただ少し離れた先に座り込み、巨大な闇を眺めて、成す術なく呆然としているような言葉だった。
 その言葉こそが、一成の体に沈む怒りを燃やして、凍った心を溶かしていく。
 一成はふと呟いていた。
「お前は?」
 玲がまたグラスの縁に唇を寄せる。もう中身は空で、残念そうにしょげた。
 ……知りたい。
 一成は知りたくなっていた。
 玲の過去を。玲のことを。
 玲の何もかもを。
 一成は自然と玲のグラスを取って酒を継ぎ足してやる。何だろう。何でも、してやりたくなる。
 玲は一成の手元を眺めながら答えた。
「俺は、何もありません」
 玲は物語を読み上げるように淡々と語った。
「父は物心ついた時には居ませんでした。聞くところによると、アルファ性でもなかったみたいです。過労死だったぽくて……苦労していたみたいですね」
 グラスを渡すと、一度酒を含む。それから少しだけ微笑みを滲ませた。
「お母さんは綺麗な人だったので、夜のお店で働いてました。だから俺、キャバクラで働くの嫌いじゃないんです。皆逞しくて、漠然といいなーって思う」
「母を探してるって言ってたな」
 玲はグラスを両手で持っている。パッと顔を上げて、びっくりしたように目を丸くした。
「え? そんなこと言ってました?」
 やはりあの時はかなり寝惚けていたのか。
 自分自身の発言を訝しんでるような口調で、
「お母さんはもう死んでるんです」
 と事実を認めた。
「探す……何だろう。いつ言ってました?」
「一ヶ月前くらい」
「んん?」
「お前、寝惚けてたかも」
「ええ? なんのことでしょう……」
 不思議そうに眉根を寄せている。その反応を眺めながら一成は、もしや聞き間違いだったのか? と自分を疑い始めた。
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