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第二章

31 無関心

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 強制的に立ち上がらせると、玲はよろけた。その背中を支え、一成は「お前が自分で戻らないなら俺が担いでくぞ」と腕に力を込める。
 玲は慌てて離れる。観念したのか戸惑いながら言った。
「わ、かりました」
 その時。
 玲がうなじを触った。
 その拍子にハイネックが捲れる。
 一成は目を見開いた。『ソレ』を見つけたからだ。
 この場を離れようとする玲の腕を掴む。
「おい」
「っ!」
 玲がふらついて一成の胸に背を預けた。またしても直ぐに離れようとするが、今度はそうさせない。
「どうしたんだ、これ」
 首に絞められたような跡が残っていたからだ。
 玲の腹に腕を巻きつける。逃げ場を無くした男は一成を見上げ、二秒ほど何のことか分からなそうに呆然としたが、ハッと思い出し瞳孔を開く。
 瞳に動揺が泡のように溢れた。玲は視線を勢いよく逸らし、忙しなく僅かに彷徨わせる。
「……ちょ、ちょっと間違えて」
「はぁ?」
 声に力がこもってしまう。一成は堪えて、静かに問いかけた。
「何を間違えたら首絞められるんだよ」
「……」
 玲は黙りこみ、腹を覆う一成の太い腕を両手で触った。
 一成は男を片腕の中に閉じ込めたまま問いかける。
「由良晃か?」
 玲が息を止めた。
「由良晃に何かされたのか?」
 繰り返して訊ねると、玲が一成を見上げた。
「弟と会う前に由良と会ってたんだろ?」
「え……」
 グレーの瞳が透き通る。その透明な無垢を眺め下ろしながら一成は追求した。
「由良にされたのか?」
「ち、違います!」
 途端に玲が大きく首を振る。細い声で「違います」とまた一度呟いてから、必死に否定した。
「借金を……返しに行ったら、知らない事務員の男に襲われたんです。オメガの体を使ってみたいって」
「なんだと?」
 その発言の衝撃に一成は顔を歪めた。
 玲の腹に回す腕に力を込める。すると玲が痛みを感じたように目を細めた。
 一成は直ぐに腕を離す。玲はくるっと体を回転させこちらに向き直った。
 彼は「由良さんは助けてくれただけです」と懸命に説明する。
「なので由良さんとは何もありません」
「……お前、襲われたっつったよな」
 玲は由良との関係を弁明するが如く話しているが、一成の心に打撃を与えたのは最早由良ではない。
 知らない男に襲われた?
「え? はい。だって、そういう場所ですから」
 玲は大したことではないかのように頷く。
 本心でそう思っているみたいだった。一成は(違うだろ)と無言で示すためゆるく首を振る。玲は怪訝そうに眉を顰め、「あの、闇金の、事務所の話ですよ?」と呟いた。
「治安が悪いので、気を抜くとそういうこともあると思います。あの、それで由良さんは」
 玲はとにかく釈明しなければならないと言ったように話を続けた。
 一成は啞然とした。
「由良さんが助けてくれたんです。それで送ってもらっただけ。だから俺、由良さんと何か関係もっているとかでもないんです。あの、本当に、俺は何もしてません」
 一成は未だ乖離したような心地で玲の言葉を聞いている。
 玲はやけに必死だった。その理由を、頭の端の方でふと気付く。
 そうか。
「挿れられてないので、一成さんは気にしなくて大丈夫です。約束は破ってませんから」
 ——『他人と穴を共有すんのはクソ食らえだ』
 過去に玲へ放った言葉が矢になって自分へ返ってくる。
 一成は舌打ちしたい衝動を歯を噛み締めて堪える。玲は言った。
「本当です。嘘ついてません……確かめますか?」
 そう告げながらもどうしたらいいか分からないのか、躊躇っている。少し遅れて自分のボトムに指を引っ掛けた。
 ——ああ、ほんとに。クソッタレ。
 これは俺のした結果だ。
 吐き気を催すほどの苛立ちに襲われる。玲に対してではない。自分自身への怒りだ。
「しなくていい」
 一成はその腕を取って肌を見せようとする玲を阻止する。
 グレーの瞳が一成を見上げた。一成はそれを真っ直ぐ見下ろしながら告げる。
「他に怪我はしてんのか?」
「えっ? えっと……」
「正直に言え」
 玲はごくりと息を呑んだ。唇を舐めてから、言葉を吐き出す。
「……お腹を殴られました」
「まだ痛ぇよな?」
「少し」
 腹に回した腕に力を込めた時、玲が苦痛の表情をしたのは怪我のせいだったのか。
 一成はまたしてもドス黒い感情に胸を侵されながら、せめて声に暗澹たる気配が滲まぬよう努力する。
「医者行くぞ」
「……はい」
 今度は素直だった。その反応から、先ほど病院を嫌がったのはこの傷を知られることを避けていたからなのだと察した。
 すぐに玲を連れて部屋を出る。とにかく医者だ。玲の肌を見るのは医者でいい。
 エレベーターが急速に下降すると熱の上った頭も冷えていく。
 冷めていく。空虚なほど澄んでいく。
 冷静な頭がこの一ヶ月を思い起こす。
 ……追い詰めたのは一成だ。
 暴力を受けたことを素直に玲が告げなかったのは、一成の行いのせい。
 別に彼と特別に親しくなりたかったわけではない。だから親身には接しなかった。玲に対してだけでない。殆ど全ての人間に対し、一成はいい加減に振る舞っている。
 大江にいつであったか言われた言葉を思い出す。『一成さんは他人を突き放すことで自分を守りすぎです——……』
 しかし、それにしてもあまりに玲の心や身体に無関心すぎた。
 もっと彼の事情を汲み取るべきだったのだ。
 車に乗り込んだタイミングで、一成は言った。
「借金がなくなれば、由良晃とも借金取りとも縁が切れんだよな」
 いきなり言われて驚いたように玲が目を丸くする。
 恐る恐る、頷いた。
「理論では、そうですね」
「追加だ」
「追加?」
 一成は車を発進させる。地下から地上へ出て、玲が眩しげに目を細めた。
 一成はハンドルを切りながら告げた。
「こっからの夜は何か作れ」
「……」
「聞いてんのか」
「ご飯ですか?」
「そう」
「でも俺、簡単なものしか作れませんよ」
 玲は不安そうな顔をした。一成は淡々と返す。
「白飯炊く茹で卵作るでも、何でもいい」
「大丈夫ですか? 本当に茹で卵作りますけど」
「好きにしろ。諸々細々とした仕事を追加する。その分報酬を上げるから、日中の仕事とこっちどっち取るか判断してくれ」
 玲は十数秒黙り込んだ。整理がついたのか、ようやっと唇を開く。
「……茹で卵作ったら、いくらですか?」
 一成は隣の玲を見下ろす。首元には、跡が残っている。














「さ、三百万って!」
 ——あの日。
 月に『三十万報酬を上げる』と一成は伝え、玲は『それなら』と了承した。
 そうして一ヶ月が経った。今、玲は渡された札束に驚愕している。
「全部で合わせて、月に、は、八百万になっちゃいますよ!」
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