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第二章

28 あぁ、クソ

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「兄ちゃん!」
 涼の声のトーンが一気に明るくなる。条件反射みたいに立ち上がった涼は、すぐさま玲の元へ駆けていく。
 その一瞬のひとときの中で、玲が一成に視線を遣った。
 怯えたような目をしていた。はじめて出会った時のような。
 ――あ。
 一成の胸に、じく、と嫌な熱が走る。一成は薄く唇を開いたまま何も言えない。
 その熱の正体が掴めない。ただとにかく嫌な感じで、焦燥感を覚える。
「もう立ち上がって平気なの?」
「大丈夫……何でお前、ここにいるんだ」
「兄ちゃんを病院に連れて行こうと思ったら大江さんって人から電話かかってきて。寝かせるならここへって、住所教えてもらったから」
 一成は腰を上げた。彼らの元へ歩いていくと、玲は涼と話しながらも俯きがちに一成の足元へ視線を放つ。
 一成は短く言った。
「もう大丈夫なのか?」
 一成から目を逸らしていた玲がハッと顔を上げる。震える眼差しで一成を見上げた。
「……あ、はい。少し気分が悪くなっただけなので、今は本当に大丈夫です」
 確かに顔色は随分と良くなっていた。三十分程度は眠っている。
 玲はパーカーの下にハイネックを着ていた。今日は日中も暖かく気候的に不自然な格好で、こうして間近で向き合ってみると、彼が纏うアルファの匂いが弟とは別のものであることも分かる。
 弟よりも深く、退廃的な深い香りだ。草臥れているような匂いが若い玲に似合わない。
 自分に滲む男の気配に玲は気付いているのだろうか。気付かないほど深く、玲の身体に馴染んでいるのか。
「座ろ、兄ちゃん」
「うん……」
 玲は弟に手を引かれてソファへと向かった。一成はその場を後にする。先に何か食べ物を与えよう。何が起きたか分からないが果物くらいは食べるはず。
 苺とマスカットを取り出して適当に皿へ盛る。ミネラルウォーターを手にしてまた戻ってくるが、一成は二人の姿を視認すると同時、立ち止まった。
「――って兄ちゃんも思わねぇ?」
「……あははっ」
 玲の横顔を凝視したまま一歩も動けなかった。
 足裏から根が生えたみたいだ。呼吸さえも止まってしまう。
 そこでは、玲が笑っている。
 心からおかしいと言ったように小さく笑い声を上げていた。口を開けて笑うから白い歯が見えた。目を細めて、嬉しそうに微笑んでいる。
 その純粋な笑顔を見て、今更ながら気付かされる。
 今まで玲から笑顔を向けられたことがなかったことに。
「……あー、クソ」
 部屋はあまりに広すぎて一成の呟きは二人に聞こえずに済んだ。俯いて、人知れず笑みを漏らす。
 クソが。
 何が『2パーセント』だ。
 笑顔すら見たことがなかったのに、玲から自らの話を打ち明けられるわけがない。
 言いようのないどす黒い感情が胸のうちにベッタリと塗りたくられる。玲をぞんざいに扱ってきたのは一成自身だ。
 玲の態度が違うのは自分の行いのせい。けれどそれでも、実際に玲が無邪気に笑っている様を見てしまうと、その笑顔が自分へ向けられないことに酷く焦りを抱く。
 この感情をうまく受け入れられない自分に苦笑した。
 自分の愚かさを、玲の屈託ない笑顔が教えてくれる。
「月城さん」
 すると涼が先に一成に気付いた。一成の名前を呼んで立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
 リビングの入り口で立ち尽くしている一成を不思議そうに見たが、然程気にせず「それ兄ちゃんにですか?」と訊ねた。
「あぁ」
「ありがとうございます」
 一成は目線を向こうにいる玲へ向ける。
 つい今し方まで浮かべていた笑顔は嘘のように消えて、玲は無表情で一成と涼のやり取りを眺めていた。
 その何気ない視線に、注意深さが孕んでいる。一成が弟に何かしないか監視しているような、不安げな表情だ。
「……二人で好きに食え」
 一成はそれだけ告げてそこから去った。
 振り向いて見たのは、玲が柔らかい微笑みを浮かべて弟から果実を受け取る、一成が居ないことで完成される優しい光景だった。
















 涼が帰ったのはそれから三十分後程度だ。
 去り際に弟は、兄が目を離した一瞬の隙を突いて一成に連絡先を押し付けていった。
 兄を介さずに一成と連絡を取りたい理由があるのだろう。一成も素直に受け取り、それを表情には出さない。
「それじゃ、月城さん。兄ちゃんをよろしく」
 そう言った涼は玲と共に玄関から立ち去る。
 エレベーターまで送って行ったのだ。待っていると、数分後に帰ってくる。
「ご迷惑をかけたようでごめんなさい」
 玄関へ戻ってきた玲は開口一番に告げた。
 仁王立ちして待ち構える一成を見上げ、「本当に」と小さく付け足し、頭を下げる。
「迷惑とは思ってねぇよ」
 玲は顔を上げる。そうですか? とでも言うように傾げた顔だが、意外にも先ほどの強張った気配は失せている。
 ここに弟が居ないから。
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