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第一章
17 無理、無茶、必死
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無理、か……。
無理をしない。無茶を、しない。
無理をしていない状況。それは一体どういったものなのだろう。心が凪のように滑らかであること? 死んでいるみたいだな。
従業員の間で由良と玲の関係について様々な推察がされていることは知っている。ここで働き始めて一年近く経つが、玲は特別に親しい人物を作っていない。
仕事の時に話すくらいでそれ以外の交流はなかった。そのせいで情報を訂正できない。訂正といっても、玲は自分の名誉などどうでもいいから、する必要性もないのだけど。
そもそも友達だっていないのだ。毎日働いてばかりで遊ぶ暇なんかない。由良と出会った十三才の時から……その前から、玲の人生は、ゴミ同然だ。
遠い昔からもうずっと『無理』みたいな状況だった。いつも頭の中に、黒くて燻っている実体のない魔物が潜んでいる。ふとした瞬間に頭の中が魔物に巣食われて痛いほどの耳鳴りが、止まなくなる。
働いてばかりいるからストレスのせいだろう。仕方ない。正常な精神環境ではないのだ。でもこれは異常ではなく、普通だ。
何にせよ今は一成との契約がある。
彼の話に乗るのは必然だった。仕方がないこと。それ以外に道はなかった。それだけ。
「……痩せたかな」
どうだろう。自分では分からない。
一成も、初めから玲を軽いと茶化していたし変化には気付いていないはず。
体重など量らないので正確に把握はできないが、見かけに現れているなら痩せているのかもしれない。
原因は分かっている。あまり、食事を取れないせいだ。
「こういう時、どうしたらいいんだっけ……」
以前までは朝食も無理やり腹に入れていたが最近は全く食べる気が起きない。昼ご飯は元々仕事で忙しくて食べていないから、これまで通りだ。
夕食は一成と取る事が殆どだけれど、近頃は部屋に帰ってきてから、度々戻してしまう。
理由は自分でも分かっている。
どうしても一成といると緊張してしまう。
眠っている一成を眺めることには慣れても、起きている一成と過ごすのにはまだ慣れない。
セックスの疲れもある。体力的に一成が有利で、それに付き合わされる身はいつもボロボロだ。
夜更けまで行為が続けばろくに睡眠も取れない。一成は気分で玲を抱く。だが疲れを彼の前で見せたら、面倒に思われるかもしれないから、玲は何でもないように振る舞う。
何とかして一成に好かれる立場でいたい。本心で好かれたいわけではないが、玲は彼にとって有益な存在で、心を砕ける人物にならなければならない。
だが簡単には進まなかった。共に過ごしてみて知ったのは、月城一成……如月一成という男は無防備である一方、他人に心を開かないということ。
自分が面白い、気持ちいい、と思ったことに素直なだけで、いくら彼が楽しげな表情を見せたとてそれが心を許したことには繋がらない。
根本で玲に興味がないのだ。借金や家族について聞かれずに済むので利点ではあるが、あまりにも無関心なのでいつ切り捨てられるかと不安になる。
一番心を圧迫する問題は、玲が一成に未だ恐怖を感じていることだった。
アルファ性の如月一成。彼との暮らしはいつ何が起こるか分からなくて、心が四六時中不安定だ。
一成の傍で平気なふりを続けるたびに心労が増していく。常に、どことなく、吐き気がしている。そのせいで食事もままならない。
いっそセックスの快楽に身を任せている時間の方が楽だった。絶頂に溺れていれば何も考えずにいられるから。
「……それもそれでキツイな」
一成の突き上げは激しくて長時間のセックスは疲れてしまう。出来る限り応じるしかないけれど……。
それから仕事を終えて、あのマンションへの帰路を歩んだ。
途中、地面がぐらついて輪郭をなくし、底なし沼のようになる錯覚がした。
これは一成と出会う前からたまに起こる。自分の歩く場所が酷く歪む感覚に襲われるのだ。
玄関に入る前に深呼吸して気持ちを整える。無理をしてでも、心を凪みたいに平す。
数分後、玲は扉を開いた。
するとリビングの方から話し声が聞こえてきた。
(誰……?)
この一ヶ月は、一成以外の誰かが部屋にいたことはない。
もしや友人か? でも、玲がいる半年間は友人を呼ばないと言っていた。これだけは玲が頼み込んだ。一成が所かまわず玲を抱くせいで、いつどんな姿で鉢合わせるか分からないからと訴えたのだ。
不安に思いながら恐る恐る廊下を歩く。
そのうちに、声の正体が掴めてきて、心がドッと安堵した。
「お、玲ちゃん。久しぶり」
「大江さん」
玲は軽く頭を下げて「お久しぶりです」と返した。声の持ち主はにこやかに手を振った。
「元気だった?」
「はい」
「ん? あれ、痩せた?」
玲は思わず目を丸くした。大江にも分かるほどだったのか。
咄嗟に思った。一成に知られてはならない。
焦燥感に駆られ慌てて首を振る。
「痩せてません」
「え、なんで断言すんの」
「そうか?」
会話に加わってきた一成はソファから立ち上がる。玲はサッと顔を下げて、「お話を邪魔してごめんなさい」と呟いた。
一成は玲の動揺など気にせず続けた。
「わかんねぇな」
「そりゃ一成さんは分からないでしょ。ずっと一緒にいるならアハ体験やってるようなもんなんだから」
「おい玲、待て」
リビングを去ろうとするも引き留められてしまう。おずおずと振り向くと、すぐ目の前に一成がいた。
その大きな手が近づいてくる。片手で両頬を覆うように鷲掴みされた。
大江が呆れたように言った。
「どうせ一成さんが玲ちゃんに無理させてるんでしょ。玲ちゃん、気を遣わずに嫌なら嫌って言っていいからね」
玲は小刻みに首を横に振った。
「大丈夫です」
「本当にー? 玲ちゃん健気すぎない?」
一成は何も言わない。首を振ったことで彼の手が離れる。
すかさず踵を返す。逃げるようにリビングを去ったが、追いかけてくる気配はなかった。
自室の扉を閉めて息を吐く。大丈夫だろうか。今はもう、別の話題に戻っているといいのだけど。
まだ一成と親しくはない。一成の懐に入るためには、どれだけ抱かれようと、雑に扱われようと、彼のやりたいようにやらせなければ。
轢かれかけた一ヶ月前が遠く感じる。
健気……。大江から見れば、一成によって強引に車に連れ込まれた玲が、今では必死であの男にしがみついているように見えるだろう。
だが玲からしたら、出会ったあの時から自分は必死だったのだ。
無理をしない。無茶を、しない。
無理をしていない状況。それは一体どういったものなのだろう。心が凪のように滑らかであること? 死んでいるみたいだな。
従業員の間で由良と玲の関係について様々な推察がされていることは知っている。ここで働き始めて一年近く経つが、玲は特別に親しい人物を作っていない。
仕事の時に話すくらいでそれ以外の交流はなかった。そのせいで情報を訂正できない。訂正といっても、玲は自分の名誉などどうでもいいから、する必要性もないのだけど。
そもそも友達だっていないのだ。毎日働いてばかりで遊ぶ暇なんかない。由良と出会った十三才の時から……その前から、玲の人生は、ゴミ同然だ。
遠い昔からもうずっと『無理』みたいな状況だった。いつも頭の中に、黒くて燻っている実体のない魔物が潜んでいる。ふとした瞬間に頭の中が魔物に巣食われて痛いほどの耳鳴りが、止まなくなる。
働いてばかりいるからストレスのせいだろう。仕方ない。正常な精神環境ではないのだ。でもこれは異常ではなく、普通だ。
何にせよ今は一成との契約がある。
彼の話に乗るのは必然だった。仕方がないこと。それ以外に道はなかった。それだけ。
「……痩せたかな」
どうだろう。自分では分からない。
一成も、初めから玲を軽いと茶化していたし変化には気付いていないはず。
体重など量らないので正確に把握はできないが、見かけに現れているなら痩せているのかもしれない。
原因は分かっている。あまり、食事を取れないせいだ。
「こういう時、どうしたらいいんだっけ……」
以前までは朝食も無理やり腹に入れていたが最近は全く食べる気が起きない。昼ご飯は元々仕事で忙しくて食べていないから、これまで通りだ。
夕食は一成と取る事が殆どだけれど、近頃は部屋に帰ってきてから、度々戻してしまう。
理由は自分でも分かっている。
どうしても一成といると緊張してしまう。
眠っている一成を眺めることには慣れても、起きている一成と過ごすのにはまだ慣れない。
セックスの疲れもある。体力的に一成が有利で、それに付き合わされる身はいつもボロボロだ。
夜更けまで行為が続けばろくに睡眠も取れない。一成は気分で玲を抱く。だが疲れを彼の前で見せたら、面倒に思われるかもしれないから、玲は何でもないように振る舞う。
何とかして一成に好かれる立場でいたい。本心で好かれたいわけではないが、玲は彼にとって有益な存在で、心を砕ける人物にならなければならない。
だが簡単には進まなかった。共に過ごしてみて知ったのは、月城一成……如月一成という男は無防備である一方、他人に心を開かないということ。
自分が面白い、気持ちいい、と思ったことに素直なだけで、いくら彼が楽しげな表情を見せたとてそれが心を許したことには繋がらない。
根本で玲に興味がないのだ。借金や家族について聞かれずに済むので利点ではあるが、あまりにも無関心なのでいつ切り捨てられるかと不安になる。
一番心を圧迫する問題は、玲が一成に未だ恐怖を感じていることだった。
アルファ性の如月一成。彼との暮らしはいつ何が起こるか分からなくて、心が四六時中不安定だ。
一成の傍で平気なふりを続けるたびに心労が増していく。常に、どことなく、吐き気がしている。そのせいで食事もままならない。
いっそセックスの快楽に身を任せている時間の方が楽だった。絶頂に溺れていれば何も考えずにいられるから。
「……それもそれでキツイな」
一成の突き上げは激しくて長時間のセックスは疲れてしまう。出来る限り応じるしかないけれど……。
それから仕事を終えて、あのマンションへの帰路を歩んだ。
途中、地面がぐらついて輪郭をなくし、底なし沼のようになる錯覚がした。
これは一成と出会う前からたまに起こる。自分の歩く場所が酷く歪む感覚に襲われるのだ。
玄関に入る前に深呼吸して気持ちを整える。無理をしてでも、心を凪みたいに平す。
数分後、玲は扉を開いた。
するとリビングの方から話し声が聞こえてきた。
(誰……?)
この一ヶ月は、一成以外の誰かが部屋にいたことはない。
もしや友人か? でも、玲がいる半年間は友人を呼ばないと言っていた。これだけは玲が頼み込んだ。一成が所かまわず玲を抱くせいで、いつどんな姿で鉢合わせるか分からないからと訴えたのだ。
不安に思いながら恐る恐る廊下を歩く。
そのうちに、声の正体が掴めてきて、心がドッと安堵した。
「お、玲ちゃん。久しぶり」
「大江さん」
玲は軽く頭を下げて「お久しぶりです」と返した。声の持ち主はにこやかに手を振った。
「元気だった?」
「はい」
「ん? あれ、痩せた?」
玲は思わず目を丸くした。大江にも分かるほどだったのか。
咄嗟に思った。一成に知られてはならない。
焦燥感に駆られ慌てて首を振る。
「痩せてません」
「え、なんで断言すんの」
「そうか?」
会話に加わってきた一成はソファから立ち上がる。玲はサッと顔を下げて、「お話を邪魔してごめんなさい」と呟いた。
一成は玲の動揺など気にせず続けた。
「わかんねぇな」
「そりゃ一成さんは分からないでしょ。ずっと一緒にいるならアハ体験やってるようなもんなんだから」
「おい玲、待て」
リビングを去ろうとするも引き留められてしまう。おずおずと振り向くと、すぐ目の前に一成がいた。
その大きな手が近づいてくる。片手で両頬を覆うように鷲掴みされた。
大江が呆れたように言った。
「どうせ一成さんが玲ちゃんに無理させてるんでしょ。玲ちゃん、気を遣わずに嫌なら嫌って言っていいからね」
玲は小刻みに首を横に振った。
「大丈夫です」
「本当にー? 玲ちゃん健気すぎない?」
一成は何も言わない。首を振ったことで彼の手が離れる。
すかさず踵を返す。逃げるようにリビングを去ったが、追いかけてくる気配はなかった。
自室の扉を閉めて息を吐く。大丈夫だろうか。今はもう、別の話題に戻っているといいのだけど。
まだ一成と親しくはない。一成の懐に入るためには、どれだけ抱かれようと、雑に扱われようと、彼のやりたいようにやらせなければ。
轢かれかけた一ヶ月前が遠く感じる。
健気……。大江から見れば、一成によって強引に車に連れ込まれた玲が、今では必死であの男にしがみついているように見えるだろう。
だが玲からしたら、出会ったあの時から自分は必死だったのだ。
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