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第一章
9 傘
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「いや、こいつは売ってないんだよ」
山岡が「な」と肩を掴んでくる。グッと強く握られて玲は顔を顰めた。
「お姫様だったからなァ」
山岡は低い声で笑い声を立てた。
若い男が何のことか分からなそうに怪訝に顔を顰める。玲は視線を事務員の女性へ移した。
返済手段は現金のみだ。金を数え終えた彼女が山岡に「五十万です」と告げる。山岡は眉を上げた。
「景気がいいな。金蔓でも見つけたか?」
「そんなんじゃないです。あの、もう、行っていいですか」
すかさず若い男が「姫ってイロ? それとも兄貴たちのオモチャだったんすか?」と追及してくる。
沸点の低い山岡が怒鳴り声を上げた。
「うるせェなぁテメェは! 玲、お前、この額じゃ一生かかっても無理だぞ。ちんたらしてんなよ」
「はい」
肩を掴む太い手の力が強くなる。玲は痛みで顔を歪めつつ、「わかりました」と答えた。
玲を睨みつける山岡の目に苛立ちが深くなった。玲は思わず視線を逸らす。すると、肩を掴む手が離れた。
玲は逃げ出すように部屋を出た。すぐに事務所から離れる。まだ外は大雨が降っている。アパートから持ってきた荷物はバッグ一つだ。
肩からバッグを下げて最寄駅に戻る。電車に乗ろうとしたタイミングで電話がかかってきて、玲はホームに立ち止まった。
画面に表示された名前を見て、一度唾を飲み込む。
ふぅと息を吐き、通話ボタンを押した。
『五十万もどうした』
目を閉じると彼を纏う煙草の煙が見えた。一成の吐く真っ白な炎のような煙とは違って、退廃的で灰色に濁って見える煙だ。
「由良さん」
玲は吐息混じりにつぶやいた。
「もう聞いたんですね」
『なめてんのか?』
低く、静かな声だった。耳を澄ませていないと聞き落としてしまいそうで、でも、心を深く突き刺してくる。
『他で借りたんじゃないだろうな』
「大丈夫です」
『何して稼いだ金? 今更、体でも売ったんじゃねぇよな』
「あの、大丈夫です。クリーンなお金です」
『婆さん死んで金が浮いたのか?』
玲は時刻表を確認しつつ「まだ生きてます」と答える。
『ああ、そう。しぶといな』
「……」
『で、どこから持ってきた金なんだよ』
由良は金融事務所のオーナーだ。玲が返済した額を山岡が報告したのか、すぐに確認の電話をかけてきた。
あの金融事務所は違法な利率で金貸しをしている。一度金を借りると元金よりも金利の方がはるかに多くなる。それでも金を借りに行く者たちは、普通の債権で取引できないだとか、明日には首を括るくらい今すぐにでも金を手に入れたい者だとか、様々だ。
その事務所のオーナーでバックにいるのが由良。つまりヤクザだ。
玲は自ら金を返済しに行くが、そうでない債務者には事務所の連中が訪問し、従順に金を返す者にもそうでない者にも様々な暴行を加えている。
よくある闇金の一つだった。だが玲の場合、債権者はあの金融事務所ではなく由良個人である。
だから事務所の輩たちは玲に触れない。
「臨時のバイトが高額だったんです。たまたま……俺がオメガだからです」
『へぇ、オメガ様様だな』
由良も真剣には受け取っていなかった。露ほども信じていない口調だったが、ひとまずは見逃すことにしたらしい。
由良に月城一成の話をするわけにはいかない。由良に小説を嗜む趣味なんかないし、メディアにも興味のない男だ。
しかし一成の名前を出したくなかった。
玲がどこにいて、何をしているのか、由良に教えてはならない。
「真面目に仕事してます。紹介してもらった事務職も辞めてません」
『そうだ。ふざけた真似はするなよ。お前は黙って、死ぬまで金返してりゃいいんだから』
「はい」
『何言われても余計なことはするな』
「はい、ありがとうご——……あ」
切れた。いつも思う。由良の電話を切るタイミングは謎すぎる。
彼から別れの言葉を聞いたことはない。七年前に出会ってから、一度もだ。
自分たちに別れなどないのだから当然だ。玲は深呼吸をして、また荷物を抱え直した。
金融事務所のある町はどこを歩いても汚れていて、道の隅にはゴミか鼠が落ちている。街全体が灰皿みたいな場所だ。当然、喧嘩や一方的な暴力も点在している。
一成のマンションが存在する街とは天と地ほどかけ離れている。
この街の空気は濁っていない。ビルが立ち並ぶオフィス街の先に、高層マンションと高級住宅街が広がっている。身なりの良い人ばかりが歩いていた。スーツを着た社会の中枢で働いていそうな恰幅の良い中年だったり、子供や犬さえも高そうな服を着ている。
傘の色が違うのだ。
濁った半透明の破れた傘ではなく、ここにいる人たちは、透明な傘や鮮やかな色の傘を使っている。
玲が過ごすには場違いすぎるとは分かっている。どうやったらここに慣れるだろう。でも、慣れないと。
タクシーでマンションまで移動して、車内で心を入れ替える。時刻は午前十一時だ。一成にマンションへ向かう旨をメッセージしておいたが、返信はない。
渡されたカードキーでマンションに入り、エレベーターへ乗り込む。あまりに場にそぐわないのでコンシェルジュに止められるかと思ったが、そんなことはなかった。
上昇していくにつれて心臓が騒めきだす。金融事務所へ向かうよりもよっぽど、緊張する。
部屋の階に着いてキーで玄関扉を開錠する。扉を開けて、室内の様子を窺うが、物音ひとつしない。
恐る恐る靴を脱ぎ、スリッパを取り出して歩いていく。
俺の部屋……ここだ。荷物を置いて、リビングへ向かう。
やはり一成の姿がない。
玲は安堵とも落胆とも言い難い気持ちでつぶやいた。
「いないのかな……」
「いる」
玲は「ひゃっ」と悲鳴をあげて振り向いた。
寝起きみたいな目をした一成が、不機嫌そうに玲を見下ろしていた。
「ひゃっ、て……お前……」
「び、びびっくりしました」
「そすか」
一成はかなりテンションが低かった。ぼそっと呟き、ソファへ歩いていく。
山岡が「な」と肩を掴んでくる。グッと強く握られて玲は顔を顰めた。
「お姫様だったからなァ」
山岡は低い声で笑い声を立てた。
若い男が何のことか分からなそうに怪訝に顔を顰める。玲は視線を事務員の女性へ移した。
返済手段は現金のみだ。金を数え終えた彼女が山岡に「五十万です」と告げる。山岡は眉を上げた。
「景気がいいな。金蔓でも見つけたか?」
「そんなんじゃないです。あの、もう、行っていいですか」
すかさず若い男が「姫ってイロ? それとも兄貴たちのオモチャだったんすか?」と追及してくる。
沸点の低い山岡が怒鳴り声を上げた。
「うるせェなぁテメェは! 玲、お前、この額じゃ一生かかっても無理だぞ。ちんたらしてんなよ」
「はい」
肩を掴む太い手の力が強くなる。玲は痛みで顔を歪めつつ、「わかりました」と答えた。
玲を睨みつける山岡の目に苛立ちが深くなった。玲は思わず視線を逸らす。すると、肩を掴む手が離れた。
玲は逃げ出すように部屋を出た。すぐに事務所から離れる。まだ外は大雨が降っている。アパートから持ってきた荷物はバッグ一つだ。
肩からバッグを下げて最寄駅に戻る。電車に乗ろうとしたタイミングで電話がかかってきて、玲はホームに立ち止まった。
画面に表示された名前を見て、一度唾を飲み込む。
ふぅと息を吐き、通話ボタンを押した。
『五十万もどうした』
目を閉じると彼を纏う煙草の煙が見えた。一成の吐く真っ白な炎のような煙とは違って、退廃的で灰色に濁って見える煙だ。
「由良さん」
玲は吐息混じりにつぶやいた。
「もう聞いたんですね」
『なめてんのか?』
低く、静かな声だった。耳を澄ませていないと聞き落としてしまいそうで、でも、心を深く突き刺してくる。
『他で借りたんじゃないだろうな』
「大丈夫です」
『何して稼いだ金? 今更、体でも売ったんじゃねぇよな』
「あの、大丈夫です。クリーンなお金です」
『婆さん死んで金が浮いたのか?』
玲は時刻表を確認しつつ「まだ生きてます」と答える。
『ああ、そう。しぶといな』
「……」
『で、どこから持ってきた金なんだよ』
由良は金融事務所のオーナーだ。玲が返済した額を山岡が報告したのか、すぐに確認の電話をかけてきた。
あの金融事務所は違法な利率で金貸しをしている。一度金を借りると元金よりも金利の方がはるかに多くなる。それでも金を借りに行く者たちは、普通の債権で取引できないだとか、明日には首を括るくらい今すぐにでも金を手に入れたい者だとか、様々だ。
その事務所のオーナーでバックにいるのが由良。つまりヤクザだ。
玲は自ら金を返済しに行くが、そうでない債務者には事務所の連中が訪問し、従順に金を返す者にもそうでない者にも様々な暴行を加えている。
よくある闇金の一つだった。だが玲の場合、債権者はあの金融事務所ではなく由良個人である。
だから事務所の輩たちは玲に触れない。
「臨時のバイトが高額だったんです。たまたま……俺がオメガだからです」
『へぇ、オメガ様様だな』
由良も真剣には受け取っていなかった。露ほども信じていない口調だったが、ひとまずは見逃すことにしたらしい。
由良に月城一成の話をするわけにはいかない。由良に小説を嗜む趣味なんかないし、メディアにも興味のない男だ。
しかし一成の名前を出したくなかった。
玲がどこにいて、何をしているのか、由良に教えてはならない。
「真面目に仕事してます。紹介してもらった事務職も辞めてません」
『そうだ。ふざけた真似はするなよ。お前は黙って、死ぬまで金返してりゃいいんだから』
「はい」
『何言われても余計なことはするな』
「はい、ありがとうご——……あ」
切れた。いつも思う。由良の電話を切るタイミングは謎すぎる。
彼から別れの言葉を聞いたことはない。七年前に出会ってから、一度もだ。
自分たちに別れなどないのだから当然だ。玲は深呼吸をして、また荷物を抱え直した。
金融事務所のある町はどこを歩いても汚れていて、道の隅にはゴミか鼠が落ちている。街全体が灰皿みたいな場所だ。当然、喧嘩や一方的な暴力も点在している。
一成のマンションが存在する街とは天と地ほどかけ離れている。
この街の空気は濁っていない。ビルが立ち並ぶオフィス街の先に、高層マンションと高級住宅街が広がっている。身なりの良い人ばかりが歩いていた。スーツを着た社会の中枢で働いていそうな恰幅の良い中年だったり、子供や犬さえも高そうな服を着ている。
傘の色が違うのだ。
濁った半透明の破れた傘ではなく、ここにいる人たちは、透明な傘や鮮やかな色の傘を使っている。
玲が過ごすには場違いすぎるとは分かっている。どうやったらここに慣れるだろう。でも、慣れないと。
タクシーでマンションまで移動して、車内で心を入れ替える。時刻は午前十一時だ。一成にマンションへ向かう旨をメッセージしておいたが、返信はない。
渡されたカードキーでマンションに入り、エレベーターへ乗り込む。あまりに場にそぐわないのでコンシェルジュに止められるかと思ったが、そんなことはなかった。
上昇していくにつれて心臓が騒めきだす。金融事務所へ向かうよりもよっぽど、緊張する。
部屋の階に着いてキーで玄関扉を開錠する。扉を開けて、室内の様子を窺うが、物音ひとつしない。
恐る恐る靴を脱ぎ、スリッパを取り出して歩いていく。
俺の部屋……ここだ。荷物を置いて、リビングへ向かう。
やはり一成の姿がない。
玲は安堵とも落胆とも言い難い気持ちでつぶやいた。
「いないのかな……」
「いる」
玲は「ひゃっ」と悲鳴をあげて振り向いた。
寝起きみたいな目をした一成が、不機嫌そうに玲を見下ろしていた。
「ひゃっ、て……お前……」
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