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第二章

9 馬鹿だった

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 真紀人は返事を聞くと心から嬉しそうに微笑んだ。少し動揺してしまうほど屈託なく笑って、「ありがとう」と告げる。
 司は唇を閉じた。
 足元のつるが起き上がって、こちらを一瞥すると、トコトコ歩き去っていく。
 その姿が見えなくなるまで司はどこか呆然とした心地でいた。真紀人の微笑みに頭がぼんやりとする。
 高校生の真紀人もこんな風に無邪気に笑っていた。
 まさかそれを間近で、二人きりの空間で見ることになるとは。
 いまだに信じられない。
「司?」
 心ここに在らずな司を真紀人が心配そうに見つめてくる。
 司はすぐに「すみません、えっと、夕飯のご希望はありますか?」と訊ねた。
 真紀人は数拍おいて答える。
「得意料理とかあるのか?」
「得意……」
 司は自然と「シチューです」と呟いていた。
 昔、真紀人が好きだと言っていたからだ。ホワイトクリームシチューが好きだと九年前の彼が語っていた。
 真紀人は少し驚いたように目を丸くしたが、また笑みを浮かべ、
「じゃあ、それで」
 と頷く。
 司はじっと彼の整った顔を見つめる。反応からしてまだ好物のようだ。記憶がなくなっても好きなものは変わらないらしい。
 詳しく聞くのも失礼だと思って真紀人が無くした記憶の範囲は聞いていない。仕事に支障はないらしいので、過去の一部を失ってしまったのだろう。
 事故当初は言語障害や身体麻痺も起こっていたらしい。司の知らないところで真紀人は命の危機に瀕していた。
 こうしてまた出会えたことも奇跡なのだろう。
 いつ二度と会えなくなるのか分からないのだ。
 胸に言いようのない感情が湧き起こる。自分を忘れてしまったことは悲しいけれど、また会えたことが嬉しくてたまらない。
 今はとにかく、彼と話していたい。
「司、どうした?」
「え」
 感情を顔には出さないようにしていたのに真紀人が問いかけてくる。
 司は慌てて首を振った。
「なんでもないですよ」
「なんか、寂しそうな顔してただろ」
 司は言葉に窮した。
 ……寂しい。
 確かに、そうだ。
「芳川から聞いた。昔の俺とお前は仲が良かったんだってな」
 「な、仲が良かった?」司は呟いた。
「ああ。お前は俺に遠慮して『知り合い』っつってくれたけど、本当は友達だったんだろ?」
「……」
「違ぇの?」
 真紀人が不思議そうな顔をする。
 彼があまりにも無垢なので司は迷った。
 別れがあったとしても数ヶ月の交流はあったのだ。あの日々を……嘘にすることを躊躇う。
 少なくとも司は彼と『仲が良い』と思っていた。司が抱く感情は単純な友情だけではなかったけれど、友愛も恋愛も含めて真紀人を好きだったのだ。
 嘘をつく必要があるだろうか?
 別れのことは話さないけれど、交流があったことを話しても、いいのかもしれない。
 何よりも、純粋な真紀人に嘘をつきたくないと思った。
「そう、です……俺と、水野さんには交流があったんです」
「やっぱりそうか」
「はい。ただの知り合いと言ってすみませんでした」
「じゃあ仲が良かったんだな」
 司は息をついた。
 どこか力なく微笑みかける。
「少なくとも俺は水野さんと親しいと思っていました」
「俺だってそう思ってただろ」
「どうでしょう。俺は水野さんと過ごすのが楽しかったけれど」
「俺もそう思ってたと思わねぇの?」
「……もう、九年前の話ですし」
 司は出来る限り明るく笑いかけた。
「九年間も会ってなかったんです」
「司は」
 真紀人は一度区切って、真剣に語りかけた。
「俺と会いたくなかったのか?」
「……」
 嘘を……吐く必要はない。
 嘘を、吐きたくない。
「会いたかったです」
 司はもうずっと言いたかった言葉を告げた。
 九年間思っていた。忘れたことなんか一度もない。
 真紀人からしたら司に話しかけたのは思いつきの行動だったのだろう。気まぐれの一つだ。
 それでも司はあの出会いが忘れられなかったし、その後の会話も過ごした時間も全部大切で、忘れたくなくて、もう一度過ごしたくて、思い続けていた。
 ……真紀人先輩。
「会いたかったんです」
 司は自然と笑いかけていた。泣き笑いみたいな表情になるが、涙だけは堪える。
 真紀人は無表情だった。そこに少し切なそうな気配が滲む。何も事情を知らないのに真剣に向き合ってくれる真紀人が嬉しかった。
 たとえ記憶を無くしていても、やはり真紀人への恋しい気持ちは変わらない。
 司は首を振って、フッと息を吐いた。
「でも会いには行けなかったので」
「どうして?」
 食い気味に真紀人が重ねる。当然の質問だった。
 ストレートに問いかけてくるから、司も力の抜けた心地でありのまま答えた。
「うーん。端的に言うと、俺はまき……水野さんに釣り合ってなかったんです」
 嘘をつく必要はないのだ。
「……は?」
「あははっ……『は?』って、思いますよね。友達なのに」
 真紀人が眉間に皺を寄せる。率直な反応がむしろありがたくて、司は笑う。
 もう九年も前のことだ。時間が経ったからこうして話すことができる。
 つまり、若すぎたのだと。
「俺は何の取り柄もない普通の一年で、水野さんは学園で一番有名な人だったんです。そんな二人が話しているのを周りの人たちが変に思うのも仕方なかった。俺たちは皆、高校生だったから」
「……」
「俺も馬鹿だったなと思います」
「何が」
 真紀人はこの話題に関心があるらしい。それはそうだ。失った記憶のことだから。
「んーと……あんなに奢られてしまったところとか」
「はい?」
「俺たちが通ってた高校ってお金持ちばっかりいたんです。でも俺は違うから、学食なんかは食べられないし、バイトばっかりで、今から思うと貧相なお昼を食べてました」
 真紀人は真剣に耳を傾けてくれる。
 司は穏やかな気持ちで過去を振り返った。
「水野さんは俺に色々と奢ってくれたんです。金のない学生に水野さんはよくしてくれて、俺は馬鹿だったからその好意を何の考えなしに受けてました」
「それでいいだろ」
「ダメですよ」
 司はゆっくりと首を振った。
「ダメです。毎回毎回そんな風に奢られて……俺がたかってると見られるのも当然です。乞食だって思われても仕方ないんです」
「乞食?」
 真紀人は目つきを鋭くした。
 司は突然強まったその視線に怯む。真紀人は低い声で続けた。
「乞食だって、お前が思ったのか?」
「えっ……あ、いえ。そんな、水野さんの行為が悪かったんじゃないです。ただそう言われても、仕方なかったなって」
「言われたのか?」
「は、はい……」
 真紀人は目線をテーブルへ移した。空になったカップを見つめている。
 調子に乗って話しすぎてしまった。真紀人は罪悪感を抱いたのかショックを受けた顔をしている。
 司は焦って付け足した。
「水野さんが悪いんじゃないんです。水野さんはただ、後輩の俺を気遣ってくれただけですから。俺が場違いだったんですよ」
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