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第一章
3 お仕事をお探しなんですね
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時間が経つごとに後悔が増す。どうしてあの時、真紀人の大学へ行かなかったのだろう……。
九年経ってもいまだに考える。
長い時間が経ってしまった。今更会えない。
仮に真紀人の会社……株式会社ラビットウィングの所在地である厳かな高層ビルを訪ねたとしても、きっと真紀人は困るし、頭の狂った異常者に思われてしまうかもしれない。
「はぁ」
九年経ってもいまだに、『水野真紀人』を目にするとすぐに思考が引き込まれてしまうのは悪い癖だ。
年々これは悪化している。去年は特に酷かった。
真紀人が事故に遭ったのだ。
彼の乗っていた車に別の乗用車が突っ込んだらしい。真紀人が大怪我を負ったと雑誌に書いてあった。
美麗な若手経営者なので真紀人は一般の人たちからも人気だ。SNSで『ラビットの社長顔面やば』とその美しさが広まってからは、特に十代二十代の女性たちから注目されている。
真紀人の事故が報道されると世間は彼を案じた。心を痛めて続報を待つも、なかなか詳細が入ってこない。
結果的に半年後にはまたメディアに現れるようになったので、皆、ホッと胸を撫で下ろした。
例に漏れず気を揉んでいた司も涙が出るほど安心した。
司がどれだけ心配し、憂いても、彼は司の届かぬところで全てを成す。
だから大丈夫なのだ。
特大な息を吐いて気持ちを切り替える。
「転職活動しなきゃ」
今は自分のことに集中しよう。
司は真紀人の経営雑誌から目を背け、あからさまに『就活してます』と言わんばかりの雑誌を三冊取り出す。
今まではポップや広報グッズを販売する会社に勤めていたが、この際別の業界に目を向けてみてもいいかもしれない。焦っても仕方ないし、しっかり自分を見つめ直そう。
高校の頃はハウスキーパーの仕事に勤めていた。
お客様のペットが可愛かったな。犬とか猫とか、大好きだ。
ペット関連の仕事はどうだろう。直接関われなくてもペット用品とか。
考えながら転職雑誌を眺めていると、二つ隣の席に誰かがやってきた。
窓際のカウンター席には司しかいない。客の疎なカフェだったので人目を気にせず雑誌を広げていたがあからさまに転職活動を匂わせるラインナップに気まずくなり、一冊雑誌をしまう。
すると、やってきた客が傘を落とした。
(ん?)
不思議だったのは、今日の天気は朝から快晴だったこと。
黒い傘をなぜ持っているのだろう。頭のどこかで疑問に思うも、司の脳内は(傘を拾ってあげないと)で大半が埋め尽くされている。
「落としましたよ」
「ああっ!」
傘を拾って差し出す。カバンも落としたようで、客の男は四苦八苦していた。
飲み物は珈琲一つ。四十代半ばの男で身なりが整っている。いかにも社会の中枢で働いていますと言わんばかりの風貌は、平日のカフェにはどこか不似合いだった。
「ありがとうございます」
「傘、ここに立てかけておくといいかもしれません」
「これはこれは丁寧に」
「カバンもよかったらこのカバン入れ使ってください。俺は使わないので」
こちら側にあったカバン入れの箱を渡す。男は陳謝した。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいのか……」
「いえ、それほどのことでもないです」
司はにっこりと微笑んで頭を下げた。自分の席へ戻ろうと体の向きを変える。
――ここからだった。
男が、
「ああ、もしかして君は」
とこちらのテーブルへ目を向けてからの展開の早さは、尋常ではない。
司も追いつくのに必死だったのだ。
「転職活動の真っ最中ですか」
「え、あ、はい」
司は振り向いて男を見、次に自分の雑誌へ視線を移す。
また男へ顔を向けると同時、彼は言った。
「お仕事をお探しなんですね」
「はい。そうです」
「それなら一つご紹介があるのです」
「へ?」
「ちょうどよかった。お兄さんは男性ですし、若く体力もありそうだ」
「え、体力?」
司は首を傾げる。男はにこやかに続けた。
「かなり条件の良い仕事だと思いますよ。長期でも短期でも募集している仕事なんです」
「えっと」
「お兄さんは一人暮らしですか?」
「は、はい」
男は突然自分を「私は芳川と申します」と懐から名刺入れを取り出す。司も慌てて自分の名刺を取り出そうと自分のリュックに目を向けるが、あ、そっか。会社倒産したんだ。
「うわっ」
「芳川です。よろしくお願いします」
体の向きを芳川に戻すと彼が間近にいた。
思わず一歩退きながら名刺を受け取る。
よろしく、されてしまった。
名刺を確認する間も与えず芳川が矢継ぎ早に続ける。
「一人暮らしでしたら家事もできますよね。お兄さん、掃除など家事はしますか?」
「は、はい。昔ハウスキーパーのバイトをしていて……」
「何て偶然なんだ! まさかお兄さんにハウスキーパーのお仕事があるとは。さすが傘を拾ってくれるだけありますね、お兄さん。……失礼ですがお名前は」
「すみませんっ。鶴居と申します」
慌てて告げる。
あ、名乗っちゃった。
男の名刺を確認しようとすると、芳川がテーブルに手をついて神妙な面持ちで頷いた。
「鶴居さん、是非仕事を紹介させてください。私の方も急を要していまして、猫の手でも借りたい所存なのです」
「えっと、仕事って」
「主に鶴居さんの得意なハウスキーパーのお仕事です」
「得意って訳では……」
「週休二日で給与は月二百万ほどでしょうか」
「に、百万!?」
思わず声が裏返る。芳川は真剣な面持ちで頷いた。
「我が社の代表のご自宅でのお仕事ですから」
「代表?」
そこでようやく司は名刺を確認した。
――司は目を見開いて、思考停止する。
まさか、そんな……。
「是非今すぐにでも面接に向かいましょう。タクシーを呼びますね」
名刺には芳川拓昌の名前が記されている。
彼が所属しているのは、株式会社ラビットウィングだった。
九年経ってもいまだに考える。
長い時間が経ってしまった。今更会えない。
仮に真紀人の会社……株式会社ラビットウィングの所在地である厳かな高層ビルを訪ねたとしても、きっと真紀人は困るし、頭の狂った異常者に思われてしまうかもしれない。
「はぁ」
九年経ってもいまだに、『水野真紀人』を目にするとすぐに思考が引き込まれてしまうのは悪い癖だ。
年々これは悪化している。去年は特に酷かった。
真紀人が事故に遭ったのだ。
彼の乗っていた車に別の乗用車が突っ込んだらしい。真紀人が大怪我を負ったと雑誌に書いてあった。
美麗な若手経営者なので真紀人は一般の人たちからも人気だ。SNSで『ラビットの社長顔面やば』とその美しさが広まってからは、特に十代二十代の女性たちから注目されている。
真紀人の事故が報道されると世間は彼を案じた。心を痛めて続報を待つも、なかなか詳細が入ってこない。
結果的に半年後にはまたメディアに現れるようになったので、皆、ホッと胸を撫で下ろした。
例に漏れず気を揉んでいた司も涙が出るほど安心した。
司がどれだけ心配し、憂いても、彼は司の届かぬところで全てを成す。
だから大丈夫なのだ。
特大な息を吐いて気持ちを切り替える。
「転職活動しなきゃ」
今は自分のことに集中しよう。
司は真紀人の経営雑誌から目を背け、あからさまに『就活してます』と言わんばかりの雑誌を三冊取り出す。
今まではポップや広報グッズを販売する会社に勤めていたが、この際別の業界に目を向けてみてもいいかもしれない。焦っても仕方ないし、しっかり自分を見つめ直そう。
高校の頃はハウスキーパーの仕事に勤めていた。
お客様のペットが可愛かったな。犬とか猫とか、大好きだ。
ペット関連の仕事はどうだろう。直接関われなくてもペット用品とか。
考えながら転職雑誌を眺めていると、二つ隣の席に誰かがやってきた。
窓際のカウンター席には司しかいない。客の疎なカフェだったので人目を気にせず雑誌を広げていたがあからさまに転職活動を匂わせるラインナップに気まずくなり、一冊雑誌をしまう。
すると、やってきた客が傘を落とした。
(ん?)
不思議だったのは、今日の天気は朝から快晴だったこと。
黒い傘をなぜ持っているのだろう。頭のどこかで疑問に思うも、司の脳内は(傘を拾ってあげないと)で大半が埋め尽くされている。
「落としましたよ」
「ああっ!」
傘を拾って差し出す。カバンも落としたようで、客の男は四苦八苦していた。
飲み物は珈琲一つ。四十代半ばの男で身なりが整っている。いかにも社会の中枢で働いていますと言わんばかりの風貌は、平日のカフェにはどこか不似合いだった。
「ありがとうございます」
「傘、ここに立てかけておくといいかもしれません」
「これはこれは丁寧に」
「カバンもよかったらこのカバン入れ使ってください。俺は使わないので」
こちら側にあったカバン入れの箱を渡す。男は陳謝した。
「ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいのか……」
「いえ、それほどのことでもないです」
司はにっこりと微笑んで頭を下げた。自分の席へ戻ろうと体の向きを変える。
――ここからだった。
男が、
「ああ、もしかして君は」
とこちらのテーブルへ目を向けてからの展開の早さは、尋常ではない。
司も追いつくのに必死だったのだ。
「転職活動の真っ最中ですか」
「え、あ、はい」
司は振り向いて男を見、次に自分の雑誌へ視線を移す。
また男へ顔を向けると同時、彼は言った。
「お仕事をお探しなんですね」
「はい。そうです」
「それなら一つご紹介があるのです」
「へ?」
「ちょうどよかった。お兄さんは男性ですし、若く体力もありそうだ」
「え、体力?」
司は首を傾げる。男はにこやかに続けた。
「かなり条件の良い仕事だと思いますよ。長期でも短期でも募集している仕事なんです」
「えっと」
「お兄さんは一人暮らしですか?」
「は、はい」
男は突然自分を「私は芳川と申します」と懐から名刺入れを取り出す。司も慌てて自分の名刺を取り出そうと自分のリュックに目を向けるが、あ、そっか。会社倒産したんだ。
「うわっ」
「芳川です。よろしくお願いします」
体の向きを芳川に戻すと彼が間近にいた。
思わず一歩退きながら名刺を受け取る。
よろしく、されてしまった。
名刺を確認する間も与えず芳川が矢継ぎ早に続ける。
「一人暮らしでしたら家事もできますよね。お兄さん、掃除など家事はしますか?」
「は、はい。昔ハウスキーパーのバイトをしていて……」
「何て偶然なんだ! まさかお兄さんにハウスキーパーのお仕事があるとは。さすが傘を拾ってくれるだけありますね、お兄さん。……失礼ですがお名前は」
「すみませんっ。鶴居と申します」
慌てて告げる。
あ、名乗っちゃった。
男の名刺を確認しようとすると、芳川がテーブルに手をついて神妙な面持ちで頷いた。
「鶴居さん、是非仕事を紹介させてください。私の方も急を要していまして、猫の手でも借りたい所存なのです」
「えっと、仕事って」
「主に鶴居さんの得意なハウスキーパーのお仕事です」
「得意って訳では……」
「週休二日で給与は月二百万ほどでしょうか」
「に、百万!?」
思わず声が裏返る。芳川は真剣な面持ちで頷いた。
「我が社の代表のご自宅でのお仕事ですから」
「代表?」
そこでようやく司は名刺を確認した。
――司は目を見開いて、思考停止する。
まさか、そんな……。
「是非今すぐにでも面接に向かいましょう。タクシーを呼びますね」
名刺には芳川拓昌の名前が記されている。
彼が所属しているのは、株式会社ラビットウィングだった。
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