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第一章
2 会いに行けば良かったのにな
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真紀人も司に会いにくる時はこっそりとやってくる。ただでさえ三年生は一年生と交流がしにくい。学内は広く、三年と一年では校舎が違うのだ。
その中で水野真紀人が堂々と司へ会いにくるとかなり目立ってしまう。特に内進生の一年は驚くに違いない。
二人の交流は密やかに続いた。
昼休みのウサギ小屋周辺は人気が無いし、放課後の勉強会もカフェで開かれる。
真紀人はいつ会っても楽しそうで、司に「仕方ねぇから奢ってやるよ」とジュースをご馳走してくれた。
司は珈琲が飲めない。真紀人はそれを「子供舌」と揶揄う。司は「うるさいっ」と反抗する。すると、真紀人はまたおかしそうにする。
司にとって真紀人は異次元の存在だった。関わったことのないタイプの人。
真紀人と違って司が今まで過ごしてきた場所は、教室の隅の方の世界だ。
目を引く存在でもないし、目を付けられる存在でもない。煌びやかな同級生たちをぼんやり眺めるだけで、上級生の人気者なんて眺める対象でもなかった。
そんな世界にいたのに、半年経てば真紀人は司にとって親しみやすく、一緒にいて心地よい先輩となっている。
そしてもっと時間が経つと、真紀人は司の心をやたらと動かす存在になった。
真紀人が笑うたびに嬉しくなって、胸がザワっとする。心が締め付けられるし、真紀人の言葉を大事に大事に胸の中で繰り返す。
彼の真剣な横顔を眺めているとこちらまで静かで張り詰めた気持ちになる。真紀人がふっと溢すように微笑めば、司も同じように笑みが溢れる。
出会ってから初めての冬を迎える頃にはもう、司は自分の心を知っていた。
初恋だった。
恋なんてしたことがないので知らなかったけれど、自分は男の人を好きになるらしい。
真紀人に恋していると自覚して司が真っ先に感じたのは、息苦しさだった。
恋の痛みだけでなく、真紀人に恋をしていることに罪悪感が芽生えた。
これは女子を好きになっても同じなのだろうか。だって綺麗な想いだけではない。
真紀人が女子と話していると胸の内側が粘り気のある何かでべったりと汚れたみたいになるし、真紀人の首元や手首を見ていると、その首に触れてみたいとか、その手に強く握られてみたいとか、考える。
甘くて汚くて苦しい。
司は真紀人といると心が甘く蕩ける一方で、とても不安定になった。
誰にも打ち明けられない想いを抱えて過ごす日々は心許ない。真紀人といると心が揺さぶられる。けれど彼と過ごす時間は大事で、一秒だって無駄にしたくない。
真紀人は三年生だ。じきに卒業する。大学生になったら昼休みを過ごせないし、きっと真紀人も大学生活が楽しくなって、司に構ってくれない。
ぐるぐる、もやもや、司は考え続けていた。
真紀人のことばかり……。
いつも。ずっと。そうやって。
――未熟な気持ちでいたからだろう。
『何なの、お前』
自分の立場を忘れていたのだ。
『真紀人にたかってばっかで乞食じゃん』
……数人の男女が自分を見下ろしている。
座り込んだ司は顔を上げることができない。
頭のてっぺんが熱い。羞恥で顔の中心に熱が集まる。
司はただ俯いて、真紀人の傍から離れた。
忘れていたのだ。
真紀人が別世界の人間だったことを。
教室の隅にいる司と、学校の中心にいる真紀人は、全く違う。
司はある冬、真紀人の友人たちから糾弾された。真紀人の傍から離れた司を、真紀人は追わなかった。
暫くして彼は卒業し、未成熟な司は卒業祝いの言葉を告げることすらできなかった。
……今から思うと子供過ぎたのだと思う。
それから司が卒業するまでの数年間、真紀人へ会いに行くことができなかったのは、自分が子供だったせいだ。真紀人からしたら、『面白いから』と可愛がっていた一年が自分から離れたとしか思っていない。だから真紀人が司に会いにこないのは当然で、会いたいなら司から動くしかなかった。
でも出来なかった。
恥ずかしかったから。
真紀人と過ごすのが当然と思い上がっていた自分が恥ずかしくてたまらなかったのだ。
どうせ会いに行っても真紀人は首を傾げるだけ。もう大学生活に夢中で司のことなんてどうでもいいに違いない。
そんな風に考えて、結局司は真紀人の元へ向かわなかった。
司は進学先をエスカレーターで進める大学ではなく別の大学を受験した。
そうして本当に、二人の道は分かれてしまったのだ。
……会いに行けばよかったのにな。
――九年経った今から振り返ると、ぐるぐるもやもや考えずに真紀人へ会いに行けばよかったと心底思う。
だって今ではもう、真紀人の世界は本物の別世界だ。
「はぁー……」
司は就活用のスーツを眺め下ろした。ネクタイを緩めつつ、またため息を一つ落とす。
適当に入ったカフェだが時間帯的に人も少ない。古風な喫茶店で、雑誌がジャンル問わずに並んでいる。
就活は三年ぶりだ。
たった三年。まさか新卒で勤めた会社が倒産するとは思わなかった。
「んー……」
呻き声がいくつも漏れる。ネットの経験談として聞いたことはあるが、自分の勤めていた会社が無くなるとは未だに信じられない。
こんなにも無防備で社会に投げ出されるなど、無謀すぎる。もう何もかも考えずに過ごしていたいけれど、生活するためには稼がなくては。
人生何が起こるか分からないな。いずれ職は決まるだろうけれど、こうも突如として生活の基盤が崩されると精神的に不安定にもなる。
「うー……」
また一つ呻き声を漏らしつつ、司は雑誌棚に目を向けた。
そこには有名俳優が表紙を飾る経営雑誌がある。
大きな文字で記されているのは、
「……真紀人先輩」
『水野真紀人』の字が表紙で最も目立っていた。司の贔屓目を抜きにしても彼の名前は大きいし、その号での看板のようだ。
属する会社を失った司の一方で、会社を立ち上げた真紀人は見事に成功し、若手経営者としてこの世代で最も有名だ。
真紀人の人材派遣会社は目覚ましい成長を続けている。真紀人は昔から勉学もコミュニケーション能力も体力も優れていたから、こうして成功するのだろう。
雑誌を手に取ることはできなかった。それはもちろん彼が羨ましいからとか、自分の状況と比較して妬んでいるわけではない。
司は真紀人の活躍を心から嬉しく思っている。
真紀人が幸せに暮らしていると分かって安心するし、誇らしい。
真紀人の幸福と活躍を心底祈っているけれど……。
でも雑誌の中を開いて、真紀人の姿を眺めることはできない。
それは司が未だに真紀人への恋を忘れられないからだ。
本当は名前を呟くのだって辛い。真紀人にはもう会えないのに、真紀人を目にする機会が多くて、胸が苦しくなる。
真紀人と会わなくなったばかりの時は心の問題で会えなかったけれど、今では本当に手の届かない存在となって、会うことはできなくなっている。
その中で水野真紀人が堂々と司へ会いにくるとかなり目立ってしまう。特に内進生の一年は驚くに違いない。
二人の交流は密やかに続いた。
昼休みのウサギ小屋周辺は人気が無いし、放課後の勉強会もカフェで開かれる。
真紀人はいつ会っても楽しそうで、司に「仕方ねぇから奢ってやるよ」とジュースをご馳走してくれた。
司は珈琲が飲めない。真紀人はそれを「子供舌」と揶揄う。司は「うるさいっ」と反抗する。すると、真紀人はまたおかしそうにする。
司にとって真紀人は異次元の存在だった。関わったことのないタイプの人。
真紀人と違って司が今まで過ごしてきた場所は、教室の隅の方の世界だ。
目を引く存在でもないし、目を付けられる存在でもない。煌びやかな同級生たちをぼんやり眺めるだけで、上級生の人気者なんて眺める対象でもなかった。
そんな世界にいたのに、半年経てば真紀人は司にとって親しみやすく、一緒にいて心地よい先輩となっている。
そしてもっと時間が経つと、真紀人は司の心をやたらと動かす存在になった。
真紀人が笑うたびに嬉しくなって、胸がザワっとする。心が締め付けられるし、真紀人の言葉を大事に大事に胸の中で繰り返す。
彼の真剣な横顔を眺めているとこちらまで静かで張り詰めた気持ちになる。真紀人がふっと溢すように微笑めば、司も同じように笑みが溢れる。
出会ってから初めての冬を迎える頃にはもう、司は自分の心を知っていた。
初恋だった。
恋なんてしたことがないので知らなかったけれど、自分は男の人を好きになるらしい。
真紀人に恋していると自覚して司が真っ先に感じたのは、息苦しさだった。
恋の痛みだけでなく、真紀人に恋をしていることに罪悪感が芽生えた。
これは女子を好きになっても同じなのだろうか。だって綺麗な想いだけではない。
真紀人が女子と話していると胸の内側が粘り気のある何かでべったりと汚れたみたいになるし、真紀人の首元や手首を見ていると、その首に触れてみたいとか、その手に強く握られてみたいとか、考える。
甘くて汚くて苦しい。
司は真紀人といると心が甘く蕩ける一方で、とても不安定になった。
誰にも打ち明けられない想いを抱えて過ごす日々は心許ない。真紀人といると心が揺さぶられる。けれど彼と過ごす時間は大事で、一秒だって無駄にしたくない。
真紀人は三年生だ。じきに卒業する。大学生になったら昼休みを過ごせないし、きっと真紀人も大学生活が楽しくなって、司に構ってくれない。
ぐるぐる、もやもや、司は考え続けていた。
真紀人のことばかり……。
いつも。ずっと。そうやって。
――未熟な気持ちでいたからだろう。
『何なの、お前』
自分の立場を忘れていたのだ。
『真紀人にたかってばっかで乞食じゃん』
……数人の男女が自分を見下ろしている。
座り込んだ司は顔を上げることができない。
頭のてっぺんが熱い。羞恥で顔の中心に熱が集まる。
司はただ俯いて、真紀人の傍から離れた。
忘れていたのだ。
真紀人が別世界の人間だったことを。
教室の隅にいる司と、学校の中心にいる真紀人は、全く違う。
司はある冬、真紀人の友人たちから糾弾された。真紀人の傍から離れた司を、真紀人は追わなかった。
暫くして彼は卒業し、未成熟な司は卒業祝いの言葉を告げることすらできなかった。
……今から思うと子供過ぎたのだと思う。
それから司が卒業するまでの数年間、真紀人へ会いに行くことができなかったのは、自分が子供だったせいだ。真紀人からしたら、『面白いから』と可愛がっていた一年が自分から離れたとしか思っていない。だから真紀人が司に会いにこないのは当然で、会いたいなら司から動くしかなかった。
でも出来なかった。
恥ずかしかったから。
真紀人と過ごすのが当然と思い上がっていた自分が恥ずかしくてたまらなかったのだ。
どうせ会いに行っても真紀人は首を傾げるだけ。もう大学生活に夢中で司のことなんてどうでもいいに違いない。
そんな風に考えて、結局司は真紀人の元へ向かわなかった。
司は進学先をエスカレーターで進める大学ではなく別の大学を受験した。
そうして本当に、二人の道は分かれてしまったのだ。
……会いに行けばよかったのにな。
――九年経った今から振り返ると、ぐるぐるもやもや考えずに真紀人へ会いに行けばよかったと心底思う。
だって今ではもう、真紀人の世界は本物の別世界だ。
「はぁー……」
司は就活用のスーツを眺め下ろした。ネクタイを緩めつつ、またため息を一つ落とす。
適当に入ったカフェだが時間帯的に人も少ない。古風な喫茶店で、雑誌がジャンル問わずに並んでいる。
就活は三年ぶりだ。
たった三年。まさか新卒で勤めた会社が倒産するとは思わなかった。
「んー……」
呻き声がいくつも漏れる。ネットの経験談として聞いたことはあるが、自分の勤めていた会社が無くなるとは未だに信じられない。
こんなにも無防備で社会に投げ出されるなど、無謀すぎる。もう何もかも考えずに過ごしていたいけれど、生活するためには稼がなくては。
人生何が起こるか分からないな。いずれ職は決まるだろうけれど、こうも突如として生活の基盤が崩されると精神的に不安定にもなる。
「うー……」
また一つ呻き声を漏らしつつ、司は雑誌棚に目を向けた。
そこには有名俳優が表紙を飾る経営雑誌がある。
大きな文字で記されているのは、
「……真紀人先輩」
『水野真紀人』の字が表紙で最も目立っていた。司の贔屓目を抜きにしても彼の名前は大きいし、その号での看板のようだ。
属する会社を失った司の一方で、会社を立ち上げた真紀人は見事に成功し、若手経営者としてこの世代で最も有名だ。
真紀人の人材派遣会社は目覚ましい成長を続けている。真紀人は昔から勉学もコミュニケーション能力も体力も優れていたから、こうして成功するのだろう。
雑誌を手に取ることはできなかった。それはもちろん彼が羨ましいからとか、自分の状況と比較して妬んでいるわけではない。
司は真紀人の活躍を心から嬉しく思っている。
真紀人が幸せに暮らしていると分かって安心するし、誇らしい。
真紀人の幸福と活躍を心底祈っているけれど……。
でも雑誌の中を開いて、真紀人の姿を眺めることはできない。
それは司が未だに真紀人への恋を忘れられないからだ。
本当は名前を呟くのだって辛い。真紀人にはもう会えないのに、真紀人を目にする機会が多くて、胸が苦しくなる。
真紀人と会わなくなったばかりの時は心の問題で会えなかったけれど、今では本当に手の届かない存在となって、会うことはできなくなっている。
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