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最終章
最終話 行こう※
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「俺のこと言ってんの?」
「そうですよ。ライハルト様って変ですもん」
「ああ?」
「最初から……おかしな人でした」
「悪口か?」
「好きなところです」
「ふーん。生意気な口だ」
ライハルトが噛み付くようなキスをしてきた。下唇を甘噛みするキスだった。
怒っている口振りをするけれど口付けは甘いから、思わず笑ってしまう。すると、開いた唇の隙間を、ライハルトの舌がすかさず侵入してきた。
キスがみるみる深くなる。ライハルトは手でミカの耳たぶをいじり、首筋を撫でると、頭の後ろに手を回してきた。
「んっ、あ、……っ」
「こっち来い」
「うわっ」
軽々と体を抱え上げられて膝の上に乗せられてしまう。
向かい合えばまた、キスが再開した。舌を絡めると水音が鳴って気持ちが昂っていく。
一度唇が離れる。ライハルトが指で、ミカの唇に垂れたどちらのものか分からない唾液を拭った。
青い瞳がミカを射抜く。ミカの背後に窓があるからか、その青には光が満ち満ちている。
綺麗な瞳だな、と思って眺めていると、ライハルトが言った。
「綺麗な青だな」
囁いた彼は唇の先を合わせるだけのキスをしてくる。
同じことを考えているものだからミカは驚いた。目を丸くするミカが面白かったのか、ライハルトは、かわいい笑い方をする。
もう、胸が強く締め付けられて、苦しい。甘やかさとときめきが心を刺激する。
ミカは自らライハルトにキスをした。その、一番近い距離で呟いた。
「しますか?」
ライハルトが瞬きした。それから目を細くして、嬉しそうに笑う。
……はじめてライハルトに抱かれたのは、公爵家からリエッツの邸宅に帰ってきた夜だった。
そして彼がローレンツに関して触れたのもその日だけ。
数ヶ月ぶりにライハルト邸へ帰宅するとすぐに、ライハルトが教えてくれたのだ。ローレンツとヒルトマン家の顛末を。
ローレンツが裁判にかけられている最中に、ミカが公爵家の血を引いていることが判明した。ガイスラー公爵家も正式にそれを認めたのだ。
公爵家の人間に対して暴行を与えたことになる。大罪だった。
極刑は免れたものの、ローレンツは禁錮三十年の刑を言い渡され、ヒルトマン家は爵位を剥奪された。ヒルトマン夫妻は屋敷を売る羽目になり、ローレンツの妻であるルイーザは大きな腹を抱えて街を追われた。
ミカがローレンツの愛人であったことは伏せられているが、かつてヒルトマン家でミカが働いていたことは、貴族間でまことしやかに広まっていた。そしてヒルトマン夫妻がミカを泥棒だと謂れのない罪を押し付け、暴力を働き、屋敷を追い出したことも伝わっている。おそらくどの領地へ向かおうとヒルトマン夫妻は冷遇されるだろう。そうライハルトは言った。
邸宅で働いていた使用人たちも誰一人ミカを助けようとせず、それどころか同じになっていじめを働いていたことさえ知られていた。ゆえに解散した使用人たちは雇用につけず、路頭に迷っているらしい。
ライハルトはその全てを『当然だ』と言った。
それでもミカに教えることを数ヶ月躊躇っていたのは、要約すると、『ミカがまだ少しでもローレンツに情があるなら気の毒だから』だ。
ミカは改めて考えた。
……はたして自分はローレンツを愛していたのだろうか。
十年もヒルトマン邸で働いていたのに大切な思い出は何一つないのだ。
幼い頃、凍え死にそうで猫になっていたところを拾われた。ローレンツは命の恩人だった。冷たくない寝床が涙が出るほど嬉しくて、少しでも金を稼げるのが心底有難くて、子供のミカは邸宅で働くことを選んだ。
まだ幼かったミカがローレンツに迫られた時も、拒もうなど思わなかった。その選択肢がなかったからだ。受け入れるしかなかったし、愛だって、求められたから応えた。
そうして過ごしているうちにミカ自身もまたローレンツを愛していると思うようになった。本気でそう思っていた。でも。
でも……きっとそうではない。
生き延びるために愛だと思い込んでいたのだ。
ミカはローレンツのすることを全て受け入れて、反抗など一度もしなかった。他の使用人たちにいじめられていることを、ローレンツが知りながらも放置していたことに関しても何も言わなかった。男爵が夜に迫ってきても、助けを求めなかった。男爵夫人がお茶をかけてきてもただ耐えていた。
ローレンツが他の女性と関係を持っていることを知ったって、文句を言おうとは思わない。
ミカ自身とお婆ちゃんを生かすためにはヒルトマン邸で働くしかなかったから。
……今から思えばあんなものは愛でない。
追従のための偽りの愛だったのだ。
そう断言できるのは、今のミカが、自由の身での愛を知っているから。
ミカはライハルトを愛している。これを知ってしまうと、自分がローレンツを愛していたとは到底思えない。
しかしミカは、あの十年を無かったことにはしない。
確かにミカは捨てられた。裏切られ、暴力を受け、冬に放り捨てられた。
それでも生き延びている。
どれだけイジメを受けて、辱められて、黒猫の夜を過ごしたとしても、ミカは生き延び、ライハルトに出会えた。
自由の心と体でライハルトを愛することができたのだ。同時に、愛される幸福をも知った。この身で思うのはヒルトマン家の人々への憐みでも怒りでもない。
ライハルトと共に過ごせる喜びだった。
ライハルトはミカを心配してくれたけど、実際には、彼らの顛末を聞いてミカが思うのはライハルトへの愛だ。ミカの反応を慎重にうかがうライハルトが愛おしい。思わずミカは笑って言った。
『あの人たちのことはもうどうでもいいです』
ミカの心が向かうのはライハルトだけ。
あなた、ただ一人。
——そうしてミカはその晩、ライハルトと体を重ねた。
びっくりして涙が出てしまうほどに、幸せな夜だった。この行為が快感を齎すものだなんて知らなかった。ライハルトに抱かれるミカの心はとても安心して、躊躇いなく快感に溺れることができた。
ライハルトと肌を合わせるのは、信じられないほどに幸せだ。
何度でも思える。
——彼に身を委ねるのは心地が良い。
「あっ、んんっ、あ……あっ、あ!」
太いかたまりがグッと奥を突き上げる。
膨張した性器がナカを満遍なく擦り上げるから、その度に快感が泡みたいに生まれて、身体中に広がっていく。
ソファからベッドへ運び込まれて随分時間が経っていた。もう既に二回も達してしまったから頭がぼうっとして、ずっと『気持ちいい』の波に揺すられている気分だ。
ライハルトは力のないミカの腰を支えて、こちらの反応を一秒たりとも見逃さずに、体の中を突いてくる。
「あっ、う、う~……っ、あっ……」
ライハルトの性器は硬く、熱かった。
ライハルトが「ミカ、」と苦しそうに名前を呼ぶ。
綺麗な彼の額に汗の滴が浮いているのを見るとナカがきゅんとしてより強くライハルトを締め付けてしまう。
「くっ……」
「あっ、ライ、ハルト……さっ、あっあっ!」
「……ミカ」
余裕のないライハルトが愛しかった。ミカは揺すられながらもその顔を見つめていた。
硬い猛りで丁寧に、何度も、絶え間なく愛撫された肚の中はぐずぐずに蕩けている。火照った内壁が熱いペニスにぴたりと密着している。気持ちが良すぎて、頭がぼうっとした。
「んぅ、ああっ、きもち……ラ、ハル……あっ、うっ」
膨らんだペニスが狭いナカを幾度も往復している。繋がった場所からクチュ、と淫らな音が溢れていた。視界も聴覚も、頭も心も体も全部ライハルトでいっぱいだ。
もういっそ口も塞いで欲しくて、ミカは「ライハルトさま……」と頼りない声で呟いた。
ミカの心をなぜかライハルトは読み取ることができる。本当に不思議だ。猫になった時もそうだった。言葉なんか通じないはずなのに時折、ミカの言いたいことを彼は聞き取ってくれたのだ。
「んぅ、ん……は、……」
「ミカ」
ライハルトがキスを落としてくれる。身体の奥も繋がったまま、舌を絡め合う。
二人の体格差は明らかで、ライハルトは背が高く、がっしりとしている。裸になればその筋肉の美しさが分かる。綺麗だな、と思うと同時またキスが深くなった。
こうしているとミカの体はすっぽりとライハルトに覆われてしまう。全身が彼の熱に包まれているようで、安心した心がとろんと溶ける。
いきなり唇が離れるので、ミカは「あっ」と小さく声を上げた。自分の声の響きがあまりにもライハルトを求めているので恥ずかしくなる。
ライハルトはふっと微笑みをこぼし、ミカの腰を抱えなおした。一度性器を引き抜き、またずぷ、と埋めていく。
「う、んん、ああ~……っ」
硬い先端が柔らかく狭い内壁を割って、奥まで入り込んできた。
たっぷりと愛されてほぐれたナカはライハルトの性器を根元まで飲み込んだ。ミカは力なく開いた唇から「んぅ……ッ」と声を漏らす。奥まで埋め込まれて、ナカはライハルトでいっぱいだ。
ライハルトもまた、苦しげに眉間に皺を寄せた。彼の額から汗が落ちて、ミカの胸を下へ伝っていく。ライハルトの漏らした吐息にミカは胸が締め付けられて、彼を呑み込んだ内壁もきゅう……と収縮した。
「苦しくねぇか」
余裕がないのはライハルトも同じだ。それなのにミカを気遣うようなことを言うから困ってしまう。
ミカはふわっと微笑んだ。ライハルトはするとミカの顔を横に手をつき、キスを落としてくる。
唇を合わせたまま律動が再開した。先ほどよりも勢いよく突き上げられて、溢れる声も大きくなってしまう。
「ああっ、はっ、ううっ、ライ、ハ……あぁ! んんっ!」
口内にライハルトの舌が入り込んできた。貪るようなキスに頭がくらくらする。ミカの喘ぎ声は残さずライハルトの唇の向こうへ消えていった。
「んんっ、う、んん~……ッ!」
腰の動きが徐々に激しくなっていく。繋がった場所は熱くて溶けてしまったみたいだ。
硬いペニスが腹の中を揺する。すっかり勃ち上がったミカの性器が、ライハルトに突き上げられるたび腹の上でぶるっと揺れた。
「ああっ、い、あっ、……ぅッ……」
「は、ミカ……」
「ラ、ハル……さま……あっあっ、んっ、あ!」
汗で湿ったミカの前髪をライハルトが撫で付ける。髪も頬も耳たぶも、大切そうに撫でられて、またキスで唇を塞がれた。
丁寧な仕草でミカを愛する手のひらと違って、腹の中を往復する性器の律動は激しさを増す。もうとっくにとろとろにぬかるんだ内壁を、硬いペニスが容赦なく掻き回した。
「ううう~……あっ、ああっ、あ!」
「は、ミカ……」
「あっ、んぐっ、あ! うあっ、あ~ー……っ」
「ミカ、綺麗だ、かわいい、」
「んぅ、ライ、……あ!」
耳元でライハルトが「好きだ、ミカ」と囁く。
ミカは堪らなくなってライハルトの背中に腕を回し、しがみついた。
火照った肌と肌が密着して心臓の鼓動が伝わってくる。快感に呑まれながらミカは、その音をどこか不思議な心地で聞いている。
絶頂の気配がした。また達してしまう。
「も、イっちゃいます……あ、だめ、もう……んんっ」
「あぁ」
ミカはぎゅっと抱きしめる力を強める。ライハルトも、ミカを安心させるように抱きしめ返してきた。
ミカを覆ったまま、ライハルトは腰を強く押し上げる。硬い熱が、蕩けた中を抉るように突き進んで奥まで貫いた。
あまりの刺激にミカは青い目から涙をぽろっとこぼした。奥をトントンっと叩かれる。ミカは目をぎゅっと瞑った。
「も、あっあっ、うう、イく、もう……っ」
「俺も、出す」
「はい……あ、う……あぁぁ……っ!」
「……う、」
瞼の裏に星が散る。繋がった場所から起こった快感の波がブワッと体に広がり頭の中を埋め尽くした。
達しながらもミカはライハルトを必死で抱きしめた。ライハルトも先端を奥に押し付けて、一番深いところで吐精した。
奥に熱を感じる。痙攣するナカに、まだライハルトがいる。
ライハルトはミカの目元に唇を押し付けた。ミカは瞼を開き、潤んだ瞳で彼を見上げる。
二人の視線が交わった。繋がったままで、今度は触れるだけのキスを繰り返す。
心も体も、ライハルトに与えられたもので充溢している。ミカは信じられないほどの多幸感に包まれながら、目を閉じた。
ライハルトの視線を感じた。見なくても分かる。とても優しい目をしていることを。
——その夜もまた、深く穏やかな眠りについた。
ライハルトの隣で眠るといつもそう。夢さえ見ないような眠りができる。
だがその日は違った。ミカは夢を見ていた。
……猫がいる。
黒猫がミカを見つめている。
ミカが夢の世界に入るまで、ずっと傍にいてくれたみたいだった。青い目をした黒猫はミカと目が合うと、尻尾を一振りして、躊躇いなく踵を返し、ゆっくりと、けれどミカには追いつけない速さで歩いていく。
ミカもまたその後ろ姿を眺めているだけで追いかけようとはしなかった。
ふと思った。
あの子が俺を守っていてくれたのだろうか?
心の砕けたミカが白い世界で膝を抱えている間、あの子がミカの体を守ってくれていたのだろう。
きっともう出会えない魂だ。ありがとう。ミカは消えゆく黒猫を眺めながら、心から思う。
ありがとう。
俺を黒猫に産んでくれて。
この身で生まれてきてよかった。
長いようで短い旅が終わろうとしていた。
ミカとライハルトはテラスで海の風を受けている。よく晴れていて、どこもかしこも真っ青だ。
その青い海の向こうに街が見えた。
ララブラン港がもうすぐそこに迫っているのだ。
「うわー……思ったよりも……」
「なんだよ」
宮殿みたいだな、と。
港とリートルリゾートは近いようだ。出会った頃から話を聞いていたララブランのリゾート地が、ここからでも目視できた。
ライハルトが力を入れただけあり、とても豪華なホテルが見える。ライハルトの邸宅も公爵邸も立派だけれど、リゾートホテルもまるで宮殿のようだ。
さすがのミカもワクワクしてきて、「楽しみですねっ」とはしゃいだ。
「凄く豪華です」
「だろ」
「それにララブランなんて……こんなに遠くまで来たのは初めてです」
「あぁ」
「何があるんだろう……わー……」
海も煌めいて綺麗だけど、その向こうにも素晴らしいものがある。目の前には、ミカの胸を光で満たす光景が広がっている。
すっかり見惚れてしまって、ミカはじっと港の方を眺めた。
するとどれほど時間が経ったろう。
もう港はすぐそこで、船の進む速度が落ちていく。停船の準備を始めているのが分かった。
そんな時に無言だったライハルトが突然、
「ミカが探していたものがある」
と言った。
一瞬何の話か分からずにミカはぼうっとする。遅れて『何があるんだろう』への返答だと理解するが、理解して尚、ライハルトの言葉はよく分からない。
ミカは首を傾げた。
「探してたもの? ですか?」
「あぁ」
ライハルトは何とも言い難い笑みを浮かべてミカを見下ろした。それはこちらの胸を締め付けるような、切ない笑みだった。
探していたもの……海の向こうにある、ミカの探していたもの。
やはり何のことかよく分からない。考え込むミカの隣で、ライハルトが、
「……俺はさ、不明瞭だと思ってたんだよ」
と呟いた。
ライハルトは言ってから、目を凝らすようにして海を見つめる。それは独り言みたいな声だった。実際そうなのかもしれないと思えるほど、ミカにとっては支離滅裂だ。
「誰もそれを確かめていない……」
ライハルトは声を強めた。
「掘り起こしてないんだ」
ライハルトの真剣な横顔を見つめる。ミカは唇を薄く開いて声を出せずにいた。
ライハルトは続けた。
「ペンダントだけが証明になっている。それは証明というよりもむしろ、死んだことを主張するようだった」
ペンダント……。
記憶を刺激する単語だった。ミカの鼓動が静かに速くなる。
ライハルトはじっと港を凝視している。
すると空へごうっと船の汽笛が轟いた。停止の合図だ。空へ溶けていく汽笛の音に、ライハルトの声が混じる。
「仕方がないことだった。ミカが子供だったように彼も子供だったんだ。もう自分を守ってくれる母はいないし、守るべき弟もいない。一人で生きる他なかった。自分を死んだことにすれば父親からも世間からも逃げられる。そのために、ペンダントを残した。……その『証明』があったからこそ俺は」
轟音は完全に溶け切って、静かな世界に包まれている。
ライハルトは力強く言い切った。
「絶対にどこかにいると思った」
ミカは目を見開いて、金色の前髪の向こうにある青色の瞳を見つめている。
「テオバルトは死んで、ミカは公爵家に帰ってきた。ミカが安全な場所で幸せに暮らしていることを知れば、きっと現れてくれると思ったんだ」
ライハルトの言葉たちは、ミカの頭が解釈するよりも前に、ミカの心を揺さぶってくる。
ミカは唇を震わせた。ライハルトは滔々と告げる。
「きっとミカが探し出せなかったように向こうもミカを見つけられなかった。だがもう、状況が違う。突然公爵家に現れたミカの話は貴族間を通じて噂されている。表に出始めたんだ。……たとえ公爵家に接触することのできる身分でなかったとしても、俺の会社になら連絡できる。リートルグループの会社はこの帝国中に散らばっているからな」
「……ライハルト様」
「船を降りよう、ミカ」
ライハルトがようやくミカに目を向けた。
慈しむような笑みを滲ませてミカを見下ろしていた。
「探してたものがあるはずだ」
二人は、青い光を交換するように見つめ合った。どうしても言葉が出なくて、ミカは黙り込んでいる。部屋のベルが鳴った。ミカたちが船を降りる時間がやってきたのだ。
それでもミカは動けない。まだライハルトの台詞の全てを理解し切れてはいないはずなのに、この胸に溢れかえるものが大きすぎて、一歩踏み出せなかったのだ。
「おいで」
するとライハルトがミカの手を取った。
暖かかった。
「一緒に行こう」
そこにある青がとても綺麗だから、ミカは自然と微笑んでいた。
いつだってミカの心をときめかせる、宝石みたいな青だ。初めて出会った時から思っていた。とても美しい青い瞳だと。
同じ色を、ミカは幼い頃に見たことがある。
もう出会えないと思っていた青だ。
ミカはライハルトと共に歩き出した。長い旅の終わりは、突き抜けるような空と絶え間なく煌めく海が見守ってくれている。光に満ちた青たちが、ミカの脳裏を過ぎる、夜を染める恐ろしい赤い炎を打ち消した。
ミカの心はもう恐怖に捉われていない。
独りぼっちでもない。
船を降りる。隣にはライハルトがいる。
背が高いからだろうか? この人はミカが探し出せなかったものを探し出してくれる。ライハルトが何かを見つけて歩き出す。ミカは導かれて、進んだ。本当に……おかしな人だった。いつも考えつかないことをするのがライハルトだ。そしてミカは、彼のすることや、彼の齎す驚きが好きだった。
いつも最高の驚きを与えてくれる。
ミカの心を震わせる何かを。
向かった先には黒髪の青年がいた。
彼がこちらに近付いてくる。ミカもまた、歩いていく。その人の瞳はもう緑ではなくミカと全く同じ青を宿していた。……やっぱり。伝えたいことはたくさんあったはずなのに、今は何も浮かばないよ。
「兄さん」
ミカはそう明るく笑いかけた。
でも、ろくに言葉が出てこなくても大丈夫。
長い長い旅について語り合うための時間はこれから沢山あるのだ。
だから今はこれだけ、笑顔で言い合おう。
「ただいま、ミカ」
「お帰りなさい、兄さん!」
(了)
「そうですよ。ライハルト様って変ですもん」
「ああ?」
「最初から……おかしな人でした」
「悪口か?」
「好きなところです」
「ふーん。生意気な口だ」
ライハルトが噛み付くようなキスをしてきた。下唇を甘噛みするキスだった。
怒っている口振りをするけれど口付けは甘いから、思わず笑ってしまう。すると、開いた唇の隙間を、ライハルトの舌がすかさず侵入してきた。
キスがみるみる深くなる。ライハルトは手でミカの耳たぶをいじり、首筋を撫でると、頭の後ろに手を回してきた。
「んっ、あ、……っ」
「こっち来い」
「うわっ」
軽々と体を抱え上げられて膝の上に乗せられてしまう。
向かい合えばまた、キスが再開した。舌を絡めると水音が鳴って気持ちが昂っていく。
一度唇が離れる。ライハルトが指で、ミカの唇に垂れたどちらのものか分からない唾液を拭った。
青い瞳がミカを射抜く。ミカの背後に窓があるからか、その青には光が満ち満ちている。
綺麗な瞳だな、と思って眺めていると、ライハルトが言った。
「綺麗な青だな」
囁いた彼は唇の先を合わせるだけのキスをしてくる。
同じことを考えているものだからミカは驚いた。目を丸くするミカが面白かったのか、ライハルトは、かわいい笑い方をする。
もう、胸が強く締め付けられて、苦しい。甘やかさとときめきが心を刺激する。
ミカは自らライハルトにキスをした。その、一番近い距離で呟いた。
「しますか?」
ライハルトが瞬きした。それから目を細くして、嬉しそうに笑う。
……はじめてライハルトに抱かれたのは、公爵家からリエッツの邸宅に帰ってきた夜だった。
そして彼がローレンツに関して触れたのもその日だけ。
数ヶ月ぶりにライハルト邸へ帰宅するとすぐに、ライハルトが教えてくれたのだ。ローレンツとヒルトマン家の顛末を。
ローレンツが裁判にかけられている最中に、ミカが公爵家の血を引いていることが判明した。ガイスラー公爵家も正式にそれを認めたのだ。
公爵家の人間に対して暴行を与えたことになる。大罪だった。
極刑は免れたものの、ローレンツは禁錮三十年の刑を言い渡され、ヒルトマン家は爵位を剥奪された。ヒルトマン夫妻は屋敷を売る羽目になり、ローレンツの妻であるルイーザは大きな腹を抱えて街を追われた。
ミカがローレンツの愛人であったことは伏せられているが、かつてヒルトマン家でミカが働いていたことは、貴族間でまことしやかに広まっていた。そしてヒルトマン夫妻がミカを泥棒だと謂れのない罪を押し付け、暴力を働き、屋敷を追い出したことも伝わっている。おそらくどの領地へ向かおうとヒルトマン夫妻は冷遇されるだろう。そうライハルトは言った。
邸宅で働いていた使用人たちも誰一人ミカを助けようとせず、それどころか同じになっていじめを働いていたことさえ知られていた。ゆえに解散した使用人たちは雇用につけず、路頭に迷っているらしい。
ライハルトはその全てを『当然だ』と言った。
それでもミカに教えることを数ヶ月躊躇っていたのは、要約すると、『ミカがまだ少しでもローレンツに情があるなら気の毒だから』だ。
ミカは改めて考えた。
……はたして自分はローレンツを愛していたのだろうか。
十年もヒルトマン邸で働いていたのに大切な思い出は何一つないのだ。
幼い頃、凍え死にそうで猫になっていたところを拾われた。ローレンツは命の恩人だった。冷たくない寝床が涙が出るほど嬉しくて、少しでも金を稼げるのが心底有難くて、子供のミカは邸宅で働くことを選んだ。
まだ幼かったミカがローレンツに迫られた時も、拒もうなど思わなかった。その選択肢がなかったからだ。受け入れるしかなかったし、愛だって、求められたから応えた。
そうして過ごしているうちにミカ自身もまたローレンツを愛していると思うようになった。本気でそう思っていた。でも。
でも……きっとそうではない。
生き延びるために愛だと思い込んでいたのだ。
ミカはローレンツのすることを全て受け入れて、反抗など一度もしなかった。他の使用人たちにいじめられていることを、ローレンツが知りながらも放置していたことに関しても何も言わなかった。男爵が夜に迫ってきても、助けを求めなかった。男爵夫人がお茶をかけてきてもただ耐えていた。
ローレンツが他の女性と関係を持っていることを知ったって、文句を言おうとは思わない。
ミカ自身とお婆ちゃんを生かすためにはヒルトマン邸で働くしかなかったから。
……今から思えばあんなものは愛でない。
追従のための偽りの愛だったのだ。
そう断言できるのは、今のミカが、自由の身での愛を知っているから。
ミカはライハルトを愛している。これを知ってしまうと、自分がローレンツを愛していたとは到底思えない。
しかしミカは、あの十年を無かったことにはしない。
確かにミカは捨てられた。裏切られ、暴力を受け、冬に放り捨てられた。
それでも生き延びている。
どれだけイジメを受けて、辱められて、黒猫の夜を過ごしたとしても、ミカは生き延び、ライハルトに出会えた。
自由の心と体でライハルトを愛することができたのだ。同時に、愛される幸福をも知った。この身で思うのはヒルトマン家の人々への憐みでも怒りでもない。
ライハルトと共に過ごせる喜びだった。
ライハルトはミカを心配してくれたけど、実際には、彼らの顛末を聞いてミカが思うのはライハルトへの愛だ。ミカの反応を慎重にうかがうライハルトが愛おしい。思わずミカは笑って言った。
『あの人たちのことはもうどうでもいいです』
ミカの心が向かうのはライハルトだけ。
あなた、ただ一人。
——そうしてミカはその晩、ライハルトと体を重ねた。
びっくりして涙が出てしまうほどに、幸せな夜だった。この行為が快感を齎すものだなんて知らなかった。ライハルトに抱かれるミカの心はとても安心して、躊躇いなく快感に溺れることができた。
ライハルトと肌を合わせるのは、信じられないほどに幸せだ。
何度でも思える。
——彼に身を委ねるのは心地が良い。
「あっ、んんっ、あ……あっ、あ!」
太いかたまりがグッと奥を突き上げる。
膨張した性器がナカを満遍なく擦り上げるから、その度に快感が泡みたいに生まれて、身体中に広がっていく。
ソファからベッドへ運び込まれて随分時間が経っていた。もう既に二回も達してしまったから頭がぼうっとして、ずっと『気持ちいい』の波に揺すられている気分だ。
ライハルトは力のないミカの腰を支えて、こちらの反応を一秒たりとも見逃さずに、体の中を突いてくる。
「あっ、う、う~……っ、あっ……」
ライハルトの性器は硬く、熱かった。
ライハルトが「ミカ、」と苦しそうに名前を呼ぶ。
綺麗な彼の額に汗の滴が浮いているのを見るとナカがきゅんとしてより強くライハルトを締め付けてしまう。
「くっ……」
「あっ、ライ、ハルト……さっ、あっあっ!」
「……ミカ」
余裕のないライハルトが愛しかった。ミカは揺すられながらもその顔を見つめていた。
硬い猛りで丁寧に、何度も、絶え間なく愛撫された肚の中はぐずぐずに蕩けている。火照った内壁が熱いペニスにぴたりと密着している。気持ちが良すぎて、頭がぼうっとした。
「んぅ、ああっ、きもち……ラ、ハル……あっ、うっ」
膨らんだペニスが狭いナカを幾度も往復している。繋がった場所からクチュ、と淫らな音が溢れていた。視界も聴覚も、頭も心も体も全部ライハルトでいっぱいだ。
もういっそ口も塞いで欲しくて、ミカは「ライハルトさま……」と頼りない声で呟いた。
ミカの心をなぜかライハルトは読み取ることができる。本当に不思議だ。猫になった時もそうだった。言葉なんか通じないはずなのに時折、ミカの言いたいことを彼は聞き取ってくれたのだ。
「んぅ、ん……は、……」
「ミカ」
ライハルトがキスを落としてくれる。身体の奥も繋がったまま、舌を絡め合う。
二人の体格差は明らかで、ライハルトは背が高く、がっしりとしている。裸になればその筋肉の美しさが分かる。綺麗だな、と思うと同時またキスが深くなった。
こうしているとミカの体はすっぽりとライハルトに覆われてしまう。全身が彼の熱に包まれているようで、安心した心がとろんと溶ける。
いきなり唇が離れるので、ミカは「あっ」と小さく声を上げた。自分の声の響きがあまりにもライハルトを求めているので恥ずかしくなる。
ライハルトはふっと微笑みをこぼし、ミカの腰を抱えなおした。一度性器を引き抜き、またずぷ、と埋めていく。
「う、んん、ああ~……っ」
硬い先端が柔らかく狭い内壁を割って、奥まで入り込んできた。
たっぷりと愛されてほぐれたナカはライハルトの性器を根元まで飲み込んだ。ミカは力なく開いた唇から「んぅ……ッ」と声を漏らす。奥まで埋め込まれて、ナカはライハルトでいっぱいだ。
ライハルトもまた、苦しげに眉間に皺を寄せた。彼の額から汗が落ちて、ミカの胸を下へ伝っていく。ライハルトの漏らした吐息にミカは胸が締め付けられて、彼を呑み込んだ内壁もきゅう……と収縮した。
「苦しくねぇか」
余裕がないのはライハルトも同じだ。それなのにミカを気遣うようなことを言うから困ってしまう。
ミカはふわっと微笑んだ。ライハルトはするとミカの顔を横に手をつき、キスを落としてくる。
唇を合わせたまま律動が再開した。先ほどよりも勢いよく突き上げられて、溢れる声も大きくなってしまう。
「ああっ、はっ、ううっ、ライ、ハ……あぁ! んんっ!」
口内にライハルトの舌が入り込んできた。貪るようなキスに頭がくらくらする。ミカの喘ぎ声は残さずライハルトの唇の向こうへ消えていった。
「んんっ、う、んん~……ッ!」
腰の動きが徐々に激しくなっていく。繋がった場所は熱くて溶けてしまったみたいだ。
硬いペニスが腹の中を揺する。すっかり勃ち上がったミカの性器が、ライハルトに突き上げられるたび腹の上でぶるっと揺れた。
「ああっ、い、あっ、……ぅッ……」
「は、ミカ……」
「ラ、ハル……さま……あっあっ、んっ、あ!」
汗で湿ったミカの前髪をライハルトが撫で付ける。髪も頬も耳たぶも、大切そうに撫でられて、またキスで唇を塞がれた。
丁寧な仕草でミカを愛する手のひらと違って、腹の中を往復する性器の律動は激しさを増す。もうとっくにとろとろにぬかるんだ内壁を、硬いペニスが容赦なく掻き回した。
「ううう~……あっ、ああっ、あ!」
「は、ミカ……」
「あっ、んぐっ、あ! うあっ、あ~ー……っ」
「ミカ、綺麗だ、かわいい、」
「んぅ、ライ、……あ!」
耳元でライハルトが「好きだ、ミカ」と囁く。
ミカは堪らなくなってライハルトの背中に腕を回し、しがみついた。
火照った肌と肌が密着して心臓の鼓動が伝わってくる。快感に呑まれながらミカは、その音をどこか不思議な心地で聞いている。
絶頂の気配がした。また達してしまう。
「も、イっちゃいます……あ、だめ、もう……んんっ」
「あぁ」
ミカはぎゅっと抱きしめる力を強める。ライハルトも、ミカを安心させるように抱きしめ返してきた。
ミカを覆ったまま、ライハルトは腰を強く押し上げる。硬い熱が、蕩けた中を抉るように突き進んで奥まで貫いた。
あまりの刺激にミカは青い目から涙をぽろっとこぼした。奥をトントンっと叩かれる。ミカは目をぎゅっと瞑った。
「も、あっあっ、うう、イく、もう……っ」
「俺も、出す」
「はい……あ、う……あぁぁ……っ!」
「……う、」
瞼の裏に星が散る。繋がった場所から起こった快感の波がブワッと体に広がり頭の中を埋め尽くした。
達しながらもミカはライハルトを必死で抱きしめた。ライハルトも先端を奥に押し付けて、一番深いところで吐精した。
奥に熱を感じる。痙攣するナカに、まだライハルトがいる。
ライハルトはミカの目元に唇を押し付けた。ミカは瞼を開き、潤んだ瞳で彼を見上げる。
二人の視線が交わった。繋がったままで、今度は触れるだけのキスを繰り返す。
心も体も、ライハルトに与えられたもので充溢している。ミカは信じられないほどの多幸感に包まれながら、目を閉じた。
ライハルトの視線を感じた。見なくても分かる。とても優しい目をしていることを。
——その夜もまた、深く穏やかな眠りについた。
ライハルトの隣で眠るといつもそう。夢さえ見ないような眠りができる。
だがその日は違った。ミカは夢を見ていた。
……猫がいる。
黒猫がミカを見つめている。
ミカが夢の世界に入るまで、ずっと傍にいてくれたみたいだった。青い目をした黒猫はミカと目が合うと、尻尾を一振りして、躊躇いなく踵を返し、ゆっくりと、けれどミカには追いつけない速さで歩いていく。
ミカもまたその後ろ姿を眺めているだけで追いかけようとはしなかった。
ふと思った。
あの子が俺を守っていてくれたのだろうか?
心の砕けたミカが白い世界で膝を抱えている間、あの子がミカの体を守ってくれていたのだろう。
きっともう出会えない魂だ。ありがとう。ミカは消えゆく黒猫を眺めながら、心から思う。
ありがとう。
俺を黒猫に産んでくれて。
この身で生まれてきてよかった。
長いようで短い旅が終わろうとしていた。
ミカとライハルトはテラスで海の風を受けている。よく晴れていて、どこもかしこも真っ青だ。
その青い海の向こうに街が見えた。
ララブラン港がもうすぐそこに迫っているのだ。
「うわー……思ったよりも……」
「なんだよ」
宮殿みたいだな、と。
港とリートルリゾートは近いようだ。出会った頃から話を聞いていたララブランのリゾート地が、ここからでも目視できた。
ライハルトが力を入れただけあり、とても豪華なホテルが見える。ライハルトの邸宅も公爵邸も立派だけれど、リゾートホテルもまるで宮殿のようだ。
さすがのミカもワクワクしてきて、「楽しみですねっ」とはしゃいだ。
「凄く豪華です」
「だろ」
「それにララブランなんて……こんなに遠くまで来たのは初めてです」
「あぁ」
「何があるんだろう……わー……」
海も煌めいて綺麗だけど、その向こうにも素晴らしいものがある。目の前には、ミカの胸を光で満たす光景が広がっている。
すっかり見惚れてしまって、ミカはじっと港の方を眺めた。
するとどれほど時間が経ったろう。
もう港はすぐそこで、船の進む速度が落ちていく。停船の準備を始めているのが分かった。
そんな時に無言だったライハルトが突然、
「ミカが探していたものがある」
と言った。
一瞬何の話か分からずにミカはぼうっとする。遅れて『何があるんだろう』への返答だと理解するが、理解して尚、ライハルトの言葉はよく分からない。
ミカは首を傾げた。
「探してたもの? ですか?」
「あぁ」
ライハルトは何とも言い難い笑みを浮かべてミカを見下ろした。それはこちらの胸を締め付けるような、切ない笑みだった。
探していたもの……海の向こうにある、ミカの探していたもの。
やはり何のことかよく分からない。考え込むミカの隣で、ライハルトが、
「……俺はさ、不明瞭だと思ってたんだよ」
と呟いた。
ライハルトは言ってから、目を凝らすようにして海を見つめる。それは独り言みたいな声だった。実際そうなのかもしれないと思えるほど、ミカにとっては支離滅裂だ。
「誰もそれを確かめていない……」
ライハルトは声を強めた。
「掘り起こしてないんだ」
ライハルトの真剣な横顔を見つめる。ミカは唇を薄く開いて声を出せずにいた。
ライハルトは続けた。
「ペンダントだけが証明になっている。それは証明というよりもむしろ、死んだことを主張するようだった」
ペンダント……。
記憶を刺激する単語だった。ミカの鼓動が静かに速くなる。
ライハルトはじっと港を凝視している。
すると空へごうっと船の汽笛が轟いた。停止の合図だ。空へ溶けていく汽笛の音に、ライハルトの声が混じる。
「仕方がないことだった。ミカが子供だったように彼も子供だったんだ。もう自分を守ってくれる母はいないし、守るべき弟もいない。一人で生きる他なかった。自分を死んだことにすれば父親からも世間からも逃げられる。そのために、ペンダントを残した。……その『証明』があったからこそ俺は」
轟音は完全に溶け切って、静かな世界に包まれている。
ライハルトは力強く言い切った。
「絶対にどこかにいると思った」
ミカは目を見開いて、金色の前髪の向こうにある青色の瞳を見つめている。
「テオバルトは死んで、ミカは公爵家に帰ってきた。ミカが安全な場所で幸せに暮らしていることを知れば、きっと現れてくれると思ったんだ」
ライハルトの言葉たちは、ミカの頭が解釈するよりも前に、ミカの心を揺さぶってくる。
ミカは唇を震わせた。ライハルトは滔々と告げる。
「きっとミカが探し出せなかったように向こうもミカを見つけられなかった。だがもう、状況が違う。突然公爵家に現れたミカの話は貴族間を通じて噂されている。表に出始めたんだ。……たとえ公爵家に接触することのできる身分でなかったとしても、俺の会社になら連絡できる。リートルグループの会社はこの帝国中に散らばっているからな」
「……ライハルト様」
「船を降りよう、ミカ」
ライハルトがようやくミカに目を向けた。
慈しむような笑みを滲ませてミカを見下ろしていた。
「探してたものがあるはずだ」
二人は、青い光を交換するように見つめ合った。どうしても言葉が出なくて、ミカは黙り込んでいる。部屋のベルが鳴った。ミカたちが船を降りる時間がやってきたのだ。
それでもミカは動けない。まだライハルトの台詞の全てを理解し切れてはいないはずなのに、この胸に溢れかえるものが大きすぎて、一歩踏み出せなかったのだ。
「おいで」
するとライハルトがミカの手を取った。
暖かかった。
「一緒に行こう」
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いつだってミカの心をときめかせる、宝石みたいな青だ。初めて出会った時から思っていた。とても美しい青い瞳だと。
同じ色を、ミカは幼い頃に見たことがある。
もう出会えないと思っていた青だ。
ミカはライハルトと共に歩き出した。長い旅の終わりは、突き抜けるような空と絶え間なく煌めく海が見守ってくれている。光に満ちた青たちが、ミカの脳裏を過ぎる、夜を染める恐ろしい赤い炎を打ち消した。
ミカの心はもう恐怖に捉われていない。
独りぼっちでもない。
船を降りる。隣にはライハルトがいる。
背が高いからだろうか? この人はミカが探し出せなかったものを探し出してくれる。ライハルトが何かを見つけて歩き出す。ミカは導かれて、進んだ。本当に……おかしな人だった。いつも考えつかないことをするのがライハルトだ。そしてミカは、彼のすることや、彼の齎す驚きが好きだった。
いつも最高の驚きを与えてくれる。
ミカの心を震わせる何かを。
向かった先には黒髪の青年がいた。
彼がこちらに近付いてくる。ミカもまた、歩いていく。その人の瞳はもう緑ではなくミカと全く同じ青を宿していた。……やっぱり。伝えたいことはたくさんあったはずなのに、今は何も浮かばないよ。
「兄さん」
ミカはそう明るく笑いかけた。
でも、ろくに言葉が出てこなくても大丈夫。
長い長い旅について語り合うための時間はこれから沢山あるのだ。
だから今はこれだけ、笑顔で言い合おう。
「ただいま、ミカ」
「お帰りなさい、兄さん!」
(了)
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