【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK

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第三章

40 帰らない

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 無理やりに腕を掴まれて引き上げられる。
「な、え、」
 だがミカは動転して、その場に尻餅をつく。
 どうして、ここに。
 ローレンツ様が。
「ずっと探していたんだ。ようやく見つかってよかった」
 頭が追いつかない。目の前の光景が信じられない。
 ここに彼がいるはずないのに。
 ローレンツはミカの腕を力強く握って離さなかった。その強さに痛みを感じて、ミカの背筋に悪寒が走る。頭上の大木の影がローレンツを覆っている。ライハルトの頬に降りる木漏れ日の丸い光はあんなに煌めいていたのに、影になったローレンツは不気味でしかなかった。
「やめてください、は、離して」
 まだ理解はできないまま声を絞り出す。だがローレンツは言った。
「俺と帰ろう」
「……は?」
 ローレンツは微笑んでいた。
「何を言ってるんですか……」
 これは白昼夢なのだろうか? 今、自分の身に起きていることを到底受け入れられなかった。
 思考は乱れていないのに身体が反応を見せている。ミカの体は次第に震え出し、心臓がバクバクと異様なほど大きく脈を打った。
 ローレンツがミカを強引に立たせる。ミカはハッとして、叫んだ。
「離してください!」
 その瞬間、口元にハンカチを当てられる。ミカはもう一度叫ぼうとしたが、間に合わない。
 ――気絶したと分かったのは、目が覚めてからだった。
 瞼を開く。見知らぬ場所にいる、のが分かる。
 ミカは床の上に転がっていた。埃っぽくて、薄暗い……小屋、だ。
 意識を失う前に見た光景がすぐさま記憶に蘇った。突然ローレンツが現れて、そのまま自分は……。
「ミカ」
 その声に視線を向ける。
 小屋の隅には、椅子に腰掛けたローレンツがいた。
 ミカの体はロープで拘束されていた。口元も覆われていて声が出せない。ローレンツが腰を上げる。ミカは身じろいだ。
「んんーっ、んー!」
「ミカ、君はやっぱり、俺に嘘を吐いていたんだろ」
 開口一番がそれだった。まるで先ほどまで会話していたのを続けるような不自然さだ。
 微かな声でボソボソと何か言っている。ミカがこうして目が覚める前から語りかけていたのかもしれない。一体いつから此処にいるのか。窓の外は夕暮れの色に染まっていた。喧騒が遠くで聞こえる。街からそう離れてはいない。
「嘘つきだったんだな、ミカ」
 何のことを言っているんだ。
 ローレンツは腰を屈めると、ミカへにじり寄ってくる。異様すぎる雰囲気にミカの心はあっという間に恐怖の靄に包まれた。冷たい靄だ。ミカの体も全身が冷たくなっている。
「ミカ、君がいなくなってから俺は最悪だ。金はなくなる一方で、屋敷の空気も悪い。お前がいなくなったせいだ」
 独り言みたいな口調だった。ミカは目を見開いて、ローレンツを見つめている。次に彼が何をしでかすか分からない。一体この人はどうしてしまったんだ。
「ルイーザだって……腹の子は……俺の子じゃなかった。俺の子ではなかったんだ」
 ミカは内心で驚愕した。ローレンツの子じゃなかった……?
 ローレンツは頬もやつれて、髪も傷んでいた。最後に見た彼は若々しい青年だったのに、今は見る影もない。
 過度のストレスで急激に老けてしまったような気配があった。
「君がいなくなってから不幸ばかりに見舞われている。それに比べてこの街はどうだ?」
 先ほどまで独り言のような話し方をしていたが、突如として明確にミカへ矛先が向けられる。
 ローレンツが狂ったような目つきでミカを睨みつけた。
「祭りが生まれて更なる繁栄を築いている。おかしいだろ? 俺たちは散々な目に遭っているのに! お前のせいだろ! なぁ!?」
 心が恐怖で凍ってしまう。乱暴にゆすられて今にも砕けそうだ。
 ローレンツがおかしくなっている。まるで薬物中毒者のような廃退した空気を纏っていた。また口調が変わって、ぶつぶつとぼやきだす。しかし確かにミカへ向けられたものだ。
「それで俺は気付いたんだ。ミカ、君の存在が重要だったんじゃないか? ってさ」
 もう目の前の男は、ミカがかつて数年間を過ごしたローレンツとは違っていた。
 ミカを凝視するその目は真っ暗だ。何を考えているのかまるで分からない。
 未知の生物みたいで、怖かった。何を見ているのかすら分からない。本当にミカを見ているのか?
「黒猫の獣人について調べ回ったよ。そうしたら面白い話を知った。知る人は知る、ガイスラー公爵家の魔女とツカイの噂だ」
 何を……。
 言っているのだろう。
「ガイスラー公爵家の歴代の当主たちは恐ろしい魔女だ。魔女にはツカイがいる。ツカイはその家と主君に繁栄をもたらす」
 ガイスラー公爵? この国の公爵家の一つだ。魔女……それはミカも知らない。そんなことがあり得るのか? あり得たとして、なぜそんな話をいきなり。
 その答えは直後にローレンツが喚いて示した。
「ツカイとして生まれるのはカラスの獣人と黒猫の獣人らしい。つまり、ミカ、お前なんだ!」
 ミカは絶句していた。たとえ口を覆うロープがなくても声は出せなかっただろう。
「俺は大金を叩いてガイスラー公爵家について調べまわった。するとガイスラー公爵家の血筋にはミカと同じ歳の子らがいると判明した。テオバルトの息子である兄弟のうち弟は行方不明になっている。これはミカなんだろ?」
 何を、言っているのだ。
 ローレンツの言葉の意味がまるで分からない。
 魔女? ツカイ? つまりミカがガイスラー公爵家の人間だと言っているのか?
 あまりにも突拍子のないことを大声で言うから信ぴょう性なんかひとつもない。ミカがそうである証拠なんかひとつもない。
 でも、ひとつだけミカの心の奥底を揺する単語があった。
 『テオバルト』……。
 聞いたことがある。どうして? 俺はその名前を知っている。
 テオバルトという音に、心臓の深い場所に残った何かが慄いた。知っている。聞きたくない、と思った。頭の中になぜか青い光がチラついた。その光はあっという間にミカの意識に侵入する。これは、何だろう。……海?
「ミカ、君は魔女のツカイだ。幸福の象徴なんだ」
 ローレンツがこちらに手を伸ばしてくる。ミカは逃れようと首を振った。
「帰ってこい、ミカ」
「っ! んんん~ッ!」
 ミカは体を捩って暴れた。だがローレンツが体を押さえつけてくる。何かが落ちる音がして、瞼をぎゅっと閉ざす。
 殴られると思ったが口に巻かれていたロープが外されるだけだった。ローレンツが再度繰り返す。
「俺の元に帰ってこい」
「……行かないっ!」
 ミカは自由になった口ですぐに叫び返した。
 何が『帰ってこい』だ。そこは帰る場所なんかじゃない。
 頭上のローレンツをきっと睨み上げる。ローレンツは鬼のような激怒の表情を見せた。
「何を……っ、ふざけるな!」
 カシャンと甲高い音がした。立ち上がったローレンツが何かを踏みつけている。
 見ると、それはミカの鞄に入っていた鏡だった。先ほど落ちたのはゾフィおばあちゃんの鏡だったのだ。
 ミカは反射的に大声を上げた。
「その足を退けろ!」
「……俺に口答えしたのか?」
 ローレンツが恐ろしく低い声を出す。
 瞬きすらせず目を見開いているローレンツが、じっとミカを見下ろしている。数秒ほど無言で視線を交わしていた。まだローレンツは何も言っていない。それなのに次の彼の行動が、ミカには分かった。
「やめ――……!」
 叫んだけれど、遅かった。
 ――パリンッ
 悲痛な音と共に鏡が割れる。破片がミカの顔のすぐ側まで転がってくる。
「……そん、な……」
 手鏡を容赦なく踏み潰したローレンツは、うっすらと悦の笑みを口元に浮かべた。ミカは破壊された鏡に視線を落とす。頭が真っ白になった。
「ミカ、お前はツカイの黒猫なんだろ? 俺に嘘を吐くな」
「……な、に……」
 ローレンツは鏡を潰したことなど構わずに続ける。
 ミカの思考は粉々になって停止していた。自分の息遣いが荒くなっていくのを、どこか他人事みたいに感じる。
「その赤い目は嘘だ。まじないでもかかっているに違いない。俺をずっと、騙してきたんだ。ほら、お前の青い目を見せてみろ」
「……な」
 『青い目』。
 その言葉にミカの意識が強引に戻される。
 青い目……ミカの真の瞳が青いことを、ローレンツに話したことはない。
 でも彼は知っていた。そんな……。
「どうしてそれを……」
「ツカイの瞳は青だ」
 そんな、まさか。
 ローレンツの話した『魔女のツカイ』の話は本当なのか?
 大量の情報に頭が追いつかない。信じ難いことばかり続いている。ローレンツが此処にいることも、魔女のツカイについても。
 無理だ。受け入れられない。嫌だ。
「本当の瞳を見せろ。見せろ」
 嫌だ。
 もう嫌だ。
 ライハルト様……。
 ミカはぎゅっと体を丸めて目を閉じた。地獄みたいな場所から意識だけでも逃したい。意識だけでも帰りたい。
「俺は、行かない……俺の帰る場所はあなたのところじゃない……」
「黙れ!」
 ライハルトのもとへ帰りたい。
 怒鳴り上げる声がミカの頭を殴る。ミカは瞼を決して開けなかった。ローレンツは怒声を吐き続けた。
「俺の場所に帰らないならお前には帰る場所なんかないんだ! 俺以外のどこに帰るんだ。お前は俺のものだろう!」
「違う……違う……」
「何が俺のところじゃないだ。他にどこに帰る気だ? お前の父親はもういない」
「行かない……」
「兄だって死んでいるというのに」
「……え?」
 ミカは目を開いた。
 赤い目で、ローレンツを見上げる。ローレンツはニヤッと口角を上げた。
「知らなかったのか?」
 グッと髪を引き上げられた。
 耳元でローレンツが囁く。
「ミカ、君の兄は土砂崩れに巻き込まれて死んでるんだよ」
 ミカは強制的に言葉を与えられた。聞き入れたくなくても、言葉が鼓膜を揺すってくる。
 ……死んだ?
 その時、突然脳裏に赤い炎が浮かび上がった。夜闇を赤が染めている。絶望の色……。
 立ち上がったローレンツが嘲笑った。
「俺のところに来なければ、お前はこの世に独りだ――……」
 次の瞬間、視界を鋭い光が貫いた。
 ローレンツの口に剣が突き刺さっている。ミカはそれを、地面に倒れ込んだまま見つめている。
 ローレンツが立ち上がった瞬間に、体は変化していた。黒猫になるとロープが解けて自由の身になる。けれど全く、手先すら動かせない。
 ……死んだ?
 兄さんが……?
 ローレンツが地面に倒れている。視界が捉えたのはその光景が最後だった。視界は急激に暗くなって、何も見えなくなった。
「——ミカ!」
 真っ暗闇に染まった世界。遠くでライハルトの声がする。
 ミカの意識はその声を最後にぷつんと途切れた。















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