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第二章

30 魔物

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 ミカの返答に一瞬、反応が遅れる。心にへばりついていた違和感がぽろっと取れるような気分だった。
 そうか。もう愛していないのか。
 ライハルトは「ふぅん」とだけ返す。口角が上がってしまい、妙に上機嫌になって、
「なら、何だ? 復讐したいとかか?」
 と問いかけてみた。
 ミカはまたも丸っこい目を向けてくる。
 ちょこっとだけ首を傾げるミカを見て、ライハルトはふっと微笑んだ。
「復讐だよ。お前は騙されたんだ。愛していないなら、憎いか?」
「憎む?」
「怒りが湧かないのか?」
 ミカはぼうっとあどけない表情をする。
 それから訥々と呟いた。
「復讐も考えていませんでした。俺は、怖いんです」
 ミカは一度唇を閉じるが、弱々しい声で語り出した。
「あの日……お屋敷を追い出された日。みんなが俺を囲っていて、色々なことを言われて、でも俺は何も言い返せなかった」
 ライハルトが黒猫のミカを拾った日だ。ミカは何一つ持たずに、森の中で倒れていた。
 何も持たずに屋敷から逃げてきたのだ。
「今から思うと、反論すらできなかったのはただ恐怖していたからだと思います。殺されるんじゃないかって考えていたから、抵抗さえできなかった。恐怖が湧きました。それは怒りなんかじゃない。憎む……どうなん、でしょうか。怒りの対象というより、俺にとってあの人たちは理解ができない、恐怖の対象です」
「なるほど」
 ミカの回答はライハルトにとって意外なものだった。自分を裏切って害したものに抱く感情は、怒りだとか悲しみで、それが齎すのは大抵復讐の決意なのが世の常だと思っていた。
 だがミカはそうではない。
 ライハルトには思いつけない思考だ。しかしこうして話を聞いてみると容易に理解はできた。つまり。
「何をするか分からない未知の生物といった感じか」
「あっ」
 言いながらも迷っていたミカがパッと顔を上げる。大きく頷いて、言った。
「そうかも知れません」
「恐怖か。俺は考えもしなかったが、確かにそうかもな」
「言葉が通じないと思ったんです。俺とは世界が違うような気がして……」
「ほう」
 ミカはたどたどしい口調で「たとえば」と続ける。
「国が違うなら、言葉が別であるだけなので心を込めて接すれば、通じ合うことができると思います。でもあの時は、それすら叶わないと思いました。今まで一緒に暮らしていた人たちが実は別の世界の別の生命だったと気づいたみたいな、全く話が通じないのだと本能で理解しました。だから俺は何も言わなかったし、屋敷を追い出された後も、戻ろうなんて思えなかった。ライハルト様、俺、後から考えて気付いたんです。これって、魔物に出会った時と同じじゃないですか? 出会した時は訳もわからず「どうしてこんなことに」と混乱するばかりで何も言えなくて、話だって通じないから、ただ殺されるのが怖い。俺は理解し合うのをあきらめて、過ぎ去るのを待つんです。怒りよりもショックが大きく、過ぎ去った後も茫然としてしまう。いくらかつてその森で暮らしていようと、もう近付くことすらできなくなる。俺がいた場所は安全な森じゃなくて、魔物のいる森だったと、後から気付いて震えるんです。復讐なんて考えられない。俺は勇者じゃないので」
「……」
「思い出すだけでゾッとします。森にも魔物にも、怒りというよりショックの方が大きくて……ライハルト様?」
「ははははっ」
 耐えられずに笑い声を上げたライハルトに、ミカは「えっ」と声を上げた。
「笑う……? なんで?」
「悪い」
「笑うの、何でですか」
「ミカ、お前、なかなか言うよな」
「す、すみません」
「いや、良い」
 おそらくミカに渡した絵本の影響だ。文字を身につけるために渡した本の中に、森の中に棲む魔物が出てくる話があった。
 それにしても容赦のない例えに笑いが堪えきれなかった。ライハルトは尚も笑いながら「なるほど」と繰り返す。
「魔物は愛せないよな」
「……たとえば、です。ローレンツ様は人間なので」
「だがミカにとっての魔物だ」
「……」
 ミカは今更ながら自分の言葉に些か問題を感じたらしく神妙な顔つきをした。
 ライハルトは目を細めて「ところで」と続ける。
「俺はどうだ?」
「え?」
「俺だってお前に酷い仕打ちをしただろ。俺はミカにとって魔物か?」
「……」
 ミカはわずかに考え込んだ後、首を横に振った。
「いえ、ライハルト様は人間です」
 それほど悩んだ様子はなかった。
 ライハルトは少し意外に思う。ミカを拾った時のライハルトは彼にとって、かなり横暴な男だったろう。
 だが今のミカは静かに告げる。
「ライハルト様は、別の世界の生物ではなく別の国の人間でした。価値観は違っていたけれど、それも込みでライハルト様だなと思えました」
「ふぅん……」
 また口角が上がってしまうのを片頬を手で覆って隠す。ライハルトは「どうしてそう思った?」と問う。
 ミカは難しそうな顔をしたが、言葉に悩みながらも答えた。
「どうして……んっと……お金?」
「は?」
「労働に対する対価がはっきりしていたからです」
「……」
「それに屋敷の皆様がライハルト様に納得して、信頼していたようなので、皆様を通してライハルト様の価値観が分かるようになりました」
 ライハルトは笑い混じりに「ほう」と言った。
「つまり彼らが俺たちの言語だったということか」
「そうかもしれません。皆様を通じてライハルト様が分かるようになったので」
「それは僥倖」
 期待していた答えと違ったが、通じているならばいい。
「今は中継を挟まなくても分かるようになっただろ?」
「俺が? ライハルト様を?」
「……まぁ、いいや」
 まだ先は長そうだ。人間と認知されているだけマシと思わねば。
 とそこまで考えた所でふと(なぜミカに人間と思われたいんだ?)と己に違和感を抱く。
 仲介を介さず直接の意思疎通がしたい理由はなんだ? そう……ミカを知りたいから。そうだった。いや、なぜ知りたいのか?
 仕事にも関係がないのにどうしてミカが気になるのだろう。彼が黒猫の獣人であることは興味の対象ではあるが関心を継続する理由には乏しい。公爵家のツカイとミカの特徴が一部一致している件は理由に足るかもしれないが、それを調べ出したのはミカに関心をもってからなので前後が逆だ。
 どうして俺は、この青年のことばかり考えているのか。
「ライハルト様は魔物に出会ったことはないんですか?」
 今度はミカが問いかけてくるので、ライハルトは自分の思考を放棄し、問いに答えた。
「いや、あるよ」
「あるんですか」
 ミカは驚いたように目を丸くした。
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