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第二章

27 汚い思い出

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 邸宅に着いてもミカは目を覚まさない。眠ったというより気絶の方が近かった。獣医を呼ぶべきか医者を呼ぶべきか迷ったが、獣人の医師を思い出し、彼を呼び出すよう執事長に指示する。
 エルマーは心配そうに黒猫を覗き込んできた。
「随分汚れてしまっているようなので、僕が洗って差し上げますか?」
「いや、いい」
 ライハルトは「俺がやる」と言って、シャワールームへ直行する。後ろからエルマーの「えっ」と驚愕の声が届いた。
「しゃ、社長が!?」
「後のことは俺がやるからお前はもう帰れ。今日の仕事は明日以降に回す」
「明日の王都での視察は……」
「来週に回せ」
「はぁ、まぁ、できますが」
「他に用事がないなら帰れ」
「仕事に関しては承知しました。僕はこの後戻って副社長にお話しします。けれどその猫は」
「いいから」
 遮って「帰れ」と強調する。エルマーは不承不承といった様子で部屋から出て行った。
 ミカの体に付着した泥をぬるま湯で洗い流す。傷はないようだ。タオルで拭いて、血がついていないか慎重に見ていると、狐の獣人である医者がやってきた。
 一通り診察したが、ミカはただ眠っているだけで体に異常は見られないらしい。このまま眠らせておいて起きてから滋養のある食べ物を食わせればいい。猫の姿であっても人間の姿でも。
 以前もそうだったが、ミカは異様に回復が早い。フォルカーの反応からして、彼の目の前で、ミカは黒猫に変化したようだ。
 となると、フォルカーが人間のミカに暴力を働いていても傷は残っていない。
 以前、頬に怪我をしていたが、あれだって翌日になれば跡形もなく消えていた。あれはミカがディニィ地区に一度戻っていた日だったので、フォルカーの仕業に間違いないだろう。
 もしかすると他にも何度か同様のことが……失われた傷があったのかもしれない。
 ミカをブランケットで包んでベッドに横たえる。彼は深い眠りについている。
 起きたら聞きたいことが幾つもあった。聞きたいことはあるけれど、答えが寄越されるかは分からない。
 ミカは自分に起きた悲劇を語らない。
 ライハルトに対してだけでない。屋敷の使用人も誰も、ミカにここ数週間で起きていることを知らないようだし、ミカの境遇も把握していなかった。
 自分のことを語らないのだ。ならばこちらから踏み込む他ない。
 だからと言って、無闇に彼の心を荒らすわけにもいかない。いくら体に傷が残っていなくとも、心には傷が残っているだろう。
 傷がまだ柔らかいなら、踏み込むには慎重にならなければいけないし、硬く瘡蓋で閉じられていたら、その傷跡に寄り添うべきだ。
 理屈では分かっていても、それをライハルトができるかというと、自信がなかった。
 なぜならライハルトもまた、自分について語ることをしてこなかったから。
 その根源にあるのは、怒りだった。
「……」
 黒猫の背をブランケット越しにゆっくりと摩る。小さな命が鼓動している。ミカは眠り続けている。
 ライハルトもその隣に横たわり、瞼を閉じる。
 浮かぶのは、遠い過去に放置した憎しみの塊だ。
 デューリンガー侯爵邸ではろくな扱いを受けてこなかった。
 三男ではあるが上の二人とは片方しか血が繋がっていない。母は妾届も出されていない侯爵邸の使用人で、ライハルトを産んでからは侯爵邸の端にある荒屋みたいな離れに隔離された。
 母は美しい女性であったが、とにかく気が弱かった。夫人や他の使用人に除け者にされても文句の一つも言えなかったらしい。
 粗悪な環境で体が弱り、母はライハルトが五歳の頃に亡くなった。それからライハルトは殆ど一人で生きてきた。
 たまに兄たちがやってきては、散々ライハルトを痛ぶる。父には一度も会ったことがない。夫人も母が死んでからは離れにやって来なくなったが、使用人たちは皆、夫人の指示を受けているのか、持ってくる食事は大体腐っていた。
 露悪な環境でも何とか過ごしていたのは、母がいなくなっても野良猫がいたからだ。
 離れの近くは野良猫たちの住処となっていた。それらは可愛らしいというより、とにかく煩かった。
 ニャアニャア鳴いて遊ぶ猫らを見ていると気が紛れた。腐っていない食べ物を投げてやると皆で分け合うのが興味深い。自分より小さな物が生きているのを見ているうちに、殴られた痛みを忘れていく。
 監視の行き届いていないのをいいことに、ライハルトは七歳になった辺りから侯爵邸を抜け出して街の食堂で金を稼ぎ始めた。初めの方は食堂の掃除をしていたが、給仕も始め、やってくる客の会話から情報や各人々の性格をメモして、客に接触を始めた。
 母が残した唯一の財産はこの顔だった。
 愛想よくしていれば邪険にされることはない。
 文字書きのできる大人に字を習って、会話の内容から体力仕事ではない経営の事業に関わる客を厳選して近付き、話を聞いた。常連には元国王軍の退役軍人もいたので、彼らから剣や格闘技も習った。
 怖気付かずに近づいてきて、言われた通りに勉強し、習得する子供を、大人たちは気に入った。
 十歳になる頃には、食堂を辞めて高級ホテルで住み込みの仕事をしながら外国語の勉強に取り組み始める。
 十三歳になった時、オーナーらの紹介で国外の学校への推薦状を書いてもらった。
 出航する前日、しばらく帰っていなかった侯爵邸へ戻って、驚いた。
 あの荒屋の何と酷いことか。こんな場所に母と自分を住まわせていたのかと戦慄する。
 すると兄たちがやってきた。以前のように殴りかかってくる彼らに、ライハルトはまたしても驚いた。
 下手だったのだ。暴力のやり方がまるでなっていない。こいつらはこんなにヒョロイ男たちだっただろうか。
 ライハルトは食堂で酔っ払いを相手にしていたし、先の戦争で死戦を潜り抜いてきた軍人らに体の扱いを習っている。ホテルに勤めてからは不審者の侵入を食い止めていたことで、顔馴染みとなった警官もいる。マフィアの元幹部から恫喝さえ教わっていた。体だって、肉を中心に食べてきたので筋肉もついている。
『――兄様方』
 気付くと、二人が目の前で倒れていた。
 ライハルトは、容赦なく二人の手首を踏み潰しながら言った。
『次は武器をご用意ください。そちらから用意して貰わないと困るんですよ』
 兄たちは怯えながら泣き喚いた。その叫びが恐怖によるものだと、ライハルトは理解していた。脅威に慣れていない人間は、相手が恐ろしければ恐ろしいほど動転し喚くものだ。
 話半分で聞き取った彼らの言い分は、『俺たちにこんなことをして、良いと思っているのか。お前は汚く愚かな人間だ』だった。
 ライハルトは、母の残した幾つかの遺物を纏めながら言った。
『何が『良い』のか悪いのか、俺はここで何も教わっていないので。俺は物事を外で教わりました。実はね、こちらに危害を及ぼす人間には、相応の罰を与えなければならないんです……兄様たちが言うように俺が『汚く愚かな人間』ならば、ゴミはゴミらしく、しっかり皆さんを汚さなければなりません』
 荷物を纏めて、出て行く間際に、ライハルトは宣言した。
『また汚しに来ますので、どうぞ飽きずに待っていてください』
 兄たちは顔を真っ青にして折れた腕を抱えている。涙と鼻水と血で塗れた顔を、ライハルトは思わず数秒凝視した。
 ハッと腕時計を確認する。ライハルトは『では』と荒屋を後にした。
 それから侯爵邸には帰っていない。
 ライハルトがその離れで得たのは、母のように悲しみや恐怖や病気ではなく、主に怒りだった。
 本当のことを言うと、純粋な怒りではない。兄たちを最後に見下ろした時、ライハルトは心底思ってしまったのだ。
 ――面白すぎる。
 なんだあの阿呆みたいな顔は……。
 ライハルトはあの時吃驚して、目を瞠ったのだ。俺を笑わせようとしているのかと思った。そうなってくると恐怖に怯えた顔をもう一度見たいような気もしたし、だが一方では、『どうぞ待っていてください』は六割方嘘だった。
 適当に吐き捨てたセリフだったのだ。ライハルトは別に、本心で彼らに再会したいわけではない。
 ライハルトはそれよりも、外で仕事をするのが好きだった。これから学校に通って、人脈作りだ。まだ歴史に関して詳しくないし数学や生物、文学など習うことも沢山ある。
 卒業したら直ぐに事業を起こそう。それから気が向いたら、記憶の中から怒りを掘り起こして、侯爵邸へ戻ってみてもいい。
 そうやって感情を幾つも重ねながら生きてきた。
 あれから十年以上が経つ。
 結局、全てを忘れ去ることはできなかった。
 まだ『汚い』思い出は取り出すことができる。荒屋で受けた暴力や、腐った食べ物。あの全身の肌が切れるような極寒の冬や、とにかく暑くて気を失った夏。
 亡くなってしまった母のこと。何日も一言も発さずに、一人で猫らを眺めていた幼い日々。
 ――今、ミカを撫でながら虐げられた過去を思い出している。
 過去を想起させる感情の根源は、怒りだ。
 しかしミカはどうだろう?
 この子の過去を作るのは、怒りなのか。別の感情なのか。
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