【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK

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第一章

21 残念だな

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 フォルカーが八万リルを自分の財布へ移す。
 ミカはその手元を見つめながら、力なく呟いた。
「ライハルト様にも、ローレンツ様にも、言わないでくれるんですよね」
「あぁ」
 フォルカーは軽く頷いた。
「俺は約束を守るから」
「……」
 ミカはその、真っ暗な両目を見上げる。直ぐに俯いて、小さな声に感情を押し込めた。
「ならもういいですよね」
 フォルカーは答えない。
 ミカは声を絞り出して、言い切った。
「もう、俺とは関わらないでください」
「そういえばミカ、言い忘れてたんだが、婆さんの遺品が見つかったんだ」
 ミカは勢いよく顔を上げた。
 フォルカーが『ソレ』を取り出したからだ。
 ミカは、赤い瞳を見つめた。フォルカーの手にもつソレに、驚愕する自分の顔が映っている。
「婆さんの鏡、これ捨てちまっても良いよな」
「なんで、ソレ……」
 ゾフィお婆ちゃんが持っていた手鏡だ。
 自分の見かけを整えることはなかったが、彼女はその鏡を大切にしていた。
 そんな……。
 遺品はないと言い切っていたのにフォルカーは隠していたのだ。やっぱり、そうだったんだ。ミカは震える声で言った。
「お、俺が引き取ります」
「引き取る?」
 フォルカーは鋭い眼差しはそのままに、唇で弧を描いた。
「何寝ぼけたこと言ってんだ。タダのわけねぇだろ」
「……っ」
 あぁ。
 またコレか。
 怒りよりも諦めの方が強かった。いつもそうだから。終わったかと思えば始まり、始まったかと思えば終わる。それらはいつもミカにとって最悪な形を起点とする。
 ミカはぼそぼそと呟いた。
「幾らですか」
「二百万リルだ」
「……」
 そっと唇の隙間から息を吐く。
 息が燃えるように熱い。心さえも燃やし溶かすように、息をするごとに心がぼろぼろと溶け溢れて、疲弊していく。
 静かにミカは囁いた。その消え入りそうな声が、自分の声のはずなのに、他人のものに聞こえた。
「そんな、大金」
「払えるだろ? お前なら」
 フォルカーは、以前ミカが言ったことを忘れていなかった。
「確か今のお前は一ヶ月に十万リル稼いでんだよな。はっ、出世したなぁ」
「……」
「買うなら今買うと言え。分割で支払うなら考えてやる」
 どうしてここでフォルカーとの縁を断ち切れると思っていたのだろう。
 彼はどこまでも執拗にミカを追ってくる。逃げられるはずがないのに。
 どうして、今の平穏な生活が続けられると思ったのだろう。
「利子付きで三年かけるなら考えてやる。欲しいよな? 婆さんの唯一の遺品だ」
 自分の愚かさに吐き気がした。
 暖かい場所で眠り、新鮮な食事を取れるようになったから安心してしまったのだ。怯えることなく眠りにつき、意味のある仕事をして、屋敷の皆に純粋な心で接してもらえたから勘違いしてしまった。
 愛に依存せず、距離を保ったまま、生きるとか……穏やかな生活をしていたから思い違いをしていた。
 安心して過ごしていくことなどできない。ミカは元々、虐げられる側だったのに。
「ミカ、俺のところで働くならタダでやってもいい」
 いきなり、フォルカーが言った。
「何を……」
「金を回収する仕事だ」
 恐る恐る「そんなの」と呟く。フォルカーが食い気味に重ねた。
「お前がこのままライハルトのところで働くなら、三年だ。俺んとこに来るならタダでくれてやる」
 黒い目はそこにいる。二人の距離は変わらないはずなのに、その黒目が迫ってきて、今にも心が暗闇に飲み込まれそうになる。
「選べよ」
 選べ、と言いながら答えは決まっているみたいな言い方だった。
 フォルカーについていけば、確かにもう、過去の影に怯えないで済むのかもしれない。なぜならフォルカーの側自体が影だからだ。
 どんな仕事かは想像がつく。ディニィ地区の貧困街で覇権を振るう彼の主な仕事は、金貸しだ。不当な金利で金を貸して巻き上げる。どんな手を使ってでも。
 それに加われ、というのだろう。
 きっと使い捨てられる。とても、容易に。
 ……その道を自ら選ぶことなど。
「……三年、待ってください」
 できない。
「このクソガキがッ!」
「……グッ……!」
 腹に渾身の拳が入る。その場に膝を折ったミカの唇から、唾液が飛び散った。
「が、ハ……っ」
「二百万リルだぞ!」
 脇腹を蹴り上げられて、汚い路地に倒れ込んだ。フォルカーの罵声が容赦なく降ってくる。
「主人に股開いて稼いだ汚ねぇ金で婆さんの遺品を買うのか!」
「いくら時間がかかったとしてもっ」
 咳込みながらも、ミカは黒い男を見上げた。
「フォルカーのところには行かない、絶対に」
 ミカの赤い瞳が強い意志で燃えるように輝いた。
「行かない。俺はライハルト様のところにいる」
「クソがッ!」
 顔を蹴られて、口内に血が溢れた。唾液に絡んで声が出せなくなる。
「鏡で殴ってやろうか」
 打撃の衝撃で耳が遠くなり、フォルカーの低い声も地獄から届いたように遠かった。
「お前の婆さんの大事な大事な鏡でさ」
 ゾフィお婆さんは、あの鏡を大切にしていた。
 鏡を傷つけたくない。フォルカーの靴を掴むも、乱暴に振り払われる。暗い路地に光が差し込んだ。どこかの光を反射した鏡の光だ。
 殴られたくない。よりにもよって、それで……。
 鏡をミカのせいで壊したくない。
 どうしてこんなことになったのだろう。あまりにも辛くて、一瞬で力が抜けた。
 もう、ダメだ。
 ぞわりと心臓の底が震えるような感覚がする。息を吐く毎に、殴られるたびに崩壊した心の、最後の欠片が砂のように散っていく。
 目を閉じる。
 体がブワッと震えた。
 ——視点が僅かに変化する。
「は? 何だ……?」
 突如として現れた黒猫に、フォルカーが動揺した。
 ミカは目を閉じている。閉じていても、分かる。黒猫に変化したのだ。
「どうなってんだ……」
 黒猫だからこそ、嗅覚で分かった。
 今では馴染み深い匂いがミカの鼻腔を擽ったのだ。
 これは。
「黒猫……?」
「それは俺の黒猫だ」
 ライハルト様……?
 ミカはもう、目を開ける気力もなくて泥の中で倒れていた。黒い毛に汚れた黒を重ねたミカの体が、そっと抱き上げられる。
 少し息切れた吐息が小さな体に降ってきた。フォルカーが動転したように叫んだ。
「お前っ、いきなり何——」
「黙れ」
 ライハルトが一刀両断する。ミカの頭が、よく知った大きな手で撫でられた。
「ミカ? 生きてるか?」
「ね、猫? どういうことだよ」
 ミカが黒猫に変化する獣人だと知らなかったフォルカーは未だ目の前の出来事を受け入れられていないようだった。
 ライハルトが冷たく告げる。
「フォルカーと言ったな」
「何で俺の名を」
 言いかけて、フォルカーが黙り込んだ。
 察したのか、声を低くする。
「……あんたがライハルト・デューリンガーか」
「いかにも」
 ミカは薄く目を開いた。
 ライハルトがいる。
 真っ直ぐと、フォルカーを見据えていた。
「ミカはどうしてディニィ地区で金貸しなんかやってる君と関わってんのかな」
「……はっ、何もしらねぇんだな」
 どうして、ライハルトがここにいるのだろう。
 訊ねたくても猫の声は届かないし、声を上げる力も残されていない。二人だけの会話が続いていく。
「俺とこいつは幼馴染って奴なんだよ。こいつに貸しがあって定期的に会ってる」
「貸し?」
 ライハルトが短く唸る。フォルカーは答えずに、続けた。
「つうか何なんだよ、猫って」
「幼馴染なのにミカの体質のことすら知らなかったのか」
「……っ」
 一瞬口籠った瞬間を逃さない。ライハルトは更に、
「さっき、鏡と言っていたな」
 と、ミカの頭を撫でながら言った。
「その鏡はミカの求めてるものなのか」
「……婆さんの鏡をタダでやるわけねぇだろ。二百万リルだ」
「ふぅん」
 本当にどうでもよさそうな声だった。事実、ライハルトが金額に追及せず話題を変える。
「で、君はミカから金を巻き上げるためにわざわざディニィ地区からやってきていると」
「……俺の質問に答えろ。ミカが猫になるってのは」
「婆さんとは誰のことだ?」
「おい! 俺を無視するな」
「アレだな」
 と、ライハルトが突然口調を変えた。
 淡々としていたライハルトは、含み笑いで「お前は」と告げる。
「少し勘違いしてやがるんだな」
「は?」
「これは会話じゃない。尋問だ」
 そう言った直後だった。
 フォルカーの、「うがっ!!」と破裂したような声が足元で弾ける。
 ミカは驚いて目を見開いた。ライハルトが躊躇いなくフォルカーを蹴り飛ばしたのだ。路地の壁に叩きつけられたフォルカーに、ライハルトは近寄って、
「拷問でも良いんだぜ」
 とまたしてもフォルカーの腹を蹴り上げる。
 そ、んな……。
 おど、ろいた。フォルカーは屈強な男だ。確かにライハルトも体格はいいが、こんなにも簡単に膝をつかせるだなんて。隙を与えない無駄のない攻撃だった。
 ライハルトがミカを腕で覆い隠す。
 脅すように言った。
「調子に乗るなよ、金貸し如きが。二百万リル? 払うわけねぇだろうが。フォルカー、君は……ははは、あのな、俺に逆らった時点でディニィ地区に君が所有している財産も権限も人材も、霧散してるんだ。俺のことを知ってるだろ? なぜ俺が従順に君の質問に答えるだなんて浅はかな勘違いをしてるんだ? あのな、……ははっ、あー……まぁいいや、で、俺の質問に答えろ。婆さんってのはミカの何なんだ?」
 怒涛の追撃に、ミカはただ固まっていた。
 沈黙が流れる。ライハルトはただ待っている。
 やがて、フォルカーが言った。
「ライハルトさん、アンタはミカが何をしていたか知らないだろ」
 まるで最後の切り札を突きつけるような口調だった。
 そこでようやっと、ミカは体をぶるっと震わせた。
 奴が何を口にするか分かったから。「ニャア、」と掠れる声を出す。フォルカーがニヤッと口角を上げた。
 ……やめろ。
「ミカは、ヒルトマン男爵家にいた」
 やめろ……。
「次期男爵であるローレンツ令息に拾われてな」
 やめろ!
 フォルカーはせせら笑いながら言った。
「そいつの愛人だったんだ。ガキの頃からローレンツに股開いてたんだよ。この間結婚したばかりの本妻と腹の子を殺そうとしたから、ミカは追い出されたんだ」
 ——ああ。
「殺人未遂犯なんだ。知らないだろ?」
 知られてしまった。
 ミカはもう声も出せなかった。体が脱力する。逆立った尻尾がだらりと落ちた。その反応が肯定を示すものだと分かっていたのに、ミカは、無力感に抵抗できなかった。
 知られてしまった。一番知られたくないことを、一番知ってほしくない人に。
 ミカの両目に涙がじわりと滲んだ。ミカは腕の中で丸くなり、か細く震えて、もうここから直ぐにでも消えたくなった。
 終わったのだ。
 もう……終わった。
 捨てられる……。
 すると、ライハルトが呟いた。
「ああ、そのことか」
 ミカはぎゅっと閉じていた目を見開いた。
 フォルカーの困惑した声が届く。
「……は?」
「かなり言われてやがるな。なぁ、ミカ」
 ライハルトは変わらずにミカの頭を撫でていた。それはたった今のフォルカーの告発前と変わらない手つきだった。
 フォルカーが、信じられないとばかりの顔をする。
「知ってたのか?」
「俺が調べないわけがないだろ。事実が違っている……ミカが殺そうとしていないことも知っている。どうでもいい男爵家の諍いだと放っておいたが、面倒になるならここらで黙らせておくべきか」
 ライハルトは単調に言って、「それにしても」とミカを抱き直した。
 そして、笑いながら言った。
「死ななかったのは残念だな」
「……」
 また、沈黙がやってきた。ライハルトは軽やかに「冗談だ」と付け足す。
 ミカは顔を上げた。
 ライハルトは、余裕そうにフォルカーを眺めていた。
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