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第一章
20 疲れ切っている
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「も、申し訳ありません!」
「こうしてみると」
慌ててライハルトから離れる。が、手首をすぐさま掴まれて逃げられない。
ミカは困惑で溢れかえっていた。主人を押し倒した上に、体に乗っかってしまった!
大変だ。何てことしたんだ。真っ青なミカの一方、落ち着いた様子のライハルトが、
「お前は人間になっても細っこいな」
「わっ」
ブランケットを頭から被せてくる。
ミカはそれでひとまず体を覆った。サッと自らの肌を確認するが、昨日与えられた傷は消えている。傷に目敏いライハルトもこれなら気付くことはないだろう。
「す、すみません。人間に戻るのが遅れました。すぐ仕事へ向かいますので」
「戻ろうと思ったのに戻れなかったってことか?」
「えっ」
ライハルトは手首を離す気が一切ないようだ。
ミカはベッドの上で動けずに、言葉を探した。
「えっと……あの……そ、そうです」
「自分のタイミングで猫になることはできないと言っていたな。なら、人間に戻るタイミングもはかれないのか?」
「そう、です」
「トリガーは何だ?」
「……」
「何か、猫になるきっかけがあるんじゃないか?」
「……」
ミカは必死に脳を働かせる。ライハルトが納得できる説明をしなければ。
焦れば焦るほど頭が回らなくなる。どこか意識すら乖離する感覚に、なった。
どれほど無言に支配されていただろう。
いきなり、
「まぁ、いい。仕事に行きたいなら行け」
とライハルトが腕を解放してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「早よ行け」
ライハルトは右手をだらりと上げて、軽く振った。怒ったのだろうか? いやむしろこの無礼な状況で怒らないはずがない、と思ったが、意外にもライハルトは「あ、テーブルに土産のクッキーがあるから持ってけ。無理すんなよ」と怒りはない様子だった。
ミカは頭を下げて、寝室を後にする。仕事用の衣服に着替えて部屋を出ると、ちょうどロミーがライハルトの朝食を運んできたところだった。
「あれ? ミカさん」
ロミーは目を丸くし、心から心配そうに気遣ってくる。
「具合が悪いんですよね? 休んでもいいんですよ?」
「あ、えっと、大丈夫です」
「本当に? 旦那様がミカさんの体調が悪いと仰っていたって聞きましたけど」
「その、大したことはなかったので」
「えー。それじゃあ、旦那様がミカさんに関して心配症みたいじゃないですかぁ」
「……」
「何ですかもう。ふふふふ」
「あの、俺は大丈夫なので」
「いえいえ朝食は私がお届けするので、ミカさんも先に朝食を召し上がってきてください! ふふふ」
「本当に……大丈夫なんです……」
微笑みながらロミーは歩き去ってしまう。残されたミカは暫く立ち尽くしたが、言われた通り厨房へ向かった。
大丈夫、なのに。
もう人間に戻れた。体調も悪くないし、傷は治っている。少し黒猫が溶けるのが遅れただけだ。
大丈夫……だよな?
——しかしそれから三日間、ミカは毎晩猫になり、そして毎朝戻ることができなかった。
しかも日に日に解けるのが遅くなっている。二日目の朝なんかは、ライハルトが仕事へ向かうまで人間に戻れなかった。
(どうしよう)
四日目。ミカは猫の姿で朝を迎えた。
ここ最近は、出張の多いライハルトも邸宅へ毎日帰ってきている。そのせいで、ミカが朝になっても人間に戻れない姿を全て見られてしまった。
夜だって、以前までなら、人間の姿でライハルトの帰宅をお迎えしてから猫になることが多かったのに、もう夕方になるとすぐに猫化してしまう。
異常だ。しかしどうにもできない。
人間に戻れない……。
「近頃、人間のお前を見てないな……」
「にゃ?(え?)」
ベッドの上で呆然としていると、いつの間に目を覚ましていたのか。
隣に寝転がっていたライハルトが呟いた。
「帰ってきても朝になっても、お前は猫だろ」
「……」
「人間のお前に会ってないな」
「……ニャア(はい……)」
そうは言っても、ライハルトが求めているのは猫のはずだ。
なのに今の彼の口調は、まるで人間のミカを恋しがっているようだった。
何だろう? 胸がむずむず……する。ミカは何とも言えない気持ちになって、鳴き声さえも出せなかった。
ライハルトが立ち上がった。
「今日は、休め」
「にゃ?(えっ)」
「働くな。こっから人間に戻ったとしても部屋にいろ」
「にゃにゃにゃ(そんな)」
「命令だ」
ライハルトが鋭く言い放つ。そのオーラに気圧されて、ミカは「……ニャー」と頷いた。
久しぶりに、ライハルトに冷たく言い放たれた。そう、……久しぶりだ。あれ、いつからこの人の、雰囲気が和らいだのだろう?
考えているうちに、ライハルトは颯爽と寝室を去ってしまう。ミカは寝室に取り残されて、自分の黒い手先を見つめる。
今日は、フォルカーがやってくる日だ。
だからじっとしてなどいられない。
ライハルトはミカの仕事を休ませるようメイド長に命令したはずだから、今日は仕事に出られない。けれど、フォルカーの元へは向かわなければ……。
それから。
ミカが人間に戻ったのは、ライハルトが仕事へ向かってから六時間後だった。
昼頃に猫の姿が溶けたミカは、ライハルトの言いつけ通り部屋に留まった。フォルカーとの待ち合わせは夕方で、街の路地だ。それまで時間が経つのを待つことにした。食事を取りに厨房へ行こうか迷ったが、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、ミカは部屋の隅で時が過ぎるのを待っていた。
人間に戻ったのに尚、倦怠感が胸にこびりついていて、心がとてつもなく重い。お腹が空いた。
「疲れる……」
ずっとずっと、疲れている。
膝を抱えたまま動けない。
一体自分はどうしたのだろう。
どうしてこんなに、動けないんだろう。
……しかし、フォルカーに金を渡さないと。
もしもミカが向かわなかったら、あの男ならこの邸宅にやってきて全てを明かすはずだ。そうしたらライハルトの元には居られない。
また捨てられる。屋敷を追い出される。
それだけは嫌だ……。
膝を抱えたままじっとしていると、いつの間にか日が傾いていた。
約束の時間だ。
行かなければ。
「——金は持ってきたか」
第一声でフォルカーは言った。
路地にはフォルカーが先に待っていた。ミカは一昨日いただいた給料袋を持っている。
給料は月に十万リルだ。前借りの分を抜いて八万リルを持ってきた。フォルカーに求められていたのは八万リルで、そのうち二万リルはすでに渡したから……。
「六万リルです」
「やけに死にそうな顔してんな」
ここに来るまでの道のりは長く、ミカは道中で一度蹲り、動けなくなっていた。それくらい今日は疲れている。フォルカーはミカの顔の白さを指摘したが、大して興味なさそうに金を数え始めた。
「……これで、黙っていてくれるんですよね」
「こうしてみると」
慌ててライハルトから離れる。が、手首をすぐさま掴まれて逃げられない。
ミカは困惑で溢れかえっていた。主人を押し倒した上に、体に乗っかってしまった!
大変だ。何てことしたんだ。真っ青なミカの一方、落ち着いた様子のライハルトが、
「お前は人間になっても細っこいな」
「わっ」
ブランケットを頭から被せてくる。
ミカはそれでひとまず体を覆った。サッと自らの肌を確認するが、昨日与えられた傷は消えている。傷に目敏いライハルトもこれなら気付くことはないだろう。
「す、すみません。人間に戻るのが遅れました。すぐ仕事へ向かいますので」
「戻ろうと思ったのに戻れなかったってことか?」
「えっ」
ライハルトは手首を離す気が一切ないようだ。
ミカはベッドの上で動けずに、言葉を探した。
「えっと……あの……そ、そうです」
「自分のタイミングで猫になることはできないと言っていたな。なら、人間に戻るタイミングもはかれないのか?」
「そう、です」
「トリガーは何だ?」
「……」
「何か、猫になるきっかけがあるんじゃないか?」
「……」
ミカは必死に脳を働かせる。ライハルトが納得できる説明をしなければ。
焦れば焦るほど頭が回らなくなる。どこか意識すら乖離する感覚に、なった。
どれほど無言に支配されていただろう。
いきなり、
「まぁ、いい。仕事に行きたいなら行け」
とライハルトが腕を解放してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「早よ行け」
ライハルトは右手をだらりと上げて、軽く振った。怒ったのだろうか? いやむしろこの無礼な状況で怒らないはずがない、と思ったが、意外にもライハルトは「あ、テーブルに土産のクッキーがあるから持ってけ。無理すんなよ」と怒りはない様子だった。
ミカは頭を下げて、寝室を後にする。仕事用の衣服に着替えて部屋を出ると、ちょうどロミーがライハルトの朝食を運んできたところだった。
「あれ? ミカさん」
ロミーは目を丸くし、心から心配そうに気遣ってくる。
「具合が悪いんですよね? 休んでもいいんですよ?」
「あ、えっと、大丈夫です」
「本当に? 旦那様がミカさんの体調が悪いと仰っていたって聞きましたけど」
「その、大したことはなかったので」
「えー。それじゃあ、旦那様がミカさんに関して心配症みたいじゃないですかぁ」
「……」
「何ですかもう。ふふふふ」
「あの、俺は大丈夫なので」
「いえいえ朝食は私がお届けするので、ミカさんも先に朝食を召し上がってきてください! ふふふ」
「本当に……大丈夫なんです……」
微笑みながらロミーは歩き去ってしまう。残されたミカは暫く立ち尽くしたが、言われた通り厨房へ向かった。
大丈夫、なのに。
もう人間に戻れた。体調も悪くないし、傷は治っている。少し黒猫が溶けるのが遅れただけだ。
大丈夫……だよな?
——しかしそれから三日間、ミカは毎晩猫になり、そして毎朝戻ることができなかった。
しかも日に日に解けるのが遅くなっている。二日目の朝なんかは、ライハルトが仕事へ向かうまで人間に戻れなかった。
(どうしよう)
四日目。ミカは猫の姿で朝を迎えた。
ここ最近は、出張の多いライハルトも邸宅へ毎日帰ってきている。そのせいで、ミカが朝になっても人間に戻れない姿を全て見られてしまった。
夜だって、以前までなら、人間の姿でライハルトの帰宅をお迎えしてから猫になることが多かったのに、もう夕方になるとすぐに猫化してしまう。
異常だ。しかしどうにもできない。
人間に戻れない……。
「近頃、人間のお前を見てないな……」
「にゃ?(え?)」
ベッドの上で呆然としていると、いつの間に目を覚ましていたのか。
隣に寝転がっていたライハルトが呟いた。
「帰ってきても朝になっても、お前は猫だろ」
「……」
「人間のお前に会ってないな」
「……ニャア(はい……)」
そうは言っても、ライハルトが求めているのは猫のはずだ。
なのに今の彼の口調は、まるで人間のミカを恋しがっているようだった。
何だろう? 胸がむずむず……する。ミカは何とも言えない気持ちになって、鳴き声さえも出せなかった。
ライハルトが立ち上がった。
「今日は、休め」
「にゃ?(えっ)」
「働くな。こっから人間に戻ったとしても部屋にいろ」
「にゃにゃにゃ(そんな)」
「命令だ」
ライハルトが鋭く言い放つ。そのオーラに気圧されて、ミカは「……ニャー」と頷いた。
久しぶりに、ライハルトに冷たく言い放たれた。そう、……久しぶりだ。あれ、いつからこの人の、雰囲気が和らいだのだろう?
考えているうちに、ライハルトは颯爽と寝室を去ってしまう。ミカは寝室に取り残されて、自分の黒い手先を見つめる。
今日は、フォルカーがやってくる日だ。
だからじっとしてなどいられない。
ライハルトはミカの仕事を休ませるようメイド長に命令したはずだから、今日は仕事に出られない。けれど、フォルカーの元へは向かわなければ……。
それから。
ミカが人間に戻ったのは、ライハルトが仕事へ向かってから六時間後だった。
昼頃に猫の姿が溶けたミカは、ライハルトの言いつけ通り部屋に留まった。フォルカーとの待ち合わせは夕方で、街の路地だ。それまで時間が経つのを待つことにした。食事を取りに厨房へ行こうか迷ったが、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、ミカは部屋の隅で時が過ぎるのを待っていた。
人間に戻ったのに尚、倦怠感が胸にこびりついていて、心がとてつもなく重い。お腹が空いた。
「疲れる……」
ずっとずっと、疲れている。
膝を抱えたまま動けない。
一体自分はどうしたのだろう。
どうしてこんなに、動けないんだろう。
……しかし、フォルカーに金を渡さないと。
もしもミカが向かわなかったら、あの男ならこの邸宅にやってきて全てを明かすはずだ。そうしたらライハルトの元には居られない。
また捨てられる。屋敷を追い出される。
それだけは嫌だ……。
膝を抱えたままじっとしていると、いつの間にか日が傾いていた。
約束の時間だ。
行かなければ。
「——金は持ってきたか」
第一声でフォルカーは言った。
路地にはフォルカーが先に待っていた。ミカは一昨日いただいた給料袋を持っている。
給料は月に十万リルだ。前借りの分を抜いて八万リルを持ってきた。フォルカーに求められていたのは八万リルで、そのうち二万リルはすでに渡したから……。
「六万リルです」
「やけに死にそうな顔してんな」
ここに来るまでの道のりは長く、ミカは道中で一度蹲り、動けなくなっていた。それくらい今日は疲れている。フォルカーはミカの顔の白さを指摘したが、大して興味なさそうに金を数え始めた。
「……これで、黙っていてくれるんですよね」
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