【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK

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第一章

15 何も聞こえない

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 ロミーが「あれっ」と目を見開いた。
「ミカさん頬怪我してないですか?」
「ほんとね。どうしたの?」
「……荷台で体勢崩しちゃったんです。気にしないでください」
 心配そうにする二人を残し、その場を去る。指摘されて、頬の痛みがぶり返してきたので、手のひらで覆い隠す。
 重い身体を引き摺って屋敷を行く最中にも、邸宅の使用人たちが声を掛けてくる。
「休日なのにまた働こうとしてたんだって? メイド長に見つかってよかった」
「これでようやくミカが休んでくれた」
 気の良い人たちは笑う。ミカも必死で笑い返す。何とか三階へやってきた。豪邸は広いが三階の殆どはライハルトの部屋だ。もうじきにライハルトも帰宅する。休みと言えど彼の部屋の一室を借りている以上、迎え入れる準備をせねば。
 もう、身体は限界だった。
 昼に起きた一部始終が頭の中にずっと流れている。
 ——誰もいない小屋。
 フォルカーに殴られた頬はまだ痛みが残る。
 居場所を奪われるかもしれない、暗い過去……。
「……跡にならないといいけど」
 ライハルトが帰ってくる前に猫になってしまえば頬の傷もバレないはずだ。疲労でぼんやりした頭で考えながらお茶の準備をする。
 今日のベッドクリーニングや掃除はミカ以外の者が担当してくれたようだ。ミカがやってきたはじめの数日間使用人と出会さなかったのは、ミカのいた部屋が偶々、ライハルトが己とメイド長以外の立ち入りを禁止している仕事部屋だったからだ。
 今ではその辺りの掃除もミカの仕事だ。ライハルトはミカを猫扱いしているので、本来ならば他人に入らせない場所もミカに許している。
 その寛容さこそがミカという人間を心底どうでもいいと思っている証明だった。
 もうすぐ猫に戻るだろう。タイミングをコントロールできなくても、察知することはできる。あ、やばい……と腹の底がゾワっと震えるような感覚だ。
 段々と悪寒がしてきた。身体が重くなって、呼吸がどこか他人事みたいに遠くなっていく。
 と、物音がした。
 ゆったり振り向くと、ちょうどライハルトがやって来たところだった。
「お帰りなさいませ」
「……ああ」
 ライハルトは人間のミカに無関心だ。
 猫相手ではないライハルトの態度は冷たい。変わらない態度もいつもなら気にしないはずなのに、今はやけに神経を追い詰めてくる。
 ライハルトにその気は無い。
 彼はミカをどうでもいいと思っているだけだ。
 帰宅時に彼が好んで飲んでいる紅茶を、カップに注いでいく。
 声が聞こえてきた。
「今日は人間なんだな」
 低い声がミカの弱りきった心に届く。期待外れを嘆くようなガッカリした声が、ミカの心にトドメを刺すかのようだった。
 もう耳に音が入ってこない。
 ミカはその場に膝をついて、身体ごと消え入るような感覚を迎え入れる。
「珍しい菓子を買ってきた。人間なら折角だから、お前も——……あ?」
 ライハルトは、猫へ変化する前のミカの横顔を見て、微かに呟いた。
「その怪我……」
 その直後にはミカは黒猫へと化している。
 それでも心は曖昧だった。動かなければならないのは分かるのに、床に蹲る。ライハルトが近付いてくるが、反応できない。
 ミカは身を丸めてじっとしていた。気付くとライハルトの腕の中にいる。
 無意識に彼の腕に顔を押し付ける。
 ライハルトはミカの無反応をあまり気にせずに「お前さ」と言った。
「頬怪我してなかったか?」
「……」
「おい、何とか言えよ」
 か細く「にゃ……」と呟く。意識せず発せられた声だった。
 黒猫へ変化するとなんとか我慢していた理性が解けたように塞ぎ込んでしまう。ミカは愛想など一つも振り撒かずに、本当の猫のようにライハルトを無視してしまう。
「何だ? 何言ってるか分からねぇ」
 ライハルトは不可解そうに言った。ミカは「みゃ」とないて、目を閉じた。
 一度瞼を閉じてしまうと目を開ける気力すら湧いてこない。何も、できない……。
 自分の身体が震えていることに気付いたのは、ライハルトがミカをベッドに運び、背を撫でてからだった。
 自分を守るように尻尾で身体を覆うミカの隣に、まだ仕事着のスーツのままライハルトが寝そべる。声をかけてくれたのかもしれないが、ミカの耳は心を守るみたいに閉ざされて何も聞こえなかった。
 感じ取れたのは、彼の大きな掌が黒猫の体を撫でてくれていたこと。
 ミカの頭の中には、誰もいない小屋と青空を背景とする荘厳な山が浮かんでいる。
 空気が乾いていて空が透き通っている。雲ひとつない青がいつもより濃く見えた。それらを背後に従える山は、信じられないほど美しく見えた。
 ミカはあの時、目を見開いて、それらの景色を見ていた。
 もう手の届かないところにいってしまって、二度と会えないのだと理解させられながら。
 ミカは一人取り残されている。
 綺麗だった。
「……っ、ミッ、ニャ……」
 弱々しい鳴き声が漏れる。震え続けるミカの体を、確かな熱が撫で続けている。
 ミカの心は制御ができないほど荒れ狂っている。声を押し込めたいのに止まらない。乱れる思考の中で、猫の姿で良かった、と不意に思った。人間なら嗚咽が溢れていたのだろう。
 崩れていく魂を繋ぎ止めているのは、ライハルトの掌だった。
 散り散りに乱れていく心に残る唯一の欠片を、ライハルトの手に委ねながら、ミカは眠りに落ちていく。
 








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