【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK

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第一章

14 知られてはならない

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 今は違う。
 頬の涙を拭ってくれた彼は今、ミカの頬を殴りつける。
 かつて『ありがとう、フォルカー』と拙く笑い返したミカも、もう居ない。
「……場所はどこですか」
 ミカはフォルカーを睨みつける。
「……場所、ね」
 その男は静かに怒り狂っていた。フォルカーの、黒い髪と黒い瞳は怒りを凝縮したみたいな色だ。
 フォルカーがミカへ憎悪の混じった暗い瞳を向けてくるようになったのは、いつからだったか……。ローレンツに拾われて、屋敷へ行って以降だと、思う。
「レイの山だ。引き取り手のない遺体はあの山の森に投げる。レイの山は死後の世界に通じると言われているから、獣たちに食われることになってもバチは当たらねぇ」
 フォルカーが視線をその方角へ放つ。レイの山が見える。ここに来るまでに列車で渓谷を通過した山だ。
 フォルカーは「言っとくが」と声を強めた。
「婆さんの遺品は残ってない。森に行こうなんて思うなよ」
「……フォルカーには関係ないでしょう」
 ただ、想いを届ける場所が必要だっただけだ。ミカは雲ひとつない空を背景とする山を見つめた。
 数秒の沈黙の後、彼が言った。
「なぁミカ。お前、ルイーザを殺そうとしたんだって?」
 ミカは山を凝視している。
 フォルカーはおかしそうに、笑い混じりで、
「ローレンツの子を孕んだルイーザを、腹の子ごと殺そうとしたらしいな」
「……してない」
 ミカはキッと強く男を睨みつけた。
 フォルカーはミカの腕を強く掴み、「やるじゃねぇか、ミカ」と瞳孔の開いた目を向けてくる。
「殺せなくて残念だったな」
「そんなことっ、俺はしてない」
「どうだか。ローレンツみてぇなクソ男の情夫なんかやってっからこうなんだろ」
「……」
「嫉妬は恐ろしいな。まさかお前がローレンツの嫁を殺そうとするなんざ」
「俺は、そんなことしてない」
 頭に血が昇って拙い言い方になる。フォルカーにも知られるほど噂は出回っているらしい。ルイーザはカフェで働いていたから、平民にも容易に内部事情が伝わるのだろう。
 そんなの、嘘なのに。
 ミカはグッと唇を噛み締めた。血の味がまたするけれど、殴られたせいなのか唇が切れたからなのか、感覚が掴めない。
 フォルカーはフッと鼻で笑うと、静かな口調で言った。
「あのな、この際真実なんかどうでもいいんだ」
 暗い瞳がミカを見下ろしている。
 唇が弧を描き、瞳と同じくらい暗い声が降ってきた。
「新しい男がお前の罪を知ったらどうなるかな?」
 口元は笑っているけれど瞳は奈落のように真っ暗だった。
 ミカは恐ろしくなって、背筋に寒気が走るのを感じる。
 知られたら……どうなるのだろう。また、苦い唾液を飲み込む。それは真実ではないけれど、ミカに強制的に貼り付けられた罪だ。
 ヒルトマン邸から追い出されたという事実が存在するのだから内実がどうであれ関係ない。それに、男爵子息夫人を殺そうとしたと知られたならミカがローレンツと恋人関係であったこともバレるだろう。
 その関係は、嘘ではない。
 どんな目で見られるのだろうか。
 きっとライハルトはミカを追い出すのだろう。いくら猫のミカを気に入ってくれていても、厄介な人間を傍に置いておくはずがない。
 ライハルト邸の皆はどう思うだろう。
 ——『いつも早くて感心ね、ミカさん』
 ——『ミカさんは旦那様に愛されているようですね』
 親切なライハルト邸の同僚たちの顔が浮かぶ。彼らは皆、優しく微笑んでいる。
 ミカを仕事仲間として認めてくれた人たち。初めてだった。あの人たちは蔑んだり、陰口を言ったりなんかしない。ミカの能力を認めて、気遣ったり無邪気に笑って見せたりしてくれる。
 ヒルトマン邸でのミカを知ったらどう思うだろうか。
 あの人たちも、軽蔑の目を向けてくるのだろうか。
「……っ」
 ライハルトの反応よりも、彼らの反応を想像して血の気が引いた。その恐怖は震えよりも涙を伴った。一瞬で目に水の膜が張って、視界が歪む。
「新しい男に嫌われるのがそんなに怖いか?」
 フォルカーは悪どい笑みを浮かべて言い放った。
 ミカは何も言わずに、フォルカーの腕を振り払う。
 見下してくる男の横を潜り抜けて、その場から駆け出した。胸のうちが恐怖と悲しみで汚れ切っている。それらはつめたい汚れだった。心臓は激しく脈を打っているが、汚れの張り付いた心は不気味なほどに静かだ。
 帰らなきゃ。ここにいたら、バレてしまう。お婆ちゃんはもういない。もう二度と、こんな場所に帰るもんか。
 硬く固く誓って、帰路に着く。もう二度と帰ってこない。絶対に。絶対に。ここで暮らしたミカはもういない。俺はもう違う。
 大丈夫。ライハルトは知らないはずだ。ヒルトマン邸で使用人をしていたことは話したけれど、あの人はヒルトマン男爵家を『知っているような知らないような』と無関心だった。
 ライハルトが興味を示すのは猫のミカだから、人間のミカの過去なんか調べようともしないはず。きっと『ヒルトマン』という単語でさえ覚えていないはず。
 もう、いい。お婆ちゃんはいないんだからあの場所に思い入れなんかない。あそこはミカが捨てられた場所だ。だからまた、捨てるだけ。
 もう帰らない。そうしたら知られない。もう捨てたんだ。だから知られることはない。
 そうして何度も心で繰り返していると、胸のうちを汚した何かが硬く重い石となって腹の底に落ちていった。とても重くて、気が遠くなる。
 疲れ切った身体がライハルト邸に帰ってきたのは、陽が沈みかけた頃だった。
「あ、ミカさん」
 庭で立ち話をしていたメイド長のユリアーナとロミーがミカに気づいて、それぞれ笑顔を見せてくる。
「お帰りなさい」
「おかえりー、ミカさん! 帰省は楽しかった?」
 本当に何も知らない二人が、明るく声をかけてくる。
 ミカはまた涙が溢れそうになった。
 必死で堪えて、「はい」と笑みを貼り付ける。二人は「良かったわね」「今日の夕ご飯はシチューがありますよ」と楽しげにする。
 彼らは何も知らない。ミカがローレンツの恋人であったことも、裏切られて屋敷を追い出されたこと、殺人未遂の罪があること、それと……この体質や家族のことも何も。
 絶対に知られたくはなかった。
 もう今までの『ミカ』は、あの誰もいない小屋に置いてきたのだ。
「ありがとうございます」
 絶対に、知られてはならない。
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