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第一章
13 何泣いてんだよ、泣き虫が
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男は言って、物乞いで集まった金を数え出した。
……死んだ?
硬貨が彼の手からこぼれ落ちる。ミカは拾って、彼に手渡した。硬貨は信じられないほど冷たくて、指が火傷するほどだった。
ミカは茫然と呟いた。
「お婆ちゃんは……ゾフィさんはどうして亡くなったんですか」
「聞いたところ凍死っつってたけど、まぁ病気持ちだったんだろ」
最後に訪れたのは三ヶ月前だ。確かに具合は悪そうだったが、寝たきりではなかったのに。
いつの間にか、煙草が短くなっている。煙草の先を地面に擦り付けた男が立ち上がるので、ミカはハッと我にかえる。
「誰か、そばにいましたか?」
「何が?」
「お婆ちゃんが、亡くなった時」
「さぁなぁ」
ミカは男に、自分の硬貨を一枚差し出しながら問いかける。
「お婆ちゃんはどこに?」
「森に捨てられたと思うけど」
「森って、どこですか?」
「分からんよ」
男は硬貨を大事そうにしまって、「ありがとな」と告げると毛布を抱えて去っていく。
ミカはしばらくその場に座り込んでいたが、激しい頭痛を感じて立ち上がる。もう一度、家へ向かって、室内がどうなっているか確認したかった。
路地を抜けて、ゾフィお婆ちゃんの家の前で立ち止まる。扉は開かない。鍵がかかっている。この周辺の小屋は全て貸し屋だ。大家に言えば、鍵を貸してくれるかもしれないけれど……。
考えていると背後から、
「ミカじゃねぇか」
と声がかかる。
振り向いて、こっそり息を止めた。たった今頭に浮かんだ男の姿そのものだったからだ。
「ヒルトマンを追い出されたって聞いたが、なぁんでまだいんだよ」
大家であるフォルカーがこちらへ歩いてくる。長い足を放り投げるように大雑把な足取りで、ミカの元へやってきた彼は、威圧的な態度で見下ろしてくる。
「……フォルカー」
「フードを深く被って、まるで盗人みたいだな」
フォルカーは、ミカがゾフィお婆ちゃんに拾われた時からの顔見知りだ。
年はミカと同じくらい。確かめたことはないが、同年代だとは分かる。
フォルカーは小屋を眺めてから、ニヤッと目を細めた。
「そういや、ミカ。そこの家のゾフィが死んだって知ってるか?」
ミカが傷つくことを望んでいる目だ。ミカは奥歯を噛み締めてから、声を絞り出す。
「……今さっき聞きました」
「何だ。つまんねぇの」
白けた顔をしたフォルカーは、冷たい目つきのまま告げる。
「お前がヒルトマンから追い出されて一人で逃げてる最中に、弱った婆さんは逝っちまったよ」
「……」
「哀れな婆さんだな」
「この家の」
ミカは視線を小屋に移す。か細い声で言葉を吐き出した。
「荷物は何も残ってないんですか?」
「残すわけねぇだろ。ただの空き家だ」
「……」
「あぁ、そうだミカ。この二ヶ月、ゾフィの婆さんに貸してた小屋の賃貸料が振り込まれてないんだよ」
「おっ」
ミカは勢いよくフォルカーに目を向ける。わなわなと震える唇を、開いた。
「おばあちゃんは死んだんです。なのに何で」
「知るか。そんなもの」
フォルカーは顔を歪めて突き放すように言った。
「十万リルだ。お前が払えよ」
「……俺が?」
「婆さんがどこに捨てられたか知りたくねぇのか?」
十万リル。ライハルトの邸宅で働いた一ヶ月分の給料だ。
「賃貸料は月二千リルでしょう。なんで、十万リルになるんですか」
「延滞してるんだから当然じゃねぇか」
ミカはグッと唇を噛んだ。
フォルカーは、フッと吐息して目を細めた。
「お前がいねぇ間、婆さんに食料運んでたの誰だと思ってんだ」
「……」
「そもそもゾフィの婆さんが一人きりで暮らし始めたのも、テメェが裏切ってローレンツの情夫になったせいだろ」
反論のしようがなかった。ミカはお婆ちゃんを残してヒルトマン邸へ向かったのだ。
ここで小銭を稼ぐよりもヒルトマン邸の方が稼げると思ったから。だからローレンツに反抗せずに、あの屋敷へ向かった。
幸いにもお婆ちゃんの食料を稼ぐくらいの働きを得た。これで良かったのだと思い込んでいた。
しかし、ミカがいなくなったせいであの人はこの小屋で一人きり亡くなってしまった。
フォルカーの言葉は間違っていない。
ミカは深く息を吐き、給与袋を取り出した。
帰りの分の金だけ取り出して、残りのお金を袋ごとフォルカーへ押し付ける。
「これで足りるでしょう」
「……この金、どうしたんだ」
フォルカーは中身を確認して目を丸くする。
ミカは口を閉ざした。フォルカーは怪訝な顔をすると、チッと舌打ちした。
「またどっかの男に体売ってんだな」
「さっさと受け取ってください」
「誰だ?」
フォルカーは軽蔑するように目角を立てる。
「次のお前の男は誰だ」
低い声はただならぬ負の気配が目一杯に詰め込まれていた。
彼の齎す畏怖の力は他ならないフォルカーの凄みだ。ライハルトとはまた違った恐怖がそこにある。
実際、ライハルトとは違ってフォルカーは現実的にミカにとって脅威だった。金を与えてくれるライハルトとは違って、フォルカーは奪うし、人間のミカを突き放すライハルトの一方で、フォルカーは執拗なほどヒルトマン邸までミカを追いかけて逃さなかった。
「そんなんじゃ、ありません」
「そいつもガッカリするだろうな」
フォルカーは躊躇いなくミカの両頬を掴むと、無理やり自分へ向けさせた。
「お前はローレンツみたいなのと恋人ごっこしてたんだから」
「……そんなんじゃ、ない」
ごっこ、じゃない。あの頃はミカだって、ローレンツを愛していた。
ごっこじゃない……。
怒りが湧き、フォルカーを睨みつける。
次の瞬間、頬に拳が殴り入れられていた。
容赦のない打撃にミカは口内に血が滲むのを味わった。唾液に絡まって喉にへばりつく。ミカは扉に手をついて体を寄り掛け、フォルカーを見上げる。
フォルカーは「何だその目は」とミカをまた一度平手打ちした。
俯いたミカを嘲笑うようにフォルカーは言った。
「また泣くのか? 泣き虫野郎」
——『何泣いてんだよ、泣き虫が』
脳裏を過ぎるのは、子供の頃の二人の記憶だ。
ミカが子供の頃、フォルカーもまた子供だった。この辺りの貸し屋は彼の父親が管理していたから、フォルカーも近くで遊んでいることが多かった。
体の小さなミカが大人に蹴られていると、いつもフォルカーが助けてくれた。子供ながらに暴漢を殴りつけて撃退したフォルカーは、ミカの手を引いてお婆ちゃんの小屋まで連れてきてくれる。
寒くて痛くて涙を流すミカの頬を乱暴に拭って、『泣くなバカ』と笑い飛ばしていた。フォルカーはいつも暴力的ではあったけど、子供の頃はそれがミカに向けられることはなかった。
……死んだ?
硬貨が彼の手からこぼれ落ちる。ミカは拾って、彼に手渡した。硬貨は信じられないほど冷たくて、指が火傷するほどだった。
ミカは茫然と呟いた。
「お婆ちゃんは……ゾフィさんはどうして亡くなったんですか」
「聞いたところ凍死っつってたけど、まぁ病気持ちだったんだろ」
最後に訪れたのは三ヶ月前だ。確かに具合は悪そうだったが、寝たきりではなかったのに。
いつの間にか、煙草が短くなっている。煙草の先を地面に擦り付けた男が立ち上がるので、ミカはハッと我にかえる。
「誰か、そばにいましたか?」
「何が?」
「お婆ちゃんが、亡くなった時」
「さぁなぁ」
ミカは男に、自分の硬貨を一枚差し出しながら問いかける。
「お婆ちゃんはどこに?」
「森に捨てられたと思うけど」
「森って、どこですか?」
「分からんよ」
男は硬貨を大事そうにしまって、「ありがとな」と告げると毛布を抱えて去っていく。
ミカはしばらくその場に座り込んでいたが、激しい頭痛を感じて立ち上がる。もう一度、家へ向かって、室内がどうなっているか確認したかった。
路地を抜けて、ゾフィお婆ちゃんの家の前で立ち止まる。扉は開かない。鍵がかかっている。この周辺の小屋は全て貸し屋だ。大家に言えば、鍵を貸してくれるかもしれないけれど……。
考えていると背後から、
「ミカじゃねぇか」
と声がかかる。
振り向いて、こっそり息を止めた。たった今頭に浮かんだ男の姿そのものだったからだ。
「ヒルトマンを追い出されたって聞いたが、なぁんでまだいんだよ」
大家であるフォルカーがこちらへ歩いてくる。長い足を放り投げるように大雑把な足取りで、ミカの元へやってきた彼は、威圧的な態度で見下ろしてくる。
「……フォルカー」
「フードを深く被って、まるで盗人みたいだな」
フォルカーは、ミカがゾフィお婆ちゃんに拾われた時からの顔見知りだ。
年はミカと同じくらい。確かめたことはないが、同年代だとは分かる。
フォルカーは小屋を眺めてから、ニヤッと目を細めた。
「そういや、ミカ。そこの家のゾフィが死んだって知ってるか?」
ミカが傷つくことを望んでいる目だ。ミカは奥歯を噛み締めてから、声を絞り出す。
「……今さっき聞きました」
「何だ。つまんねぇの」
白けた顔をしたフォルカーは、冷たい目つきのまま告げる。
「お前がヒルトマンから追い出されて一人で逃げてる最中に、弱った婆さんは逝っちまったよ」
「……」
「哀れな婆さんだな」
「この家の」
ミカは視線を小屋に移す。か細い声で言葉を吐き出した。
「荷物は何も残ってないんですか?」
「残すわけねぇだろ。ただの空き家だ」
「……」
「あぁ、そうだミカ。この二ヶ月、ゾフィの婆さんに貸してた小屋の賃貸料が振り込まれてないんだよ」
「おっ」
ミカは勢いよくフォルカーに目を向ける。わなわなと震える唇を、開いた。
「おばあちゃんは死んだんです。なのに何で」
「知るか。そんなもの」
フォルカーは顔を歪めて突き放すように言った。
「十万リルだ。お前が払えよ」
「……俺が?」
「婆さんがどこに捨てられたか知りたくねぇのか?」
十万リル。ライハルトの邸宅で働いた一ヶ月分の給料だ。
「賃貸料は月二千リルでしょう。なんで、十万リルになるんですか」
「延滞してるんだから当然じゃねぇか」
ミカはグッと唇を噛んだ。
フォルカーは、フッと吐息して目を細めた。
「お前がいねぇ間、婆さんに食料運んでたの誰だと思ってんだ」
「……」
「そもそもゾフィの婆さんが一人きりで暮らし始めたのも、テメェが裏切ってローレンツの情夫になったせいだろ」
反論のしようがなかった。ミカはお婆ちゃんを残してヒルトマン邸へ向かったのだ。
ここで小銭を稼ぐよりもヒルトマン邸の方が稼げると思ったから。だからローレンツに反抗せずに、あの屋敷へ向かった。
幸いにもお婆ちゃんの食料を稼ぐくらいの働きを得た。これで良かったのだと思い込んでいた。
しかし、ミカがいなくなったせいであの人はこの小屋で一人きり亡くなってしまった。
フォルカーの言葉は間違っていない。
ミカは深く息を吐き、給与袋を取り出した。
帰りの分の金だけ取り出して、残りのお金を袋ごとフォルカーへ押し付ける。
「これで足りるでしょう」
「……この金、どうしたんだ」
フォルカーは中身を確認して目を丸くする。
ミカは口を閉ざした。フォルカーは怪訝な顔をすると、チッと舌打ちした。
「またどっかの男に体売ってんだな」
「さっさと受け取ってください」
「誰だ?」
フォルカーは軽蔑するように目角を立てる。
「次のお前の男は誰だ」
低い声はただならぬ負の気配が目一杯に詰め込まれていた。
彼の齎す畏怖の力は他ならないフォルカーの凄みだ。ライハルトとはまた違った恐怖がそこにある。
実際、ライハルトとは違ってフォルカーは現実的にミカにとって脅威だった。金を与えてくれるライハルトとは違って、フォルカーは奪うし、人間のミカを突き放すライハルトの一方で、フォルカーは執拗なほどヒルトマン邸までミカを追いかけて逃さなかった。
「そんなんじゃ、ありません」
「そいつもガッカリするだろうな」
フォルカーは躊躇いなくミカの両頬を掴むと、無理やり自分へ向けさせた。
「お前はローレンツみたいなのと恋人ごっこしてたんだから」
「……そんなんじゃ、ない」
ごっこ、じゃない。あの頃はミカだって、ローレンツを愛していた。
ごっこじゃない……。
怒りが湧き、フォルカーを睨みつける。
次の瞬間、頬に拳が殴り入れられていた。
容赦のない打撃にミカは口内に血が滲むのを味わった。唾液に絡まって喉にへばりつく。ミカは扉に手をついて体を寄り掛け、フォルカーを見上げる。
フォルカーは「何だその目は」とミカをまた一度平手打ちした。
俯いたミカを嘲笑うようにフォルカーは言った。
「また泣くのか? 泣き虫野郎」
——『何泣いてんだよ、泣き虫が』
脳裏を過ぎるのは、子供の頃の二人の記憶だ。
ミカが子供の頃、フォルカーもまた子供だった。この辺りの貸し屋は彼の父親が管理していたから、フォルカーも近くで遊んでいることが多かった。
体の小さなミカが大人に蹴られていると、いつもフォルカーが助けてくれた。子供ながらに暴漢を殴りつけて撃退したフォルカーは、ミカの手を引いてお婆ちゃんの小屋まで連れてきてくれる。
寒くて痛くて涙を流すミカの頬を乱暴に拭って、『泣くなバカ』と笑い飛ばしていた。フォルカーはいつも暴力的ではあったけど、子供の頃はそれがミカに向けられることはなかった。
応援ありがとうございます!
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