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第一章
12 眩暈がした
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ミカは頷き、付け足した。
「そうした事実はないです」
「えー……正直に言うと、初めにミカさんが執事長に紹介されたとき、旦那様の恋人なのかと思ったんですよ!」
「いえ、違います」
ロミーは疑う目つきで、「本当に?」と続けた。
「ミカさんにその気はなくても、旦那様はミカさんを好きなんじゃないですか?」
ありえない。ミカはいっそ目眩がするほど見当違いな発言に、小さく首を振った。
「ライハルト様にもその気はないですよ」
「そうですか? 旦那様が他人を独断で邸宅に招き入れるのはこれが初めてですよ」
「え?」
ミカは目を瞬かせた。初めて?
少し驚く。初めて……。
でもそれはミカだから、ではない。猫だからだ。
「そうですか」
「それどころか、自分のお部屋に住まわせるなんて! 愛人以外に理由なんかないと思ってました」
「……他にも理由はあると思いますよ」
「じゃあ何ですか? こんなにも旦那様が人を気にいるなんて!」
人、ではない。ミカは苦笑がちに「うーん」と返した。
「本当にびっくりしました。だって旦那様、人間嫌いなところありますし」
「……そう思いますか?」
「皆、思ってますよ」
ロミーは軽やかに笑った。
「ちっとも笑わないんですもん。まぁ……大胆ではあるし、怖いお方ですけど、仕事ができて私たち使用人にも充分なお給料を与えてくれて、皆、旦那様を好きですよ」
ミカは頬を指で触った。もう、ライハルトに付けられた傷はない。
「慕われているんですね」
「ええ。でも旦那様には恋人の気配もないし、結婚の兆候もないので」
そういえば、と今更になってミカも考えた。
ライハルトはいつも仕事ばかりで恋人の影はない。結婚について仄めかしたことすらない。
彼が侯爵家の人間なら既に結婚していてもおかしくない。それにあの美貌だ。引く手数多のはずなのに、なぜ結婚しないのだろう。
人間嫌いだから、か。
「ミカさんを自分の部屋に住まわせると聞いた時、私たちは『あぁ旦那様は、男の方をお好きなのか』と妙に納得したものです」
「えっ」
ミカは思わず目を丸くする。その発想はなかったが、第三者からはそう見えるのか。
ミカはひとまず「俺はライハルト様と付き合ってません」とかぶりを振った。それに。
「エルマー様の方が仲が良いです」
「それは、お仕事仲間ですからね」
ミカよりもよっぽど、秘書のエルマーとの方が親しい。
だがロミーの反応は淡々としていた。
それも、そうか……ミカから見てもあの二人は仕事仲間で信頼し合っている関係に思える。友愛はあっても恋愛が絡んでいるようには思えない。
だからと言ってミカがライハルトの恋人というわけではない。もしも邸宅の皆が口に出さないだけで勘繰っているなら誤解を解きたいが、ミカがライハルトの領域で暮らしている以上難しそうだ。
違うのに。
ライハルトとの関係は、ローレンツとは違う。
気を抜くとまだ、ヒルトマン邸にいた頃の記憶が蘇ってくる。息苦しくなってこっそりため息を吐くミカに、こちらの心情など知らないロミーが明るく問いかけた。
「ミカさん、どこで旦那様と出会ったんですか?」
「……森で」
「森? 何かの暗喩ですか?」
言葉そのものの意味だ。
ロミーは不思議そうにしたが、それ以上問いかけてこなかった。ロミーの目的地が近付いてきたからだ。
「それじゃ、ミカさんも良い休日を」
その町で列車に乗り換えることになった。列車は、人生で一度も乗ったことがないので緊張したが、ロミーが教えてくれたおかげでディニィ地区付近の駅で無事に下車する。
しばらく歩くと、見慣れた光景に近づいてくる。
この辺りはヒルトマン男爵家の影響が及ぶ範囲だ。
フードを深く被って、路地裏へと進んでいく。
もう三ヶ月、お婆ちゃん……ゾフィお婆ちゃんには会っていない。
……別に、彼女とは親しいわけではない。
会いにいくたびに『ここへは来るんじゃない』と帰り際に言われたし、家族みたいに過ごしたこともなければ抱擁したことすらない。
けれど、時折優しげな微笑みを向けてくれた。何も持っていない小さなミカを小屋に迎え入れてくれた。黒猫に変わる体質を隠すミカの本性を、探らないでくれた。
彼女の心根は信じられないほど優しいのだ。
「あれ……」
しかし、ゾフィお婆ちゃんが住んでいた小屋を訪ねても彼女は留守のようだった。
「婆ちゃん。婆ちゃーん」
何度も扉をノックするが返答はない。窓を覗いてみるがカーテンが閉まっている。明かりが灯っている雰囲気もない。留守というより、人が住んでいる気配がしなかった。
なぜ居ないのだろう。ゾフィお婆ちゃんは足が悪いので滅多に外出はしないはずだ。
しばらくその場でうろうろしていが、ミカは路地の方へ向かった。道の隅で蹲っている男に、
「あの、ゾフィお婆ちゃんを知りませんか?」
と問いかけるが、
「誰だそれは?」
首を捻られた。
「ええっと、向こうの小屋に住んでいたお婆さんです」
ミカはフードを抑えながら小屋の方角を指差した。男は「どこだ?」と身を乗り出す。
「あの、端から二番目の小屋です」
「ああ。あの婆さんなら二ヶ月前に死んだぞ」
ミカは目を見開いた。
男は座り直すと、煙草を取り出した。
ミカは「死んだ?」と呟く。
火をつけた男は、眉間に皺を寄せた。
「お前、あの婆さんの孫か何かか?」
「いえ……」
男の吐いた煙がミカの体に取り込まれる。くらっと眩暈がした。
「昔、お世話になったので……」
「そりゃ残念だったな」
「そうした事実はないです」
「えー……正直に言うと、初めにミカさんが執事長に紹介されたとき、旦那様の恋人なのかと思ったんですよ!」
「いえ、違います」
ロミーは疑う目つきで、「本当に?」と続けた。
「ミカさんにその気はなくても、旦那様はミカさんを好きなんじゃないですか?」
ありえない。ミカはいっそ目眩がするほど見当違いな発言に、小さく首を振った。
「ライハルト様にもその気はないですよ」
「そうですか? 旦那様が他人を独断で邸宅に招き入れるのはこれが初めてですよ」
「え?」
ミカは目を瞬かせた。初めて?
少し驚く。初めて……。
でもそれはミカだから、ではない。猫だからだ。
「そうですか」
「それどころか、自分のお部屋に住まわせるなんて! 愛人以外に理由なんかないと思ってました」
「……他にも理由はあると思いますよ」
「じゃあ何ですか? こんなにも旦那様が人を気にいるなんて!」
人、ではない。ミカは苦笑がちに「うーん」と返した。
「本当にびっくりしました。だって旦那様、人間嫌いなところありますし」
「……そう思いますか?」
「皆、思ってますよ」
ロミーは軽やかに笑った。
「ちっとも笑わないんですもん。まぁ……大胆ではあるし、怖いお方ですけど、仕事ができて私たち使用人にも充分なお給料を与えてくれて、皆、旦那様を好きですよ」
ミカは頬を指で触った。もう、ライハルトに付けられた傷はない。
「慕われているんですね」
「ええ。でも旦那様には恋人の気配もないし、結婚の兆候もないので」
そういえば、と今更になってミカも考えた。
ライハルトはいつも仕事ばかりで恋人の影はない。結婚について仄めかしたことすらない。
彼が侯爵家の人間なら既に結婚していてもおかしくない。それにあの美貌だ。引く手数多のはずなのに、なぜ結婚しないのだろう。
人間嫌いだから、か。
「ミカさんを自分の部屋に住まわせると聞いた時、私たちは『あぁ旦那様は、男の方をお好きなのか』と妙に納得したものです」
「えっ」
ミカは思わず目を丸くする。その発想はなかったが、第三者からはそう見えるのか。
ミカはひとまず「俺はライハルト様と付き合ってません」とかぶりを振った。それに。
「エルマー様の方が仲が良いです」
「それは、お仕事仲間ですからね」
ミカよりもよっぽど、秘書のエルマーとの方が親しい。
だがロミーの反応は淡々としていた。
それも、そうか……ミカから見てもあの二人は仕事仲間で信頼し合っている関係に思える。友愛はあっても恋愛が絡んでいるようには思えない。
だからと言ってミカがライハルトの恋人というわけではない。もしも邸宅の皆が口に出さないだけで勘繰っているなら誤解を解きたいが、ミカがライハルトの領域で暮らしている以上難しそうだ。
違うのに。
ライハルトとの関係は、ローレンツとは違う。
気を抜くとまだ、ヒルトマン邸にいた頃の記憶が蘇ってくる。息苦しくなってこっそりため息を吐くミカに、こちらの心情など知らないロミーが明るく問いかけた。
「ミカさん、どこで旦那様と出会ったんですか?」
「……森で」
「森? 何かの暗喩ですか?」
言葉そのものの意味だ。
ロミーは不思議そうにしたが、それ以上問いかけてこなかった。ロミーの目的地が近付いてきたからだ。
「それじゃ、ミカさんも良い休日を」
その町で列車に乗り換えることになった。列車は、人生で一度も乗ったことがないので緊張したが、ロミーが教えてくれたおかげでディニィ地区付近の駅で無事に下車する。
しばらく歩くと、見慣れた光景に近づいてくる。
この辺りはヒルトマン男爵家の影響が及ぶ範囲だ。
フードを深く被って、路地裏へと進んでいく。
もう三ヶ月、お婆ちゃん……ゾフィお婆ちゃんには会っていない。
……別に、彼女とは親しいわけではない。
会いにいくたびに『ここへは来るんじゃない』と帰り際に言われたし、家族みたいに過ごしたこともなければ抱擁したことすらない。
けれど、時折優しげな微笑みを向けてくれた。何も持っていない小さなミカを小屋に迎え入れてくれた。黒猫に変わる体質を隠すミカの本性を、探らないでくれた。
彼女の心根は信じられないほど優しいのだ。
「あれ……」
しかし、ゾフィお婆ちゃんが住んでいた小屋を訪ねても彼女は留守のようだった。
「婆ちゃん。婆ちゃーん」
何度も扉をノックするが返答はない。窓を覗いてみるがカーテンが閉まっている。明かりが灯っている雰囲気もない。留守というより、人が住んでいる気配がしなかった。
なぜ居ないのだろう。ゾフィお婆ちゃんは足が悪いので滅多に外出はしないはずだ。
しばらくその場でうろうろしていが、ミカは路地の方へ向かった。道の隅で蹲っている男に、
「あの、ゾフィお婆ちゃんを知りませんか?」
と問いかけるが、
「誰だそれは?」
首を捻られた。
「ええっと、向こうの小屋に住んでいたお婆さんです」
ミカはフードを抑えながら小屋の方角を指差した。男は「どこだ?」と身を乗り出す。
「あの、端から二番目の小屋です」
「ああ。あの婆さんなら二ヶ月前に死んだぞ」
ミカは目を見開いた。
男は座り直すと、煙草を取り出した。
ミカは「死んだ?」と呟く。
火をつけた男は、眉間に皺を寄せた。
「お前、あの婆さんの孫か何かか?」
「いえ……」
男の吐いた煙がミカの体に取り込まれる。くらっと眩暈がした。
「昔、お世話になったので……」
「そりゃ残念だったな」
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