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第一章

8 いっそのこと猫のままでいればいいのに

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 黒猫のミカを置いて仕事へ向かったライハルトが帰ってきたのは二日後の夕方だった。
 ミカが人間に戻ったのは、ライハルトが屋敷を発ってから数時間後だ。広い部屋を漁るわけにもいかず、ブランケットを纏って彼を待つが帰ってこない。
 ミカは部屋を出ることもできない。なぜならミカが屋敷にやって来た時は黒猫だった。こんな男が主人の部屋にいるなどおかしい。
 いくら部屋は立派でも、食べ物はないし着る物もない。クローゼットから衣服を盗んで屋敷から逃亡することも考えたが、ライハルトの脅迫じみた言葉が脳内を荒らして、ミカは動けなかった。
 使用人がやってこないことだけは不幸中の幸いだった。いつ、ライハルト以外の人間が部屋に入ってきたらと怯えていたが、幸いにも来客はいない。
 ミカはライハルトの帰宅を二日間眠らずに待った。
 やがて夜が明けて、昼も過ぎ、夕陽が沈み、また夜が明け……。
 太陽が傾いた頃、とうとう彼が帰ってくる。
「服を着ろ」
 部屋の隅で突っ立っているミカを一瞥したライハルトは、ソファに腰掛けてタイを解く。
 ミカに顔を向けずにそう言い放った。
「変態かお前」
「へっ」
 変態?
 動転するミカは、「ふ、服と言っても……」と小さく呟いた。
「もしくは今すぐテールに戻れ」
「……」
 いくら屋敷の中と言っても、暖炉に炎の灯っていない部屋は極寒の寒さだった。
 ミカはブランケットを一枚羽織っているだけで、裸足だ。ぶるぶる震えるミカを冷たい眼差しで見遣ったライハルトは、感情のない声で続ける。
「布一枚で過ごしていたのか? そんなに寒いなら猫に戻りゃいいだろ」
「それは、そうなんですけど」
「何してんだ、早くしろ」
 覚悟はしていたが、人間相手のライハルトは冬のように冷たかった。
 言葉は氷の刃の如くミカの心に突き刺さる。
「猫に戻れ。人間のお前が何になる」
「……」
 覚悟はしていたのだ。再会してライハルトに伝えたいセリフを夜通し考えていたし、口に出して練習もしていた。
 しかし実際に彼を前にするとあまりの恐怖でうまく声に出せない。
 と、その時だった。
「……今のは何だ」
「も、申し訳ありません!」
 声の代わりに鳴ったのは、盛大な腹の音だった。
 二日前から今まで、何も食べていない。昨晩だって口にしたのは猫が食す量のスープのみだ。
 ヒルトマン邸で制裁を受ける前からろくに食事を取れていない。ずっと腹が減っていたし、目眩もしていた。胃液が口内に滲み、喉の痛みで咳には血が混じっている。
 限界を感じていたが、これほど巨大な腹の音が鳴るとは。
「申し訳ありません……」
 ミカの顔は青ざめたり真っ赤に染まったりと忙しない。恐怖に羞恥が追加されて、もう泣きたくなる。
 俯いていたせいで、ライハルトが無言で腰を上げたと気付くのに遅れた。
 あ、叱責を受ける……咄嗟に察して、ミカはぎゅっと目を瞑った。
 とうとう目の前にやってきた彼は、だが予想外にも告げる。
「着ろ」
「……は、はい」
 ライハルトは衣服を上下セットで手渡してきた。
 ミカは一瞬啞然としたが、慌てて受け取る。恐々と見上げると、ライハルトの無表情がかなり上の位置にある。やはり彼は背が高く、見上げ続けるなら首を痛めなければならないほどだ。
 ライハルトは踵を返すとまたソファに腰掛けた。貴族らしからぬ、だらしない座り方だった。口調でも思っていたが、ライハルトはミカの想像の侯爵家の人間とはかなり離れている。
 しかし持ち物はどれも上等だ。衣服の質感は柔らかく、触っているだけでも暖かい。部屋着用のシンプルなデザインではあるが、ミカが生まれてこの方腕を通したことのない衣服だった。
 それにとても大きい。シャツ一枚で膝まで隠れてしまう。ライハルトは大柄な男なので、ミカとサイズが合うわけもない。
 わたわた着替えるミカに、ライハルトは言った。
「いつ猫になる」
「あっ、はい」
 ひとまずシャツのボタンを留め終えたミカは、用意していた台詞で答えた。
「猫になるのは夜の間だけなんです。猫になるタイミングも、分からないんです」
「はぁ?」
「も、申し訳ありませんっ」
「クソ面倒だな。いっそのこと猫のままでいればいいのに」
 まさにその通りだ。人間のミカには何の価値もない。
 真実でしかない言葉なのにミカは胸を痛めた。傷付く自分すら厭わしく思えて、ミカはグッと唇を噛む。
 すると、またしても腹が鳴る。
「すみません……」
「はぁ」
 ライハルトは怒るのもやめて呆れるばかりの様子だ。ミカは情けなくて恥ずかしくて、いっそこの場でサラサラと砂になって消えたい。
 深く俯くミカの目の前に、気付くとライハルトがまた立っている。いつの間に? 同時、ミカは思い出す。昔から数秒でも数時間でも、意識が乖離して時間感覚を失うことがあった。今し方にそれが起こったらしい。
 ライハルトは、箱を差し出してくる。
「そのだらしない腹の音をどうにかしろ」
 ミカは両手で箱を受け取った。すぐに背を向けるライハルトを見てから、箱に視線を落とす。
 恐れ多くもその場に膝をつき、箱を開けてみる。
 中身はパンと果物と、ハムやチーズに、スイーツ。
 ランチセットだった。水も入っている。ミカは驚いて顔を上げるが、ライハルトはワイングラスを傾け始めている。
「あの、これ」
「食い損ねた昼飯。食え」
 ライハルトは横顔で告げた。
「いいんですか」
「お前の腹の音がうるさくて話になんねぇんだよ」
「ごめんなさい」
「謝るのは後にして食え」
「は、はい」
 ミカはライハルトの顔色を伺いながら、まず水の入った水筒を手にする。
 水、だ……。蓋を開けて、一気に飲み干す。
 もう喉が渇いて渇いてどうにかなりそうだった。ずっと飲まず食わずでいたのだ。美味しい。水、美味しい。
 あっという間に中身は空になってしまった。残念に思いながら、箱の中身を確認する。
 豪華なランチセットだ。もったいないので、パンを少しだけ千切って口にした。
 これはミカのための食事ではない。ライハルトのものだ。ひとかけらでも充分なので、そっと箱を閉じる。
 立ち上がり、箱を返そうと彼の元へ近付くと、
「それは……?」
 ライハルトが白い花を眺めていることに気づいた。
 思わず疑問が声に出てしまう。アッと思ったが、ライハルトは気にせず「あぁ」と頷く。
「花だ」
「……旦那様は、お花がお好きなのですか?」
「いや、全く」
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