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第一章

5 俺、殺されるんじゃないか

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 路地裏出身で使用人の身だったミカにも分かる。侯爵家の中でもかなり権力の強い家柄だ。ヒルトマン男爵家とは比べ物にならないやんごとない身分の方で、本来ミカがお目にかかれる血筋ではない。
 まさか、そんなわけが。
「商売人ではありますが、この方は侯爵家の方ですから。獲物でもないのに猫殺しなど粗暴な真似をするはずがありません」
 コウシャクケ……。
 侯爵家。
 こ、しゃく、け。
「……ミャ、ミャーァッ!」
「……何、暴れ出してんだ」
「どうしたのでしょうか」
 ミカはライハルトの手から逃れようともがく。だが首根っこを軽々と持ち上げられたままなので両足で宙をかくことしかできない。
 暴れるミカにライハルトは冷たい眼差しを向けてくる。ハッとしたミカは爪を引っ込めた。その貴い血を流させる訳にはいかない。
 この方はデューリンガー侯爵家と関わりがあるのか? ライハルトの見目は一見して若者だ。ミカよりも幾つか年上なのは推察できるし威厳は凄まじいが、容姿は若い。
 デューリンガーと名乗るのは侯爵家の人間だけのはず。侯爵家の親族の方? だとしても貴族に違いない。
 由緒ある崇高な方がたまたま黒猫のミカを拾った? そんな偶然がある?
 あまりの恐れ多さで今度こそ卒倒しそうだ。青い瞳に見守られながら死んでしまうかもしれない。走馬灯のように記憶が駆け巡る。目覚める前に起きた衝撃的な裏切りと愛の破壊と暴力。さらに過去は遡り、お婆ちゃんと暮らしていた暗澹たる路地裏。お婆ちゃん……会いたかった……海みたいな青い色に見つめられながら想う。あれ? 海って何だっけ?
「ニャッ!」
「わぁ、びっくりした。寝てしまったのかと」
「この泥猫を洗ってから俺の部屋に持ってこい」
 ライハルトは眉間に皺を寄せて言い放ち、乱暴にミカをエルマーへ押し付ける。
「ンンンニャァー!(俺を離せぇー!)」
「はいはい、今すぐ洗いますから。興奮してますね」
「クソ猫、何でキレてんだよ」
「え? 怒ってるんですか?」
「怒ってるだろどう見ても。ミャーミャーうっせぇな……」
 怠そうに呟いたライハルトは長い足を放り出すようにして部屋を去ってしまう。ここはライハルトの部屋ではないらしい。こんなに豪勢なのに、執事か側近か判別できないがエルマーの部屋らしい。
 やはり異次元な身分の方だ。
「怒らないでくださいね、猫さん。水は怖くないですよ」
「ンミャーッ! ミャ! ニィッ!(水が怖いんじゃない!)」
 ライハルトが怖いんだ。
 猫なので言葉は通じない。温水と泡に身体中を覆われる。休息を得られないので人間の姿に戻ることはない。丁寧に体を拭かれたミカは、問答無用でライハルトの部屋へ運ばれた。
「ニャアーアーアー(うわーん)」
「はいはい、猫さん。怖くないですよ。ライハルト様、よろしくお願いします」
「……」
「ミャー!(やだーっ)」
 必死にエルマーの服を掴むが、茶髪の青年はデレデレするばかりでちっとも役に立たない。あっさりとライハルトに引き渡されてしまったミカは、見通しもつかないが恐ろしい展開が訪れることだけは確かな未来に怯えてしゅんっと静かになった。
 ミカは彼に抱かれながら視線を上げる。
 そしてパチっと大きく瞬きした。
「にゃー……」
「……」
 ライハルトの部屋は、エルマーの部屋とは比べられないほど豪華だった。
 思わず感嘆の声が漏れ出てしまう。
 富豪の部屋だからなのか。それとも貴族の部屋だからなのか。広い部屋は絨毯も家具類も一見して高級品と分かるし、天井には絵が描かれている。
 部屋はいくつもあるようだ。ミカを抱えたライハルトは更に奥へ突き進んで扉を開いた。また、だだっ広い部屋が現れたかと思ったが、寝室だった。
 ライハルトの背は人間姿のミカよりもかなり高く、おそらく林檎4、5個分以上はある。肩も広くて、胸筋もしっかりしていた。
 そんなライハルトが数人は寝転べるほど広いベッドだ。これはもう、ベッドというより島じゃないか。
 と、ライハルトがベッドに寝そべり、あろうことか己の胸にミカを置いた。
(!?)
 片手でミカを抱きかかえるライハルトはローブのような室内着を羽織っている。赤と金色の刺繍が施されたそれは胸下が広く空いていて、ミカは彼の鍛え上げられた胸に抱かれる形となっている。
「にゃ、ミャアーオ!(うわーっ)」
「お前はエルマーの方がいいのか?」
「ミャウ?(え?)」
 すると唐突にライハルトが呟くから、ミカは首を傾げた。
 あまりにも人間らしい仕草だったかと遅れて気付き、慌てて何も理解してなさそうな「ンンニャ」と不機嫌そうな声を出してみる。
 ライハルトは大して気にしてなさそうに、その整った目でミカをじっと見つめた。
 ミカが困惑したのは、彼の声の響きだ。
 相変わらず美しい低い声だけれど、雰囲気が違う。少し気が抜けているような、穏やかな声色だった。
 現にエルマーの前では見られなかった、表情がすぐ近くにある。
 真顔ではあるが、そこはかとなく柔らかな印象を抱いた。
 なんだかやけに落ち着いている……。ライハルトがミカの頭を撫でる。その手つきもどこか優しく、ミカは不覚にも大人しくなってしまう。
 不意に脳裏を過ぎるのは、エルマーの言葉だ。
 ――『彼は獣には比較的優しいですから』
 もしかしてライハルトは動物好きなのか?
 ミカは黙って彼の大きな手を受け入れた。ライハルトは間断なくミカの小さな頭を撫で続けている。大きな手で覆われるとミカの頭はすっぽりと収まってしまって、その温もりを感じることができる。
 それでも緊張して心は強張っていたが、この時ようやっと、ミカは息を吐いた。
 この人……俺を完全に猫だと思っている。
 そっと視線を横に滑らす。窓はカーテンに覆われていて外が見えない。今、何時だろう。森にいたのは昨日だったのか、それともまだ数時間しか経っていないのか。少なくともこの男が寝る準備に入っているということは、現在は夜なのだろう。
 ……あぁ。
 大変だ。
「お前。目が真っ赤だな。鼻が小せぇ」
 これ、俺、人間だとバレたら殺されるんじゃないか。
 内心でダラダラと汗を流す。ライハルトはミカの鼻の頭をつつき、次に顎下を撫で始めた。
 どうしよう。これは大変だ。彼は獣相手だと思って自分を晒している。この部屋で過ごす前とは全く、態度が違う。
 人間が相手だからではない。
 獣だからだ。
「尻尾は立派だな。そうだ。お前には『テール』と名付けよう」
 とうとう名前まで付け出した。さっきまで『クソ猫』『泥猫』とか言っていたのに。
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