【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK

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2 あなたは捨てられたんだから

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 ミカは男たちに抱えられて、屋敷の外へと連れ出された。抵抗する力など残っていない。ローレンツが「綺麗だ」と慈しんでくれたミカの赤い目は、腐った魚のように濁っている。
 真冬の空からは雪が降り、冷たい風で吹き荒れていた。突き刺すような風がシャツ一枚のミカの肌に遅いかかる。黒髪が舞って、血の滲み出る頬を掠めた。
「ローレンツ様、少しお待ちください」
 すると凛と澄んだ声が耳に入り込んできた。
 ローレンツの制止を振り払って、ルイーザが駆け寄ってくる。
 雪の積もる地に放り投げられたミカは、力なく彼女を見上げた。
 ルイーザは、小さな花のように身を震わせて、綺麗な眉を悲痛そうに下げた。大きな瞳に涙が溜まっている。ミカからルイーザを守るように使用人の男たちが立ち塞がるが、彼女は弱々しい声で「ミカ様にお伝えしたいことがあるんです」と唇を噛み締める。
 慈悲の言葉を投げかけると思ったのか、男たちが退いた。
 ルイーザはふわっと膝を折り、ミカの耳元で囁いた。
「哀れな男ね」
 ミカは腫れ上がった瞼を限界まで見開く。
 視界の雪には、自身の血が滲んでいた。
 ルイーザは甘く囁いた。
「本当にあなたが邪魔だったの。男のくせしてローレンツ様に気に入られるあなたが憎たらしくて仕方なかった。あなたは覚えていないでしょうけど、私たち、お店で会ったことがあるのよ。捨て子のくせしてローレンツ様に肩を抱かれながらお店に入ってきた時……あなたが私に目も向けずに幸せそうにしているのを見て、決めたわ。絶対にあなたから彼を奪い取るって」
 ルイーザの長い髪が彼女の表情を隠し、誰からもその笑みは見えない。
「バカな男。宝石を盗んだのは私が唆した使用人なんだから……こうも上手くいくなんて思わなかった。ローレンツ様が愛してるのは私よ。彼は男のあなたより女の私を選んだの。その綺麗な顔も、今じゃ台無しね」
 ルイーザの細い指が、ミカの頬に触れる。傍目からは憐れむような仕草だが、彼女の爪は傷に食い込んでいた。
「二度と、彼と私と私たちの子供の前に現れないで。誕生日おめでとう、ミカ様。プレゼントにひとつ教えてあげる」
 耳たぶを揺らす心の奥底を撫ぜるゾッとさせるような声も、彼女の微笑も、雪風の音と髪が隠している。
「自分が愛される存在だなんて思わないことよ。あなたは捨てられたんだから」
 ルイーザが両手を胸の前で握って、よろっと儚く立ち上がった。
 彼女を咄嗟に支えたのはローレンツだった。ローレンツはルイーザの指についた血を見ると、わなわなと怒りで身を震わせた。
「彼女に何をしたんだ……!」
「いいの……ローレンツ様。少し噛みつかれただけだから……」
「なんだと!? 今すぐこいつを門の外へ捨てろ!」
 ルイーザに夢中となったローレンツの顔は彼女のための怒りで覆い尽くされている。ここ数ヶ月、目が合うたびにどこか申し訳なさそうにしていた表情はもう無い。軽蔑と憎悪の色で満ちた彼は、ミカを屋敷外へ投げ捨てることを命じた。
 ミカはもう、声すら失っている。ルイーザに貶められ、ローレンツに裏切られたことへ対する怒りは、心を砕くショックに追い付かない。
 空が鈍色の雲に覆われているからなのか、もうミカの視界から色すら失われてしまったのか。まだ夜には遠いはずなのに世界は暗い。容赦なく降りかかる雪が倒れたミカの体に降り積もっていく。どれほどそうしていただろう。ここにいては、屋敷の使用人達に見つかって殴られるかもしれない。輝かしい館に背を向け、ミカは崩れそうな足を踏み出した。
 暫くしてすぐに、視点が一気に下降する。
 人前では必死に耐えていたけれど、とうとう体が変化してしまったのだ。
 ――これはローレンツ以外には誰にも話したことのない秘密だ。
 ミカは極度の疲労を超えて限界に達すると、その身が黒猫の姿となってしまう。
 十年以上前、ローレンツが抱え上げたのも黒猫姿のミカだった。連れ帰った猫が人間の姿になったとき、ローレンツは酷く困惑していたけれど、
『貴方は綺麗な人だ』
 そう言って、ミカを受け入れてくれた。
 自分の正体を理解し思い遣り、同情してくれたローレンツ。ミカはぽろぽろと涙をこぼしてローレンツに感謝した。
 それから初めて体を交わした夜も、ミカは黒猫の姿になりローレンツに抱きしめられた。その温もりがあれば生きていけると思った。彼の優しい熱のおかげで、使用人達にいじめられ、男爵に迫られ、精神的に追い詰められて猫となっても独り、部屋の隅で耐えていけた。
 でも今ミカは、雪の吹雪く地を一人で歩いている。
 猫の姿になったせいでより一層体力が消耗していくのが分かる。身を削るような風が、思い出を少しずつ奪い去っていく。
 ローレンツは少しも思わなかったのだろうか……。
 こんなに冷たい夜に放り出されて、猫の俺が死ぬこと……。
 この地から離れなければならない。強くそう思った。ちょうど通りかかった馬車の荷台に飛び乗り、荷物の陰に隠れる。目を閉じると死んでしまうような気がしたから、大きく震える小さな体を丸めて、必死に耐えた。
 皮肉にも、今日はミカの誕生日だ。祝いの言葉を投げかけてくれたのはローレンツの新しい恋人であるルイーザただ一人だった。
 ――『自分が愛される存在だなんて思わないことよ。あなたは捨てられたんだから』
 ルイーザの言葉は正しい。
 愛した人に裏切られるのは、これが初めてではない。
 路地に捨てられる前、ミカには家族がいた。父は家族に暴力を働き、母は死んでしまった。よくある話だ。なんてことない。兄と二人で生きていけばいい。でも、違った。
 兄はミカに『全部お前のせいだ』と呪いをかけて、投げ捨てた。
 かつてミカの瞳は突き抜けるような空色の青に染まっていたが、呪いによって赤く染まった。ミカが黒猫に変化することが人々にバレたからダメだった。兄は怒ってミカに呪いをかけた。だからミカはローレンツ以外の誰にも、自分の正体を晒していない。
 父に踏みつけられ、母は死んで、兄に呪いを掛けられた身。
 全部自分のせいだ。
 ルイーザの言葉は正しい。
 初めから、自分は誰かに愛される存在なんかじゃなかったんだ……。
「なんだこの黒猫はっ!」
「不吉は外に投げちまえ」
 気がつくと、馬車が止まっていた。男たちは黒猫を見つけると乱暴な手つきで森へと放り投げる。
 かなり遠くまで走ったようで、雪は積もっているものの吹雪は止んでいた。寒い。じきに日が沈む。どこか大木に登って身を休めたいけれど、もう幹を登る力も残されていない。
 今晩は越せないだろう。行く宛なんかないし、ここが何処かも分からない。
 視界が眩んで、痛覚が遠のいていく。歩いているのか、その場で足踏みをしているのかすら分からない。
「っ!?」
 その瞬間、体が焼けるような痛みに包まれた。
 鮮烈な熱だった。炎に包まれたみたい。視界が真っ赤に染まっている。血、だ……。近くに矢が転がっていた。撃たれたと気付いた時には、ミカはもう倒れ込んでいる。
 夜が来るまでもなかった。
 あぁ、ここで死ぬんだ。
 でもこれで良かったのかもしれない。
 こんなにも恨まれる人生ならば、生まれてこなければよかったんだ――……
「どうだ? 黒兎か?」
「猫ですよ猫! あぁ可哀想に!」
 足音が二つ近づいてくる。
 ミカの頭上から声が落ちてきた。
「へぇー」
「へぇーじゃないですよライハルト様! 背中が射抜かれている!」
「ほぉ」
 必死な声と、どうでもよさそうな声がミカに届く。
 後者の声は低く、美しかった。もうミカは全部がどうでも良くなっていて、心には何の気力も残されていなかったけれど、その声があんまりにも魅力的だったからだろう。
「黒猫、死ぬのか?」
 ミカは最後の力を振り絞って瞼を開いた。
 そこには、光があった。
 世界から色なんかは抜けたはずなのに。色がある。ミカの体を、どこか雑な仕草で男が抱き上げる。ブロンドの髪は、白黒のミカの世界に輝く唯一だった。いや、唯一なんかじゃない。その宝石のように煌めく青い瞳もまた、暗い世界を打ち破る光に見えた。
 綺麗だ。
 今までに見たどんな色よりも。
 ――最期に美しい光が見られて良かった。
 ミカは彼の腕に抱かれて、意識を手放した――……












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