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最終章

55 手繋いでいい?

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 玄関にいたのは、陽太のお母さんだった。
「お、お久しぶりです!」
「うん、久しぶりだね」
 彼女はにっこりと微笑む。その笑顔と声が、子供の頃の懐かしい記憶を掴んで引き寄せる。
 今の陽太のお母さんは茶髪のショートカットで、昔の長髪だった頃とは髪型も変わっているが、笑顔の面影はそのまま残っている。
 病気がちな人だったが、身体の調子が良い日は、幸平や進も呼んで昼食を作ってくれた。
 だが、最後に会ったのは小学校の頃で……八年近く前。そのせいで姿をすっかり忘れていた。
 そうだった。陽太によく似たとても綺麗な女性で、すらりとしたスタイルが目立つ女性だったのだ。
 彼女は心底申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、まさか幸平君がいるとは思わなくて」
 陽太は一度幸平に振り返り、それから母親へ向き直ると、
「ひとまず上がれば?」
「そうしようかな。すみもいるよ」
「まじ?」
「何だよ、友達来てたのか」
 低い声と共に現れたのは、大柄な男の人だった。
 首元のタトゥーが目を引く。筋骨隆々とした体格の良い男性で、百八十近くある陽太よりも背が高かった。
 何だろう……知らない男の人のはずなのに、見たことがあるような気もする。どこで会ったんだ? 思い出せない。
 男の人は幸平を見下ろしたが、特に何も言わずに微かに微笑むだけだ。
 その笑みはどことなく、色っぽい。
 思わず凝視していると、陽太の背が目の前に割り込んでくる。
「スミレも上がって」
「おう」
 ……スミレ?
 知らずに口に出ていたらしい。陽太が振り返って、
「俺の叔父さん」
 と耳打ちしてくる。
 唇を引き結ぶ幸平の目の前を、陽太のお母さんと『スミレ』さんが通過していく。
 すみれって……あの、すみれ?
 それは室井から聞いた、陽太の片思い相手疑惑がかかっていた女性の名前である。もちろん今の幸平は、陽太に好きな女性などいないと分かっているが、幸平はいっとき本気で落ち込んだのだ。
 けれど、そうだったんだ。
 すみれとは身内だったのか……。
「でも、私たちすぐ帰るから」
 リビングへやってきた陽太のお母さんは、荷物を部屋の真ん中に下ろしてから言った。
「陽太が、片付けるために部屋帰るって言うから心配になっちゃって。お昼ご飯でも作ろうかなって食材買って来たんだけど、そっか。幸平くんがいたんだ」
 荷物とはスーパーのレジ袋で、中には食材が入っているらしかった。
 彼らが座らないのが「すぐに帰る」発言の証左だ。陽太は、「へぇ」と大して引き止める意思を見せずに呟き、幸平はひたすら黙り込んでいる。
 幸平はもう、何も言えない。彼らの登場は、幸平が一人で思い込んでいた様々な誤解を一瞬にして明かしていく。
 ……恥ずかしい。
 勝手に『陽太の好きな人』だと思い込んでいた『スミレ』さんはこの男性だった。
 そして昨日の朝に見た相合傘の女性は、陽太の母だったのか。
「陽太、この食材いる?」
「あー、うん」
「そしたら置いてくね。私たち帰るよ」
 と微笑む陽太のお母さんは茶髪のショートカットだ。
 昨日の朝に雨の中で見た女性の後ろ姿と酷似している。いや、同一人物に違いない。
 自分は何て勘違いをしていたのだろう。今とはなっては、あの時見た女性は陽太の恋人ではないと分かってはいるが、それにしてもまさかお母さんだったなんて。
「それじゃ。友達と遊んでる時にごめん」
 と彼女たちは廊下へと歩き出した。
 二人がリビングから出る直前だった。
「……母さん、俺さ」
 いきなり、陽太が張り詰めた声で呼び止める。
 その声の異様さに幸平も、彼らも、陽太へ視線を向ける。
 すると陽太はまず、幸平へと顔を向けた。
 綺麗な目がじっと見つめてくるので少し狼狽える。
 だが、なぜだろう。
 陽太が今から言わんとすることが理解できたのだ。
 ……まるで繋がっているみたいに。
 確信なんてない。陽太はまだ何も言っていない。けれど、その真っ直ぐな光ある瞳が語りかけてくる。
 幸平は自然と頷いていた。
 陽太はフッと頬を緩めた。安心したように目元を和らげて、お母さんの方へ顔を向ける。
 それから、思った通りの言葉を告げた。
「俺、コウちゃんのこと好きなんだ」
「へぇ……?」
 一方のお母さんは不思議そうな顔をする。ふんわりとした笑みを浮かべて、「小学校からの友達だもんね」と言った。
 陽太はすぐさま首を振った。
 後ろのスミレさんが何か察したように、目を見開いたのがわかった。
「そういう意味じゃない」
「えっと……」
「俺、コウちゃんと、付き合ってる」
「……」
「……」
 隣の陽太は拳をギュッと握りしめていた。幸平もまた唇を噛む。
 陽太がそれを言うのは察していた。心臓がバクバクと一気に脈打つ。
 いつかは言わなければならないこと。それは今だったのだ。
 陽太の震える心が幸平の心と重なっているのが分かる。今二人は同じだけの緊張に支配されている。
 しかし。
「あ、そうなんだ……意外」
 その反応は呆気ないものだった。
「……え?」
 呟いたのは陽太だ。正面にいる陽太のお母さんは、『意外』と言った通りに目を丸く、してはいる。
 しているだけだった。
「それだけ?」
 陽太は虚を衝かれたように訊き返す。
 だが困惑するのは、陽太のお母さんも同様らしい。
「それだけって……えっと、幼馴染で恋人ってすごいね」
「……うん」
「いつから付き合ってるの?」
「昨日から」
「昨日!? へぇ、速報だ。おめでとう」
「……」
 受け答えをした陽太は啞然として、遂には黙り込む。
 お母さんの方は、陽太の反応を見てあからさまに『やばい』と言ったような顔をし、スミレさんへと振り返った。
「すみ、恋人紹介された時って何て言うもの?」
「お、俺に聞くなよ」
 話を振られたスミレさんは焦ったように言った。お母さんは、ふぅ、と息を吐くと、にっこりといかにも母親らしい笑みを浮かべた。
「幸平君、陽太を末長くよろしくお願いします」
「あ、はい」
 慌てて幸平も頭を下げる。
 すると隣の陽太はハッと我に返り、「だって母さん」と声のボリュームを上げた。
「父さんのせいで、大変だったろ」
「えっ、とう? ……うん……あっ」
「父さんが俺と同じだったから」
 途中で何かに気付いたお母さんだが、陽太は言葉を重ねる。
「そのせいで離婚したんなら、俺も同じで申し訳ないなって……」
「違うよ、違う違う陽太」
 お母さんは慌てた様子で陽太を止めた。
 俯きがちになった陽太を覗き込むようにして、
「離婚したのは、あの人が浮気してたからだよ」
「……」
「その相手が誰かはもうどうでもいいんだよ。ごめん、陽太がまさかそこまで知ってるとは思わなくて……待って」
 そこで言葉を止めると、お母さんはスミレさんの方へ振り返った。
 五秒ほどの無言。その間でスミレさんは、『やっちまった』と言うような顔へと変化する。
 一体その五秒で彼らがどういった意思疎通をしたのかは分からない。陽太へ視線を戻したお母さんは、真剣な顔つきで言った。
「男同士なのは関係ない」
「……あ。そうだったんだ」
 陽太の横顔はどうしてか、子供のように幼かった。
 薄く唇を開き、放心したような顔でもある。一度視線を下げ、またお母さんへと目を向けた。
 お母さんは声を強めた。
「うん。だから陽太、浮気しないでね」
 陽太は一瞬その気迫に目を瞠る。
 それから同じように真剣な目をして、決意を固めたような声で断言した。
「絶対しない」
「うん」
「コウちゃん以外を好きになるなんてありえない」
「……うん」
「俺はずっとコウちゃんだけ好きだったから」
「そ、そうなんだ」
 そこまで言われるとは思わなかったのか、お母さんは若干狼狽えながらも幸平をチラ見し、幸平もまた顔の中心に集まった熱を隠すように俯いた。
 続けて陽太は「浮気なんかありえない」「ガキの頃からコウちゃんしか見てない」「コウちゃんとずっと二人でいるって決めたから」「そもそもコウちゃんにしか反応しない」などとどういうつもりなのか熱弁を始めるので、幸平はいよいよつま先を見つめて顔から火を噴く思いだ。
 恥ずかしい。けど嬉しい。何だこの状況。
 見兼ねたお母さんが助け舟を出してくれる。
「うん、陽太の思いは分かった。今日はいきなりだったから、そのあたりのことはまた今度ね」
 「あぁ」陽太は頷く。幸平は、何故陽太が真顔でいられるのか心から不思議でならない。
「じゃあ私たちは帰ります。急に来てごめん」
 お母さんは傷ましそうに幸平を見つめ、意味深に「ごめん」と再度告げた。
「……」
「幸平君、陽太をよろしくね」
「はい……」
 頷くと、お母さんは目を細めて微笑んだ。陽太とよく似た表情だった。
 先に玄関扉から出たのはお母さんの方だった。スミレさんも靴を履く。去ろうとする間際、
「陽太、お前はある意味俺と同じだな」
 と突然言って、陽太を見下ろした。
 幸平にはその台詞は理解できない。しかし陽太には意味のあるものだったのだろう。
 陽太がきゅっと唇を噛み締めるのが分かった。
 スミレさんは小さく微笑み、幸平へと温かな視線を向けた。
「陽太をよろしくな」
「……はい」
 スミレさんの声は低い。身体も大きい。優しい微笑みは見た目とギャップがあって、目が離せなくなる。
 幸平は遅れながらも呟いた。スミレさんは軽く頷き、すぐに外へと踏み出す。
 全部があっという間の出来事だ。お母さんが「じゃあね」と言って、扉は完全に閉ざされてしまった。
 やってきたのは暫しの静寂だった。
 幸平は扉をじっと、どこか放心した心地で見つめている。
 何だか……視界が透き通ったような感覚になる。
 陽太との関係を改めて陽太の大切な人へ打ち明けると、別に重いなんて思っていなかった心が驚くほど軽くなったのだ。
 ああ、これが、嬉しいと言うことか。
 幸平は小さく息を吐いた。それから隣に立っている陽太へ、
「あのさ、陽太くん。スミレさんって……」
 と笑いかけた直後だった。
「ダメだから」
 陽太は低く呟いた。
「え?」
「確かにスミレはかっこいいけど、でも俺ら付き合ってるから」
「……?」
「コウちゃんは俺のだからっ」
 な、何を言ってるんだ。
 動揺する幸平に、陽太は畳み掛けるように迫る。
「もしかしてスミレのこと覚えてた?」
「えっ」
「コウちゃん前も、スミレのことかっこいいとか言ってたもんな。でも無理だから。俺は離す気なんてねぇし。あー、だから嫌だったんだスミレと会わすの」
「待って陽太くん」
 何のことを言っているのかわからない。確かに彼はカッコいい男性だったが、幸平が言いたかったのはそうではない。
「俺が言いたかったのは、俺……スミレさんって女の人だと思ってたってこと」
「はっ!?」
 陽太は顔を顰める。幸平は必死に言った。
「その……、スミレさんって人が陽太くんの好きな人なのかなって」
「……」
「ごめん。俺の勘違い」
「……俺が好きなのはコウちゃんだけだよ」
「うん」
「ずっとそうだった」
 まるで空気を抜かれた風船のように、陽太は静かになった。
 幸平の勘違いは陽太にとってかなりの想定外だったらしい。
 すっかり勢いを削がれて、もう一度繰り返す。
「コウちゃんだけだから。さっきも言ったけど、ずっとそう」
「……は、はい」
「あっ。あと、セフレ居ないから」
「え?」
 陽太は幸平の手を握り、部屋へと引き返した。半ば強引にあのクッションへ座らせてくる。幸平はおとなしくクッションに腰掛けた。
 陽太は目の前にあぐらをかき、至極真面目な顔をする。
「セフレとか一人もいないから」
「……そうなの?」
「うん。俺も何も言わなかったし、コウちゃんが噂信じるのは仕方ないし、ずっと勘違いさせててごめん。本当に……ごめん。知ってて欲しい。そういう関係があるのはコウちゃんだけ」
「そうだったんだ……」
 幸平は吐息混じりに呟く。
 これに関しては陽太に言われるまで、どう受け止めていいか分からなかったことだ。まだ昨日の今日で深く考えることもできず、陽太の言葉を待っていた節もある。
 陽太はしっかりと明らかにしてくれた。
 こうしてはっきり告げられると、胸がだんだんと熱くなってくるのが分かる。
 そっか……。
 俺だけだったのか。
 胸だけでない。目の奥にすら熱が溜まる。幸平は涙を堪えて、陽太へふにゃりと笑いかけた。
「ちょっと怖かった。だって陽太くん、カッコいいから」
「……ぐっ」
「ぐ?」
「続けて」
「えっと、陽太くんカッコよくて凄くモテてるし、俺にはよく分からないけど、そういう関係の人がいるのはモテる人にとって当たり前なのかなって思ってた。でもそうじゃなかったんだね。謝るのは俺だよ。勝手に勘違いしててごめんね」
「うん……」
 幸平は心から謝罪した。だが陽太はなぜか、嬉しそうにこちらを見つめ続けている。
 その目があまりにも甘すぎて、幸平は視線だけで心が溶かされていく。
 このままだとまた顔が赤く染まってしまう。誤魔化すように「さっき言いかけてたのって、お母さんのこと?」と聞くと、陽太はかすかに首を傾げた。
「さっき?」
「お母さんたちが来る前、陽太くん、昨日の朝の話をしようとしてたよね」
「あー、そう。コウちゃん、昨日の朝、俺ん家らへんきたんだろ? そん時、俺と女が相合傘してんの見たらしいじゃん」
「そう、かも」
 言って、幸平はすぐに首を振った。
「でもそれは大丈夫、俺の勘違いだった」
「ちゃんと分かってる? あれは……」
「分かる。お母さんだよね」
 何度考えても恥ずかしい。まさか陽太のお母さんだとは……。
 と、そこで(あれ?)と新たな疑問がパッと浮き出た。
 こうして実際に陽太のお母さんを目の当たりにしたことで生まれた矛盾だ。
 ならばその数日前……陽太の部屋へ訪れた朝、扉の前に立っていた女性は誰だ?
 幸平は陽太と会うために、夜勤のバイト帰りに陽太の部屋まで訪れた。しかしそこには女性が立っていて、彼女は『陽太の友達?』と幸平に笑顔を見せたのだ。
 あの女性もまた茶髪のショートカットだった。だから相合傘をしていた女性と同一人物だと思い込んでいた。
 だが、あの朝幸平に話しかけてきた女性と陽太のお母さんは別人だった。
 ……もしかして。
「……陽太くん」
「なに?」
 幸平はこっそりと唾を飲む。
 何でもない風を装って、問うた。
「芹澤さんってさ、どんな髪型してる?」
「芹澤?」
 陽太は眉根を寄せるも、素直に答える。
「茶髪で、髪は……短めかな」
「……」
「なんで?」
「な、何でもない」
 なるほど。あれは芹澤だったのだ。
 高校時代の同級生と言っても、幸平は芹澤という女子など全く覚えていない。だから気づけなかった。
 あの朝……、彼女は陽太の部屋の前で何をしていたのだろう。
 想像するだけでゾッとするが、これ以上芹澤の件で陽太を苦しめたくない。
 幸平は「少し気になっただけ」と微笑んだ。陽太は不思議そうにしたが、彼にはまだまだ幸平に訊ねたいことがあるようで、またしても疑問を投げてくる。
「それでコウちゃん、何でいきなり俺に会おうとしてくれたの?」
「あ……えっと……」
「……コウちゃんから待ち合わせ持ちかけてくれるのって珍しいだろ」
「確かに、そうかも」
「どうしていきなり?」
「うん。実は、告白しようと思ったんだ」
「……告白?」
 これに関しては今更怯む問いではない。恋人同士となった今だからこそ、簡単に打ち明けられる。
 陽太は瞬きもせずに、幸平を見つめていた。
 その驚いた顔が愛しくて、幸平はふんわりと笑いかける。
「陽太くんにもう一度告白したかったから、連絡したんだ」
「……そうだったんだ」
「そうだったんです。だから今言うね」
「は」
「陽太くん、好きです」
「……」
「……」
「……俺も好きです」
 陽太は一度唾を飲み込み、再度繰り返してくれた。
「すげぇ好きです」
「両思いだね」
「……あー、うん」
 陽太はあぐらをかいた膝に、肘をついて俯いた。また前髪で顔が隠れる。耳が赤くなっているのが分かった。
 再生は早い。パッと顔を上げた陽太は、少し潤んで瞳で幸平を射抜くように見つめてる。
「あのさ、手握っていい?」
「……うん」
 頷くと、陽太の少し冷たい手が幸平の手に触れる。ゆっくりと指が絡み合った。
 陽太は微笑みを浮かべる。滲み出たような淡い笑みだった。
 少し体を近づけてきた陽太が、甘えるように問いかけてくる。
「抱きしめていい?」
「はい」
 幸平はその腕にすっぽりとおさまる。
 彼の腕の中はドキドキして、でも吐息が漏れるほどに安心する。耳に、陽太の噛み締めるような声が触れた。
「俺、コウちゃんのこと大好きなんだ。伝わるか分かんないけど、伝わるよう頑張る」
「……陽太くん、キスしていい?」
 次に聞いたのは幸平だった。腕の中から陽太を見上げると、陽太は堪えるような顔で小さく頷いた。
 幸平はたまらない気持ちになって、陽太の唇に自分のそれを重ねる。
 大事に、大切に、キスをする。
 体を抱きしめてくる陽太の腕の力が強まった。陽太の匂いに纏われながら、角度を変えて、いくつもキスをする。
 次第にクッションをベッドの代わりにして、押し倒される形になっていく。雰囲気が甘く、とろけていくのを互いにわかっていたし、作っているのは自分たちだ。
 押し付けられる口付けに変わった。幸平は瞬く間に頭がぼんやりと熱くなって、必死に陽太を求める。
 するといきなり、陽太が唇を離した。
 体を離してあぐらをかくので、何だろうと幸平も上半身を起こす。
 陽太はやけに真面目な顔つきで言った。
「あのさコウちゃん、改めて言うんだけど……俺、最初の時、すげぇ下手だったよな」
「へ?」
「絶対痛かったと思う。ごめん」
 思わず変な声が出てしまう。だが陽太は気にせず、深刻に謝ってきた。
 ……確かに、初めての時は痛かった。でも今となっては分かる。
 初めてはそういうものなのだ。
「えっと……陽太君のせいじゃないよ。俺がさ、後ろ使うの初めてだったから」
「……あ、そうなんだ」
 俯きがちになっていた陽太が顔を上げた。その表情は少し読みにくい。安堵の表情にも見えたし、真顔のままにも見える。仮に前者だとして、何に安堵しているのか。
 幸平は深く考えずに続けた。
「そうだよ。だって俺、血出てたと思う。でもそういうもんらしいし」
「え? いや、出てないよ」
「あれ。でも服が汚れてて」
「あっ」
 陽太は思い出したように声をあげ、軽く首を振った。
「コウちゃんじゃない、それ俺だ」
「陽太君?」
 どう言うこと? 原理が不明なので幸平は首を捻る。陽太は言った。
「俺の鼻血」
「……鼻血!?」
「すげぇ興奮してたから……、あん時訳分かんなくなってた。俺だって誰かとセックスすんのなんか初めてだったし、しかもコウちゃん相手なんか、鼻血出るだろ。鼻血くらい出るって」
「はぁ、そっか……」
 そういうものか。
 そう言えば陽太は子供の頃から鼻血が出やすかったと思う。血管が切れやすいのだろうか……。
 鼻血くらい出るもの……。
 え?
「……初めて!?」
「うわっ、びびった」
 「コウちゃんそんな大声出るのか」思わず自分でも意外なほどの大声が飛び出る。陽太は本気で驚いたらしく、心臓の辺りに手を当てていた。
「初めて聞いた……」
「陽太君童貞だったんだ!?」
「え? あはは、うん、そう」
 何がおかしいのか、陽太は笑い出した。理由は笑いながら説明してくれる。
「コウちゃんの口から童貞ってワード出るの趣ある」
「本当に!?」
「まだ声でかいんだ。おもしろ」
「そ、し、知らなかった……」
 陽太は音を立てて笑う。それから、愛しそうに目を細めた。
「だってそうだろ。俺はずっとコウちゃんのこと好きだったんだから」
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