僕と背の高い彼女

三上夏一郎

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僕と背の高い彼女

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やけに背の高い東洋人の女だな、というのが第一印象だった。
彼女は空を見上げていた。
立ち姿がとても絵になっていた。
吸い寄せられるように近づき、気がついた時には声をかけていた。
「写真を撮らせてもらえませんか」
その時点では、彼女は韓国人や中国人である可能性もあったのだが、僕の口から出たのはなぜか日本語だった。
「え」
まさに、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で彼女がふり向いた。「あたし?」
それから声をかけられたのは誰か他の人ではないかという表情できょろきょろ周りを見回した。
むろん彼女の周りには誰もいなかった。
「あたしに声かけたんですか?」
「はい」
よかった日本人だったと僕は内心ほっと胸をなでおろした。
「どうして?」
「あまりにあなたが、今この場所で絵になっていたから」
素直な気持ちで僕は答えた。それがよかったのかもしれない。彼女の顔から警戒するような色が消えた。
「あたしをモデルに写真を撮りたい」
「はい。とても」
僕はふたたび正直に言った。人生の残り時間は少ないし、常々あれこれ策を弄している時間はもったいない。正直がいちばんである。だめなら仕方がない。
彼女は値踏みするようにしばらく僕の顔を眺めていたが、やがて「いいわよ」とあっさり答えた。
「ほんとに。ありがとう」
断られるかもしれないと思っていた僕はひどく嬉しかった。
「でもあたしはモデルさんのようにうまく立ち回ることはできないと思う。経験もないし」
彼女は僕の顔をまっすぐに見ながら言った。「それでよければ」
「わかりました。あなたはプロのモデルじゃない。それを心に刻みつけた上で撮ります」
と僕は答えた。
「心に刻みつける。大袈裟な人ね」
彼女は笑った。多少気持ちがほぐれたようだ。よかった。
「どうすればいいのかしら。言ってください」
「とりあえず気持ちを楽にして」
僕は首から下げていたキャノン5DマークⅡを持ち上げ、ファインダーをのぞいた。「まずはさっきのような感じで空を見上げて……そう、それでいい」
僕はオートドライブモードでバシャバシャとシャッターを切った。デジタルカメラになってからもっぱらこのやり方だ。失敗したピクチャーはどんどん捨てればいい。
「すこしこっちにも目線もらえる?」
僕の声にしたがって、彼女はカメラを見た。僕はどきっとした。彼女の瞳が、あまりに無垢な感じがしたからだ。
「いいね。とてもいい」
ア・コルーニャという町の中央広場での出会いだった。
スペインの北西部、ガリシアの州都。前面がすべて白く塗られた出窓で覆われた中世の建物がずらりと並ぶ光景は壮観で、「シウダー・クリスタル」、クリスタルの町と呼ばれる美しい町である。
その後いくつかポーズを注文してシャッターを切り、「OK」と僕は彼女に言った。
「よかったらお礼になにか飲み物をおごらせてください」
「いいけど」
彼女は腰に手を置きちょっと探るように僕の顔を見た。「ねえ、これってなんか、新手のナンパの手口じゃない」
「滅相もない」
そんな会話をした後、僕たちは広場を見渡せるカフェに向かった。オープンテラスのテーブルに陣取る。
「ぼくはビールにします。あなたは」
「あたしもビールにする」
彼女は迷うことなく答えた。そして質問した。「カメラマンなんですか」
「ええ。こう見えてもいちおう」
僕はカメラマンベストの胸ポケットを探り名刺を取り出すと彼女に手渡した。
「ミサワクニオといいます。フリーのカメラマンやってます」
「オカムラナギサです」
女が僕の名刺を片手にお辞儀した。「プータローです。よって名刺はなし」
「まあフリーのカメラマンだって、同じようなものです」
「フリーのカメラマンって……そこそこ売れてるんですか」
僕の名刺をしげしげと眺めながらナギサが言った。
「はっきりいって、ぜんぜん売れてない」僕は頭をかいた。「でもそこそこ食えている。なぜかな」
「こうして海外に取材にも出ているわけだし。どうして」
「どんな仕事も断らないで引き受けているからだと思う。つまらない仕事や、汚い仕事もね」
「汚い仕事って、たとえば?」
「うーん」
僕はしばし考えた。思い出したくない汚い仕事はたくさんこなしてきた。「今ここではあんまり思い出したくないような」
「エッチなやつ、とか」
僕の気持ちを見透かしたようにナギサが言った。
「まあ、そういう仕事もしました」
頭をかいて、僕は答えた。
「その他には。ダーティな仕事としては」
「最近いちばんいやだったのは、電力会社の仕事だな」
「原発?」
「よくわかるね」
「だって今思い出したくないような電力会社の仕事といったらそういうことになるんじゃない?」
「たしかに」
「そんなに嫌だった?」
「なんというか、引き受けた自分がいちばん嫌だったな」
「うん。わかるかも」
「あなたは?どういう人なの?」
「だから、プータローだってば」
「でも生まれた時からプータローじゃないでしょう」
「まあそうだけど」
「ひょっとして、ギョーカイの人?」
「どうだろう。ちょっと近いかな」
「元ギョーカイ人?」
「当たり。ある番組のプロデューサーやってた」
ナギサは名前を出せば誰でも知っている東京のテレビ局でゴールデンタイムに流れている担当番組のタイトルを僕に告げた。
「えーあの番組のプロデューサーだったんですか。そりゃもったいない」
「みんなそういうのよねえ」
ほんとにつまらなさそうにナギサが言った。
「どうしてまたそんな職を抛って?」
「それはそうと、注文しましょうよ」
ナギサはその理由を話したくはなさそうだった。僕は店の中にいたウェイターを呼びつけて注文した。
「セルベッサ、ドス」
「シー、セニョール」
ウェイターは僕に軽く頭を下げると、伝票に注文の品を書き込んだ。
「すごーい、スペイン語できるんだ」
感心したようにナギサが言った。
「ビールとワインの注文だけですよ。セルベッサはビール、ビーニョ・ブランコ、白ワイン、ビーニョ・ティント、赤ワイン。それだけ」
「なーんだ。それだけか」
その言葉ははうけたようで、ナギサは手を叩いて笑った。
陽気な女のようである。

ビールが運ばれてきて、僕たちは乾杯した。
「もうカメラマンになって何年?」
「そうだね」
僕は指を折って自分のカメラマン歴を数えてみた。「もうじき二十年になるかな」
「へーえ、それは立派。やっぱ、よさそうなレンズ使ってるし」
ナギサは僕のカメラのレンズを指さして言った。
「キャノンISM24ミリF1.2」
僕はレンズの型番を口にした。
「高そうね」
「高いよ、とても。びっくりするほどの値段。カメラの本体より高いぐらい」
このレンズは、僕がヨーロッパでの撮影のためにわざわざ仕入れたものだった。レンズのF値が小さければ小さいほど、光をとりこむ「明るいレンズ」ということになる。明るいレンズを使っていれば、照明をあまりたかなくて済むし、日が暮れてからもぎりぎりまで撮影を続けることができるのだ。
「ふーん」
ナギサはレンズに顔を近づけ、しげしげと見やった。「まだ、新しいみたい」
「そう。今日がデビュー戦。何を最初に撮ろうかと考えていたところだった。そこにあなたが現れた」
「まあ。光栄。じゃあ、あたしがこのレンズの被写体第一号ってことになるわけ?」
ナギサはとても嬉しそうに笑った。反応が素直で、しかもオーバーではない。とてもいい感じだ。
「今回のスペインはやはり仕事で?」
「そう。ある窓のメーカーのPRの仕事でね。ヨーロッパの変わった窓、特徴のある窓をしばらく撮影して回っているんだ」
「ひとりで?」
「そうだよ。予算削減のため、ってことで」
「期間はどれぐらい?」
「予定では約一ヶ月」
「そうなんだ。たいへんね」
ちっともたいへんではなさそうにナギサが言う。
ビールを二杯飲んだ後はワインにした。ガリシアの白ワインはおいしいと聞いていた。するとその後は、すっかり仕事を続ける気を失ってしまった。ナギサに宿を聞くと、同じホテルだった。
僕はこの出会いに何か運命的なものを感じた。
「じゃあ、ホテルまで一緒にタクシーで帰りますか」
「いいですとも」
ナギサは立ち上がると僕の名刺をなんと、胸の谷間に挟むようにしまった。彼女が着ているのはノースリーブの、胸元が深くえぐれた空色のワンピースだった。豊かな胸だった。たわわに実った、という感じで。

その夜、ナギサは僕の部屋に忍んできた。
チャイムが鳴ったのは、午前一時頃のことだった。僕はトランクス一丁といういでたちでビールを飲んでいた。アルコールでぼんやりとかすんだ頭でドアを開けると、ナギサが立っていたのである。履き慣れた感じのジーンズにTシャツ、ビーサンといういでたちだ。それもまた長身の彼女にはよく似合っていた。
「眠れなくて」
ナギサは言った。それから潤んだ目で僕の顔を見つめると、無言のまま抱きついてきた。
僕とナギサは抱き合ったまま部屋の中になだれこんだ。ドアが閉まった。オートロックだからもう誰も入って来れない筈だ。
ナギサは勢いで僕をベッドの上に押し倒し、そのまま上になった。
「こういう展開は嫌?」
「まさか」
「そ。よかった」
ナギサは僕の頭を両手でつかんで激しくキスをした。
ベッドの上で転がり僕はナギサの上になった。Tシャツを脱がせ、ジーンズのジッパーに手をかけた。
ナギサは自分からジーンズを脱ぐと床の上に投げ捨てた。ノーブラで、形の良いツンと上に尖った胸が露わになった。あと身につけているものといえば小さな白いショーツだけだ。
ナギサは純白のショーツ一枚で僕の上に跨がった。昼にはその谷間だけを目撃し、それでも衝撃を受けた豊かな両の乳房がたわわに揺れた。薄暗い部屋の中で、その長身は神々しいほど凛々しくみえた。
僕はナギサのショーツに手をかけた。ナギサはまったく抵抗しなかった。それどころかショーツを脱がせようとする僕に協力するように体を動かした。
右足、左足と順々にショーツを足から抜いてく。薄く柔らかな感じのする陰毛が現れた。僕は脱がせたショーツをナギサの背中の方に放り投げた。するとナギサが僕のトランクスに手をかけた。
「いいわよね」
ナギサが言った。
「もちろんです」
仰向けになったまま、僕はうなずいた。
そして僕たちは激しく交わった。避妊もしなかった。それはそれでいいような気がしていた。
一度めの交合が終わった。ナギサは自分の部屋に戻ろうとはしなかった。僕たちはその後も裸のまま、ベッドのシーツにくるまっていた。
「あたしも一度だけ、原発の仕事を引き受けてしまったことがあって」
暗がりの中でナギサが言った。「そのことでどうしても自分を許せなかった」
僕はどう答えていいかわからなかった。確かに自分も原発の安全推進キャンペーンの仕事を手がけたことがある。それ以来、喉の奥に魚の小骨が引っかかったような感じがとれないのだ。
そして福島の事故である。自分に何パーセントかの非があるような気がしてならない。
「どんな仕事だった」
「ある町で原発建設の是非を問う住民投票があって。あたしたちはもちろん推進派。広告代理店とテレビ局と国が組んだとても汚いキャンペーンだった。あなたは?」
「芸能人が原発を訪ねて原発は安全です、とアピールする週刊誌用のカラー広告。ひどいもんだ」
「どう? 安全な感じがした?」
「ぜんぜん。まったく。あのシステムがおそろしく危険だということだけは確実に感じた。いんちきだ」
「そうよね」
しばらくナギサは暗闇の中に視線を泳がせていた。「私が引き受けたそのキャンペーンに関わった人間は、みんな不幸になった。報いかなあ」
「たとえば」
「映画俳優と大学教授と元プロ野球選手と人気司会者を起用したのね」
「うん」
「まず映画俳優がその三年後に自殺。自宅のマンションで首をくくった」
「それから?」
「大学教授は難病に。不治の病にかかって、今死にかけてる」
「それから」
「人気司会者のマネージャーをやってた彼の娘さんがガンにかかって死んだ。彼もその後やはりガンで死んだわ」
「プロ野球選手は」
「まだその人だけはぴんぴんしてるみたい」
「それはただの偶然だろ」
「そう思いたいけど……怖いわ。私にもまだその報いが訪れてないだけに」
「報いなんてないさ。ただの偶然だよ。忘れた方がいい」
僕はナギサの肩に手をかけて引き寄せた。ナギサは僕の胸の上に頭を乗せてきた。そして僕の胸に口づけをした。
それから朝まで僕たちは二度交わった。
朝目覚めてからもう一度。
そして別れた。朝の光の中で、ナギサは床に散らばっていた自分の衣服拾い上げ、素早くまとうと無言のまま部屋を出て行った。
昼頃になって撮影に出る時フロントに寄ってみると既に彼女はチェックアウトした後だった。
それ以来ナギサとは会っていない。
僕は彼女が原発推進に与した報いなど受けていないことを願っている。

《おしまい》




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