4 / 7
第4章 レア
しおりを挟む
高月 礼亜 (たかつき れあ)
上総 脩一 (かずさ しゅういち)
* * * *
頭痛、吐き気、だるさ―――世にもサイアクな気分。
二人の“異邦人”との邂逅のあと、礼亜は家に入った途端、顔は真っ青、体はフラフラになり───具合の悪さをぶり返してしまった。
よくなったと思ったのは、どうやらあの二人と会っていたわずかな時間だけだったらしい。
それを早速、母親に見咎められ、結果、外出禁止を言い渡された。……試験期間中であるにも関わらず。
「え、じゃ残りのテスト、どーなるんだろう?」と思わず不安になった礼亜だが、幸い終業式直前に追試を受けられることになった。
母親が学校にどう頼み込んだのかは知らない。
ただ、大げさだと思いつつも、再び母親に心配をかけてしまったことはよくないことだと、心から反省した礼亜だった。
一週間後。
期末試験は終わり、答案返しも終わり、全校清掃やホームルームだけの終業式直前の登校日。
部活のない生徒は午前中に下校した。
礼亜は朝から一人、教務室の隣の会議室で、入れ替わり立ち替わりの教師たちの監督の元、すっ飛ばしてしまった教科の試験を受け……―――全部が終了したのは、午後の最初のチャイムが鳴った頃だった。
「礼亜っ、れーあ!」
会議室のある化学棟二階を見上げる位置の、クラブハウス前の地上から礼亜に呼びかけたのはテニス部に所属している友人、由美子だった。
「あのねーっ、知ってるーっ?」
長袖の上着は白色、ズボンは紺色がメインで、それぞれ側面にラインが入った体操服姿の由美子は、二階の廊下の窓から顔を出した礼亜に盛大に両手を振った。
「なにーっ?」
「おとといねっ、上総先生辞めちゃったのーっ」
「えっ……!」
「知ってたーっ?」
「なっ……どうしてっ……?」
「えっ、なぁにーっ?」
「なんで辞めたの!?」
「それが分かんないのっ! もともと臨時講師で産休講師じゃなかったっていうけどよく分かんないわよねーっ。みんなもう大ショックで、放課後先生んトコ行ったんだけど……」
「会えたの?」
「ちょっとだけぇっ。でも全然話なんかできなかったよ。それより藤崎センセが口滑らさなかったらあたしたち、ジゴショーダクよ、ヒドイ思わない!?」
「由美ちゃんっ、サボってる!」
「あっ、先輩!―――礼亜ごめーん!」
由美子がテニスコートに向かって駆け出していくのを、礼亜は呆然と見送った。
…辞めた? 先生が───あの人が!?…
突然入ってきた情報に頭がついていけない。
「!───」
礼亜はやみくもに、ひんやりと冷たい廊下を駆け出した。
行く当てもなく、そんなことをしても、もう先生に会えないという状況は変わらない。
分かっていても、突然胸を占めた焦燥感はどうにもならず───。
…先生───先生! どうしたら―――!…
角を曲がると、スチール製のシューズボックスが立ち並ぶ生徒玄関に出る。
急いで外履きの靴に履き代えて、まだ明るい、冬の午後の外に飛び出した。
下方にチラリと化学棟の表玄関が目に入り、再び建物の中へ戻って誰か先生に上総先生の連絡先を聞こうかとも思ったが……───きっと教えてはくれないだろう。
…本当に───会えない!?…
礼亜の気持ちは一瞬、黒一色に塗りつぶされた。
これはダメだ。
この絶望には勝てない。
今までどんなに頑張ってきても……。
ダメだ!
負けてはダメ。
考える……考えろ!
あの人に会いたいなら───。
礼亜は地上へと降りるコンクリートのスロープを駆け下りた。
───唐突に一つのビジョンが頭を占める。
ここで会ったのだ。
あの、最初の日。
声をかけられた。
あの日―――あのとき!
そこには先生がいる。
不意に校門が視界に入った。
誰かそこにいる。
「レア? レア!! やめろぉ―――っ!」
あの時の青い髪の少年が、必死に礼亜に向かって駆け寄ろうとするが、間に合わない。
消えかかる彼女を止めるには。
目の前がチカチカッとした。
「ああっ───!」
途端、襲われる吐き気。最近、お馴染みの……。
耐え切れずうずくまろうとして―――地面がない!
「きゃあぁぁ―――ッ!」
世界が白く回り出す―――一瞬、そう刹那。
回り切ったあと、彼女はドサッという自分の落ちる音を聞いた。
お尻が痛い。
「っ……!」
「レアっ!?」
「先生?」
……あれは、いきなり気候が夏から秋に切り替わった九月の半ば。
いつの間にか冷たさが忍び寄ってきたと、とみに実感した日。
シルバーフレームのメガネ。
グレイのスーツ。
あの時のまま。
あの時の、先生のまま……。
───なのにレアと呼んだ。
……いいや、あの時―――あの初めて会った時の先生のわけがない。
時間を遡るなんてできるわけがない。
だからこれは……。
先生が駆け寄ってくる。
化学棟の表玄関から、自分が尻餅をついているこのコンクリートの地面まで。
見る……見て───最後まで。
あの人がここに来てくれるまで……。
私の目よ、意識よ……。
―――限界だった。
* * * *
「―――デュアが今度、フィアンセをフローレに会わせるってさー」
「おおーっ、大胆! フィアンセとあのウワサの恋人をか? ヤツも案外、人が悪いな」
……『誰が、いつ、どこで』―――なんて驚くほど問題ではない。
悪気のない、遠慮のない言葉は刃となって人の心を傷つける―――私の心を。
「───よせよ。そりゃフローレは絶世の美人ってウワサだけど。でもデュアとは古い友人っていうじゃないか。変に勘ぐるのは……」
「―――ディー! ディー!!」
…ああ、これは───…
「ディーってばっ!!」
「っせーなっ! なんだよっ」
「フローレってそんな美人なの? デュアとどんな噂が立ってるか知ってる?」
「ああ、知ってる」
「じゃ―――」
「……でもまあ……」
「なによ?」
「案外―――ウワサでもなかったりして」
「ディー!!」
* * * *
「―――なるほど。そういうことか」
唐突に。
「ヤなヤツだなぁ。ちゃんと言ったろ」
異質な声たちが聞こえた。
…───もういいのに。……? でもこの異質さは───…
「レア、目ェ開けろってば!」
現実?
どの……?
…なんてもう……今更───…
半ばヤケで目を開けた彼女の視界に入ってきたのは、試験期間中、家の前の公園で声をかけてきた、世にも珍しい───髪と瞳とその他容姿の二人組だった。
…あれは幻? 先生が見えたと思ったのに―――…
「……あなたは……」
あの時と変わらぬ迫力の美貌―――ハニーブロンド、あの時より幾分深みがかったエメラルドグリーンの瞳、抜けるような白い肌の───“古きヨーロッパ映画の美人女優”が膝をついて彼女を覗き込んでいた。
その後ろに少年がいる。
「ああ……」
まるで彼女の気持ちの何もかもを察している、とばかりに麗人は淡く微笑んだ。
それはとても綺麗な───胸に染みいるような笑みだったが、彼女にはもう感動する気力さえ残っていなかった。
「とりあえず、“おかえり”」
向けられた声はその容姿からくる印象より少しだけ低い感じがした。
最初に会ったときは、そんなことさえ思う余裕はなかったが。
「え………」
「一応ね。でもまだきみは“礼亜”だから。いきなりやめてはいけない」
「───」
「物質に縛られている分、あちらの世界の方が硬くて脆いから。きみがいきなり“彼女”から抜け出すと、記憶だけでなく、彼女の体───物質の方まで傷つきかねない。───縁あって彼女のピンチヒッターを務めたんだし、スマートに別れて帰っておいで」
「おいっ、そんな言い方───余計混乱するって」
と少年が、
「か、帰るって、どこに!?」
と少女が───同時に言った。
「……もちろん……」
麗人は優しく微笑んだ。
「きみが帰るところは、いつだってアイツのところだよ」
「!」
目を奪われるしかない……―――美しく謎めいた微笑。
「ケッ、キザ―――」
声を失くしてしまった彼女に代わって、吐き出すように───とはいえそれは幾分芝居がかっていたが───声を上げた少年の名は確か……。
「ディー」
そちらを顔を向けた───そんな僅かな仕草すら優雅すぎる───麗人は、打って変わった冷たい口調で素っ気なく言った。
「おまえが道案内してあげるんだね」
「!───ってるよ!」
言わずもがなのことを指図された───とばかりに悔しそうにクシャッと顔を歪ませた少年は一層乱暴な口調で言い放つと、立ち上がった麗人と位置を変え、彼女に向かって手を差し出した。
「来いよ」
―――そのぶっきらぼうな言い方。
彼女はためらった。
少年の背後では麗人がやれやれといった表情を(わざとらしくも)作っていたが、幸い相手は気づかなかったようだ。
「ほらっ」
ディーはじれったげに差し伸べた手をブンブンと振り回した。
「………」
それへ、彼女がおっかなびっくり自分の手を伸ばした―――のは、なぜなのか───我ながらよく分からなかった。
「行くぞっ」
「えっ、ちょっ―――」
グイッと乱暴に引かれて立ち上がった彼女は慌てて足を動かし、歩き始めた。
一体どこへ?
そもそもここはどこなのか……。
まるで映画のセットみたいにスモークのたちこめた(ように見える)、一面何もないオフホワイトの世界。
天国? 地獄?……そんな名称すらない、架空の夢の世界?
元々どこにいるのか知らないとはいえ、彼女はすぐに自分がどこをどう歩いたのか分からなくなり―――背後に残ったはずの人影はとっくに見えなくなっていた。
「こっちだ」
歩いているのか走っているのか……あるいは飛んでいるのか……すら分からない。見えない風の流れに吸い込まれるよう移動していく(のだけはなんとなく感じられた)。
不思議な感覚の中、
「なぁー……ほんっとーに! 思い出せねーのか?」
不意にディーが振り返って、彼女の顔を覗き込んだ。
なにを?とは言わずに思い切って、
「うん」
と大きく頷いてみる。
「……ふうん……。飛び越えた時のショックかな? それともあっちの子に吸い込まれた時のショック? アニティスなんてないって言ってくせに……―――無茶するからだ」
「無茶って……」
彼女は少年の、心配しているのか小馬鹿にしているのか分かりにくい口調とつけ加えられた言葉につい反発した。
「そんなこと言われる覚えないんだけど」
一瞬、ディーはびっくりしたように彼女を振り返ったが、すぐにニヤッと笑い、鼻をフンと鳴らした。
「なに?」
「―――ホッとした」
言いながら、彼はまた顔を前方に向けた。二人はその間も手をつないでいた。
別に神経質な方ではないけれど───彼と手をつなぐのはイヤじゃない、と思える自分が彼女は不思議だった。
「今回のことは……俺も……その、悪いから」
「は?」
聞き返して、しかし唐突に彼女は相手がどうやら謝っているらしいと気がついた。
何を謝っているのか分からないし、そもそもそんな言い方、とても謝罪しているとは思えないのだが……。
「―――ここだ」
「えっ!?」
不意に足を止めたディーに慌てて彼女は辺りを見回した―――が、周囲は相変わらず白一色で、何か変化があったようには見えない。
そもそも、多分ある程度の距離は移動したかも……と思えるにしても、相変わらず上下左右どこもかしこも真っ白な、訳の分からない世界のままだったから……。
「じゃあ───またあとでな」
と言うと、ディーはいきなり彼女を突き飛ばした。
「!!!───」
『コノヤロー!』という怒りと、『体が仰向けに倒れる』という恐れが一瞬、激しく交差する───。
しかし、彼女の体が白い地面に叩きつけられることはなかった。
上総 脩一 (かずさ しゅういち)
* * * *
頭痛、吐き気、だるさ―――世にもサイアクな気分。
二人の“異邦人”との邂逅のあと、礼亜は家に入った途端、顔は真っ青、体はフラフラになり───具合の悪さをぶり返してしまった。
よくなったと思ったのは、どうやらあの二人と会っていたわずかな時間だけだったらしい。
それを早速、母親に見咎められ、結果、外出禁止を言い渡された。……試験期間中であるにも関わらず。
「え、じゃ残りのテスト、どーなるんだろう?」と思わず不安になった礼亜だが、幸い終業式直前に追試を受けられることになった。
母親が学校にどう頼み込んだのかは知らない。
ただ、大げさだと思いつつも、再び母親に心配をかけてしまったことはよくないことだと、心から反省した礼亜だった。
一週間後。
期末試験は終わり、答案返しも終わり、全校清掃やホームルームだけの終業式直前の登校日。
部活のない生徒は午前中に下校した。
礼亜は朝から一人、教務室の隣の会議室で、入れ替わり立ち替わりの教師たちの監督の元、すっ飛ばしてしまった教科の試験を受け……―――全部が終了したのは、午後の最初のチャイムが鳴った頃だった。
「礼亜っ、れーあ!」
会議室のある化学棟二階を見上げる位置の、クラブハウス前の地上から礼亜に呼びかけたのはテニス部に所属している友人、由美子だった。
「あのねーっ、知ってるーっ?」
長袖の上着は白色、ズボンは紺色がメインで、それぞれ側面にラインが入った体操服姿の由美子は、二階の廊下の窓から顔を出した礼亜に盛大に両手を振った。
「なにーっ?」
「おとといねっ、上総先生辞めちゃったのーっ」
「えっ……!」
「知ってたーっ?」
「なっ……どうしてっ……?」
「えっ、なぁにーっ?」
「なんで辞めたの!?」
「それが分かんないのっ! もともと臨時講師で産休講師じゃなかったっていうけどよく分かんないわよねーっ。みんなもう大ショックで、放課後先生んトコ行ったんだけど……」
「会えたの?」
「ちょっとだけぇっ。でも全然話なんかできなかったよ。それより藤崎センセが口滑らさなかったらあたしたち、ジゴショーダクよ、ヒドイ思わない!?」
「由美ちゃんっ、サボってる!」
「あっ、先輩!―――礼亜ごめーん!」
由美子がテニスコートに向かって駆け出していくのを、礼亜は呆然と見送った。
…辞めた? 先生が───あの人が!?…
突然入ってきた情報に頭がついていけない。
「!───」
礼亜はやみくもに、ひんやりと冷たい廊下を駆け出した。
行く当てもなく、そんなことをしても、もう先生に会えないという状況は変わらない。
分かっていても、突然胸を占めた焦燥感はどうにもならず───。
…先生───先生! どうしたら―――!…
角を曲がると、スチール製のシューズボックスが立ち並ぶ生徒玄関に出る。
急いで外履きの靴に履き代えて、まだ明るい、冬の午後の外に飛び出した。
下方にチラリと化学棟の表玄関が目に入り、再び建物の中へ戻って誰か先生に上総先生の連絡先を聞こうかとも思ったが……───きっと教えてはくれないだろう。
…本当に───会えない!?…
礼亜の気持ちは一瞬、黒一色に塗りつぶされた。
これはダメだ。
この絶望には勝てない。
今までどんなに頑張ってきても……。
ダメだ!
負けてはダメ。
考える……考えろ!
あの人に会いたいなら───。
礼亜は地上へと降りるコンクリートのスロープを駆け下りた。
───唐突に一つのビジョンが頭を占める。
ここで会ったのだ。
あの、最初の日。
声をかけられた。
あの日―――あのとき!
そこには先生がいる。
不意に校門が視界に入った。
誰かそこにいる。
「レア? レア!! やめろぉ―――っ!」
あの時の青い髪の少年が、必死に礼亜に向かって駆け寄ろうとするが、間に合わない。
消えかかる彼女を止めるには。
目の前がチカチカッとした。
「ああっ───!」
途端、襲われる吐き気。最近、お馴染みの……。
耐え切れずうずくまろうとして―――地面がない!
「きゃあぁぁ―――ッ!」
世界が白く回り出す―――一瞬、そう刹那。
回り切ったあと、彼女はドサッという自分の落ちる音を聞いた。
お尻が痛い。
「っ……!」
「レアっ!?」
「先生?」
……あれは、いきなり気候が夏から秋に切り替わった九月の半ば。
いつの間にか冷たさが忍び寄ってきたと、とみに実感した日。
シルバーフレームのメガネ。
グレイのスーツ。
あの時のまま。
あの時の、先生のまま……。
───なのにレアと呼んだ。
……いいや、あの時―――あの初めて会った時の先生のわけがない。
時間を遡るなんてできるわけがない。
だからこれは……。
先生が駆け寄ってくる。
化学棟の表玄関から、自分が尻餅をついているこのコンクリートの地面まで。
見る……見て───最後まで。
あの人がここに来てくれるまで……。
私の目よ、意識よ……。
―――限界だった。
* * * *
「―――デュアが今度、フィアンセをフローレに会わせるってさー」
「おおーっ、大胆! フィアンセとあのウワサの恋人をか? ヤツも案外、人が悪いな」
……『誰が、いつ、どこで』―――なんて驚くほど問題ではない。
悪気のない、遠慮のない言葉は刃となって人の心を傷つける―――私の心を。
「───よせよ。そりゃフローレは絶世の美人ってウワサだけど。でもデュアとは古い友人っていうじゃないか。変に勘ぐるのは……」
「―――ディー! ディー!!」
…ああ、これは───…
「ディーってばっ!!」
「っせーなっ! なんだよっ」
「フローレってそんな美人なの? デュアとどんな噂が立ってるか知ってる?」
「ああ、知ってる」
「じゃ―――」
「……でもまあ……」
「なによ?」
「案外―――ウワサでもなかったりして」
「ディー!!」
* * * *
「―――なるほど。そういうことか」
唐突に。
「ヤなヤツだなぁ。ちゃんと言ったろ」
異質な声たちが聞こえた。
…───もういいのに。……? でもこの異質さは───…
「レア、目ェ開けろってば!」
現実?
どの……?
…なんてもう……今更───…
半ばヤケで目を開けた彼女の視界に入ってきたのは、試験期間中、家の前の公園で声をかけてきた、世にも珍しい───髪と瞳とその他容姿の二人組だった。
…あれは幻? 先生が見えたと思ったのに―――…
「……あなたは……」
あの時と変わらぬ迫力の美貌―――ハニーブロンド、あの時より幾分深みがかったエメラルドグリーンの瞳、抜けるような白い肌の───“古きヨーロッパ映画の美人女優”が膝をついて彼女を覗き込んでいた。
その後ろに少年がいる。
「ああ……」
まるで彼女の気持ちの何もかもを察している、とばかりに麗人は淡く微笑んだ。
それはとても綺麗な───胸に染みいるような笑みだったが、彼女にはもう感動する気力さえ残っていなかった。
「とりあえず、“おかえり”」
向けられた声はその容姿からくる印象より少しだけ低い感じがした。
最初に会ったときは、そんなことさえ思う余裕はなかったが。
「え………」
「一応ね。でもまだきみは“礼亜”だから。いきなりやめてはいけない」
「───」
「物質に縛られている分、あちらの世界の方が硬くて脆いから。きみがいきなり“彼女”から抜け出すと、記憶だけでなく、彼女の体───物質の方まで傷つきかねない。───縁あって彼女のピンチヒッターを務めたんだし、スマートに別れて帰っておいで」
「おいっ、そんな言い方───余計混乱するって」
と少年が、
「か、帰るって、どこに!?」
と少女が───同時に言った。
「……もちろん……」
麗人は優しく微笑んだ。
「きみが帰るところは、いつだってアイツのところだよ」
「!」
目を奪われるしかない……―――美しく謎めいた微笑。
「ケッ、キザ―――」
声を失くしてしまった彼女に代わって、吐き出すように───とはいえそれは幾分芝居がかっていたが───声を上げた少年の名は確か……。
「ディー」
そちらを顔を向けた───そんな僅かな仕草すら優雅すぎる───麗人は、打って変わった冷たい口調で素っ気なく言った。
「おまえが道案内してあげるんだね」
「!───ってるよ!」
言わずもがなのことを指図された───とばかりに悔しそうにクシャッと顔を歪ませた少年は一層乱暴な口調で言い放つと、立ち上がった麗人と位置を変え、彼女に向かって手を差し出した。
「来いよ」
―――そのぶっきらぼうな言い方。
彼女はためらった。
少年の背後では麗人がやれやれといった表情を(わざとらしくも)作っていたが、幸い相手は気づかなかったようだ。
「ほらっ」
ディーはじれったげに差し伸べた手をブンブンと振り回した。
「………」
それへ、彼女がおっかなびっくり自分の手を伸ばした―――のは、なぜなのか───我ながらよく分からなかった。
「行くぞっ」
「えっ、ちょっ―――」
グイッと乱暴に引かれて立ち上がった彼女は慌てて足を動かし、歩き始めた。
一体どこへ?
そもそもここはどこなのか……。
まるで映画のセットみたいにスモークのたちこめた(ように見える)、一面何もないオフホワイトの世界。
天国? 地獄?……そんな名称すらない、架空の夢の世界?
元々どこにいるのか知らないとはいえ、彼女はすぐに自分がどこをどう歩いたのか分からなくなり―――背後に残ったはずの人影はとっくに見えなくなっていた。
「こっちだ」
歩いているのか走っているのか……あるいは飛んでいるのか……すら分からない。見えない風の流れに吸い込まれるよう移動していく(のだけはなんとなく感じられた)。
不思議な感覚の中、
「なぁー……ほんっとーに! 思い出せねーのか?」
不意にディーが振り返って、彼女の顔を覗き込んだ。
なにを?とは言わずに思い切って、
「うん」
と大きく頷いてみる。
「……ふうん……。飛び越えた時のショックかな? それともあっちの子に吸い込まれた時のショック? アニティスなんてないって言ってくせに……―――無茶するからだ」
「無茶って……」
彼女は少年の、心配しているのか小馬鹿にしているのか分かりにくい口調とつけ加えられた言葉につい反発した。
「そんなこと言われる覚えないんだけど」
一瞬、ディーはびっくりしたように彼女を振り返ったが、すぐにニヤッと笑い、鼻をフンと鳴らした。
「なに?」
「―――ホッとした」
言いながら、彼はまた顔を前方に向けた。二人はその間も手をつないでいた。
別に神経質な方ではないけれど───彼と手をつなぐのはイヤじゃない、と思える自分が彼女は不思議だった。
「今回のことは……俺も……その、悪いから」
「は?」
聞き返して、しかし唐突に彼女は相手がどうやら謝っているらしいと気がついた。
何を謝っているのか分からないし、そもそもそんな言い方、とても謝罪しているとは思えないのだが……。
「―――ここだ」
「えっ!?」
不意に足を止めたディーに慌てて彼女は辺りを見回した―――が、周囲は相変わらず白一色で、何か変化があったようには見えない。
そもそも、多分ある程度の距離は移動したかも……と思えるにしても、相変わらず上下左右どこもかしこも真っ白な、訳の分からない世界のままだったから……。
「じゃあ───またあとでな」
と言うと、ディーはいきなり彼女を突き飛ばした。
「!!!───」
『コノヤロー!』という怒りと、『体が仰向けに倒れる』という恐れが一瞬、激しく交差する───。
しかし、彼女の体が白い地面に叩きつけられることはなかった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました
しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。
自分のことも誰のことも覚えていない。
王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。
聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。
なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

最後の思い出に、魅了魔法をかけました
ツルカ
恋愛
幼い時からの婚約者が、聖女と婚約を結びなおすことが内定してしまった。
愛も恋もなく政略的な結びつきしかない婚約だったけれど、婚約解消の手続きの前、ほんの短い時間に、クレアは拙い恋心を叶えたいと願ってしまう。
氷の王子と呼ばれる彼から、一度でいいから、燃えるような眼差しで見つめられてみたいと。
「魅了魔法をかけました」
「……は?」
「十分ほどで解けます」
「短すぎるだろう」

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
あなたの側にいられたら、それだけで
椎名さえら
恋愛
目を覚ましたとき、すべての記憶が失われていた。
私の名前は、どうやらアデルと言うらしい。
傍らにいた男性はエリオットと名乗り、甲斐甲斐しく面倒をみてくれる。
彼は一体誰?
そして私は……?
アデルの記憶が戻るとき、すべての真実がわかる。
_____________________________
私らしい作品になっているかと思います。
ご都合主義ですが、雰囲気を楽しんでいただければ嬉しいです。
※私の商業2周年記念にネップリで配布した短編小説になります
※表紙イラストは 由乃嶋 眞亊先生に有償依頼いたしました(投稿の許可を得ています)

聖女は聞いてしまった
夕景あき
ファンタジー
「道具に心は不要だ」
父である国王に、そう言われて育った聖女。
彼女の周囲には、彼女を心を持つ人間として扱う人は、ほとんどいなくなっていた。
聖女自身も、自分の心の動きを無視して、聖女という治癒道具になりきり何も考えず、言われた事をただやり、ただ生きているだけの日々を過ごしていた。
そんな日々が10年過ぎた後、勇者と賢者と魔法使いと共に聖女は魔王討伐の旅に出ることになる。
旅の中で心をとり戻し、勇者に恋をする聖女。
しかし、勇者の本音を聞いてしまった聖女は絶望するのだった·····。
ネガティブ思考系聖女の恋愛ストーリー!
※ハッピーエンドなので、安心してお読みください!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる