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第5章(最終章) 緑の瞳の少女
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「ファラ・リュード! ファラ・リュード!」
ここほどこんな大声が似つかわぬところもない、と思いつつリーンは声を張り上げた。
―――神殿。
「なぜです? なぜお姿をお現しにならないのです? チェルトゥーンからの提議に対してどうしてなにもおっしゃらないのです!?」
リーンは今日こそ全部を言い切ってしまうつもりで斎場の中央に立った。
祭壇に人影がないのはもとより分かっている。
「流行り病の時も洪水もなぜ民を無視しておいでです? なにを考えておられるのですか? おっしゃって下さらねばなにも分かりません!」
口を噤んでも返ってくるのは静寂だけ。
それでもリーンは辛抱強く待った。
しかし―――いつまでたっても答えはない。
「………そんなにわたくしが目障りですか?」
リーンはとうとう“最後の手段”に出た。
「それならばわたくしはここを去ります。地球へでも行き、二度とリウ・アラームの地を踏むことはありません。ですからどうぞ機嫌を直して、あなたの民に目をお向けになってください」
ずいぶんと失礼なことを言っている───との自覚はリーンにはあった。
しかし、それでもファラ・リュードが応えようとしないのなら、それはそれで本当に最後だ。
何も起こらない。何も変わらない───。
時間だけが音も立てずに過ぎゆく中、リーンがこの場を立ち去りたいと本気で思った時、
「それは脅迫というのではなくて?」
不意に若い女性の───ファラ・リュードの声が響いた。
と同時に、何もなかった空間に、フワリと白い長衣たなびかせて、空から舞い降りるようにその姿が現れた。
「―――そこまで言うとはな」
最後に実在感を伴って、石の床に降り立った彼女は皮肉げに笑った。
リーンはその意味を十分に承知していて、心の底から恥じ入ってはいたが、覚悟して“最後の手段”を取った以上、彼女から目を反らすことはしなかった。
「───お許しください。ほかに方法がなかったのです。いつ来てもあなたにはお会いできません」
「………」
瞬間、ファラ・リュードは嫌悪を込めた眼差しで彼を見たが、リーンは真っ直ぐに彼女を見つめていた。
それへはファラ・リュードの方が一瞬睨んだあと、根負けした…、とでもいうかのようにその瞳を逸らした。
リーンがこの地に立ち戻って一年が過ぎていた。
二人の会見はこれが二度目だった。
「どうか本気でお答え下さい、ファラ・リュード」
リーンは強い目で彼女を見据えた。
するとファラ・リュードはそれを持て余すように視線を泳がせた末、また元に戻したときにはもう彼女の目には反発も弱気も、意思を表すようなものは全て消えていた。
彼女は軽い溜め息をつき―――それはいかにも人間めいた仕草だった───一言言った。
「外に出ようか、リィン。ここは気が滅入る」
「―――」
リーンは驚いたが黙って従った。
彼はファラ・リュードが自分の相手をしてくれる気になったことを幸運だと感じていた。
二人は広間の脇の回廊から連絡するいくつもの入り口の一つを通って外に出た。
建物の角を大きく迂回すると、神殿の裏手に位置する森へ出る。
神殿を中心とする広大な森林地帯に村人がやって来ることはほとんどなかったが、裏手となるといっそう人気は皆無だ。
そこは昔、リーンがよくエレインの供をして、春の森の風景を楽しみながら散策した場所でもあった。
常緑の森はあの頃と何一つ変わっていない。
───どこかで鳥が鳴いている。
空は明るく、鮮やかな若葉の色が目に痛いほどだった。
「───流行病もサーラ川の氾濫もそなたたちで対応できた。今度もそうやって知恵を集めればよいではないか」
遠き若き日のように二人は歩きながら───数歩の距離を取っていたが───ファラ・リュードは穏やかな口調で話し出した。
「それがあなたのお考えですか?」
「そうだ」
「それで正しい答えが出ると?」
「必ずしもその時に正しくなかったとしても、それはそれで今後の参考にすればよい。同じ轍を踏まねばよいのだ」
可憐な若い女性の形は、不釣り合いな言葉遣いをする。
「間違った行動に出た結果、被害が大きくなった場合はどうなるのです」
「取り戻せばいい」
「人命は取り戻せません」
「ある程度の犠牲はやむを得まい」
「本気で言っておられるのですか?」
リーンは思わず足を止めた。
だが、
「本気だ」
振り返った彼女はきっぱりと言い切った。
「ファラ・リュード、まさかあなたが―――」
リーンは言葉を探した。
「信じられません、まさか………」
言い換えてもその先は見つからない。
ファラ・リュードはそんな彼の様子を黙って見つめていた。
リーンとて定命ある人間が死なずに済むとは思っていない。そんなことではなく、民を、この星の生命総てを例外なく慈しみ見守るはずのこの星の守り神、ファラ・リュードが、たとえ少数とて生命を軽んじることなど有り得ないと───今この瞬間まで信じてきたのだ。
「………わたしが? どうした、リィン」
ファラ・リュードは小さく笑った。
その笑みを前にして、リーンは押し黙った。
何かが違う。
…本当に―――?…
波立った感情を意識して抑え、口調を元に戻す。
「ファラ・リュード。どうか説明を省かずにあなたの民にお教え下さい。あなたはどうして人々の前にそのお姿をお見せにならず、民の声を聞こうとはなさらないのですか?」
話すうちにリーンは落ち着きを取り戻していた。
彼は自分がこの世に存在するその事実よりファラ・リュードを信じていた。
それは皇族として生まれたときから信仰としてすり込まれたものに依拠するのかもしれない。だが、長じて彼自身の個性が生まれ、自覚が育ち、実際に生きる女神に接する中で醸造されていった信頼は───簡単に揺らぐものではなかった。
たとえ目の前にいる女神自身がどう言おうとも………。
「───そんなものを聞いてどうする」
目の前に立つ木の、頭上に伸びた小枝を引き寄せ、ファラ・リュードは物憂げに振り返った。
しかし彼女はリーンを見ていなかった。
それに気づいても構わずリーンは、
「納得したいのです」
と答えた。
「そなたが? そなた一人が?」
「はい」
「納得できなかったら………? いや、そなた一人が納得しても、他の者には理解できぬかもしれぬ―――神の領域だからな。それに意味があるのか?」
「それでもお聞かせ願いたい」
リーンは食い下がった。
すると、
「もう言った」
ファラ・リュードは手を放した。
小枝は勢いよく跳ね上がり、さわさわと他の枝を揺らした。
「そなたたちはわたしがいなくとも自分たちだけの力で十分にやっていける。だからはわたしは余計な口出しをしないのだ」
「そんな………。どうして余計なのです? 民は皆あなたを頼っているのに」
「頼らずにやっていける力が自分たちにはあるのに? わたしがいるばかりにそなたたちはわたしに頼ろうとする」
「当然でしょう。あなたは我々の守護神なのだから」
リーンは自分が一部の保守的な人々から非難の目で見られている、教育推進、あるいは緩やかな発展主義者であることを忘れて言った。
「ファラ・リュードはいつの時代にも現れるとは限らない。そなたたちもそれくらい分かっていよう。わたしのおらぬ時代、そなたたちはそなたたちの力に頼るほかない」
「しかし!」
「ファラ・リュードはわたしののち、二百年は現れぬ。その間この星そのものを揺るがすような出来事は起こらぬが、主に民の上に精神的な危機は何度も訪れる。きっと大きな問題になるだろう。リウ・アラームはテラの属する世界でも珍しいケースになる」
未来を見通すファラ・リュードの予言───とは思えぬほど、それは淡々とした口調で紡ぎ出された。
リーンが息を飲む間、彼女は一見どこを見ているのか分からぬような眼差しで、足元の踏んだ小石に視線を落としていた。
彼女は、己の『ファラ・リュード』という神の呼称を、彼女個人を表す名前としても使っている。
辺境の惑星リウ・アラームに代々出現する、守護神としての『ファラ・リュード』と、彼女一個人───あるいは一世としての『ファラ・リュード』。その二つは彼女の中でどういう区別がされているのか。
歴代のファラ・リュードは、一度としてその力を悪用、あるいは誤用したことがないと、この星で最も彼女に近い皇族の記録は伝えている。
時として人には難しい善悪の判断。彼女の“正しさ”は、その精神のどこに由来するものなのか。それはやはり人の性質ではなく神性によるものなのか───。
おそらく、それらの答えを人が知ることはない。
正しくそれは神の領域で………。
「精神的な危機とはどういうことです?」
「そなたには関係ない」
ファラ・リュードは素っ気なく言い切った。
「とにかくそういうことだ。そなたが理解できてもできなくてもどちらでも構わない」
投げ出すような言い方だった。
だがそんな表面的なことはどうでもいい。大事なのは、こうして彼女が人前に現れ、己の考えを口にしてくれることだった。
それこそリーンが“最後の手段”を行使して得たものだ。
それが双方を傷つけることになっても………。
「………おっしゃることは分かります」
ゆっくりと、リーンは己の考えをまとめるように言った。
「しかし、それではなぜあなたはこの時代にいらっしゃるのです? 本当に我々だけで充分なのですか? 今は以前と同じように、未来と同じように、歴史という時間の流れの中の一つの通過点に過ぎないのですか? 我々の世界は今、外の世界の訪問を受けて限定的ながらも交流を始め、今また隣国を名乗る惑星から門戸開放を求められています。今はリウ・アラームの歴史の分岐点ではないのですか? だからこそあなたはこの時代にいらっしゃるのではないのですか? 我々はあなたに助言を求めてはいけないのでしょうか?」
「わたしは―――」
ファラ・リュードは何かを言いかけたが途切らせ、黙ってしまった。
「ファラ・リュード、あなたは………」
リーンもまた、いつの間にか彼女を責めるような形になってしまったのに気づいて言葉を見失った。
ファラ・リュードはそんな彼を避けるように背を向け、近くにあった朽ち果てた大木―――天然の木椅子に歩み寄ったが、腰かけるでもなくただ手を置いた。
「―――致命的な間違いを犯しそうになったら正しましょう。………それでいいでしょう」
囁くような声だった。
その時リーンはファラ・リュードの言葉遣いが変わったのには気づかず、別の違和感に気を取られた。
「義務………ですか? ファラ・リュード。あなたの神としての創造物への愛情は、慈悲は、あなたの中にはないのですか?」
「───」
問われた刹那、押し黙ったファラ・リュードは、ゆっくりとリーンを振り返った。
明るい日差しがほとんど色のない彼女の髪をさらに白く輝かせていた。
対照的に影を宿す瞳がエメラルドを反射する。
「………それをあなたが聞くのですか? わたしに。人としての感情を持つことを禁じたのはあなた。それなのに神としての慈悲は持てと、人を愛せよと言うのですか? わたしは神であり人でもあるのに………。一方を封じ、一方のためだけに存在せよとあなたは言うのですね」
「私が言えばそうなるのですか? そうではないでしょう。あなたは人々を───この星全ての生命を愛しておられます。あなたはそういう方です」
「だからなに?」
弾かれたようにファラ・リュードは顔を上げた。
「なにかを愛していればわたしの心は慰められるの? 空に散り、木々と同化し、生命を見つめていても虚しいだけ。ほかの人のことはいい。なぜあなたは帰ってきたの? いたずらにわたしの心を乱すだけなのに」
「ファラ・リュード………」
リーンは彼女に歩み寄った。
「───あなたは、あなたの人間としての拠りどころを私に求めているだけです。私にこだわることがあなたの人間性の証しになると思い込んでいるんです」
「ひどいことを言うのね」
「あなたはあなたです。この星唯一の………。―――人とか神とか自分を区別することはない」
「言われるまでもないわ」
ファラ・リュードはリーンをきつく見据えたた。
「わたしはわたし。わたしの中では矛盾はないわ」
「………」
「わたしはわたしなのよ! あなた以上にわたしはそれを知っている。あなたへの気持ちがなんなのかも、あなた以上に───! それが………あなたにとってどういう意味を持つのかも………」
「どういうことです?」
「………」
二人の視線は複雑に絡まりあった。
「───重荷………いえ、迷惑なのでしょう」
ファラ・リュードは、もはや相手が自分を見つめること、自分が相手を見つめ返すことから逃れようとはしなかった。
「あなたはこの星の優秀な指導者。あなたがわたしに求めるのは適切な予言をこの国にもたらす万能の守り神『ファラ・リュード』。───決してエレインではない」
「ファ………!」
リーンはそれを口にしかけ、途中で止めた。
かといって、今さらエレインと呼びかけることはできない。
そんな彼を真っ直ぐに見つめ返しながら、ファラ・リュードは口調を改めた。
「ごめんなさい………こんなこと、あなたに言うつもりはなかったのに。片想いだからといって普通の人間だってその相手を責めたりはしないのに。ごめんなさい………あなたにはもうなにも期待していないのに」
彼女は自分の意思でリーンから視線を反らし、寄りかかっていた倒木から身体を離した。「―――それでもわたしは存在しているのだから」
「………」
何も言わないリーンの傍らを、ファラ・リュードはこの場を離れる―――終えるために近づいた。
すれ違った時、彼女は言った。
「今日の話の必要ないところは忘れなさい。―――ただの愚痴に過ぎないから」
「ファラ・リュード、私は」
「なにも言わないで!」
ファラ・リュードは前を見たまま相手を遮った。
「なにも、せめてなにも期待しないで! わたしがそうしているように!」
その瞬間、リーンは手を伸ばした。
「!───」
通り過ぎる彼女の腕を掴んだ彼の手の甲に、蝶の羽のような感触の、長い銀緑色の髪が滑り落ちていった。
「―――では、私と逃げますか?」
「!」
引き寄せられた間近な距離、低く囁かれた声にファラ・リュードは息を飲んだ。
「二人だけでこの星を離れ、別の世界に行きますか? エレイン、行けますか!?」
「リィン!」
「あなたにこの星を、世界を、この大地に生きとし生ける物全てを捨てることができるなら、私は人々から与えられる全ての信頼を裏切りましょう」
「リィ………ン………」
「あなたが虚しいと言った世界、目に見えないささやかな生命までもがあなたに属し、あなたの子どもであるこの世界を、あなたが捨てられるなら───あなたに、己の子どもを捨てられるなら!」
「―――!」
ファラ・リュードは縋るように相手の服の裾を掴んだ。
リーンはそっと彼女を抱く腕に力を込めた。
いつの間にか木々のざわめきが止み、鳥も囀りを止めた。
まるで、森の全てが彼らに遠慮し、息を潜めたかのようだった。
………やがて………。
「できない………―――そうですね?」
リーンの静かな声が響いた。
「───」
相手の腕に支えられたままファラ・リュードは銀色の睫を伏せた。
「それができるなら私たちはとっくの昔に結ばれている。………ファラ・リュード、結局、私たちは───」
静かに流れるリーンの言葉を聞きながら、ファラ・リュードはその目を閉じた。
そうすると世界は闇に閉ざされる。
そこには何の運命も存在しない。
何も考えることはない。
ただ、言葉から意味が消えたリーンの声だけが心地好く響く。
「―――この星に戻ってきたのはあなたがいるからです。この星は、あなたそのものだから───」
「………」
いつかのリーンの言葉が蘇る。
『この星に………生まれたことは………ファラ・リュードに仕えること………』
この星を愛することは、あなたを愛すること───。
「………ええ………」
ファラ・リュードはそっと頷いた。
…―――それではわたしはあなたのため、この星を守ろう…
触れることもなく、言葉を交わすこともなく、この星を通して繋がっていることだけを心の支えにして………。
ファラ・リュードはゆっくりと相手の胸から顔を離した。
―――それでも、わたしはあなたを思い切ることはできない。
絡み合う視線が確認する。
わたしはあなたを愛するだろう………。
この想いが、この体が、朽ち果てる、その時まで………。
ここほどこんな大声が似つかわぬところもない、と思いつつリーンは声を張り上げた。
―――神殿。
「なぜです? なぜお姿をお現しにならないのです? チェルトゥーンからの提議に対してどうしてなにもおっしゃらないのです!?」
リーンは今日こそ全部を言い切ってしまうつもりで斎場の中央に立った。
祭壇に人影がないのはもとより分かっている。
「流行り病の時も洪水もなぜ民を無視しておいでです? なにを考えておられるのですか? おっしゃって下さらねばなにも分かりません!」
口を噤んでも返ってくるのは静寂だけ。
それでもリーンは辛抱強く待った。
しかし―――いつまでたっても答えはない。
「………そんなにわたくしが目障りですか?」
リーンはとうとう“最後の手段”に出た。
「それならばわたくしはここを去ります。地球へでも行き、二度とリウ・アラームの地を踏むことはありません。ですからどうぞ機嫌を直して、あなたの民に目をお向けになってください」
ずいぶんと失礼なことを言っている───との自覚はリーンにはあった。
しかし、それでもファラ・リュードが応えようとしないのなら、それはそれで本当に最後だ。
何も起こらない。何も変わらない───。
時間だけが音も立てずに過ぎゆく中、リーンがこの場を立ち去りたいと本気で思った時、
「それは脅迫というのではなくて?」
不意に若い女性の───ファラ・リュードの声が響いた。
と同時に、何もなかった空間に、フワリと白い長衣たなびかせて、空から舞い降りるようにその姿が現れた。
「―――そこまで言うとはな」
最後に実在感を伴って、石の床に降り立った彼女は皮肉げに笑った。
リーンはその意味を十分に承知していて、心の底から恥じ入ってはいたが、覚悟して“最後の手段”を取った以上、彼女から目を反らすことはしなかった。
「───お許しください。ほかに方法がなかったのです。いつ来てもあなたにはお会いできません」
「………」
瞬間、ファラ・リュードは嫌悪を込めた眼差しで彼を見たが、リーンは真っ直ぐに彼女を見つめていた。
それへはファラ・リュードの方が一瞬睨んだあと、根負けした…、とでもいうかのようにその瞳を逸らした。
リーンがこの地に立ち戻って一年が過ぎていた。
二人の会見はこれが二度目だった。
「どうか本気でお答え下さい、ファラ・リュード」
リーンは強い目で彼女を見据えた。
するとファラ・リュードはそれを持て余すように視線を泳がせた末、また元に戻したときにはもう彼女の目には反発も弱気も、意思を表すようなものは全て消えていた。
彼女は軽い溜め息をつき―――それはいかにも人間めいた仕草だった───一言言った。
「外に出ようか、リィン。ここは気が滅入る」
「―――」
リーンは驚いたが黙って従った。
彼はファラ・リュードが自分の相手をしてくれる気になったことを幸運だと感じていた。
二人は広間の脇の回廊から連絡するいくつもの入り口の一つを通って外に出た。
建物の角を大きく迂回すると、神殿の裏手に位置する森へ出る。
神殿を中心とする広大な森林地帯に村人がやって来ることはほとんどなかったが、裏手となるといっそう人気は皆無だ。
そこは昔、リーンがよくエレインの供をして、春の森の風景を楽しみながら散策した場所でもあった。
常緑の森はあの頃と何一つ変わっていない。
───どこかで鳥が鳴いている。
空は明るく、鮮やかな若葉の色が目に痛いほどだった。
「───流行病もサーラ川の氾濫もそなたたちで対応できた。今度もそうやって知恵を集めればよいではないか」
遠き若き日のように二人は歩きながら───数歩の距離を取っていたが───ファラ・リュードは穏やかな口調で話し出した。
「それがあなたのお考えですか?」
「そうだ」
「それで正しい答えが出ると?」
「必ずしもその時に正しくなかったとしても、それはそれで今後の参考にすればよい。同じ轍を踏まねばよいのだ」
可憐な若い女性の形は、不釣り合いな言葉遣いをする。
「間違った行動に出た結果、被害が大きくなった場合はどうなるのです」
「取り戻せばいい」
「人命は取り戻せません」
「ある程度の犠牲はやむを得まい」
「本気で言っておられるのですか?」
リーンは思わず足を止めた。
だが、
「本気だ」
振り返った彼女はきっぱりと言い切った。
「ファラ・リュード、まさかあなたが―――」
リーンは言葉を探した。
「信じられません、まさか………」
言い換えてもその先は見つからない。
ファラ・リュードはそんな彼の様子を黙って見つめていた。
リーンとて定命ある人間が死なずに済むとは思っていない。そんなことではなく、民を、この星の生命総てを例外なく慈しみ見守るはずのこの星の守り神、ファラ・リュードが、たとえ少数とて生命を軽んじることなど有り得ないと───今この瞬間まで信じてきたのだ。
「………わたしが? どうした、リィン」
ファラ・リュードは小さく笑った。
その笑みを前にして、リーンは押し黙った。
何かが違う。
…本当に―――?…
波立った感情を意識して抑え、口調を元に戻す。
「ファラ・リュード。どうか説明を省かずにあなたの民にお教え下さい。あなたはどうして人々の前にそのお姿をお見せにならず、民の声を聞こうとはなさらないのですか?」
話すうちにリーンは落ち着きを取り戻していた。
彼は自分がこの世に存在するその事実よりファラ・リュードを信じていた。
それは皇族として生まれたときから信仰としてすり込まれたものに依拠するのかもしれない。だが、長じて彼自身の個性が生まれ、自覚が育ち、実際に生きる女神に接する中で醸造されていった信頼は───簡単に揺らぐものではなかった。
たとえ目の前にいる女神自身がどう言おうとも………。
「───そんなものを聞いてどうする」
目の前に立つ木の、頭上に伸びた小枝を引き寄せ、ファラ・リュードは物憂げに振り返った。
しかし彼女はリーンを見ていなかった。
それに気づいても構わずリーンは、
「納得したいのです」
と答えた。
「そなたが? そなた一人が?」
「はい」
「納得できなかったら………? いや、そなた一人が納得しても、他の者には理解できぬかもしれぬ―――神の領域だからな。それに意味があるのか?」
「それでもお聞かせ願いたい」
リーンは食い下がった。
すると、
「もう言った」
ファラ・リュードは手を放した。
小枝は勢いよく跳ね上がり、さわさわと他の枝を揺らした。
「そなたたちはわたしがいなくとも自分たちだけの力で十分にやっていける。だからはわたしは余計な口出しをしないのだ」
「そんな………。どうして余計なのです? 民は皆あなたを頼っているのに」
「頼らずにやっていける力が自分たちにはあるのに? わたしがいるばかりにそなたたちはわたしに頼ろうとする」
「当然でしょう。あなたは我々の守護神なのだから」
リーンは自分が一部の保守的な人々から非難の目で見られている、教育推進、あるいは緩やかな発展主義者であることを忘れて言った。
「ファラ・リュードはいつの時代にも現れるとは限らない。そなたたちもそれくらい分かっていよう。わたしのおらぬ時代、そなたたちはそなたたちの力に頼るほかない」
「しかし!」
「ファラ・リュードはわたしののち、二百年は現れぬ。その間この星そのものを揺るがすような出来事は起こらぬが、主に民の上に精神的な危機は何度も訪れる。きっと大きな問題になるだろう。リウ・アラームはテラの属する世界でも珍しいケースになる」
未来を見通すファラ・リュードの予言───とは思えぬほど、それは淡々とした口調で紡ぎ出された。
リーンが息を飲む間、彼女は一見どこを見ているのか分からぬような眼差しで、足元の踏んだ小石に視線を落としていた。
彼女は、己の『ファラ・リュード』という神の呼称を、彼女個人を表す名前としても使っている。
辺境の惑星リウ・アラームに代々出現する、守護神としての『ファラ・リュード』と、彼女一個人───あるいは一世としての『ファラ・リュード』。その二つは彼女の中でどういう区別がされているのか。
歴代のファラ・リュードは、一度としてその力を悪用、あるいは誤用したことがないと、この星で最も彼女に近い皇族の記録は伝えている。
時として人には難しい善悪の判断。彼女の“正しさ”は、その精神のどこに由来するものなのか。それはやはり人の性質ではなく神性によるものなのか───。
おそらく、それらの答えを人が知ることはない。
正しくそれは神の領域で………。
「精神的な危機とはどういうことです?」
「そなたには関係ない」
ファラ・リュードは素っ気なく言い切った。
「とにかくそういうことだ。そなたが理解できてもできなくてもどちらでも構わない」
投げ出すような言い方だった。
だがそんな表面的なことはどうでもいい。大事なのは、こうして彼女が人前に現れ、己の考えを口にしてくれることだった。
それこそリーンが“最後の手段”を行使して得たものだ。
それが双方を傷つけることになっても………。
「………おっしゃることは分かります」
ゆっくりと、リーンは己の考えをまとめるように言った。
「しかし、それではなぜあなたはこの時代にいらっしゃるのです? 本当に我々だけで充分なのですか? 今は以前と同じように、未来と同じように、歴史という時間の流れの中の一つの通過点に過ぎないのですか? 我々の世界は今、外の世界の訪問を受けて限定的ながらも交流を始め、今また隣国を名乗る惑星から門戸開放を求められています。今はリウ・アラームの歴史の分岐点ではないのですか? だからこそあなたはこの時代にいらっしゃるのではないのですか? 我々はあなたに助言を求めてはいけないのでしょうか?」
「わたしは―――」
ファラ・リュードは何かを言いかけたが途切らせ、黙ってしまった。
「ファラ・リュード、あなたは………」
リーンもまた、いつの間にか彼女を責めるような形になってしまったのに気づいて言葉を見失った。
ファラ・リュードはそんな彼を避けるように背を向け、近くにあった朽ち果てた大木―――天然の木椅子に歩み寄ったが、腰かけるでもなくただ手を置いた。
「―――致命的な間違いを犯しそうになったら正しましょう。………それでいいでしょう」
囁くような声だった。
その時リーンはファラ・リュードの言葉遣いが変わったのには気づかず、別の違和感に気を取られた。
「義務………ですか? ファラ・リュード。あなたの神としての創造物への愛情は、慈悲は、あなたの中にはないのですか?」
「───」
問われた刹那、押し黙ったファラ・リュードは、ゆっくりとリーンを振り返った。
明るい日差しがほとんど色のない彼女の髪をさらに白く輝かせていた。
対照的に影を宿す瞳がエメラルドを反射する。
「………それをあなたが聞くのですか? わたしに。人としての感情を持つことを禁じたのはあなた。それなのに神としての慈悲は持てと、人を愛せよと言うのですか? わたしは神であり人でもあるのに………。一方を封じ、一方のためだけに存在せよとあなたは言うのですね」
「私が言えばそうなるのですか? そうではないでしょう。あなたは人々を───この星全ての生命を愛しておられます。あなたはそういう方です」
「だからなに?」
弾かれたようにファラ・リュードは顔を上げた。
「なにかを愛していればわたしの心は慰められるの? 空に散り、木々と同化し、生命を見つめていても虚しいだけ。ほかの人のことはいい。なぜあなたは帰ってきたの? いたずらにわたしの心を乱すだけなのに」
「ファラ・リュード………」
リーンは彼女に歩み寄った。
「───あなたは、あなたの人間としての拠りどころを私に求めているだけです。私にこだわることがあなたの人間性の証しになると思い込んでいるんです」
「ひどいことを言うのね」
「あなたはあなたです。この星唯一の………。―――人とか神とか自分を区別することはない」
「言われるまでもないわ」
ファラ・リュードはリーンをきつく見据えたた。
「わたしはわたし。わたしの中では矛盾はないわ」
「………」
「わたしはわたしなのよ! あなた以上にわたしはそれを知っている。あなたへの気持ちがなんなのかも、あなた以上に───! それが………あなたにとってどういう意味を持つのかも………」
「どういうことです?」
「………」
二人の視線は複雑に絡まりあった。
「───重荷………いえ、迷惑なのでしょう」
ファラ・リュードは、もはや相手が自分を見つめること、自分が相手を見つめ返すことから逃れようとはしなかった。
「あなたはこの星の優秀な指導者。あなたがわたしに求めるのは適切な予言をこの国にもたらす万能の守り神『ファラ・リュード』。───決してエレインではない」
「ファ………!」
リーンはそれを口にしかけ、途中で止めた。
かといって、今さらエレインと呼びかけることはできない。
そんな彼を真っ直ぐに見つめ返しながら、ファラ・リュードは口調を改めた。
「ごめんなさい………こんなこと、あなたに言うつもりはなかったのに。片想いだからといって普通の人間だってその相手を責めたりはしないのに。ごめんなさい………あなたにはもうなにも期待していないのに」
彼女は自分の意思でリーンから視線を反らし、寄りかかっていた倒木から身体を離した。「―――それでもわたしは存在しているのだから」
「………」
何も言わないリーンの傍らを、ファラ・リュードはこの場を離れる―――終えるために近づいた。
すれ違った時、彼女は言った。
「今日の話の必要ないところは忘れなさい。―――ただの愚痴に過ぎないから」
「ファラ・リュード、私は」
「なにも言わないで!」
ファラ・リュードは前を見たまま相手を遮った。
「なにも、せめてなにも期待しないで! わたしがそうしているように!」
その瞬間、リーンは手を伸ばした。
「!───」
通り過ぎる彼女の腕を掴んだ彼の手の甲に、蝶の羽のような感触の、長い銀緑色の髪が滑り落ちていった。
「―――では、私と逃げますか?」
「!」
引き寄せられた間近な距離、低く囁かれた声にファラ・リュードは息を飲んだ。
「二人だけでこの星を離れ、別の世界に行きますか? エレイン、行けますか!?」
「リィン!」
「あなたにこの星を、世界を、この大地に生きとし生ける物全てを捨てることができるなら、私は人々から与えられる全ての信頼を裏切りましょう」
「リィ………ン………」
「あなたが虚しいと言った世界、目に見えないささやかな生命までもがあなたに属し、あなたの子どもであるこの世界を、あなたが捨てられるなら───あなたに、己の子どもを捨てられるなら!」
「―――!」
ファラ・リュードは縋るように相手の服の裾を掴んだ。
リーンはそっと彼女を抱く腕に力を込めた。
いつの間にか木々のざわめきが止み、鳥も囀りを止めた。
まるで、森の全てが彼らに遠慮し、息を潜めたかのようだった。
………やがて………。
「できない………―――そうですね?」
リーンの静かな声が響いた。
「───」
相手の腕に支えられたままファラ・リュードは銀色の睫を伏せた。
「それができるなら私たちはとっくの昔に結ばれている。………ファラ・リュード、結局、私たちは───」
静かに流れるリーンの言葉を聞きながら、ファラ・リュードはその目を閉じた。
そうすると世界は闇に閉ざされる。
そこには何の運命も存在しない。
何も考えることはない。
ただ、言葉から意味が消えたリーンの声だけが心地好く響く。
「―――この星に戻ってきたのはあなたがいるからです。この星は、あなたそのものだから───」
「………」
いつかのリーンの言葉が蘇る。
『この星に………生まれたことは………ファラ・リュードに仕えること………』
この星を愛することは、あなたを愛すること───。
「………ええ………」
ファラ・リュードはそっと頷いた。
…―――それではわたしはあなたのため、この星を守ろう…
触れることもなく、言葉を交わすこともなく、この星を通して繋がっていることだけを心の支えにして………。
ファラ・リュードはゆっくりと相手の胸から顔を離した。
―――それでも、わたしはあなたを思い切ることはできない。
絡み合う視線が確認する。
わたしはあなたを愛するだろう………。
この想いが、この体が、朽ち果てる、その時まで………。
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