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第3章 帰還
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出発前は荒野だったミレンディラの地も、今は簡素ながら立派なスペース・ポートが建設されていた。
常春の故郷の土を踏みしめ、リーンは感無量に立ち尽くした。
「―――もう一杯、どうです?」
リウ・アラームの王オライオは丁重にリーンに三十年もののティア酒を勧めた。
「いや、もう結構です」
リーンは礼儀正しく辞した。
ここは王宮の奥まったところにあるアレドの私室。
九年ぶりにテラより帰星した全権大使の祝宴後、リーンはオライオに誘われるまま祝いの席ではあまり進まなかった故郷の酒を口にしていた。
「テラ、かぁ………」
リーンより四才若い、どこかまだ青年の雰囲気を残すオライオ王は何度目かの言葉を口にした。
「私には一生縁のない世界ですね。決して訪れる機会のない………。こう縁がないと、皆のようにあなたに話をせがむ気にもなれませんよ」
そう言って苦笑する。
リーンは微笑んだ。
おかげで、今彼は落ち着いてグラスを口にしていられるのだ。
リーンより短い任期の使節団は今までに二度帰還した。向こう側の科学力に頼るしかない恒星間の航行技術は短期間で驚くほど発達し、かかる時間を短縮したが、それでもテラ滞在が一番長く、使節団とは比べものにならないほど本星の外交本局の中枢に迎え入れられていたリーンの帰還は、母星の人々から格別な歓迎と興味をもって迎えられた。
…今ごろはクレイが質問攻めだな───…
リーンはふと自分の妻の姿を脳裏に思い浮かべた。
テラと、セイラム勢力圏に近いクロイア星とのハーフである妻は、リーンより五つ年下なだけだが、未だ美しいというよりは可愛らしいといった表現の方がピッタリくるような、若々しい女性だった。
優秀な『スペース・マン』を多数輩出することで知られる『学問の館』出身の彼女は、リーンのホームグラウンドであるリウ・アラームのどこに興味を引かれたのか、地理的だけはでなく文化程度の極端に劣ったこの星に不満や不安の一つも唱えることなく、逆に喜々とした様子で夫の帰還に同行してきたのだ。
リウ・アラームは単一民族による閉鎖的な国だが、それでも、近年は『夜空に浮かぶ他の星にも自分たちのような二足歩行の高等生物がいる』ということは知られてきている。まして、王族・貴族の中には使節団に参加して『他の星』へ渡り、彼の地の人々、文化を実際に体験してきた人々もいる。
『スペース・マン』としての教育だけでなく、適応力に恵まれ、身の内の芯に強いものを持つクレイは、初めて触れる異文化・異人種の中で、この星に到着したその日から、そんなリウ・アラームの人々とのコミュニケーションに成功していた。
翌日には、誰かと楽しそうに歓談すらしている様子を目撃して、リーンは彼女の持つ生来の強さ、器用さを改めて認識し、彼女ならうまくやっていけるだろうと、帰還前の一抹の不安を拭い去ったのだった。
「初めて目にしましたが───綺麗なものですね、栗色の髪の毛というのは………」
王もちょうどリーンの伴った、この星唯一の異世界人に思いが及んだのだろう、そんな風に話を持って行った。
「なんとか、うまくやっていけるとよいのですが………」
「大丈夫ですよ、クレイ殿なら。さすがにリーン殿の奥方なだけはある」
王も一目で彼女に好意を抱いたらしい。彼の言葉に世辞はなかった。
もっとも彼は昔からリーンを敬愛している。
現在、王は三十三才、リーンは三十七才。
王族及び皇族内では家柄や役職以上に年功序列が重要な習わしだから、オライオ王のリーンへの態度は不思議ではなかったが、アレドはそんな風習だけはでなく、リーンの人柄や人徳を承知した上で彼に敬意を払っていた。
2人には、リーンがテラへ赴任する前、皇族の若手として頭角を現しつつあった彼が年若い王を補佐していたという関係があった。
「あなたにそう言っていただけると心強い」
どうやら彼女はパウレーの人間とも仲良くやっていけそうだ───と思いながらリーンが頷くと、
「そう………彼女はいいのだが………」
ふと、アレドが独り言のように呟いた。
それに気づいたリーンがアレドに視線を合わせると、アレドもそれに気づき、一瞬躊躇ってから苦笑を漏らした。
「お帰りになった早々、こんなお話しをするのはなんですが………」
言い澱むオライオ王をリーンは視線で促した。
「皇族であるあなたの奥方───クレイ殿は王族の扱いを受けることになります。が、それは問題ありません。王であるわたしの権限内のことですから───王族に関しては。もちろんお二人───ご家族にとって、一番よい待遇を考えますよ。しかし―――問題はあなたのお子達です」
王はそこでいったん言葉を切り、居心地のよい椅子に沈み込んだ。
その一語一句を理解していたリーンは黙って頷き、先を促す。
「お子達は紛れもなくあなた―――皇族の血を引いている。それにはファラ・リュードのご宣託を仰がねばならない」
王の言葉に、リーンは黙って手の中のグラスに目を落とした。何か考えているようにも見えたが───その表情からは窺い知れなかった。
「実は、このたびあなたに無理言って帰還してもらったのも、実はこのあたりに関係があるんです」
「私の子ども達がなにか………?」
「いえ………。お子ではなく、ファラ・リュードの方です」
「………なにも聞いてませんが………」
「ええ、それは………」
不意に言葉を選ぶように、王は間を置いた。
「表面上はなにもないのです。この国の治世になんら問題はありません、今のところは。しかし………」
「ファラ・リュードがどうかなされたのですか?」
リーンは気遣わしげに尋ねた。
『ファラ・リュード』―――この惑星の数千年の歴史の中では何度も出現したといわれているが、この数百年の間では初めて現れた、リウ・アラームの生ける神。
だが、果たしてこの星の人々が実際にどれだけ彼らの守り神について知っているかとなると………。
「なんと言うか───ここ数年、ファラ・リュードは神殿にいらっしゃらないようなのです。………あるいはいらっしゃっても我々の言葉に応じて下さらないことだけなのかもしれませんが………。加えて、民のことに無関心ではないかと思われる節もあり………」
「まさか―――我々の守り神が?」
ようやく、ほんの少しだけでも表情を変えたリーンに王は重々しく頷いた。
『ファラ・リュード』は現人神であり、一つの人間の体を持つことは、皇族と王族のごく一部に限って知られていた。
しかし、それがどれくらい人間らしい精神構造という枠の制約を受けるのかは―――今現在、おそらく知る人は一人もいなかった。
時を隔て、現れる形は違えども、実際は単一の生命体なのか、あるいは星そのものを源とするエネルギー体なのか、もしくは、一つの血筋から生まれる超能力者なのか………それすら分かっていない。
「五年前の疫病の時も、昨年のサーラ川の氾濫も、ファラ・リュードは決して………ついに我々にお言葉をかけては下さいませんでした。幸いどちらも後々にまで響くような大災害にならずに済みましたが。しかし、シッドの時は百人近く、氾濫でも数十人の死者が出ました」
「そのことは聞いております」
平和なこの国において、百年単位で起きるような災害が五年のうちに重なって起きたことは、リウ・アラームの人々の心に大きな影を投げかけることになった。
「ファラ・リュードには取りつく島もありません。それには亡くなられた祭司長殿も大変困り果てておられ………最期まで気に病んでおられました。そしてご遺言で、あなたを呼び戻されるようにと、ラサーヌの任にぜひ就いて欲しいとのことで、我々も諸手を上げて賛成したわけです」
「―――ご幼少の頃はともかく、ファラ・リュードのご在位中に祭司長を立てるとはおかしなこととは思ったのですが………そうですか。しかし、私とて………」
「あなたは皇族では最年長グループのお一人であり、ご自分ではお気づきでないかもしれませんが、パウレー、パムールを問わず、人々からの人望がとても厚いのです。しかもファラ・リュードをご幼少の頃から知っておられる。前ラサーヌが亡くなられた今、そのような方は王族にも皇族にもあなた以外にはいないのです。あなたならファラ・リュードにお目通りがかなうかもしれない」
「―――帰星の報告に、一度神殿に伺わねばならないと思ってはおりましたが………」
『神殿』という言葉を口にした途端、リーンは不意に、あの薄暗い石造りの建築物の荘厳さを思い出した。
…───最後にあそこへ行ったのはいつだったろう?…
そしてこの世離れした、神々しいほどの雰囲気に満ちた神殿の中で、なお異質に輝いていた、リウ・アラームの守り神の姿を拝したのは………。
丈なすパールグリーンの髪。
淡いエメラルドの瞳。
………エレイン………。
「―――では、よろしいですね?」
王の言葉にリーンはハッと我に返った。
「パムールに行かれるのでしょう?」
「………ええ」
リウ・アラームの指導層の一人として、リーンにはこの星の人々を守り、先代から次代へと受け継いでいく責務があった。
断るわけにはいかない。
「―――本当は、あなたにはご迷惑なことだとは分かっていたのです………」
不意にトーンを下げて、王が言った。
内心感じるものを抑えて、リーンは彼を見た。
「永住、されるおつもりだったんでしょう? 地球に」
「………」
リーンは答えを避けた。
アレドは気にした様子もなく、
「それゆえ外の世界の方と結婚なさった。私としてもあなたにはずっとテラにいて、この星とあちらとのパイプ役でいていただきたかったのですが………。しかし、クレオも大きくなりました。なんとかやっていけるといいのですが………」
王は気にかかっていたらしい、リーンの次に全権大使に任命されて、すでにテラへと出発した王弟クレオの名を出した。
「―――大丈夫でしょう。彼なら」
リーンは今年二十四才になったクレオの顔を思い浮かべた。
どちらかといえば大人しい王とはあまり似ていない、活発な、物怖じしない若者。
…───十年前はいたずら好きの悪ガキだったのに…
時は人を変える。
クレオは立派な青年となり、オライオは若者から貫禄ある王となった。
そして………。
リーンは一瞬、思い出しかけた面影を反射的に心の奥にしまい込んだ。
それはこの十年、繰り返し馴れた心の動きだった。
「就任式は来週です。それまではゆっくりと―――」
そんな王の言葉にリーンは立ち上がった。
オライオは戸口まで彼を見送り、
「ところで、新しい館の住み心地はどうですか?」
と話しかけた。
リーンは微笑を湛えて、口を開いた。
王宮を包む夜の暗闇。
祝宴のあとで気まぐれに誘われるままアレドの部屋を訪れたため、リーンは従者も移動用のヒューもとっくの昔に帰していた。
最初はパウレー付きのヒューを借りるつもりだったが、リーンはなんとなく一人でいたい気分のまま、星明かりだけを頼りに夜道を歩き出した。
王宮のような幾つかの建築群と町や村の集落が点在するほか、常緑の自然が大部分を占める十年ぶりの故郷。
無人無灯の不自由さや警戒心より、彼は“懐かしさ”という不思議な高揚感に支配されていた。
実際、この辺りは治安の悪い場所ではない。というより、リウ・アラームにそのようなエリアはなく、それこそ、居酒屋が数軒立ち並ぶ町外れの一角が多少柄の悪い程度だ。そこですら運が悪いと酔っ払いに行き合う程度で、生命や財産が脅かされるような危険はまずない。
この国での災いは人がもたらすものではなく………。
ゆっくりと歩いていたつもりだったが、思ったよりも早く、リーンは三叉路の交差点までやって来た。
前方の二つに分かれた道を前に彼はしばし───らしくもなく逡巡した。
一方は、王宮から緩やかに広がる丘陵地へと出て、その一部を占める屋敷町には彼の新しい館もあった。
森の中に続く他方は神殿へと向かう。
どちらもリーンにとっては馴染みのある道だった。
「───」
いずれ果たさねばならない義務ならいつでも同じこと………。リーンは心の中でそう呟くと、森に入る道を選んだ。
草の間、わずかに土が見える細い道を歩き続けて数刻───。
やがて、木立が切れ、石造りの神殿の入り口が目の前に現れた。
大人でも抱えきれないほど太い二本の柱に囲まれた正門は、恐ろしいほど何一つ変わっていなかった。
相変わらず人気はない。
しかし荒れた様子もなく、昔から変わらず建物の世話だけはなされているようだった。
カツン!
中に入ったリーンが石の床を革靴の爪先で弾くと、小さな音が夜の空気に響いた。
建物の内部に入っても、過ごしやすい外気との温度差は感じられない。
それだけがリーンの記憶とは違い、彼はなぜかパムールの中はヒンヤリとした空気に満たされているものと思い込んでいた。
大広間―――斎場に出る。
祭主が公式に祭神と言葉を交わす、リウ・アラーム唯一にしてもっとも崇高な場所。
リーンは壁に手をやり花のレリーフをなぞった。
若き日、毎日のように通い詰めていた場所───暗くて目には見えなくても、脳裏にははっきりと周囲が再現されていた。
「懐かしい?」
不意に声が響いた。
「!───」
刹那、リーンは息を飲んだ。
「………ファラ・リュード………」
振り返りながら呟いた声が、思ったより落ち着いていたことにリーンは内心驚いた。
まるで雷に打たれたように喫驚しつつも、心のどこかでは予測していた―――再会。
ファラ・リュード。
………エレインは、二十三才の女性の形でそこに立っていた。
皇族の男女共通の白い、踝までの長衣を身にまとい、床に届くほど長い髪はほとんど色がないように見えた。
元々人より色素が薄い髪と、同じように薄い瞳をしていたが、年月はさらにそれを漂白したようだった。
「年を取ったはずなのに、そなたは変わらぬな」
「あなた様こそ………いや、変わられましたか」
リーンの前に不意に気配も感じさせず現れた女性は、もはや少女ではなかった。
しかし、その言葉遣いとは裏腹な………舌ったらずの、どこか子どもを連想させる声音だけは昔のまま、リーンの記憶にあるものと同じだった。
「用があったのだろう」
白い長衣と淡い色の髪をなびかせて、ファラ・リュードは踵を返した。
「………帰還の報告に参りました。遅れて申し訳ありません」
リーンはその背に姿勢を正した。
「続けなさい」
「ルード・リーン・メラントゥール。九年間のテラでの任務を終え、無事帰星致しました。ファラ・リュードのご加護に感謝いたします」
「冗談だろう」
ファラ・リュードは暗く笑った。
「私はこの星の守護神。テラにいたそなたとは無縁だ」
「ファラ・リュード」
「干渉したくとも………」
ファラ・リュードは意味ありげにリーンを見上げた。
「―――できぬ。用はそれだけか?」
今にもかき消えそうなその声に、
「祭司長の件、お聞き及びでしょうか?」
リーンは慌てて言葉を重ねた。
周囲がどう考えようと、決して自分は願って彼女に会える立場の者ではない。この機会を逃すわけにはいかなかった。
だが、
「亡き祭司長の最後の悪知恵だ!」
ファラ・リュードはそれまでの余裕を消すと、忌々しげに言い放った。
「………しかし今度ばかりは見当違いだな。今さらそなたの言うことなど───私は聞きはしない」
最後はいっそ淡々とした口調だった。
「そういう問題ではありません」
リーンは言い返した。
「では、どんな問題だ?」
ファラ・リュードは口の両端をわずかに持ち上げた。
それは若い女性が微笑んだようにも見える。だが実体は………。
リーンはこの時、九年の歳月をまざまざと感じた。
「―――ラサーヌは知っていたのだ」
彼の心中を察したのか、ファラ・リュードは空虚な眼差しを向けて静かに言った。
「少なくとも私を御せる者はリーン、そなたしかおらぬと。だからそなたが発った後、私に指図ができなくなると王たちに言いつけたのだ。そなたを呼び戻すようにと」
「ファラ・リュード………。一体なにがあったんです?」
愚問とは承知しつつも、リーンは聞かずにはおれなかった。
例えなにが起こり、なにが変わったとしても、彼女は『ファラ・リュード』―――これだけは変わることはない。
そうであることを疑いもしなかったからこそ、リーンはこの星を去る決断を下したのだ。
それがどんなに身を切られるような痛みだったとしても………。
ファラ・リュードはそんな彼を黙って見つめると、己の表情を『無表情』から『面白くない、居心地が悪い』ものへと切り替えた。
「───なにもあるはずがない。そなたがこの星を離れていたこの九年間、この国では変わりなく時は流れた」
「しかし………」
「なにか言いたいことでもあるのか?」
ファラ・リュードは尊大な口調で言った。
言葉、表情、態度………。それら一つ一つがかなり芝居がかっていることを、リーンが察知していることに彼女も気づいていた。
この再会の時が長引きすぎていることにも………。
一方、リーンは短く「いいえ」と区切るように言っただけで口を噤んだ。
この国に何もなかったわけではない。
しかし、先刻王が言及していたことはいずれ問題にしなければならないにしても、今、それを持ち出す必要もない───と彼は判断した。
二人は同じ危惧を抱いていたのかもしれない。
「―――それでは夜も更けましたので、これにて………」
「夜はもう明ける」
不意に歌うように呟いて、ファラ・リュードは扉に歩み寄った。
ふと動かした両手が、そうとは知れずに扉を開ける。
外の、透き通って薄暗い青の景観と共にヒンヤリとした空気が広間に流れてきた。
常春のリウ・アラームの、一番冷たい刻。
「………戻ってきて欲しかったけど、戻ってきて欲しくなかった───。なのに皮肉ね、ラサーヌは私のせいであなたを呼び戻すように指示した。最期まで案じ続け、最後まで私の意に添わず………」
リーンには外に顔を向けるファラ・リュードの表情は分からなかった。
そのため、
「ラサーヌ殿は皇族として、その責務を全うされたのです」
という言うほかはなかった。
「………そうね。今なら気にもならなかったでしょう………」
それを最後にファラ・リュードは押し黙り、リーンもそれに倣った。
十年近い時を隔てて巡り合ったこの邂逅の時を、彼はこのまま静かに終わらせたかった。
そして、外の冷たい空気が広間の中をあらかた満たし終わった頃、
「―――上の子は母方の姓を名乗らせなさい。そちらの血の方が濃い。下の子は皇族の籍に入れるように」
ファラ・リュードの突然の言葉を、リーンは一瞬理解し損ねた。
「ファラ―――」
それを遮り、
「そなたに関する決定はこれだけのはず」
ファラ・リュードは静かな───事務的な口調で続けた。
「―――あとはラサーヌの就任も、式典でもなんでも勝手にやるがいい。私の許可はいらぬ」
「ファラ・リュード」
「リィン」
ファラ・リュードは彼に向き直った。
「もう時間は過ぎた。あなたが帰ってきても、ラサーヌになっても、なにも変わらない。わたし―――ファラ・リュードは変わらない。必要なのは、わたしではない」
「! どういう意味です!?」
リーンは我が耳を疑った。
「ファラ・リュード!」
「あなたの帰還は意味がなかった。………いいえ、かえってわたしを―――」
言葉はそこで途切れ、ファラ・リュードは微かに表情を曇らせた。
痛みも混じるそれは、再会して初めて見せる、ファラ・リュードの真の感情だった。
リーンは開きかけた口を閉じた。
ファラ・リュードは彼から目を逸らせると、一歩後ずさり、まるで彼女を迎えに来たかのような一陣の小夜風とともにその姿を消してしまった。
「!───」
ここは唯一神が民の前に姿を現す神の領域。
人の感傷など一切排した荘厳な神殿の中、リーンは一人立ち尽くした。
常春の故郷の土を踏みしめ、リーンは感無量に立ち尽くした。
「―――もう一杯、どうです?」
リウ・アラームの王オライオは丁重にリーンに三十年もののティア酒を勧めた。
「いや、もう結構です」
リーンは礼儀正しく辞した。
ここは王宮の奥まったところにあるアレドの私室。
九年ぶりにテラより帰星した全権大使の祝宴後、リーンはオライオに誘われるまま祝いの席ではあまり進まなかった故郷の酒を口にしていた。
「テラ、かぁ………」
リーンより四才若い、どこかまだ青年の雰囲気を残すオライオ王は何度目かの言葉を口にした。
「私には一生縁のない世界ですね。決して訪れる機会のない………。こう縁がないと、皆のようにあなたに話をせがむ気にもなれませんよ」
そう言って苦笑する。
リーンは微笑んだ。
おかげで、今彼は落ち着いてグラスを口にしていられるのだ。
リーンより短い任期の使節団は今までに二度帰還した。向こう側の科学力に頼るしかない恒星間の航行技術は短期間で驚くほど発達し、かかる時間を短縮したが、それでもテラ滞在が一番長く、使節団とは比べものにならないほど本星の外交本局の中枢に迎え入れられていたリーンの帰還は、母星の人々から格別な歓迎と興味をもって迎えられた。
…今ごろはクレイが質問攻めだな───…
リーンはふと自分の妻の姿を脳裏に思い浮かべた。
テラと、セイラム勢力圏に近いクロイア星とのハーフである妻は、リーンより五つ年下なだけだが、未だ美しいというよりは可愛らしいといった表現の方がピッタリくるような、若々しい女性だった。
優秀な『スペース・マン』を多数輩出することで知られる『学問の館』出身の彼女は、リーンのホームグラウンドであるリウ・アラームのどこに興味を引かれたのか、地理的だけはでなく文化程度の極端に劣ったこの星に不満や不安の一つも唱えることなく、逆に喜々とした様子で夫の帰還に同行してきたのだ。
リウ・アラームは単一民族による閉鎖的な国だが、それでも、近年は『夜空に浮かぶ他の星にも自分たちのような二足歩行の高等生物がいる』ということは知られてきている。まして、王族・貴族の中には使節団に参加して『他の星』へ渡り、彼の地の人々、文化を実際に体験してきた人々もいる。
『スペース・マン』としての教育だけでなく、適応力に恵まれ、身の内の芯に強いものを持つクレイは、初めて触れる異文化・異人種の中で、この星に到着したその日から、そんなリウ・アラームの人々とのコミュニケーションに成功していた。
翌日には、誰かと楽しそうに歓談すらしている様子を目撃して、リーンは彼女の持つ生来の強さ、器用さを改めて認識し、彼女ならうまくやっていけるだろうと、帰還前の一抹の不安を拭い去ったのだった。
「初めて目にしましたが───綺麗なものですね、栗色の髪の毛というのは………」
王もちょうどリーンの伴った、この星唯一の異世界人に思いが及んだのだろう、そんな風に話を持って行った。
「なんとか、うまくやっていけるとよいのですが………」
「大丈夫ですよ、クレイ殿なら。さすがにリーン殿の奥方なだけはある」
王も一目で彼女に好意を抱いたらしい。彼の言葉に世辞はなかった。
もっとも彼は昔からリーンを敬愛している。
現在、王は三十三才、リーンは三十七才。
王族及び皇族内では家柄や役職以上に年功序列が重要な習わしだから、オライオ王のリーンへの態度は不思議ではなかったが、アレドはそんな風習だけはでなく、リーンの人柄や人徳を承知した上で彼に敬意を払っていた。
2人には、リーンがテラへ赴任する前、皇族の若手として頭角を現しつつあった彼が年若い王を補佐していたという関係があった。
「あなたにそう言っていただけると心強い」
どうやら彼女はパウレーの人間とも仲良くやっていけそうだ───と思いながらリーンが頷くと、
「そう………彼女はいいのだが………」
ふと、アレドが独り言のように呟いた。
それに気づいたリーンがアレドに視線を合わせると、アレドもそれに気づき、一瞬躊躇ってから苦笑を漏らした。
「お帰りになった早々、こんなお話しをするのはなんですが………」
言い澱むオライオ王をリーンは視線で促した。
「皇族であるあなたの奥方───クレイ殿は王族の扱いを受けることになります。が、それは問題ありません。王であるわたしの権限内のことですから───王族に関しては。もちろんお二人───ご家族にとって、一番よい待遇を考えますよ。しかし―――問題はあなたのお子達です」
王はそこでいったん言葉を切り、居心地のよい椅子に沈み込んだ。
その一語一句を理解していたリーンは黙って頷き、先を促す。
「お子達は紛れもなくあなた―――皇族の血を引いている。それにはファラ・リュードのご宣託を仰がねばならない」
王の言葉に、リーンは黙って手の中のグラスに目を落とした。何か考えているようにも見えたが───その表情からは窺い知れなかった。
「実は、このたびあなたに無理言って帰還してもらったのも、実はこのあたりに関係があるんです」
「私の子ども達がなにか………?」
「いえ………。お子ではなく、ファラ・リュードの方です」
「………なにも聞いてませんが………」
「ええ、それは………」
不意に言葉を選ぶように、王は間を置いた。
「表面上はなにもないのです。この国の治世になんら問題はありません、今のところは。しかし………」
「ファラ・リュードがどうかなされたのですか?」
リーンは気遣わしげに尋ねた。
『ファラ・リュード』―――この惑星の数千年の歴史の中では何度も出現したといわれているが、この数百年の間では初めて現れた、リウ・アラームの生ける神。
だが、果たしてこの星の人々が実際にどれだけ彼らの守り神について知っているかとなると………。
「なんと言うか───ここ数年、ファラ・リュードは神殿にいらっしゃらないようなのです。………あるいはいらっしゃっても我々の言葉に応じて下さらないことだけなのかもしれませんが………。加えて、民のことに無関心ではないかと思われる節もあり………」
「まさか―――我々の守り神が?」
ようやく、ほんの少しだけでも表情を変えたリーンに王は重々しく頷いた。
『ファラ・リュード』は現人神であり、一つの人間の体を持つことは、皇族と王族のごく一部に限って知られていた。
しかし、それがどれくらい人間らしい精神構造という枠の制約を受けるのかは―――今現在、おそらく知る人は一人もいなかった。
時を隔て、現れる形は違えども、実際は単一の生命体なのか、あるいは星そのものを源とするエネルギー体なのか、もしくは、一つの血筋から生まれる超能力者なのか………それすら分かっていない。
「五年前の疫病の時も、昨年のサーラ川の氾濫も、ファラ・リュードは決して………ついに我々にお言葉をかけては下さいませんでした。幸いどちらも後々にまで響くような大災害にならずに済みましたが。しかし、シッドの時は百人近く、氾濫でも数十人の死者が出ました」
「そのことは聞いております」
平和なこの国において、百年単位で起きるような災害が五年のうちに重なって起きたことは、リウ・アラームの人々の心に大きな影を投げかけることになった。
「ファラ・リュードには取りつく島もありません。それには亡くなられた祭司長殿も大変困り果てておられ………最期まで気に病んでおられました。そしてご遺言で、あなたを呼び戻されるようにと、ラサーヌの任にぜひ就いて欲しいとのことで、我々も諸手を上げて賛成したわけです」
「―――ご幼少の頃はともかく、ファラ・リュードのご在位中に祭司長を立てるとはおかしなこととは思ったのですが………そうですか。しかし、私とて………」
「あなたは皇族では最年長グループのお一人であり、ご自分ではお気づきでないかもしれませんが、パウレー、パムールを問わず、人々からの人望がとても厚いのです。しかもファラ・リュードをご幼少の頃から知っておられる。前ラサーヌが亡くなられた今、そのような方は王族にも皇族にもあなた以外にはいないのです。あなたならファラ・リュードにお目通りがかなうかもしれない」
「―――帰星の報告に、一度神殿に伺わねばならないと思ってはおりましたが………」
『神殿』という言葉を口にした途端、リーンは不意に、あの薄暗い石造りの建築物の荘厳さを思い出した。
…───最後にあそこへ行ったのはいつだったろう?…
そしてこの世離れした、神々しいほどの雰囲気に満ちた神殿の中で、なお異質に輝いていた、リウ・アラームの守り神の姿を拝したのは………。
丈なすパールグリーンの髪。
淡いエメラルドの瞳。
………エレイン………。
「―――では、よろしいですね?」
王の言葉にリーンはハッと我に返った。
「パムールに行かれるのでしょう?」
「………ええ」
リウ・アラームの指導層の一人として、リーンにはこの星の人々を守り、先代から次代へと受け継いでいく責務があった。
断るわけにはいかない。
「―――本当は、あなたにはご迷惑なことだとは分かっていたのです………」
不意にトーンを下げて、王が言った。
内心感じるものを抑えて、リーンは彼を見た。
「永住、されるおつもりだったんでしょう? 地球に」
「………」
リーンは答えを避けた。
アレドは気にした様子もなく、
「それゆえ外の世界の方と結婚なさった。私としてもあなたにはずっとテラにいて、この星とあちらとのパイプ役でいていただきたかったのですが………。しかし、クレオも大きくなりました。なんとかやっていけるといいのですが………」
王は気にかかっていたらしい、リーンの次に全権大使に任命されて、すでにテラへと出発した王弟クレオの名を出した。
「―――大丈夫でしょう。彼なら」
リーンは今年二十四才になったクレオの顔を思い浮かべた。
どちらかといえば大人しい王とはあまり似ていない、活発な、物怖じしない若者。
…───十年前はいたずら好きの悪ガキだったのに…
時は人を変える。
クレオは立派な青年となり、オライオは若者から貫禄ある王となった。
そして………。
リーンは一瞬、思い出しかけた面影を反射的に心の奥にしまい込んだ。
それはこの十年、繰り返し馴れた心の動きだった。
「就任式は来週です。それまではゆっくりと―――」
そんな王の言葉にリーンは立ち上がった。
オライオは戸口まで彼を見送り、
「ところで、新しい館の住み心地はどうですか?」
と話しかけた。
リーンは微笑を湛えて、口を開いた。
王宮を包む夜の暗闇。
祝宴のあとで気まぐれに誘われるままアレドの部屋を訪れたため、リーンは従者も移動用のヒューもとっくの昔に帰していた。
最初はパウレー付きのヒューを借りるつもりだったが、リーンはなんとなく一人でいたい気分のまま、星明かりだけを頼りに夜道を歩き出した。
王宮のような幾つかの建築群と町や村の集落が点在するほか、常緑の自然が大部分を占める十年ぶりの故郷。
無人無灯の不自由さや警戒心より、彼は“懐かしさ”という不思議な高揚感に支配されていた。
実際、この辺りは治安の悪い場所ではない。というより、リウ・アラームにそのようなエリアはなく、それこそ、居酒屋が数軒立ち並ぶ町外れの一角が多少柄の悪い程度だ。そこですら運が悪いと酔っ払いに行き合う程度で、生命や財産が脅かされるような危険はまずない。
この国での災いは人がもたらすものではなく………。
ゆっくりと歩いていたつもりだったが、思ったよりも早く、リーンは三叉路の交差点までやって来た。
前方の二つに分かれた道を前に彼はしばし───らしくもなく逡巡した。
一方は、王宮から緩やかに広がる丘陵地へと出て、その一部を占める屋敷町には彼の新しい館もあった。
森の中に続く他方は神殿へと向かう。
どちらもリーンにとっては馴染みのある道だった。
「───」
いずれ果たさねばならない義務ならいつでも同じこと………。リーンは心の中でそう呟くと、森に入る道を選んだ。
草の間、わずかに土が見える細い道を歩き続けて数刻───。
やがて、木立が切れ、石造りの神殿の入り口が目の前に現れた。
大人でも抱えきれないほど太い二本の柱に囲まれた正門は、恐ろしいほど何一つ変わっていなかった。
相変わらず人気はない。
しかし荒れた様子もなく、昔から変わらず建物の世話だけはなされているようだった。
カツン!
中に入ったリーンが石の床を革靴の爪先で弾くと、小さな音が夜の空気に響いた。
建物の内部に入っても、過ごしやすい外気との温度差は感じられない。
それだけがリーンの記憶とは違い、彼はなぜかパムールの中はヒンヤリとした空気に満たされているものと思い込んでいた。
大広間―――斎場に出る。
祭主が公式に祭神と言葉を交わす、リウ・アラーム唯一にしてもっとも崇高な場所。
リーンは壁に手をやり花のレリーフをなぞった。
若き日、毎日のように通い詰めていた場所───暗くて目には見えなくても、脳裏にははっきりと周囲が再現されていた。
「懐かしい?」
不意に声が響いた。
「!───」
刹那、リーンは息を飲んだ。
「………ファラ・リュード………」
振り返りながら呟いた声が、思ったより落ち着いていたことにリーンは内心驚いた。
まるで雷に打たれたように喫驚しつつも、心のどこかでは予測していた―――再会。
ファラ・リュード。
………エレインは、二十三才の女性の形でそこに立っていた。
皇族の男女共通の白い、踝までの長衣を身にまとい、床に届くほど長い髪はほとんど色がないように見えた。
元々人より色素が薄い髪と、同じように薄い瞳をしていたが、年月はさらにそれを漂白したようだった。
「年を取ったはずなのに、そなたは変わらぬな」
「あなた様こそ………いや、変わられましたか」
リーンの前に不意に気配も感じさせず現れた女性は、もはや少女ではなかった。
しかし、その言葉遣いとは裏腹な………舌ったらずの、どこか子どもを連想させる声音だけは昔のまま、リーンの記憶にあるものと同じだった。
「用があったのだろう」
白い長衣と淡い色の髪をなびかせて、ファラ・リュードは踵を返した。
「………帰還の報告に参りました。遅れて申し訳ありません」
リーンはその背に姿勢を正した。
「続けなさい」
「ルード・リーン・メラントゥール。九年間のテラでの任務を終え、無事帰星致しました。ファラ・リュードのご加護に感謝いたします」
「冗談だろう」
ファラ・リュードは暗く笑った。
「私はこの星の守護神。テラにいたそなたとは無縁だ」
「ファラ・リュード」
「干渉したくとも………」
ファラ・リュードは意味ありげにリーンを見上げた。
「―――できぬ。用はそれだけか?」
今にもかき消えそうなその声に、
「祭司長の件、お聞き及びでしょうか?」
リーンは慌てて言葉を重ねた。
周囲がどう考えようと、決して自分は願って彼女に会える立場の者ではない。この機会を逃すわけにはいかなかった。
だが、
「亡き祭司長の最後の悪知恵だ!」
ファラ・リュードはそれまでの余裕を消すと、忌々しげに言い放った。
「………しかし今度ばかりは見当違いだな。今さらそなたの言うことなど───私は聞きはしない」
最後はいっそ淡々とした口調だった。
「そういう問題ではありません」
リーンは言い返した。
「では、どんな問題だ?」
ファラ・リュードは口の両端をわずかに持ち上げた。
それは若い女性が微笑んだようにも見える。だが実体は………。
リーンはこの時、九年の歳月をまざまざと感じた。
「―――ラサーヌは知っていたのだ」
彼の心中を察したのか、ファラ・リュードは空虚な眼差しを向けて静かに言った。
「少なくとも私を御せる者はリーン、そなたしかおらぬと。だからそなたが発った後、私に指図ができなくなると王たちに言いつけたのだ。そなたを呼び戻すようにと」
「ファラ・リュード………。一体なにがあったんです?」
愚問とは承知しつつも、リーンは聞かずにはおれなかった。
例えなにが起こり、なにが変わったとしても、彼女は『ファラ・リュード』―――これだけは変わることはない。
そうであることを疑いもしなかったからこそ、リーンはこの星を去る決断を下したのだ。
それがどんなに身を切られるような痛みだったとしても………。
ファラ・リュードはそんな彼を黙って見つめると、己の表情を『無表情』から『面白くない、居心地が悪い』ものへと切り替えた。
「───なにもあるはずがない。そなたがこの星を離れていたこの九年間、この国では変わりなく時は流れた」
「しかし………」
「なにか言いたいことでもあるのか?」
ファラ・リュードは尊大な口調で言った。
言葉、表情、態度………。それら一つ一つがかなり芝居がかっていることを、リーンが察知していることに彼女も気づいていた。
この再会の時が長引きすぎていることにも………。
一方、リーンは短く「いいえ」と区切るように言っただけで口を噤んだ。
この国に何もなかったわけではない。
しかし、先刻王が言及していたことはいずれ問題にしなければならないにしても、今、それを持ち出す必要もない───と彼は判断した。
二人は同じ危惧を抱いていたのかもしれない。
「―――それでは夜も更けましたので、これにて………」
「夜はもう明ける」
不意に歌うように呟いて、ファラ・リュードは扉に歩み寄った。
ふと動かした両手が、そうとは知れずに扉を開ける。
外の、透き通って薄暗い青の景観と共にヒンヤリとした空気が広間に流れてきた。
常春のリウ・アラームの、一番冷たい刻。
「………戻ってきて欲しかったけど、戻ってきて欲しくなかった───。なのに皮肉ね、ラサーヌは私のせいであなたを呼び戻すように指示した。最期まで案じ続け、最後まで私の意に添わず………」
リーンには外に顔を向けるファラ・リュードの表情は分からなかった。
そのため、
「ラサーヌ殿は皇族として、その責務を全うされたのです」
という言うほかはなかった。
「………そうね。今なら気にもならなかったでしょう………」
それを最後にファラ・リュードは押し黙り、リーンもそれに倣った。
十年近い時を隔てて巡り合ったこの邂逅の時を、彼はこのまま静かに終わらせたかった。
そして、外の冷たい空気が広間の中をあらかた満たし終わった頃、
「―――上の子は母方の姓を名乗らせなさい。そちらの血の方が濃い。下の子は皇族の籍に入れるように」
ファラ・リュードの突然の言葉を、リーンは一瞬理解し損ねた。
「ファラ―――」
それを遮り、
「そなたに関する決定はこれだけのはず」
ファラ・リュードは静かな───事務的な口調で続けた。
「―――あとはラサーヌの就任も、式典でもなんでも勝手にやるがいい。私の許可はいらぬ」
「ファラ・リュード」
「リィン」
ファラ・リュードは彼に向き直った。
「もう時間は過ぎた。あなたが帰ってきても、ラサーヌになっても、なにも変わらない。わたし―――ファラ・リュードは変わらない。必要なのは、わたしではない」
「! どういう意味です!?」
リーンは我が耳を疑った。
「ファラ・リュード!」
「あなたの帰還は意味がなかった。………いいえ、かえってわたしを―――」
言葉はそこで途切れ、ファラ・リュードは微かに表情を曇らせた。
痛みも混じるそれは、再会して初めて見せる、ファラ・リュードの真の感情だった。
リーンは開きかけた口を閉じた。
ファラ・リュードは彼から目を逸らせると、一歩後ずさり、まるで彼女を迎えに来たかのような一陣の小夜風とともにその姿を消してしまった。
「!───」
ここは唯一神が民の前に姿を現す神の領域。
人の感傷など一切排した荘厳な神殿の中、リーンは一人立ち尽くした。
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