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第2章 慕情
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銀河連合の最果てに位置するリウ第三惑星リウ・アラーム。
この国の人々は童話の中に出てくるような、淡い、若葉のきみどり色にも似たパステルグリーンの髪と瞳を特徴とし、現人神信仰を持ち、秩序良く四層の身分に分かれて平和な農耕社会を営んでいた。
このような身分の区別が、他の似たような星、あるいは歴史にありがちな差別や争いを生み出さなかったのは、信仰の、正にその対象である存在―――王を含めたリウ・アラーム人全てよりかけ離れた、絶大な力を有する現人神ファラ・リュード───が現実にいるからだと言われていた。
そして、そのファラ・リュードを生み出す、いわば生家となる皇族、そして実際に政を司る王族、その補佐を担い、事務を取り仕切る貴族、残り九割を占める農民―――の四層の中では神に近い血筋から自然と人々の尊敬の念は集まり、千年もの時の間、リウ・アラームの階級の秩序と平和は保たれていた。
そんな―――人だけがその様相を変える、常春の国の表面で時は八年を過ぎる。
王と祭司長、そして神官リーンの会合が終わるといつのまにか辺りは夜が忍び寄っていた。
王宮を辞した後、リーンは一人神殿へと向かった。
パムールは広大な森の中心に、パウレーは町側の森の外れに位置するので、王宮から神殿に向かうには森の半分を横切らなければならない。
最後の夕陽が一捌けだけ、夜の暗さに抵抗するようにあたりに差し込んでいるため、かえって鬱蒼とした木々の暗さが逆に強調されているような森の中、その距離からいってもリーンの行動は普通の人が取るものではなかった。
夜目がきき、穏やかな気質で四つ足、人の背ほどの高さのヒューに乗ってでも普通は嫌がる。
しかしリーンは自分でも不思議なほど、この広大な森の中の長すぎる───静かすぎるパムールへの一本道を、恐いとか億劫とかに感じたことはなかった。
まだ若い───それこそ少年の頃からずっと、数え切れぬほど行き来した道である。
その頃は一人前に仕事ができるようになったことが嬉しく、張り切っていたせいで、喜び勇んでこの道を脇目も振らずに通っていたのかもしれない。
やがて完全に日が落ち、あたりは完璧な暗闇になる。
巨大な建築物であるパムールがほんの一角だけ見渡せる場所まで、リーンはようやく辿り着いた。
彼は正門の脇の厩舎にヒューを入れ、正面の巨大な正玄関から神殿の中に入っていった。
まだ灯の入らぬ暗い回廊を真っ直ぐに抜けると高い扉の向こうは広い斎場である。
この国で一番重要な儀式―――祭事が、王族・皇族・貴族全てを集められ、行われる巨大な広間である。
高い吹き抜けの天井は今は閉じられているが開閉式で、開ければ空を振り仰ぐことができた。
祭日以外は三方の壁に刻まれたレリーフのほかは飾りはなく、今は人気を拒むような荒涼とした空気が満ちる、静かな聖なる空間と化していた。
遠くに隔たる左右の壁には回廊に通じるいくつもの小さな扉がある。
遥か彼方の正面―――一段高い祭壇の背には植物繊維が幾重にも織り込まれた恒久的な厚い白い幕が張られており、その向こう側がファラ・リュードが降臨する───彼女が民と接する、唯一にしてもっとも聖なる場所───といわれていた。それは百年近く行われていない儀式だったが。
リーンは祭壇に向かって歩いた。
「ファラ・リュード」
はっきりした、しかし決して大きくはない声は、彼を迎えも拒みもしないシンとした空気に吸い込まれていった。
聖なる白幕が張られている薄い壁の向こうは、構造上、完全にこちら側とは遮断されている。
通常、たとえ王族の長───つまり王であってもその向こう側の様子を知ることはできなかった。
石壁の奥にファラ・リュードの私室も含まれる幾つもの個室があることは、彼女に比較的近いとされる皇族の、それもほんの数人しか知らぬ事実だった。
もっとも今現在、それらの部屋のどれか一つで彼女が実際普通の人間と同じように寝起きし、食事を取り、生活を営んでいるのかはリーンでさえも知らない。
彼はキリッとした美しい立ち姿のまま言葉を重ねた。
「あなたのお言葉通り検討を重ねた結果、かの星の要請を受けて我が国から使節を派遣することに決定いたしました。つきましてはそれについてのご助言を承りたく存じます」
相変わらずシンとした空間に、リーンの歯切れのいい言葉が無理矢理のように伝わった。
彼はファラ・リュードがこの神殿のどこかにいることを確信しており、そうである限り、どんな呟きさえ彼女の耳に伝わることも知っていた。だからこうして話しているのである。
「ファラ・リュード?………お出ましを」
しかし彼女は応えない。
「―――」
リーンは困惑はしなかったが、頭の中では迷っていた。
諦めるには重大な用件である。
そのために彼はわざわざ………仕事場でなくなって久しく、最近では足を運ぶことも少なくなったパムールを訪れたのだ。
他の者ならばこれ以上、為す術はないが───彼はもちろん、彼女に対して畏怖の念を抱いてはいたが───私情を排した範囲であっても、言葉を交わしたことがあった。
彼はしばらく立ち尽くしたあと、踵を返して斎場を後にした。
回廊を横に突っ切ると、外に出る一番近い扉を探す。
そこから夜の暗い森の中に出ると、建物を大まかに二つに分ける裏の部分―――森の木々に混じるような細かい造りの柱の奥、ひっそりと目立たない扉から、再び神殿の中へと入っていった。
迷路のような幾つもの廊下と扉を通り抜けていくと、不意に、平凡な様相の小さな玄関ホールのような部屋に辿り着く。
そこは、今までの巨大で荘厳な雰囲気の、質素ながらも計算しつくされた神殿部分とは違い、何となく好感を抱かせるような、こじんまりとした部屋だった。
木製の軽そうな扉が一つついている。
無造作にそこまで近づいたリーンは、その扉を前にして再び躊躇した。
このドアを開けたことは一度もない。
ここまで来ようとすれば、さすがにその前にファラ・リュードが呼びかけにも応じるだろうと予想していたのが、それは見事に外れてしまった。
「………ファラ・リュード」
リーンはそっとドアに手を当てた。
軽い木の手触りは熱くもなく、冷たくもなく、彼の呼びかけには応えなかった。
仕方なくそっと手をずらして取っ手のないドアに力を入れると、それはフワッと不思議な感触で彼をまるで促すように開いた。
すると、
「!」
部屋からそれが彼の顔めがけて飛んできた。
リーンは咄嗟に顔を庇った。
バサッ!
顔を押さえた手の隙間から、床一面に色とりどりの花々が鮮やかな色彩をばらまいているのが見えた。
手を放すと、足元では細い樹皮で編まれた花筐がカラカラとやっと落ち着いて石の床に留まったところだった。
彼は視線を上げると、
「………カゴごと投げることはないでしょう」
さな部屋の奥に向かって静かに抗議した。
「祭壇の石でなかったことに感謝なさい」
素っ気なく返したファラ・リュードは、丈の短い亜麻色の衣にダークグリーンの長衣を袖を通さずに羽織り、深く暗い森の一部を切り取ったような窓辺にじかに腰かけて、石の枠に背凭れていた。
その様子に指一本動かした名残は見受けられない。
部屋の中は真っ暗な窓の外とは対照的に、そこかしこに置かれた陶器の瓶に揺らめく蝋燭が幾重にもオレンジ色の光を放っていた。
持ち主に従って窓辺に留まる長いエメラルドグリーンの髪も今は白く、オレンジ色に染まっていた。
「ご機嫌がお悪いようですが」
リーンはとりあえず花筐を拾い上げ、傍らのテーブルに置いた。
彼女は外を向いたまま、それには答えない。
…相当な荒れ模様だな…
リーンは思ったが表には出さず、
「なにがあったんです? どうか―――」
言いかけたのを、
「―――自分が原因だとは思わないの?」
遮って、彼女はようやく彼を振り向いた。
その表情は最近は少なくなってきたが時折顔を出す癇癪の色はなく、完全に子どもじみた気配を拭い去っていた。
「私がなにか?」
リーンは普通の声を出した。
「―――会議の結果を報告なさい」
十四才の少女は、この八年間培ってきたファラ・リュードとしての口調で十四才年長の男に命じた。
リーンはそれまでも美しかった姿勢をさらに正すとおもむろに口を開いた。
「外の世界───テラとの交渉を続行してよいとのあなたのお言葉通り、向こう側との接触を続けてきましたが、なにせ気の遠くなるような距離、そしてこちら側は通信装置さえ満足に扱えぬもどかしさで埒があかないとのテラ側の要望により、このたび、我が国から大使及び使節団を派遣することを決定致しました」
「………」
「………」
「―――それだけではないでしょう?」
思わず沈黙が重なった後、ファラ・リュードが仕方なく、といった風情で口を開いた。
それに対して、
「大使は私です」
リーンは簡潔にまとめた。
途端、まるでその言葉を待っていたかのように少女―――ファラ・リュードは窓枠から飛び降りると入り口に立つリーンにツカツカと歩み寄った。
「どういうことか、分かっていて決めたのね?」
見上げる少女にリーンは、
「ラサーヌはご高齢。他に王族・皇族の中に適任者はいないのです」
慇懃に答えた。
「アレドが行けばいい」
「世継ぎの弟君、クレオ殿がご幼少でなければ、あるいは」
「では時期を遅らせなさい」
「テラまでは片道二年かかります。これ以上遅らせることはできません」
部屋の中、ファラ・リュードは蝋燭の明かりの影の部分でキュッと唇を噛みしめた。
「では、あなたはその往復四年はかかるところへ行くというのね」
「リウ・アラームのためです、ファラ・リュード。テラは強大で、今のところずいぶんと友好的ですが、この先どうなるか見当もつきません。我々には情報が必要なのです」
「その前にこの星は滅びるわ!」
似つかわしくなく、彼女は吐き捨てるように言った。
「どういう意味です!?」
「あなたがいなければね」
「ファラ・リュード」
「つまり、この星には守り神がいなくなるのよ」
「ファラ―――」
「つまり、このわたしがね」
「エレイン!」
「だって約束したのに!!」
不意に堰が切れたように少女は叫んだ。
「あなたがいるから! わたしはわたしの役をちゃんとやるって言ったのにっ! 破ったのはあなたの方よ! それとも忘れてしまったの!?」
ファラ・リュード―――エレインはリーンに詰め寄った。
見上げる激しい眼差し、見下ろす揺るがぬ瞳―――。
「………覚えていますよ、ファラ・リュード」
リーンは微かな溜め息と共に答えた。
「………でもあれは―――」
「子どものたわ言?」
ファラ・リュードは小さくせせら笑った。そんな仕草も少女には似つかわしくなく………。
「あの時とは状況が違ってしまったのです」
しかし、リーンは平静を保っていた。
「確かにあのまま時が過ぎていれば私は神官として、一生あなたの側にあったでしょう」
「―――つまり、約束なんて状況次第でどんな風にも変わるのね。………あなたの意思ってどこにあるの?」
少女は辛辣な言葉を投げかけた。
「ファラ・リュード」
「なにを考えてるの?………―――いいえ、あなたはいつもこの星のことばかり。あなたにとってわたしは神殿そのものなのね。わたし自身はどうでもいいの」
「それは違います」
「いいえ!」
いったん力を失くしかけた瞳に、少女は再び、今度は苛立だしげな光を灯した。
「ファラ・リュード………」
リーンは力なく答えようとしながら、しかし無意識に諌めるような声を出していた。
少しずつ、彼女は余裕をなくしていくようで、そんな自分に彼女は気づいていた。そしてリーンも。
「今度は違うとは言わせない! だって事実だもの!」
構わずファラ・リュードは言い切ると、リーンから視線を外して体を動かした。
彼女が彼の脇を通り過ぎて、ドアに手をかけるまでの一瞬間、沈黙がみなぎった。
「―――ファラ・リュード」
「………」
少女が手を止める。
「―――私は皇族で、あなたはファラ・リュードです」
変わらぬ硬質の声。
俯いた顔の下できつく唇を噛みしめたのはほんの一瞬。
「―――それがなんだっていうの! いつもいつも最後にはそれ!」
彼女は扉を背にしてリーンを振り返った。
「わたしは人間よ! 他の人と同じなのよ!!」
我知らず悲痛な声になった。
リーンは反射的に目を背けた。
「一生をこの星に縛りつけられ、肉親だって、友達だっていない!………誰もいないのよ!!………それだって今までやってこれたのは、八年前あなたが約束してくれたから。一生そばにいてくれるって。わたしはそれを信じてた。ずっと信じてた………。それがあったからわたしはファラ・リュードとして―――!………それさえ、わたしがファラ・リュードだからって無視されてしまうの?」
最後は涙で声が震えた。
リーンは自分が出て行かなければならない時機を悟った。
黙って、彼女の背後のドアに手を伸ばす。
すると、
「だめっ!」
弾かれたように涙で濡れた顔の少女が叫んだ。
「!」
リーンは体が動かなくなるのを感じた。
「エレ………イン………!」
辛うじて声を絞り出すリーンを、エレインは涙がこぼれるのも構わず見つめた。
「リィン………」
頬を伝わる涙は蝋燭の明かりを灯してキラキラと輝いた。
銀色の睫に囲まれた、けぶるような淡いエメラルドグリーンの瞳は、今はうっすらと赤く………まるでただの少女のように………染まって、涙で濡れていた。
「リィン………あなたはいつもわたしをすり抜けて行ってしまう。なにもないような顔をして………。どうして? どうしてわたしの気持ち、分かってくれないの? 知ってるでしょう………?―――それとも、子どもの気持ちなんかほっとけば変わると思ってるの? わたしはあなたが―――」
「やめろ! エレイン!!」
リーンは必死に遮ろうとした。
しかし、
「―――好きなのに………」
言葉は吐息のように彼の頬を掠め、二人の唇は軽く、本当に軽く触れ合った。
「!」
ほんの一瞬の………。
「―――駄目だ、エレイン………」
ようやく自由になった腕をリーンはエレインの肩まで上げ、そっと彼女を引き離した。
「なぜ………?」
俯いた唇が震える言葉を紡ぎだす。
「いいじゃない、これくらい、どうせ………」
…あなたには決して届かないのだから───…
言ってしまいたい、しかし言いたくない言葉を途切らせ、エレインは、一途な思慕を抑えきれない十四才の少女の顔か、人ならぬファラ・リュードの顔としてか、自分でもどちらをすればいいのか分からないままリーンを見上げた。
「―――エレイン」
そんな少女の姿に、リーンは永久に告げるつもりのなかった、最後の言葉を口にしていた。
「好きですよ、エレイン」
驚いて、淡い色の瞳を見張る彼女を見下ろして、リーンはその時初めて微笑んだ。
それは理知的な頬を微かに歪め、聡明な瞳に和らいだ光を宿す、染みいるような微笑だった。
エレインは言葉もなく彼を見つめた。
落ち着いた、優しい声音が続く。
「この星に皇族として生まれたことは、たとえどんな職務に就こうと結果的にはファラ・リュードに仕えることが最終的な―――最高の義務。………私はあなたが生まれる前、そう教えられました」
「………」
「しかし―――私はあなたがご幼少の頃からおそばに接する機会に恵まれ、いつのまにか、まるであなたを自分の子どものように───私は子を持ったことはありませんが───愛しく思えてきたのです。生まれながらに課せられた義務としてではなく、己の子に対するように、何事にも力になりたい―――できることでも、できないことまでも。………ずっとそう思ってきました。私にとってあなたはまるで自分の子どものようであり、また何よりも愛らしい妹であり………―――そして、この国の指導層の一人として、この星の根本をなす、何にも代えがたい、仰ぎ見るような存在なのです」
「………」
ファラ・リュードは黙って、彼の言葉を一つも聞き漏らさないように熱心に耳を傾けていた。
たとえほんの一端であっても、彼が己の真情を吐露することは初めてのことだった。
ファラ・リュード=エレイン───彼女の傍らにあるリーンは、いつも上司のラサーヌ同様思慮深く、若いアレドをその聡明さと冷静さで補佐し、エレインに優しくはあったが私情に流されたことは───一度もなかった。
それが今………。
「………ありがとう………?」
咄嗟に少女はほかに言葉を見つけることができなかった。
「続きがあるのですが」
軽い、とも取れる口調でリーンが続ける。
少女は促す代わりにもう一度、彼を見上げた。
涙はもう乾いていたが、頬には銀色の跡が微かに残っていて、それも彼女がそっと手を翳すと、次の瞬間にはきれいに消えていた。
彼女はその時にはすでに悲しい確信で、彼が何を言おうと、それが彼らの間の最後の私事の会話になることを知っていた。
だからこそ───彼は口にするのだ。
「妹のようであり、と私は言いましたね。あなたは私の中でどんどん成長していく。いつかあなたは私に追いつき、やがて追い越すでしょう………。―――そうあってはならないのです」
彼女は長い間、その言葉の意味が分からなかった。
「なぜいけないの?」
尋ねる彼女にリーンは真摯に答えた。
「私があなたを愛せば、あなたは私に応えるでしょう。―――そんなことはあってはならないのです」
『愛』という言葉は含んでいても、感情の揺らぎのない、透徹した口調だった。
それは全ての言葉と感傷、反論、そして問いかけさえ封じる───。
「………」
ファラ・リュードはリーンを見つめると、銀色に近い睫をゆっくりと伏せ、そして再び上げた。
それが同意の印しであるのか、諦観か、あるいは拒否、怒りかでさえ………。
彼女は示さなかった。
数年の時を隔てずには―――…。
この国の人々は童話の中に出てくるような、淡い、若葉のきみどり色にも似たパステルグリーンの髪と瞳を特徴とし、現人神信仰を持ち、秩序良く四層の身分に分かれて平和な農耕社会を営んでいた。
このような身分の区別が、他の似たような星、あるいは歴史にありがちな差別や争いを生み出さなかったのは、信仰の、正にその対象である存在―――王を含めたリウ・アラーム人全てよりかけ離れた、絶大な力を有する現人神ファラ・リュード───が現実にいるからだと言われていた。
そして、そのファラ・リュードを生み出す、いわば生家となる皇族、そして実際に政を司る王族、その補佐を担い、事務を取り仕切る貴族、残り九割を占める農民―――の四層の中では神に近い血筋から自然と人々の尊敬の念は集まり、千年もの時の間、リウ・アラームの階級の秩序と平和は保たれていた。
そんな―――人だけがその様相を変える、常春の国の表面で時は八年を過ぎる。
王と祭司長、そして神官リーンの会合が終わるといつのまにか辺りは夜が忍び寄っていた。
王宮を辞した後、リーンは一人神殿へと向かった。
パムールは広大な森の中心に、パウレーは町側の森の外れに位置するので、王宮から神殿に向かうには森の半分を横切らなければならない。
最後の夕陽が一捌けだけ、夜の暗さに抵抗するようにあたりに差し込んでいるため、かえって鬱蒼とした木々の暗さが逆に強調されているような森の中、その距離からいってもリーンの行動は普通の人が取るものではなかった。
夜目がきき、穏やかな気質で四つ足、人の背ほどの高さのヒューに乗ってでも普通は嫌がる。
しかしリーンは自分でも不思議なほど、この広大な森の中の長すぎる───静かすぎるパムールへの一本道を、恐いとか億劫とかに感じたことはなかった。
まだ若い───それこそ少年の頃からずっと、数え切れぬほど行き来した道である。
その頃は一人前に仕事ができるようになったことが嬉しく、張り切っていたせいで、喜び勇んでこの道を脇目も振らずに通っていたのかもしれない。
やがて完全に日が落ち、あたりは完璧な暗闇になる。
巨大な建築物であるパムールがほんの一角だけ見渡せる場所まで、リーンはようやく辿り着いた。
彼は正門の脇の厩舎にヒューを入れ、正面の巨大な正玄関から神殿の中に入っていった。
まだ灯の入らぬ暗い回廊を真っ直ぐに抜けると高い扉の向こうは広い斎場である。
この国で一番重要な儀式―――祭事が、王族・皇族・貴族全てを集められ、行われる巨大な広間である。
高い吹き抜けの天井は今は閉じられているが開閉式で、開ければ空を振り仰ぐことができた。
祭日以外は三方の壁に刻まれたレリーフのほかは飾りはなく、今は人気を拒むような荒涼とした空気が満ちる、静かな聖なる空間と化していた。
遠くに隔たる左右の壁には回廊に通じるいくつもの小さな扉がある。
遥か彼方の正面―――一段高い祭壇の背には植物繊維が幾重にも織り込まれた恒久的な厚い白い幕が張られており、その向こう側がファラ・リュードが降臨する───彼女が民と接する、唯一にしてもっとも聖なる場所───といわれていた。それは百年近く行われていない儀式だったが。
リーンは祭壇に向かって歩いた。
「ファラ・リュード」
はっきりした、しかし決して大きくはない声は、彼を迎えも拒みもしないシンとした空気に吸い込まれていった。
聖なる白幕が張られている薄い壁の向こうは、構造上、完全にこちら側とは遮断されている。
通常、たとえ王族の長───つまり王であってもその向こう側の様子を知ることはできなかった。
石壁の奥にファラ・リュードの私室も含まれる幾つもの個室があることは、彼女に比較的近いとされる皇族の、それもほんの数人しか知らぬ事実だった。
もっとも今現在、それらの部屋のどれか一つで彼女が実際普通の人間と同じように寝起きし、食事を取り、生活を営んでいるのかはリーンでさえも知らない。
彼はキリッとした美しい立ち姿のまま言葉を重ねた。
「あなたのお言葉通り検討を重ねた結果、かの星の要請を受けて我が国から使節を派遣することに決定いたしました。つきましてはそれについてのご助言を承りたく存じます」
相変わらずシンとした空間に、リーンの歯切れのいい言葉が無理矢理のように伝わった。
彼はファラ・リュードがこの神殿のどこかにいることを確信しており、そうである限り、どんな呟きさえ彼女の耳に伝わることも知っていた。だからこうして話しているのである。
「ファラ・リュード?………お出ましを」
しかし彼女は応えない。
「―――」
リーンは困惑はしなかったが、頭の中では迷っていた。
諦めるには重大な用件である。
そのために彼はわざわざ………仕事場でなくなって久しく、最近では足を運ぶことも少なくなったパムールを訪れたのだ。
他の者ならばこれ以上、為す術はないが───彼はもちろん、彼女に対して畏怖の念を抱いてはいたが───私情を排した範囲であっても、言葉を交わしたことがあった。
彼はしばらく立ち尽くしたあと、踵を返して斎場を後にした。
回廊を横に突っ切ると、外に出る一番近い扉を探す。
そこから夜の暗い森の中に出ると、建物を大まかに二つに分ける裏の部分―――森の木々に混じるような細かい造りの柱の奥、ひっそりと目立たない扉から、再び神殿の中へと入っていった。
迷路のような幾つもの廊下と扉を通り抜けていくと、不意に、平凡な様相の小さな玄関ホールのような部屋に辿り着く。
そこは、今までの巨大で荘厳な雰囲気の、質素ながらも計算しつくされた神殿部分とは違い、何となく好感を抱かせるような、こじんまりとした部屋だった。
木製の軽そうな扉が一つついている。
無造作にそこまで近づいたリーンは、その扉を前にして再び躊躇した。
このドアを開けたことは一度もない。
ここまで来ようとすれば、さすがにその前にファラ・リュードが呼びかけにも応じるだろうと予想していたのが、それは見事に外れてしまった。
「………ファラ・リュード」
リーンはそっとドアに手を当てた。
軽い木の手触りは熱くもなく、冷たくもなく、彼の呼びかけには応えなかった。
仕方なくそっと手をずらして取っ手のないドアに力を入れると、それはフワッと不思議な感触で彼をまるで促すように開いた。
すると、
「!」
部屋からそれが彼の顔めがけて飛んできた。
リーンは咄嗟に顔を庇った。
バサッ!
顔を押さえた手の隙間から、床一面に色とりどりの花々が鮮やかな色彩をばらまいているのが見えた。
手を放すと、足元では細い樹皮で編まれた花筐がカラカラとやっと落ち着いて石の床に留まったところだった。
彼は視線を上げると、
「………カゴごと投げることはないでしょう」
さな部屋の奥に向かって静かに抗議した。
「祭壇の石でなかったことに感謝なさい」
素っ気なく返したファラ・リュードは、丈の短い亜麻色の衣にダークグリーンの長衣を袖を通さずに羽織り、深く暗い森の一部を切り取ったような窓辺にじかに腰かけて、石の枠に背凭れていた。
その様子に指一本動かした名残は見受けられない。
部屋の中は真っ暗な窓の外とは対照的に、そこかしこに置かれた陶器の瓶に揺らめく蝋燭が幾重にもオレンジ色の光を放っていた。
持ち主に従って窓辺に留まる長いエメラルドグリーンの髪も今は白く、オレンジ色に染まっていた。
「ご機嫌がお悪いようですが」
リーンはとりあえず花筐を拾い上げ、傍らのテーブルに置いた。
彼女は外を向いたまま、それには答えない。
…相当な荒れ模様だな…
リーンは思ったが表には出さず、
「なにがあったんです? どうか―――」
言いかけたのを、
「―――自分が原因だとは思わないの?」
遮って、彼女はようやく彼を振り向いた。
その表情は最近は少なくなってきたが時折顔を出す癇癪の色はなく、完全に子どもじみた気配を拭い去っていた。
「私がなにか?」
リーンは普通の声を出した。
「―――会議の結果を報告なさい」
十四才の少女は、この八年間培ってきたファラ・リュードとしての口調で十四才年長の男に命じた。
リーンはそれまでも美しかった姿勢をさらに正すとおもむろに口を開いた。
「外の世界───テラとの交渉を続行してよいとのあなたのお言葉通り、向こう側との接触を続けてきましたが、なにせ気の遠くなるような距離、そしてこちら側は通信装置さえ満足に扱えぬもどかしさで埒があかないとのテラ側の要望により、このたび、我が国から大使及び使節団を派遣することを決定致しました」
「………」
「………」
「―――それだけではないでしょう?」
思わず沈黙が重なった後、ファラ・リュードが仕方なく、といった風情で口を開いた。
それに対して、
「大使は私です」
リーンは簡潔にまとめた。
途端、まるでその言葉を待っていたかのように少女―――ファラ・リュードは窓枠から飛び降りると入り口に立つリーンにツカツカと歩み寄った。
「どういうことか、分かっていて決めたのね?」
見上げる少女にリーンは、
「ラサーヌはご高齢。他に王族・皇族の中に適任者はいないのです」
慇懃に答えた。
「アレドが行けばいい」
「世継ぎの弟君、クレオ殿がご幼少でなければ、あるいは」
「では時期を遅らせなさい」
「テラまでは片道二年かかります。これ以上遅らせることはできません」
部屋の中、ファラ・リュードは蝋燭の明かりの影の部分でキュッと唇を噛みしめた。
「では、あなたはその往復四年はかかるところへ行くというのね」
「リウ・アラームのためです、ファラ・リュード。テラは強大で、今のところずいぶんと友好的ですが、この先どうなるか見当もつきません。我々には情報が必要なのです」
「その前にこの星は滅びるわ!」
似つかわしくなく、彼女は吐き捨てるように言った。
「どういう意味です!?」
「あなたがいなければね」
「ファラ・リュード」
「つまり、この星には守り神がいなくなるのよ」
「ファラ―――」
「つまり、このわたしがね」
「エレイン!」
「だって約束したのに!!」
不意に堰が切れたように少女は叫んだ。
「あなたがいるから! わたしはわたしの役をちゃんとやるって言ったのにっ! 破ったのはあなたの方よ! それとも忘れてしまったの!?」
ファラ・リュード―――エレインはリーンに詰め寄った。
見上げる激しい眼差し、見下ろす揺るがぬ瞳―――。
「………覚えていますよ、ファラ・リュード」
リーンは微かな溜め息と共に答えた。
「………でもあれは―――」
「子どものたわ言?」
ファラ・リュードは小さくせせら笑った。そんな仕草も少女には似つかわしくなく………。
「あの時とは状況が違ってしまったのです」
しかし、リーンは平静を保っていた。
「確かにあのまま時が過ぎていれば私は神官として、一生あなたの側にあったでしょう」
「―――つまり、約束なんて状況次第でどんな風にも変わるのね。………あなたの意思ってどこにあるの?」
少女は辛辣な言葉を投げかけた。
「ファラ・リュード」
「なにを考えてるの?………―――いいえ、あなたはいつもこの星のことばかり。あなたにとってわたしは神殿そのものなのね。わたし自身はどうでもいいの」
「それは違います」
「いいえ!」
いったん力を失くしかけた瞳に、少女は再び、今度は苛立だしげな光を灯した。
「ファラ・リュード………」
リーンは力なく答えようとしながら、しかし無意識に諌めるような声を出していた。
少しずつ、彼女は余裕をなくしていくようで、そんな自分に彼女は気づいていた。そしてリーンも。
「今度は違うとは言わせない! だって事実だもの!」
構わずファラ・リュードは言い切ると、リーンから視線を外して体を動かした。
彼女が彼の脇を通り過ぎて、ドアに手をかけるまでの一瞬間、沈黙がみなぎった。
「―――ファラ・リュード」
「………」
少女が手を止める。
「―――私は皇族で、あなたはファラ・リュードです」
変わらぬ硬質の声。
俯いた顔の下できつく唇を噛みしめたのはほんの一瞬。
「―――それがなんだっていうの! いつもいつも最後にはそれ!」
彼女は扉を背にしてリーンを振り返った。
「わたしは人間よ! 他の人と同じなのよ!!」
我知らず悲痛な声になった。
リーンは反射的に目を背けた。
「一生をこの星に縛りつけられ、肉親だって、友達だっていない!………誰もいないのよ!!………それだって今までやってこれたのは、八年前あなたが約束してくれたから。一生そばにいてくれるって。わたしはそれを信じてた。ずっと信じてた………。それがあったからわたしはファラ・リュードとして―――!………それさえ、わたしがファラ・リュードだからって無視されてしまうの?」
最後は涙で声が震えた。
リーンは自分が出て行かなければならない時機を悟った。
黙って、彼女の背後のドアに手を伸ばす。
すると、
「だめっ!」
弾かれたように涙で濡れた顔の少女が叫んだ。
「!」
リーンは体が動かなくなるのを感じた。
「エレ………イン………!」
辛うじて声を絞り出すリーンを、エレインは涙がこぼれるのも構わず見つめた。
「リィン………」
頬を伝わる涙は蝋燭の明かりを灯してキラキラと輝いた。
銀色の睫に囲まれた、けぶるような淡いエメラルドグリーンの瞳は、今はうっすらと赤く………まるでただの少女のように………染まって、涙で濡れていた。
「リィン………あなたはいつもわたしをすり抜けて行ってしまう。なにもないような顔をして………。どうして? どうしてわたしの気持ち、分かってくれないの? 知ってるでしょう………?―――それとも、子どもの気持ちなんかほっとけば変わると思ってるの? わたしはあなたが―――」
「やめろ! エレイン!!」
リーンは必死に遮ろうとした。
しかし、
「―――好きなのに………」
言葉は吐息のように彼の頬を掠め、二人の唇は軽く、本当に軽く触れ合った。
「!」
ほんの一瞬の………。
「―――駄目だ、エレイン………」
ようやく自由になった腕をリーンはエレインの肩まで上げ、そっと彼女を引き離した。
「なぜ………?」
俯いた唇が震える言葉を紡ぎだす。
「いいじゃない、これくらい、どうせ………」
…あなたには決して届かないのだから───…
言ってしまいたい、しかし言いたくない言葉を途切らせ、エレインは、一途な思慕を抑えきれない十四才の少女の顔か、人ならぬファラ・リュードの顔としてか、自分でもどちらをすればいいのか分からないままリーンを見上げた。
「―――エレイン」
そんな少女の姿に、リーンは永久に告げるつもりのなかった、最後の言葉を口にしていた。
「好きですよ、エレイン」
驚いて、淡い色の瞳を見張る彼女を見下ろして、リーンはその時初めて微笑んだ。
それは理知的な頬を微かに歪め、聡明な瞳に和らいだ光を宿す、染みいるような微笑だった。
エレインは言葉もなく彼を見つめた。
落ち着いた、優しい声音が続く。
「この星に皇族として生まれたことは、たとえどんな職務に就こうと結果的にはファラ・リュードに仕えることが最終的な―――最高の義務。………私はあなたが生まれる前、そう教えられました」
「………」
「しかし―――私はあなたがご幼少の頃からおそばに接する機会に恵まれ、いつのまにか、まるであなたを自分の子どものように───私は子を持ったことはありませんが───愛しく思えてきたのです。生まれながらに課せられた義務としてではなく、己の子に対するように、何事にも力になりたい―――できることでも、できないことまでも。………ずっとそう思ってきました。私にとってあなたはまるで自分の子どものようであり、また何よりも愛らしい妹であり………―――そして、この国の指導層の一人として、この星の根本をなす、何にも代えがたい、仰ぎ見るような存在なのです」
「………」
ファラ・リュードは黙って、彼の言葉を一つも聞き漏らさないように熱心に耳を傾けていた。
たとえほんの一端であっても、彼が己の真情を吐露することは初めてのことだった。
ファラ・リュード=エレイン───彼女の傍らにあるリーンは、いつも上司のラサーヌ同様思慮深く、若いアレドをその聡明さと冷静さで補佐し、エレインに優しくはあったが私情に流されたことは───一度もなかった。
それが今………。
「………ありがとう………?」
咄嗟に少女はほかに言葉を見つけることができなかった。
「続きがあるのですが」
軽い、とも取れる口調でリーンが続ける。
少女は促す代わりにもう一度、彼を見上げた。
涙はもう乾いていたが、頬には銀色の跡が微かに残っていて、それも彼女がそっと手を翳すと、次の瞬間にはきれいに消えていた。
彼女はその時にはすでに悲しい確信で、彼が何を言おうと、それが彼らの間の最後の私事の会話になることを知っていた。
だからこそ───彼は口にするのだ。
「妹のようであり、と私は言いましたね。あなたは私の中でどんどん成長していく。いつかあなたは私に追いつき、やがて追い越すでしょう………。―――そうあってはならないのです」
彼女は長い間、その言葉の意味が分からなかった。
「なぜいけないの?」
尋ねる彼女にリーンは真摯に答えた。
「私があなたを愛せば、あなたは私に応えるでしょう。―――そんなことはあってはならないのです」
『愛』という言葉は含んでいても、感情の揺らぎのない、透徹した口調だった。
それは全ての言葉と感傷、反論、そして問いかけさえ封じる───。
「………」
ファラ・リュードはリーンを見つめると、銀色に近い睫をゆっくりと伏せ、そして再び上げた。
それが同意の印しであるのか、諦観か、あるいは拒否、怒りかでさえ………。
彼女は示さなかった。
数年の時を隔てずには―――…。
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