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第1章 常春の星

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 「リィン! リィン!」

 舌っ足らずの可愛らしい声が誰かを呼んでいる。
 荘厳だが、暗く重苦しい雰囲気の漂う神殿パムールとは対照的な、裏手の森の日だまり。
 神殿を囲む広大な森の一角で、周囲の若葉より鮮やかな、ライトグリーンの髪の若者が振り返った。
「エレイン! どうしてここに―――」
 驚く声は、抱きつくというより飛びつくようにぶつかってきた子どものせいで途切れた。
「ひどいっ、どうしてここまで来て、わたしに会いに来てくれないの!?」
 エレインと呼ばれた幼い少女は彼女を受け止めた相手に向かって、本気で怒っているのだという証拠に、そのリウ・アラームの民にしてはひどく色素の薄いエメラルドの瞳で相手を睨みつけた。
 もっともそんな仕草も幼女がすれば愛くるしさが増すだけだ。
 品のいい、二十才前後の若者、リーンも自然に浮かぶ微笑を自ら戒め、
「エレイン………」
 困り果てた、という風に呟いてから長身を屈めて少女と同じ目の高さになった。
 そして、
「エレイン。あなたはもうじき六つになるんですよ」
 言い聞かせる口調になった。
 すると幼い女の子───エレインは、
「そんなの知ってる」
 『なんでそんな分かりきったことを言うの?』とでも言いだけな口調で答えた。
 そんな仕草もいちいち可愛らしくて、リーンはもう一度、慌てて表情を引き締めなければならなかった。
「いいえ、分かってませんね。あなたはファラ・リュード───この惑星の生ける神なんですよ」
 途端に少女は、何とも嫌そうな顔でそっぽを向いた。
 リーンは彼女の両脇に手を回して抱き上げ、大木が横たわった天然の椅子に座らせた。すると彼が緩やかに少女を見下ろす高さになる。
「―――いくら私が皇族のメラントゥールといってもこんな風に会ってはいけないんですよ」
「………去年までは会ってくれたのに」
 少女は果敢に言い返した。それにはリーンは微笑んで、
「私はあなたの父君、祭司長ラサーヌ様の補佐をしていましたからね」
 と答えた。
「あなたは父君の所で育てられていた」
「ラサーヌ!」
 エレインはいきなり叫んだ。
「ラサーヌなんて大っ嫌いっ!」
 こめられる限りの嫌悪をこめて。
 リーンは理知的な頬を一瞬小さく歪めたあと、
「父君のことをそんな風におっしゃるものではありません」
 と、軽く窘めたが、そこには同情がこもっていた。
 少女は敏感にそれを察し、
「ねぇ、どうしてあんまり来ないの?」
 並んで腰を下ろしたリーンの長衣の袖を引っ張った。
 そんな甘えた仕草は子どもに縁のない、若い独身者のリーンをしばしば戸惑わせ、次の瞬間微笑ませた。
 しかしそれはエレインが時折垣間見せる子ども離れした顔───すなわち『ファラ・リュード』としての人間離れした力───と同時に彼女の中には自然に存在し、その落差はリーンをしばしば驚かせた。
 今は───幼い、子ども独特の純真な瞳がまっすぐに彼を見上げている。
「補佐役を代わったからですよ。最近の仕事はもっぱら王宮パウレーにあるのです」
 その言葉のどこに不満を感じたのか、エレインはふっくらとした子どもらしい頬を膨らませると、本人には関係なく大人びた輝きを宿す瞳を険しくした。
「パムールに用がないからわたしと会うことなんかないってゆーの! いーもんっ、もうリィンになんか絶対会わないから! もう二度とここにきちゃだめっ! 足を一歩でも入れちゃだめよ!」
「エレイン………」
 言い募るほど顔を赤くしていく少女をリーンは思わず腕の中に納め、そのまま軽く抱き締めた。
 触れることはおろか会うことすら禁じられているまだ幼い神に、いけない行為だと分かっていても、リーンにはこの孤独な子どもを突き放すことはできなかった。
「いつも心配していたよ、きみのことは」
「うそっ」
 もう半ば泣きべそをかきながら、少女はそれでも言い返した。
「パウレーに行って、きれいな姫君たちとおしゃべりばかりしてるんでしょ」
「こら、誰がそんなことをあなたに吹き込んだんです?」
 リーンは少女を胸から離してその顔を覗き込んだ。
「誰がって………?」
 エレインは不思議そうに彼を見つめ返した。
「あなたとラサーヌのほかに、誰がわたしに会うの?」
「!───」
 誰も『ファラ・リュード』―――“神”に直接会うことは出来ない。それは許されないこと。
 リーンは咄嗟に答えられなかった。
「そう………ですね。すみません、エレイン」
「ねぇ、明日も来て」
 希望にキラキラと輝く瞳で覗き込まれて、リーンは咄嗟に返事に窮した。
 すると鋭くその意味を察したエレインは急に表情を無くした。
「うそつき………。ラサーヌと同じ。わたしの言うことは一つも聞いてくれないで、みんなダメって言うの」
「嘘なんかついたことありませんよ」
「うそ」
 それが嘘だと言わんばかりの口調で少女はきっぱりと言い切った。
「わたしのこと、心配なんかしてないじゃない。いっつも難しいことばっかり考えてるんでしょ。みんなわたしのことなんかどうだっていいの」
「そんなこと………」
 人々の認識―――そして、この星の存在そのものに関わる根源からあまりにもかけ離れた言葉に、リーンは思わず息を飲んだ。
「―――そんなことあるわけないでしょう。あなたはこの星で一番尊い存在なんですよ」
「関係ないっ!!」
 今度こそ思いっきり、リーンが思わず耳を塞ぎたくなるほどの金切り声を上げてエレインは丸太から飛び下りた。
「みんな大っ嫌い! とくにあなたはっ!」
 リーンは駆け出しかけた少女をすぐに捕まえた。
「なに駄々をこねているんです? 機嫌を直して」
 リーンは再び彼女が逃げ出さないよう、その肩を抱いて歩きだした。
 そのゆったりとした歩調にエレインも気を変えたのか、黙っていつものようにリーンの手を探り当て、繋いでおとなしく歩きだした。
 仲の良い、若い親子のような二人を森独特の静寂が包み込む。
 気候のよいリウ・アラームの森林地帯は危険な大型獣は生息せず、散策にぴったりの穏やかな風景が広がっている。だが、この森の中心には神殿があるため近づく村人は滅多におらず、まして神殿のすぐ裏手になるこの辺りは、皆無といっていいほど人の姿はなかった。
 遠くで甲高い鳥の鳴き声がする。
「みんな………ラサーヌはファラ・リュードが大事なの。わたしなんかどうでもいいの」
「………エレイン」
 リーンはそれがずっと少女を悩まし続けてきた想いだと知っていた。
 そのため彼は慎重に言葉を選び、
「あなたは………エレインとファラ・リュードは同じ人………同じものなんですよ」
 と心を込めて答えた。
「―――今はまだ実感が湧かないかもしれませんが」
「でも大事なのはファラ・リュードの方」
 少女は言い張る。
「違いますよ。皆………いえ、あなたを身近に知る者は、みんなあなたを大切に思うでしょう」
「身近な人ってだれ? あなたくらいよ」
「もちろん」
 見上げてくる少女に彼は微笑んだ。
「私にとってきみは大切な子だよ。エレイン」
 リーンは親しみと同情をできるだけ正確に伝えるために、再びくだけた口調を使った。
 そうでなくても彼は定められた禁忌をとっくに犯している。今さら言葉くらい───と思った訳ではなかったが。
 この星の生きた守り神に接することは───赤子の時に乳母がつく以外───世話をする侍女さえ拝顔することは許されなかった。ただ一人、実の父親であり、皇族を統べる祭司長ラサーヌだけが公の接見を認められている。
 王族の実母は彼女が物心つかぬうちに亡くなっていた。
「―――本当?」
 不意に、エレインが強く念を押した。
「え―――?」
「大切って本当?」
「………ああ」
 リーンは慌てて強く頷いた。
 しかしエレインはまだどこか不信を捨てきれない顔をしている。
 だから、
「もちろん。いつもそう思っているよ」
 彼はもう一度力強く頷いた。
「―――」
 幼い女の子は束の間、一生懸命に考え込んだようだったが、彼がそれを問う間もなく顔を上げ、
「ねぇ、ずぅーっとそばにいてね」
 とリーンに言った。
 二人はいつの間にか立ち止まっていた。
「エレイン………」
 リーンは困ったように顔を傾げた。
 森の上からは淡い日の光が差し込んで、リーンの若い顔を美しく照らし出していた。
 それはエレインの最も好きなリーンのうちの一つだ。
 皇族の若者メラントゥールであるリーンは若々しく整った顔立ちをしているが、それは美しさより先に、聡明で理知的な印象を人に与えるものだった。
 もっとも五つの子どもがそこまで考えるはずもなく、彼女はただうっとりと(リーンの目にはじっと)彼を見つめ続けていて、彼はとうとう根負けしたように両手を軽く挙げた。
「―――しようのない子だね。そばに、とは言えないけど近くにはいるよ」
「絶対?」
「ああ………。あなたが私を必要としなくなるまでね」
「そんなこと絶対ない!!」
 エレインは勢いよく叫んだ。
「ずぅーっと永久にそばにいてねっ、約束よ!」
「はいはい。約束します。いつもあなたのことを思ってます」
 リーンは左手を軽く胸に当てて宣言をするように答えた。そうした仕草や言葉はエレインを大いに満足させた。
「絶対ねっ。リィンっ、絶対っ!」
 エレインはリーンが下ろした手を掴んで振り回しながら、
「わたしっ、早く大人になるの! そしてリィンといろんなとこに行くの!」
 はしゃいで言った。
「いろんなとこってどこです?」
 苦笑しつつもリーンはふと興味を引かれて、彼女の言葉を訂正するより先に尋ねていた。
「えっとね………」
 少女はリーンの手を放すと一歩先にピョンと飛び出し、それから頭を巡らせて無邪気に叫んだ。
「南の方とか北の方っ! それからそら・・!」
「そら?」
 リーンは思わず聞き返した。
 少女の『そら』の意味は、『上空』と『宇宙』が混じり合っていた。
「うんっ。いつか行くの!」
 エレインは無邪気に頷いた。
 彼女の中では二つの言葉に境目がないらしい───と察したリーンは、
「ソラ、ね………」
 と改めて呟いた。
 彼はこの時、エレイン―――『ファラ・リュード』の無限の力をまざまざと感じていた。
 この歳でどうして宇宙そらに出ることなど思いつくのだろう………。
 この国―――リウ・アラームにはまだそんな概念すらないというのに。
 この星のレベルは宇宙どころか科学という言葉すらまだ存在しない。
 まして宇宙をいく船スペース・シップなど想像できるはずもなく、過去に来訪の事実もない。
 それなのにエレインはこの星の指導層―――王侯貴族が民にはひた隠しにしている、遠いテラからの使者を察知しているのだ。
 神―――『ファラ・リュード』は何を思うのか。
 創造の女神ファラ・リュードに見守られ、緩やかで優しい眠りをむさぼるこの星に、好意的とも侵略的ともまだ分からぬ未知の手が差し伸べられたのだ。
 今こそ、その人知を超えた叡知を、無知なるリウ・アラームの民に示して欲しかったが、故意か偶然か分からぬまま、エレインは未だ幼生こどもの言動を繰り返している。
 そこまで考えて、リーンはラサーヌのエレインに対する態度―――未だ彼女を国政に参加させぬやり方に疑問を持った。
 いっとき彼はラサーヌが親心から我が子エレインを、人とはかけ離れた生活を送ることになる『ファラ・リュード』として認めぬのかとも思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 おそらくエレインが敏感に感じている方が正しいのだろう。
 ラサーヌは自分が神殿の奥深くに閉じこめている己の娘を、まだ『ファラ・リュード』とは認めていない。平凡な………国を導く存在にはほど遠い、取るに足らぬ子どもだと思っている。
 そしてエレインは、ラサーヌが『ファラ・リュード』の発現を一日千秋の思いで待っていると感じているからこそ、彼の前ではかえって子どもじみた行動に出ていることも───リーンには分かっていた。
 せめて実の父親ラサーヌが、もう少し我が子に人として慈愛深く接していたら………。
 ―――リーンにはどうにもならぬことだったが。
「………リィン?」
 黙ってしまった彼を見上げて、エレインが不安そうに小さく呼びかけた。
「ああ、ごめん」
 我に返ってリーンは笑顔を作った。意識して人に笑顔を見せようなどと、彼はエレインの前以外で考えたことはなかった。
「んーん………疲れてるの?」
「そうじゃないよ。大丈夫」
 リーンはパステルグリーンの瞳を和ませた。
 彼は傍らの少女が自分のことを心から慕ってくれているのを知っていた。だからこそ、余計憐れみを感じるのだ。
「エレイン」
 不意に彼は足を止めて手を放し、膝をついて少女と向かい合った。
 少女の肩にかかる淡いエメラルドグリーンの髪ごとリーンは華奢な両肩を強く掴んだが、エレインは嫌とは言わなかった。
「五つのあなたにこんなことを言うのは酷とは分かっているんだが………。あなたは普通の人とは全く違った存在として生まれてきたんだ。人とはかけ離れた能力を持っている。だから………リウ・アラーム―――この星のために、どうかリウ・アラームの守り神となることを拒まないで欲しい。―――結局、どこまでいってもあなたはあなた………エレインもファラ・リュードもあなたでしかあり得ないんだから。それだけは変えようのない真実だから。そんなあなたのために、私にできることがあるならなんでもするから」
 ―――何もできないかもしれないが、と続く言葉は、
「なんでもっ? なんでもしてくれるの?」
 エレインに遮られた。
「ああ」
「じゃそばにいて! 一生そばにいて! してほしいのはそれだけ。それだけ叶えてくれたら、わたしはわたしの役目をちゃんとするから」
 エレインは子どもらしい一途さでキッパリと言い切った。
 リーンは目を細めて少女を見つめた。
「いい子だね。エレイン」
「約束よ」
 重ねられた言葉に、リーンは笑みを消さぬまま頷いた。
「ああ」
「約束よ」
「ああ、エレイン………」
 リーンはエレインの気が済むまで何度も頷いた。

「約束―――…」

 森のざわめきが、木霊を静かに消し去っていく。
 梢を揺らす優しい風。
 穏やかに降り注ぐ明るい日の光。
 それは永遠の森の風景───。
 このときのリーンに、子どもエレインとの約束を破る気などあろうはずもなく―――そして、もしこの約束が破られた時、二人がどうなっていくのかなどは想像しようもないことで………。
 この時、リーンは二十才。
 助祭ラシッドを経て、その有能さから王族とのパイプ役―――アレドの補佐を務めるようになったばかりの頃だった。
 エレインは五才―――あとひと月で六才。
 すでに現人神ファラ・リュードとしての自覚が芽生えているのか、いないのか………。
 余人には窺い知れない領域だった。
 ───彼女自身以外には………。
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