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第零章  深海巨構  零之怪

第11話 旅行の時はパンを買い忘れるな

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 *11


  部屋の扉を開けて中に入ると、天上に、今にも灯りが消えてしまいそうな、心細い小さな電球が一つだけある薄暗い部屋で、もう何年も掃除をしていないよう な、ほこりまみれのベッドが二つ、部屋の隅に並んでいて、部屋全体も人の出入りが何年も無かったような埃とかび臭い、汚い部屋だった。

 部屋の床は木で出来ていて、歩く度にみしみしと底が抜けてしまいそうな音が鳴った。
 それに、小さなテーブルが一つだけ部屋の真ん中に、ちょこんと置いてあるだけだ。
 シャワーも無ければ、ドライヤーも無い。

 幸い──なのかは、分からないけれど。
 小さな洗面台ならあった。
 ついでに汚いタオルも一枚だけ……と言うか、汚れ過ぎていて雑巾にしか見えない。
 はあ……。
 少しでも期待した僕が馬鹿だった。
 これでは、濡れた髪も渇かすことが出来ないぞ。

 仕方が無いので、僕は手だけでも洗おうと思い洗面台の蛇口をひねったけれど──水がでない。
 ムキになって強く蛇口をひねると、蛇口が少し震動し、蛇口の中から勢いよく緑色の液体が吹き出した。

 「うわっ! なんだよこれ!?」

 「ん? どうしたんだ九条君」

 僕の驚いた声に臥龍が反応した。

 「いや、洗面台の蛇口をひねったら、緑色の液体が出たんですけど……」

 「緑色の液体……? それはきっと、あれだろ。緑茶だ」

 「なんで水道から緑茶が出るんだよ! 普通に考えておかしいだろ」

 「何言ってんだ。君は知らないと思うが、静岡県の水道は蛇口をひねると緑茶が出るんだぞ」 

 「ああ、なるほど。だから緑色なのか──って! ここは静岡じゃなくて沖縄だ!」

 「それじゃあ、きっとポンジュース蛇口だな」

 「なんだよ……ポンジュース蛇口って……」

 「知らないのか? 愛媛県では蛇口からポンジュースが出るんだぞ」

 「へえ、始めて知った──って! ここは愛媛じゃないしポンジュースはオレンジ色だろ!」

 「きっと、アベレージな学生の君と一緒で、まだ青いみかんだから、色も緑なんだよ。ふっ」

 臥龍はしたり顔で僕に言った。

 「『ふっ』じゃないんだよ。なに『上手いこと言ってやったぜ』みたいな顔をしてるんだ。全然上手く無いし、青いみかんの中身もオレンジ色だろ!」

 「まあ、この部屋は随分と使われていないようだし、普段から頭を使わないアベレージな学生の君と一緒で、変色してオレンジ色から緑色に変わったんだろ」

 「おいちょっと待て。それは僕が腐ったみかんだって言いたいのか?」

 「腐ったみかんだなんて言って無いだろ。君は自意識が過剰なんだよ。俺は変色したって言ったんだ」

 「変色してる時点でもう腐ってるだろ!」

 「あっ! もしかしら……」

 臥龍は、大事なことでも思い出したかのような表情で言った。

 「ここは熱帯だから、吸うと愉快になれる、緑のハーブで作ったジュースかもしれないぞ」

 「吸うと愉快になれるハーブって……それってもしかして──」

 「ああ。非合法なハーブだ」

 臥龍は至極しごく真面目な顔で言った。

 「そんな危険なジュースが出る水道なんてあるわけねーだろ! それだったら青汁の方がまだマシだぞ!」

 「でも、飲んだら凄く愉快になれるかもしれないんだぞ。蛇口をひねる度に、いつも愉快で幸せになれるかもしれないんだぞ」

 「そんな危ない『かもしれない』なんて誰もいらねーよ! そんなの飲んだら体に悪影響だろ! それに、いつも愉快で幸せなのはお前の脳みそだろーが!」

 「俺の脳みそが愉快で幸せってどういう意味だ! 全く、人がせっかく冗談で言ってやってるのに。君は大人を馬鹿にし過ぎだ」


 臥龍はそう言うと、僕に背中を向けた──機嫌を損ねてしまったのだろう。
 そして、自分の肩に掛けてあった鞄を床に降ろすと、鞄の中をごそごそといじり始めた。

 しかしまあ、緑の液体の正体はいったいなんだったのだろうか。
 普通に考えれば、ずっと使われていないような錆び付いた水道なので、水の中に錆びが混じり、水が変色した色だとは思うのだけれど──あの緑の液体を飲む勇気は僕には無い。
 と言うか、頼まれてもご免である。
 飲んだら、絶対にお腹を壊すこと受け合いだからだ。


 お腹と言えば、飛行機内で朝食を食べてから、その後は何も口にしていない。
 一応は雨風をしのげる部屋にいるので、少し緊張の糸が切れたのだろう、お腹がとても減って来た。

 それに臥龍は、ずっとそっぽを向いたままだし、まだ機嫌が治らないのだろう。
 まあ、頼りにならないエロいおっさんではあるが、一応は僕よりも歳上なのだし──それに、一応は大学の哲学教授なのだから、プライドが傷ついてしまったのだろう。
 うーん……。
 ここは、形だけでも謝っておくか。

 「あの……臥龍さん……さっきは、すいませ──」

 僕が謝ろうと思い近づくと、臥龍は僕に見えないように隠れて、自分だけこっそりとパンを食べていた。

 「おい! なんだそのパンは!」

 「あっ……。いや、違うぞ。これはパンでは無く思考パンと言ってだな──」

 「いや普通にパンだろ! どこからどう見ても、パン以外のなにものでも無いだろ!」

 こいつ、怒って僕に背中を見せていたのでは無くて、隠れて自分だけパンを食べていやがったのか!

 しかも、僕が好きな、中に大きなメンチが入っているパンである。

 「だから違うって言ってるだろ! これは思考パンだ。常に思考を絶やさない者だけに、食べる資格が与えられた──」

 「何が思考パンだ! それコンビニで買ったパンだろ。鞄の中からコンビニの袋が出てるじゃないか」

 「あっ……」

 「『あっ』じゃねーんだよ! 僕は朝食だけしか食べてないからお腹がペコペコなんだ! 半分よこせ!」

 「だから違うんだよ! これはパンでは無く……思考パンだ。アベレージな人間が食べると思考がパーンするから、君に食べさせたくても、食べさせることは出来ない。思考がパーンしたら大変だからな……すまない」

 「食べたらパーンするパンなんて聞いたことねーよ! 思考がパーンしてるのはお前だろーが!」

 「なんだと! 俺の思考はパーンなんてしていない! 常に思考を絶やさないから、知識はパンパンに詰まってパーンしそうだがな。パンだけに、ふはははは!」

 「お前はエロい思考で頭の中がパンパンなだけだろ! しかも寒いオヤジギャグを言ってる時点で、もうお前の思考はパーンしてるじゃないか! いいから僕に半分よこせ!」

 「おいやめろ! 俺の腕を掴むんじゃない、パンが落ちるだろ!」


 一つのパンを巡って、浅ましく争う二人がそこに居た。 


 一つのパンを目の前にして、卑しく醜い争いをする二人がそこに居た。


 一つのパンのためだけに、取っ組み合いをする愚かな二人がそこに居た。


 実に酷い絵面である。


 「やめろって! これは俺のパンだぞ。俺からパンを盗もうとするなんて、君はジャン・バルジャンか?」

 「何がジャンジャンジャンだ! 意味が分からないこと言ってないで半分よこせ!」

 「ジャンジャンジャンではない! ジャン・バルジャンだ。もしかして君はレ・ミゼラブルを知らないのか?」

 「知るわけないだろ。何だその少年ステップの、ボラブルのパクりみたいなタイトルは! いったいどこの漫画だ!?」

 「漫画なわけないだろ! レ・ミゼラブルを知らないなんて、君は本当にアベレージな──いや、アベレージ以下な学生だな」

 「うわっまた出たよ! お前は二言目にはアベレージって言葉しか言えないのか!?」

 「うるさい! 君はアベレージなんだからアベレージって言われても仕方がないんだよ!」


 もはや、子供の口喧嘩である。
 空腹で苛々しているとは言え、我ながら非常に情けない。
 しかし、今はパンである。
 一にも二にもパンである。
 それに僕は、自分だけパンを食べていた臥龍に、腹を立てている。
 何としても臥龍から、パンを手に入れないと、僕の気が済まない。


 臥龍からパンを取り上げようとすると、またも臥龍は、さきほどの意味不明な発言を始めた。

 「だからこれは、思考パンだって言っているだろ! 君に渡すことは出来ない」

 「何が思考パンだ! それただのパンじゃないか!」

 「いや違う。これは──パンの思考だ!」

 「それもうパンじゃねーだろ! 何でパンが意思を持って思考してるんだよ!」


 臥龍はパンを天高く持ち、僕の腕が届かないようにしている。 
 なにがなんでも、僕に渡さないつもりらしい。
 僕と臥龍の身長差は約二十センチ弱だ。
 この穴を埋めることは、物理的に無理である。

 それならば、臥龍との会話中に隙を見つけ、パンを手に入れるしかない。
 大丈夫だ僕なら出来る、どんな人間にも隙はあるのだから、チャンスを見逃すな九条鏡佑よ。


 だが、焦るな。
 焦ればパンが臥龍に食べられてしまう。
 たとえ自分の方が強いと確信している獰猛な獣であっても、狩りの時は常に冷静になり、自分より弱いと分かっている獲物の前でもじっくりと構え、機が熟すのを待つものだ。

 決して手は抜かない。
 それが弱肉強食である。
 昔、テレビでやっていた、動物特集の番組でそんなような説明を聞いた事があるから間違いないだろう。
 臥龍との会話に合わせ、呼吸を合わせ、自然な流れでこいつの隙を誘い出してやる。

 そしてパンを手に入れるのだ!
 臥龍のことだ、きっとまた意味の分からない発言で、僕を撹乱させてくるに違いない。だが、その手はもう僕には通用しない。
 じっくりとチャンスを待ってパンを手に入れてやる。

 さあかかって来い臥龍!
 バトル開始だ。
 いい勝負をしようじゃないか。

 「だから。ずっと言っているが、思考パンはアベレージな君が食べたら危険なんだよ」

 僕の思った通りだ。
 やはり撹乱作戦か。
 よし。ここはまず軽いジャブとして正論で対抗してみよう。

 「いや、思考パンも何も、それ普通のパンだろ」

 これは間違いなく正論だ。
 もはや言い逃れすることは不可能。
 さあ臥龍、いったい次はどう攻めて来るつもりだ?

 「いや、全然違うな」

 「全然違うって、それどこから見ても普通のパンじゃないか」

 臥龍の奴、とうとうヤケになって来たな。
 よし、勝機は近いぞ。
 このまま、ジワジワと逃げ場を奪い、パンも奪ってやる。


 「だから全然違う。酔拳の時の酒を飲んでいるジャッキーと、酒を飲んでいない時のジャッキーぐらい違う」

 「それ結局どっちも同じジャッキーだろ!」

  「全然違うな、攻撃の爆発力が段違いだ。それに君は、酒を飲んではいけないと父親から言われた時のジャッキーの苦しみと、麻雀勝負をしていた母親に、 ジャッキーが『勝っているのか?』と訊いたら、いい歳して『チョベリグ』なんて死語を発言してしまった母親に対する、ジャッキーの恥ずかしさが分かるのか?」

 「嫌な言い方するんじゃねえよ……。当時はそれが一番新しい翻訳だったんだから、『チョベリグ』発言には触れるな! と言うか、お前は酔拳の何を見ていたんだ? もっと見るべき名場面がたくさんあっただろ。それに酒を飲んでいない時でもジャッキーは強かったぞ」

 「しかし、そうは言っても九条君……。『チョベリグ』だぞ? 超ベリーグッドを略して『チョベリグ』なんだぞ。どう思う?」

 「どうもこうも、それ以上『チョベリグ』に対しては触れるなって言ってんの! お前は酔拳のどこにスポットを当ててるんだ!?」

 「まあ酔拳にスポットを当てるとすれば……。同じ酔拳でも、いつもジャッキーばかり脚光を浴びてしまって、コンプレックスを抱えているデブゴンの酔拳だって強いんだぞ。なのに、あまり話題にならないのは、デブゴンに対して失礼だとは思わないか?」 

 「おいいいいっ! 一番失礼なことを言ってるのは自分だろ! お前にいったいデブゴンの何が分かるんだ!? と言うか、お前に酔拳を語る資格はねえ!」

 あれ?
 まずいぞ……。
 どんどん臥龍のペースに呑まれてしまっている。
 こいつ、やはり一筋縄ではいかないと言うことか。やはり腐っても学者……考えていやがる。

 ここから、どう切り崩していくか考えなくては。
 しかも絶妙に話しをすり替え、僕からパンへの注意を遠ざける陽動作戦とは。
 あなどれない奴だ。

 何としても、パンの話題に戻さなくては。
 何としても、パンと言う単語を臥龍から言わせなければ。
 いや、待てよ。
 今までの流れが全て、臥龍の計算だとしたら──
 僕は臥龍の手の平で、ずっと踊らされていたと言う事なのか!?

 「まあ、話しが脱線してしまったが、真実を打ち明けよう。これは思考パンでは無い」  

 ……僕の勘違いだった。

 「最初から知ってるよ。ただのパンだろ」 

 「いや違う。これは思考パンでは無くジャッキーパンだ」

 「は?」

 もうパンと言う単語の意味が分からなくなって来た。

 「だからジャッキーパンだ。食べると強くなれる」

 「そんなドーピングみたいなパンがあるわけ無いだろ!」

 「いや、間違えた。ジャッキーパンではない……これは、ジャッキーのパンだ」

 「おい。もう、お前のパンじゃ無くなったぞ」

 「あっ……」

 「『あっ』じゃなくて、自分で墓穴を掘ってるんじゃねえ!」

 臥龍がしまったと言うような表情で、少しうつむいた。
 そして、パンを持ち天高く上げた手も下がった。
 千載一遇のチャンスである。
 よし!
 今しかない。

 僕は両手に渾身の力を込めて、臥龍が手に持っているパンに照準を合わせて突っ込んだ。
 だが転んだ。
 勢いよく転んだ。
 そして、転んだ拍子に臥龍の腰めがけてタックルをする形になってしまった。
 さながら、ラグビー選手のように。

 「はうぅっ! な、何をするんだ君は……!」

 いや故意ではない……これは事故だ。
 僕は臥龍に危害を加えようとしたわけではなく、パンだけを取ろうとしたわけなのだが。
 結果として、臥龍におもいっきりタックルしてしまった。
 僕の肩が臥龍の腰にぶつかり、臥龍は悶絶している。
 すまない臥龍。
 でも、悪気は無いのだ。それに、僕だって痛い。

 だが、他人に危害を加えたのは確かなのだから、ここはちゃんと謝らな──んん!?
 僕が謝ろうと思い、腰をさすっている臥龍を見ると、その手にはパンが無くなっていた。

 暗い部屋の床を、目を凝らして見てみると、パンが床に転がっている。
 きっとタックルした時に、パンを手から離したのだろう。
 いやいや、そんな事よりも、臥龍がまだ気が付いていない今のうちに、パンを奪取しなくては。
 汚い床だが、すぐに拾えば大丈夫だろう。
 世の中には三秒ルールと言うものがあるぐらいだし。
 まあ……もう十秒は経過していると思うけれども。

 僕は悶絶している臥龍に気が付かれないように、素早く、そして出来るだけ音をたてずに、床に落ちているパン取った。
 ついに──
 ついに取ったぞ!
 見たか臥龍。運も実力のうちなのだ。
 まあ、故意では無いにしろ、タックルをしてしまったことについては、申し訳ないが。これが、勝負の世界なのである。そう、パンの女神は僕に微笑んだのだ。

 僕がパンを拾い上げ、直立した状態で、すぐさま口の中に放り込もうとすると、ぐいっと両足を掴まれ、引っ張られた。
 そして、また、転んだ。
 自然とパンも僕の手から離れて、ふっ飛んだ。
 僕の両足を掴んで、引っ張った犯人は一人しかいない──臥龍だ。

 「痛ってえ! なにするんだ!?」

 「こっちの台詞だ! 君はパンの為なら人を殴ってもいいと思っているのか?」

 「いや、それは勢いあまって転んだと言うか……たまたま腰にぶつかったと言うか……」

 「俺を殴った次は言い訳か。何がたまたまだ、俺からパンを取る為にわざとやったな?」
 
 
 いや……殴ってはいないし、故意でも無いし、それに正式にはタックルである。
 まあ、この場合どちらも似たようなものかもしれないが、ダメージ的には殴るよりも、腰におもいっきりタックルした方が痛いだろう。

 しかも、全体重が乗ったタックルだ、痛いに決まっている。
 殴るのと、タックルの違いの線引きについては置いておくとして、結果として言うなら、このような事態を招いたのは全て、臥龍が僕にパンを分けなかったのがいけないのだ。
 つまり、全ての原因は臥龍であって、僕は全然悪く無い。

 だが、そんな事よりも、床に落ちたパンを早く取るのが先である。
 僕は、臥龍に足を掴まれながらも、床を這ってパンに手を伸ばし、パンを取った。
 そして、今度こそパンを食べようとした時──腕を掴まれた。
 パンを持っている方の腕である。
 しかも、もの凄い力で。


 「痛い痛い痛い! やめろって!」

 「そのパンは俺のだ! 絶対に君には渡さん!」

 「ケチケチするんじゃない! お前は半分食べただろ!」

 「俺は腹が満たされないと、思考が鈍るんだ! だからパンを君に上げることは出来ない!」

 「お前は鈍ってるぐらいが丁度いいんだよ! 何が思考だ! お下劣なことしか考えてない劣学者が!」

 「劣学者じゃない哲学者だ! そのパンは俺のだ返せ!」

 「いや、このパンは僕のパンだ!」

 「違う! 俺のパンだ!」

 「いや僕のだ!」

 「違う俺のだ!」    

 「僕のだ!」

 「俺のだ!」    

 言い争いの中で、臥龍が僕の腕を掴む力が、どんどん強くなる。
 当然、僕もパンを握る力が、どんどん強くなる。
 そして、臥龍に取られないように手を振り回し過ぎたのだろう──パンを握っていたはずの僕の手の中から、パンが勢いよく離れて天上高く飛んでしまった。

 まるで、ウナギを掴むが、てのひらからするりと、こぼれ逃げるように。
 まあ、ウナギなんて触ったことさえ無いのだけれど。

 「あっ! 僕のパンが!」
 「あっ! 俺のパンが!」

 天上高く飛ぶパンを見上げて、寸分の狂いも無く、見事に臥龍と声がハモってしまった。
 嫌なシンクロ率だった。

 そして、パンが天上高く飛んで行った先を二人で見つめ、着地した場所は洗面台だった。
 緑色の液体が付着している、洗面台である。
 パンは見事に、緑色の液体を吸収して、表面は緑色になっている。
 もしかしたら、内部も侵蝕されているかもしれない……。
 つまり、もう食べられなくなってしまった。
 
 「九条君……。お腹、ペコペコなんだろ? このパンは特別に、君に上げることにしよう」

 「いや……。僕はアベレージな学生なので、食べると危険なんですよね? 臥龍さんがどうぞ」

 「ま、まあ。少しぐらいなら、食べても平気だと思うぞ……。だから九条君。君が食べなさい、育ち盛りだろ?」

 「な、なんだかもう。お腹が減ってない感じがするので……僕はもう大丈夫です」

 「実は俺も、お腹が減ってないんだ。でも君はまだ若いんだから、ちゃんと食べないと……」

 実に酷い押し付けあいである。  

 「だから、こんなパンもう食べられないって言ってんの! と言うか、これはもうパンと言っていいのか!?」

 「ふざけるな! 元はと言えば、君が俺からパンを取ろうとしたのがいけないんだろ! 責任をとって食べるんだ!」

 「食べられるわけないだろ! こんなのもうパンじゃなくて、緑色の何かだろ! 物体Xえっくすだろうが! それに、お前が最初から半分、僕に分けていたらこんなことにはならなかったんだから、責任をとってお前が食べろ!」

 実に酷い責任のなすり付けあいである。

 ああ、僕のパンが……。
 暴れたせいで、余計にお腹が減って来た。
 何だか立ちくらみもして来たので、そのまま床に、倒れ込むように座る。

 一瞬だが、パンの中身のメンチは無事なのではと思ったが、すでに数分が過ぎていたので、もうパンのことは考えないようにした。
 きっともう、中身まで緑色の液体で侵蝕されているだろうし、それに、これ以上パンのことを考えると、さらに空腹になりそうだ。

 「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

 むさ苦しい声のする方を見ると、臥龍が腕立てふせをしていた。

 「な……なにしてるの?」

 「見れば分かるだろ。腕立てふせだ、ふんっ! ふんっ!」

 「そうじゃなくて、何で急に腕立てふせなんてしてるんだよ……」  

 「健全な思考は健全な肉体に宿る。だから、俺は毎日、腕立て、腹筋、背筋の筋肉トレーニングをそれぞれ二百回している。三つ合わせたら六百回だな。ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

 自分だけパンを食べてた奴の思考の、どこが健全なんだよ。

 「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

 「あの……。筋トレするのは別にいいですけど。その『ふんっ!』っていうのは、やめてもらえませんか?」

 「何でだ? ふんっ! ふんっ!」

 「いや、凄く鬱陶しいから」

 「だったら君も一緒にやればいいだろ。君は見るからに筋肉も無いし、ひ弱そのものなんだから」

 余計なお世話である。
 それに今、筋トレなんてしたら確実にぶっ倒れる。
 空腹で。

  「それに、君は自分の健康管理をしているのか? 俺なんて常に思考を絶やさないから、常に健康状態も絶やしたことは無い。病気だって、幼少期におたふく風邪になっただけで、それ以降は風邪などひいた事がない。半年に一回は健康診断もしているが、健康そのものだ。しかも、俺の成人式は、地下闘技場で地上最強の男を決める壮絶な大会だったからな。まあ、幼少期から数々の死闘を経験して来た俺には、子供の遊戯にしか思えなかったがな。ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

 その作り話なら飛行機の中で聞いたって。
 お前は体は健康でも頭は病気だ。と、言おうとした寸での所で踏みとどまる。
 また言い争いになるだろうし、これ以上、無駄な口論で体力を消耗したくなかったからだ。

 臥龍が筋トレをしている最中に、何もやることが無かったので、僕はぼうっと窓の外をながめていた。
 嵐と暴雨が窓を叩いてる。
 カタカタと叩いているが、時折、ガタッと強く窓が叩かれる。
 この窓……壊れないよな?

 それに、外は暗くて、唯一外を照らす光と言えば雷ぐらいなのだが、何となく、先程よりも嵐が強くなっているように感じた。
 そして、逆に臥龍の鬱陶しい声は消えた。
  
 「ふうぅ。今日のノルマは達成した。よし寝るか」

 「え? こんな汚いベッドで寝るの?」

 「当たり前だろ。俺は常に八時間以上は寝ないと、思考が絶えてしまうんだ。ちなみに、俺はどんなところでも寝られる。これは自慢では無いが本当に自慢だ」

 それ普通に自慢だろ。
 と言うか、それは自慢には入らないと思う。
 
 「おっと、いけない。一応携帯で目覚ましをセットしておこう。ついでに今の時間と台風情報でも見────うおーう!? ちょっと九条君、君の携帯を見せてくれ」

 「携帯? 別にいいけど」

 僕は臥龍に携帯を手渡した。

 「やっぱり九条君の携帯も駄目か」

 「やっぱりって、何が?」

 「圏外だ。どうやら、この島には電波が届いていないようだな。まあ嵐や台風なんて、寝て朝になれば通り過ぎているだろう」

 僕は臥龍に手渡した携帯を受け取り、改めて見てみると、本当に圏外だった。
 再起動してみたが、やはり駄目だ。圏外のままである。

 分かる情報と言えば時刻ぐらい。
 今は丁度、夜の十時半。寝るには早過ぎるし、圏外だから暇つぶしに携帯でオンラインゲームも出来ない。
 まいったな、潔癖性ではないけれども、僕はこんな汚いベッドで眠りたくはないぞ。

 「九条君。ちょっとの間、こっちを見ないでくれ」

 そう言うと臥龍は、鞄の中から透明なビニール袋に包まれた、白い半袖のポロシャツと黒いベスト、それにズボンを取り出した。

 「やはり、濡れたままだと熟睡出来ないからな。予備に替えの服を持って来て正解だった。ちなみに、俺は同じ服を十着以上は持っている。しかも、全てオーダーメイドだ。凄いだろ?」

 どうやら、お洒落には全く興味が無いようだ。

 「ほら。着替えるからこっちを見るな」

 「はいはい、分かったよ」

 「覗くなよ」

 「僕にそんな趣味は無い」

 「チラ見するなよ」

 「するわけ無いだろ」

 「ちなみにだが、俺の鞄は本革製の肩掛け鞄だ。どうだ? 羨ましいだろ」

 「さっさと着替えろ!」
   
 臥龍がガサゴソと着替えている時に、僕は反対を向きながら質問してみた。

 「臥龍さん、ちょっと訊きたいんですけど」

 「何だ?」

 「もしかして、タオルとか持ってたりしません?」

 「タオル? タオルなら持ってるぞ」

 やった!
 髪は完全に渇いたけれど、服はまだ濡れている。
 タオルで少しは、濡れた服を渇かすことが出来るぞ。
 
 「臥龍さん、ちょっとその──」

 「駄目だ」

 「は? まだ何も言ってな──」

 「タオルが欲しいんだろ?」

 「え、ええ。まあ」

 「駄目だ」

 「何で?」

 「これは俺のタオルだ。それに、俺からパンを奪った君にタオルは渡せない」

 まだパンのことを根に持っているのかよ。
 大人のくせに、どこまでもケチで心の狭い奴だった。   

 「よし。もういいぞ」

 臥龍の方を向くと、何も変わっていない。
 当たり前である、同じ服なのだから。

 「これで熟睡出来るな。君も早く寝た方がいいぞ」

 「寝るって、本当にこの汚いベッドで寝るつもりなのか?」

 「当たり前だろ。さっきも言ったが、俺はどんな場所でも寝る事が出来る」

 おいおい正気か?
 本当にこの汚いベッドで寝るのか?
 僕はご免だぞ。
 
 「じゃあ、俺は寝るから、静かにしろよ」

 そう言うと、臥龍は汚いベッドの中で横になっていた。
 よくこんな汚いベッドで眠る気になれるな……。
 ある意味で凄い特技である。
 
 僕は臥龍の能天気さとは裏腹に、沖縄に着いてからの異様な出来事について考えた。
 沖縄の街での、僕たちを避ける様な人々や、クルーザーを運転していた人が急に海にダイブしたこと、それに、この屋敷に居た異常なまでに大きな身長の『人物』。

 考え出すときりがないが、一番怪しいのは灰玄とか言う女性である。
 僕は、無意味だとは思うが、ベッドで横になっている臥龍に、ずっと疑問に思っていたことを質問してみた。


  「あの、臥龍さん。訊きたいことがあるんですが、沖縄に来てから何か変じゃないですか? 沖縄の街を歩いてる時も、皆が僕たちを避ける様だったし。それに、クルーザーを運転していた人がいきなり海に飛び込むなんて、どう考えてもおかしいですよ。しかも、その人を連れて来たのは灰玄さんですよ。臥龍さんには申し訳ないですけど、あの灰玄さんとか言う女性……何か怪しくないですか? あと、この島だって妙ですよ。周りの建物は、どう見ても現代の建物とは思えないぐらい古いし、この屋敷以外、人が住んでるような気配も無いし。おまけに、この屋敷に居た人の身長も普通に考えたらおかしいですって。臥龍さんは何か変だとは思いませんか?」

 「…………」

 「それに、灰玄さんって、学者さんなのは分かってますけど、ちゃんと素性は調べたんですか?」

 「…………」 
 
 僕の質問に対して、臥龍の返答が無い。
 と言うか、返事すら無い。 

 「ちょっと、人の話し聞いてんの?」

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 寝るの早っ!
 イビキうるさっ!

 こいつ、真面目な話しをしているのに、僕の話しも聞かずに呑気に寝ていやがる。しかも、どんだけ寝るの早いんだよ……のび太君か?
 全く警戒心の無い奴だな。
 いや、もしかして、たんに僕が考え過ぎなだけなのだろうか。

 僕はやることも無いし、まだ眠くも無いので、また、嵐でカタカタと震えている窓に行き、その窓から屋敷の外をぼうっとながめることにした。
 まあ、眠くなっても、こんな汚いベッドで寝るのだけは避けたい。
 床であぐらをかいて、眠った方がまだマシである。

 しかし、酷い嵐だ。また心無しか、嵐が強くなっているようにも感じる。
 雷の光りが屋敷の外を照らす度に、外の地面が見えるのだが、もう地面では無く川のようだ。

 島は傾斜になっていて、この屋敷は島の山頂付近にあるので、土砂災害にでもなったら洒落しゃれにならない。

 嵐が過ぎても帰れなくなってしまうだろうから。
 やれやれ、安請け合いで沖縄になんて来るんじゃなかった。

 僕は心の中で深い溜め息をつきながら、窓の外をぼうっとながめていると、また雷の光りが屋敷の外を照らし──そして、僕の瞳は屋敷の外に釘付けになった。

 なぜなら、その一瞬の光りの中に複数の人影が見えたからだ。
 間違いない、人の影だ。
 屋敷の外に僕たち以外の誰かが居る。

 人数までは一瞬だったので分からなかったが、複数の人影である。
 まさか、僕たちと同じで、急な嵐で避難して来た人たちなのだろうか。

 しかし、またすぐに雷の光りが屋敷の外を照らすと、その複数の人影は消えていた。
 あれ……僕の気のせいだったのだろうか。

 きっと、雷の光りに照らされた木々が、人影に見えたのだろう。
 空腹と疲労が原因で、僕は軽い錯覚を見たに違いない。
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