19 / 227
第1部 第2章「深夜悪夢」
第3話『人生はベルトコンベア』前編
しおりを挟む
何もかもが想定外だ、と戸稀は思った。
「要領が悪い」という理由で、会社の出世コースから外されたことも。
離婚し、莫大な慰謝料と養育費を払う羽目になったことも。
ギャンブルにハマり、借金の返済で極貧生活を送らされていることも。
一回りも二回りも年下の後輩から、毎日のように馬鹿にされることも。
一番の想定外だったのは……今のこの状況。
「……」
戸稀はベルトコンベアに乗せられ、狭い廊下を進んでいた。全力で走れば後戻りできるくらいの速度だったが、戸稀にそんな体力は残っていなかった。
廊下は暗い。明かりを点けようにも、スイッチらしきものは見当たらない。
唯一の明かりはベルトコンベアの先に見える、小さなオレンジ色の光だった。戸稀はその光を頼りに、大人しくベルトコンベアに流されていた。しかし、その光の正体こそが最大にして最悪のアクシデントだった。
光の正体は火葬炉だった。ドアは開けっぱなしで、中でオレンジ色の炎が揺らめいているのが見える。
「ひッ! ひぃぃッ!」
慌てて引き返そうとするが、もう遅い。
戸稀は徐々に近づいてくる火葬炉の熱に怯えながら、こうなった経緯を振り返った。
「何故だ……何で、俺ばっかりがこんな目に遭うんだ……!」
拳をベルトコンベアへ叩きつけ、火葬炉の炎を睨む。
頭の中で、ピンクのコートを着た少女が戸稀のボロボロの財布を手に、笑いながら走り去っていった。
戸稀は日頃の鬱憤を晴らすため、ことあるごとに他人を利用した。
気弱そうな老人を見つけてはわざとぶつかったり、スーパーで女子供に向かってカートで突進したり、仕事では評価されない己の力を誇示した。
相手に被害者意識を持たせないよう、「お前が邪魔なんだよ」と言わんばかりに睨みつけ、舌打ちするのも忘れない。大概の者はそれで萎縮し、そそくさと去っていく。
時には想定外の怪我を負わせてしまい、警察沙汰になったり賠償金を払わされたりもしたが、「道を譲らなかった向こうが悪い」と言い張った。
その日も会社帰りにスーパーへ立ち寄り、標的を物色していた。夜遅く、客はまばらだったが、思いのほか子連れが多かった。共働きで、母親がこの時間でないと買い物できないのだろう。
「お母さん、今日のご飯は何にするの?」
「そうねぇ……」
目の前で談笑する母子が、別れた妻と子供に重なる。
戸稀が不幸まみれで苦しんでいる今この瞬間にも、二人が自分の知らない場所で呑気に暮らしているのかと思うと、腹が立って仕方がなかった。
「おりゃッ!」
戸稀はカートを力いっぱい押し、母子に向かって突進した。カートのタイヤがカラカラと目にも止まらぬ速さで回転する。
母親は戸稀を不審に思ったのか、子供を近くに寄せ、戸稀が通れるように道を作った。
(ヒヒッ! バカだねぇ……俺に気をつかったって意味ないのにさぁ!)
戸稀は構わず、なおも母子に向かってカートを押す。母親はそこでようやく異変に気づいたのか、悲鳴を上げた。
「誰か! 誰か、助けて!」
子供を抱え、走って逃げる。ヒールのパンプスを履いていたため、簡単に追いついた。
戸稀はそのままカートで母親をはねようとした。
しかし直後、何かに横からカートを押され、戸稀はカートごと倒れた。買い物カゴには財布しか入れていなかったため軽く、簡単に倒された。
「いってぇ……」
戸稀は床に叩きつけられ、身動きが取れない。その隙に、母子は逃げていなくなった。
戸稀のカートを横から蹴飛ばしたのは、ピンクのコートを着た少女だった。カートよりも背が低かったせいで、戸稀の視界に入らなかったらしい。
少女は戸稀がうめいている間に、買い物カゴから彼の財布を奪った。合皮の黒い長財布で、ところどころ革が剥げてボロボロになっていた。
「おじさん、財布買い替えないの? すっごいボロボロだよ」
「財布だぁ……?」
戸稀は少女が自分の財布を持っているのを見て、ハッとした。たいして金は入っていないが、大事な運転免許証と保険証が入っていた。
「か、返せ! 俺の財布だぞ!」
「そんなに返して欲しいなら、取ってきておいでよ」
少女は「それっ」と財布を棚の向こうへ放り投げると、投げた方向とは逆方向へ走り去っていった。
「きゃははっ! 大して体力もないくせに調子に乗って、ばっかじゃないの?」
「待て! クソガキ!」
戸稀は少女を追いたかった。だが、こうしている間にも誰かに財布を盗られるかもしれない。
戸稀は悩んだ末、先に財布を探しに向かった。
財布は棚の向こうの、通路の真ん中に落ちていた。中身も無事だった。
戸稀はひとまず安堵し、財布をポケットへ仕舞った。
「さて、次はあのガキだな」
続いて少女を探し、店内をくまなく回った。不思議なことに、少女は何処にもいなかった。
「外に出たのかもしれない」と店を出ようとしたところ、店長に呼び止められた。
「すみません。ちょっと事務所まで来てもらえますか?」
店長の後ろには、戸稀がカートをぶつけようとした母子が怒りの形相で立っていた。
戸稀は今回の件で、スーパーを出禁になった。これで五軒目だ。
「客を出禁にするなんて、あの店長どうかしてるな。後でクレーム入れてやる」
別のスーパーでビールを箱ごと購入し、帰宅する。今日の鬱憤を晴らそうと、一夜で全て飲み干した。
戸稀の部屋は大量の物が散乱し、汚い。生ゴミや空き瓶もそのままにしているので、ひどい悪臭が漂っていた。度々他の住人から苦情が寄せられたが、長年この部屋に住んでいる戸稀は気にならないので無視した。
やがて、戸稀は深い眠りについた。
目を覚ますと、戸稀はつい先ほど出禁になったスーパーの前に立っていた。
周囲は暗く、何も見えない。闇の中にポツンと、スーパーが建っていた。
いつの間に着替えたのか、いつもと同じフケだらけのスーツを着ている。もう何年もクリーニングに出しておらず、よれよれだった。
「夢遊病にでもなっちまったのか?」
戸稀は不思議そうに首を傾げる。ともあれ、追加の酒が欲しいと思っていたところだ。
戸稀は出禁になっているのも気にせず、堂々とスーパーに入った。戸稀の経験上、深夜はバイトしかいないので、出禁だと気づかれず、こっそり買い物ができた。
「要領が悪い」という理由で、会社の出世コースから外されたことも。
離婚し、莫大な慰謝料と養育費を払う羽目になったことも。
ギャンブルにハマり、借金の返済で極貧生活を送らされていることも。
一回りも二回りも年下の後輩から、毎日のように馬鹿にされることも。
一番の想定外だったのは……今のこの状況。
「……」
戸稀はベルトコンベアに乗せられ、狭い廊下を進んでいた。全力で走れば後戻りできるくらいの速度だったが、戸稀にそんな体力は残っていなかった。
廊下は暗い。明かりを点けようにも、スイッチらしきものは見当たらない。
唯一の明かりはベルトコンベアの先に見える、小さなオレンジ色の光だった。戸稀はその光を頼りに、大人しくベルトコンベアに流されていた。しかし、その光の正体こそが最大にして最悪のアクシデントだった。
光の正体は火葬炉だった。ドアは開けっぱなしで、中でオレンジ色の炎が揺らめいているのが見える。
「ひッ! ひぃぃッ!」
慌てて引き返そうとするが、もう遅い。
戸稀は徐々に近づいてくる火葬炉の熱に怯えながら、こうなった経緯を振り返った。
「何故だ……何で、俺ばっかりがこんな目に遭うんだ……!」
拳をベルトコンベアへ叩きつけ、火葬炉の炎を睨む。
頭の中で、ピンクのコートを着た少女が戸稀のボロボロの財布を手に、笑いながら走り去っていった。
戸稀は日頃の鬱憤を晴らすため、ことあるごとに他人を利用した。
気弱そうな老人を見つけてはわざとぶつかったり、スーパーで女子供に向かってカートで突進したり、仕事では評価されない己の力を誇示した。
相手に被害者意識を持たせないよう、「お前が邪魔なんだよ」と言わんばかりに睨みつけ、舌打ちするのも忘れない。大概の者はそれで萎縮し、そそくさと去っていく。
時には想定外の怪我を負わせてしまい、警察沙汰になったり賠償金を払わされたりもしたが、「道を譲らなかった向こうが悪い」と言い張った。
その日も会社帰りにスーパーへ立ち寄り、標的を物色していた。夜遅く、客はまばらだったが、思いのほか子連れが多かった。共働きで、母親がこの時間でないと買い物できないのだろう。
「お母さん、今日のご飯は何にするの?」
「そうねぇ……」
目の前で談笑する母子が、別れた妻と子供に重なる。
戸稀が不幸まみれで苦しんでいる今この瞬間にも、二人が自分の知らない場所で呑気に暮らしているのかと思うと、腹が立って仕方がなかった。
「おりゃッ!」
戸稀はカートを力いっぱい押し、母子に向かって突進した。カートのタイヤがカラカラと目にも止まらぬ速さで回転する。
母親は戸稀を不審に思ったのか、子供を近くに寄せ、戸稀が通れるように道を作った。
(ヒヒッ! バカだねぇ……俺に気をつかったって意味ないのにさぁ!)
戸稀は構わず、なおも母子に向かってカートを押す。母親はそこでようやく異変に気づいたのか、悲鳴を上げた。
「誰か! 誰か、助けて!」
子供を抱え、走って逃げる。ヒールのパンプスを履いていたため、簡単に追いついた。
戸稀はそのままカートで母親をはねようとした。
しかし直後、何かに横からカートを押され、戸稀はカートごと倒れた。買い物カゴには財布しか入れていなかったため軽く、簡単に倒された。
「いってぇ……」
戸稀は床に叩きつけられ、身動きが取れない。その隙に、母子は逃げていなくなった。
戸稀のカートを横から蹴飛ばしたのは、ピンクのコートを着た少女だった。カートよりも背が低かったせいで、戸稀の視界に入らなかったらしい。
少女は戸稀がうめいている間に、買い物カゴから彼の財布を奪った。合皮の黒い長財布で、ところどころ革が剥げてボロボロになっていた。
「おじさん、財布買い替えないの? すっごいボロボロだよ」
「財布だぁ……?」
戸稀は少女が自分の財布を持っているのを見て、ハッとした。たいして金は入っていないが、大事な運転免許証と保険証が入っていた。
「か、返せ! 俺の財布だぞ!」
「そんなに返して欲しいなら、取ってきておいでよ」
少女は「それっ」と財布を棚の向こうへ放り投げると、投げた方向とは逆方向へ走り去っていった。
「きゃははっ! 大して体力もないくせに調子に乗って、ばっかじゃないの?」
「待て! クソガキ!」
戸稀は少女を追いたかった。だが、こうしている間にも誰かに財布を盗られるかもしれない。
戸稀は悩んだ末、先に財布を探しに向かった。
財布は棚の向こうの、通路の真ん中に落ちていた。中身も無事だった。
戸稀はひとまず安堵し、財布をポケットへ仕舞った。
「さて、次はあのガキだな」
続いて少女を探し、店内をくまなく回った。不思議なことに、少女は何処にもいなかった。
「外に出たのかもしれない」と店を出ようとしたところ、店長に呼び止められた。
「すみません。ちょっと事務所まで来てもらえますか?」
店長の後ろには、戸稀がカートをぶつけようとした母子が怒りの形相で立っていた。
戸稀は今回の件で、スーパーを出禁になった。これで五軒目だ。
「客を出禁にするなんて、あの店長どうかしてるな。後でクレーム入れてやる」
別のスーパーでビールを箱ごと購入し、帰宅する。今日の鬱憤を晴らそうと、一夜で全て飲み干した。
戸稀の部屋は大量の物が散乱し、汚い。生ゴミや空き瓶もそのままにしているので、ひどい悪臭が漂っていた。度々他の住人から苦情が寄せられたが、長年この部屋に住んでいる戸稀は気にならないので無視した。
やがて、戸稀は深い眠りについた。
目を覚ますと、戸稀はつい先ほど出禁になったスーパーの前に立っていた。
周囲は暗く、何も見えない。闇の中にポツンと、スーパーが建っていた。
いつの間に着替えたのか、いつもと同じフケだらけのスーツを着ている。もう何年もクリーニングに出しておらず、よれよれだった。
「夢遊病にでもなっちまったのか?」
戸稀は不思議そうに首を傾げる。ともあれ、追加の酒が欲しいと思っていたところだ。
戸稀は出禁になっているのも気にせず、堂々とスーパーに入った。戸稀の経験上、深夜はバイトしかいないので、出禁だと気づかれず、こっそり買い物ができた。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
逢魔ヶ刻の迷い子3
naomikoryo
ホラー
——それは、閉ざされた異世界からのSOS。
夏休みのある夜、中学3年生になった陽介・隼人・大輝・美咲・紗奈・由香の6人は、受験勉強のために訪れた図書館で再び“恐怖”に巻き込まれる。
「図書館に大事な物を忘れたから取りに行ってくる。」
陽介の何気ないメッセージから始まった異変。
深夜の図書館に響く正体不明の足音、消えていくメッセージ、そして——
「ここから出られない」と助けを求める陽介の声。
彼は、次元の違う同じ場所にいる。
現実世界と並行して存在する“もう一つの図書館”。
六人は、陽介を救うためにその謎を解き明かしていくが、やがてこの場所が“異世界と繋がる境界”であることに気付く。
七不思議の夜を乗り越えた彼らが挑む、シリーズ第3作目。
恐怖と謎が交錯する、戦慄のホラー・ミステリー。
「境界が開かれた時、もう戻れない——。」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
感染
saijya
ホラー
福岡県北九州市の観光スポットである皿倉山に航空機が墜落した事件から全てが始まった。
生者を狙い動き回る死者、隔離され狭まった脱出ルート、絡みあう人間関係
そして、事件の裏にある悲しき真実とは……
ゾンビものです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
スナック『霊』
ぜらいす黒糖
ホラー
1️⃣女の客が「私、人を殺したことがあるの」とママに話しかける。女の後ろには女が殺した男が立っていた。
2️⃣幽体離脱した状態で現れた男の客。男は自分の記憶を辿りながら何が起こったのかママに話そうとする。
3️⃣閉店間際、店の前にいた男に声をかけたママ。どうやら昔あったスナックを探しているらしい。
4️⃣カウンター席に座る男がママに話しかける。「死んでから恨みを晴らしたらどうなると思う?」と。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる